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<本文から> 用明天皇の時代にも、また痘瘡がはやった。天皇自身も冒された。そこで、天皇は病嘩で会議を召集し、つぎのような諮問をした。
「自分が、個人的に仏像をあがめるのは、よいことか悪いことか?」
これも、蘇我馬子の仕掛けだ。事前に、天皇の病気を見舞いにいって、そっとそういう提案をしていたのである。用明天皇は、はじめから仏教を信じようと思っていたから、すぐ馬子の言葉にのった。せめて死後は仏によって救われたいと考えていたのである。
この諮問は、欽明天皇のときとは明らかに主旨がちがっている。欽明天皇は、百済王から持ち込まれた仏像と経典を、日本国家としてどう扱うか、と諮問した。ところが、用明天皇の場合は、天皇個人が仏像をあがめてもいいか、と諮問しているのだ。稲目の時代よりも進んだ馬子の謀略である。かつての蘇我稲目と物部尾輿との論争が再現された。もちろん、物部守屋は反対した。
「疫病の流行は、異国神を持ち込まれた日本の神々の怒りであります。天皇さまが、たとえ個人的にとはいえ、異国神を崇拝することには反村致します」これに対して、蘇我馬子は、父の稲目が主張したように、
「それは逆です。疫病が、相変わらずその猛威をふるっているのは、難波の堀江に捨てられている仏像のたたりです」と反論した。稲日の場合とちがった背景もあった。町には、圧倒的に、
「疫病の流行は、水底に捨てられた仏のたたりだ」という声が充満していたからだ。こういう世論操作に、馬子がどれだけ動いたかわからない。しかし、先進民族のすぐれた点は、何も技術だけではない。世論操作や、PR方法にもすぐれていた。世論は、完全に蘇我馬子のものであった。そして、もうひとつ幸運なことがあった。それは、大伴氏が、沈黙を破って、自分から、
「仏像を祀るべきである」といい出したことだ。これが世論に拍車をかけた。大伴氏は、前に書いたように、朝鮮半島にしばしば渡って、その仏教の興隆をひとつの文明の源と見ていたから、はっきり態度を示したのである。これが決定的になった。
用明天皇の御前会議に敗れた物部守屋は、突然乱を起こした。一挙に、武力によって蘇我氏を滅ぼそうと考えたのである。それは、武門の名家として伝統を持つ物部氏にすれば、当然の行動であった。これに得たりやおうと応戦したのが馬子である。馬子も、軍を起こした。そして、このとき馬子に味方したのが聖徳太子だ。太子は、
「この闘いに勝ったときは、四天王寺を建てる」と誓った。この誓いはやがて実行きれる。
世論と、聖徳太子という強力な皇族を味方にした蘇我馬子は、物部守屋を滅ぼす。そして、朝廷で独走態勢に入る。やがて馬子は、用明天皇の跡を継いだ崇唆天皇を暗殺する。これを見て、聖徳太子は、(これ以上、蘇我氏の専横は許せない)と決意し、それまでの親蘇我氏的態度を一変し、反蘇我氏の方略を次々と実行する。太子にとって、蘇我氏との対決は、たったひとりの戦いであったが、着々と成功に近づく。太子は、真っ向から蘇我馬子に反対するというのではなく、馬子のめざしている考えに従うようなふりをしながら、その流れの中で、別の流れをつくり出すという方法をとった。
太子は有名な「和を以て貴しとなす」という言葉をその憲法十七条の最初に書いた。それは、太子自身の心構えでもあったろう。和を装っていかなければ、とうてい蘇我氏は倒せないと考えたからだ。その意味では、聖徳太子は、大化の改新を実現させる大きな「黒幕」であった。そして太子にそういう考えや方法を持たせたのは、蘇我稲目・馬子の父子であった。 |
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