童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          歴史の仕掛人 日本黒幕列伝

■仏教興隆、蘇我滅亡の黒幕・聖徳太子

<本文から>
 用明天皇の時代にも、また痘瘡がはやった。天皇自身も冒された。そこで、天皇は病嘩で会議を召集し、つぎのような諮問をした。
「自分が、個人的に仏像をあがめるのは、よいことか悪いことか?」
 これも、蘇我馬子の仕掛けだ。事前に、天皇の病気を見舞いにいって、そっとそういう提案をしていたのである。用明天皇は、はじめから仏教を信じようと思っていたから、すぐ馬子の言葉にのった。せめて死後は仏によって救われたいと考えていたのである。
 この諮問は、欽明天皇のときとは明らかに主旨がちがっている。欽明天皇は、百済王から持ち込まれた仏像と経典を、日本国家としてどう扱うか、と諮問した。ところが、用明天皇の場合は、天皇個人が仏像をあがめてもいいか、と諮問しているのだ。稲目の時代よりも進んだ馬子の謀略である。かつての蘇我稲目と物部尾輿との論争が再現された。もちろん、物部守屋は反対した。
「疫病の流行は、異国神を持ち込まれた日本の神々の怒りであります。天皇さまが、たとえ個人的にとはいえ、異国神を崇拝することには反村致します」これに対して、蘇我馬子は、父の稲目が主張したように、
「それは逆です。疫病が、相変わらずその猛威をふるっているのは、難波の堀江に捨てられている仏像のたたりです」と反論した。稲日の場合とちがった背景もあった。町には、圧倒的に、
「疫病の流行は、水底に捨てられた仏のたたりだ」という声が充満していたからだ。こういう世論操作に、馬子がどれだけ動いたかわからない。しかし、先進民族のすぐれた点は、何も技術だけではない。世論操作や、PR方法にもすぐれていた。世論は、完全に蘇我馬子のものであった。そして、もうひとつ幸運なことがあった。それは、大伴氏が、沈黙を破って、自分から、
「仏像を祀るべきである」といい出したことだ。これが世論に拍車をかけた。大伴氏は、前に書いたように、朝鮮半島にしばしば渡って、その仏教の興隆をひとつの文明の源と見ていたから、はっきり態度を示したのである。これが決定的になった。
 用明天皇の御前会議に敗れた物部守屋は、突然乱を起こした。一挙に、武力によって蘇我氏を滅ぼそうと考えたのである。それは、武門の名家として伝統を持つ物部氏にすれば、当然の行動であった。これに得たりやおうと応戦したのが馬子である。馬子も、軍を起こした。そして、このとき馬子に味方したのが聖徳太子だ。太子は、
「この闘いに勝ったときは、四天王寺を建てる」と誓った。この誓いはやがて実行きれる。
 世論と、聖徳太子という強力な皇族を味方にした蘇我馬子は、物部守屋を滅ぼす。そして、朝廷で独走態勢に入る。やがて馬子は、用明天皇の跡を継いだ崇唆天皇を暗殺する。これを見て、聖徳太子は、(これ以上、蘇我氏の専横は許せない)と決意し、それまでの親蘇我氏的態度を一変し、反蘇我氏の方略を次々と実行する。太子にとって、蘇我氏との対決は、たったひとりの戦いであったが、着々と成功に近づく。太子は、真っ向から蘇我馬子に反対するというのではなく、馬子のめざしている考えに従うようなふりをしながら、その流れの中で、別の流れをつくり出すという方法をとった。
 太子は有名な「和を以て貴しとなす」という言葉をその憲法十七条の最初に書いた。それは、太子自身の心構えでもあったろう。和を装っていかなければ、とうてい蘇我氏は倒せないと考えたからだ。その意味では、聖徳太子は、大化の改新を実現させる大きな「黒幕」であった。そして太子にそういう考えや方法を持たせたのは、蘇我稲目・馬子の父子であった。

■信長を天下人に仕立てた沢彦

<本文から>
 「岐阜ですか、たいへん結構です」沢彦もうなずいた。こうして、日本の地名としてはめずらしい中国風の「岐早」という名が誕生した。沢彦は、明らかに織田信長を周王に見立てていた。周王の悪王退治は、そのまま孟子の「放伐」に結びついている。孟子は、周王の実力行使を「放伐」の典型的な例にしていたからだ。
 沢彦の胸の内は、そのまま信長の胸に伝わった。信長は喜んだ。
「岐阜という名の拠点を持っている戦国人名はおれひとりだ。そして、岐阜という地名に込められた意味を知っているのもおれひとりだ」と思った。だから、
「この岐阜を拠点にして、おれはかならず天下を取る!」と決意した。
 信長に、沢彦はことばを加えた。
「これからは、何事につけても決裁の書類に、″天下布武″の印をお使い下きるように」
「天下布武?」
 信長は目をみはった。というのは、まだかれは天下人ではない。正式には京都朝廷から官位を貰ったわけでもなく、また戦国大名を統轄するような権限もない。にもかかわらず、この黒幕は、いまから、
「天下人を名乗りなさい」というのである。つまり、実力と地位が伴っていないにもかかわらず、設定した目的が達成されたと同じ生き方をしなさい、というのだ。
 この段階で、沢彦は、信長に大きく背伸びをさせたのだ。まだ実力が伴っていないにもかかわらず、目標を大きく掲げさせたのである。
「拠点を岐阜という名に変えたからには、あなたは今後天下人として行動してほしい」と暗に示唆した。信長も敏感に沢彦の意図を知ったから、目を輝かせた。
 (なるほど、さすがにおれの黒幕だ)と思った。
 信長は、この後積極的に、自分の決裁文書には「天下布武」と彫り込んだ印を押すようになった。意識としては、完全に天下人であった。しかし、信長がこういう行動をとったからといって、信長がそのまま天下人であるということを認められたわけではなかった。天下人になるには、それなりの手続きが必要だった。
 「大義名分がいります」沢彦はいった。
 「大義名分とは?」
 「とりあえずは、既成の権威をご利用下さい」
 「既成の権威とは?」
 あらゆる既成価値を破壊しようとしていた信長は、不満そうにきく。沢彦は微笑んでいった。
 「たとえば、足利将軍家の利用」
 「足利将軍家を?」
 たまたま、このころ放浪中の前将軍(十三代義輝)の弟義昭が、信長の援助を求めてきた。
 「自分を京都に連れていって、将軍にしてくれないか」と依頼した。信長は、すぐ沢彦と相談して、これに乗った。義昭の使いとしてやってきたのは、明智光秀と細川幽斉だ。信長は、義昭の依頼を受け入れ、京都に向かう工作をはじめた。もちろん、足利義昭を将軍にしても、その下に屈伏する腹は全然ない。むしろ、
 (足利将軍家などというのは、現在では有名無実の存在だ。おれは、足利義昭を将軍にするが、その後は、将軍がいかに無力で、形骸化しているかを天下に示してやる。力を持っているのは武家だということを主張するのだ)と考えていた。かれはその通りのことを実行する。信長は一応大義名分を立てるために、旧権威を尊重するという形で、足利義昭に従って京都に入る。足利義昭を清水寺に泊まらせ、自分は京都の玄関に当たる東寺にがんばって、よき護衛ぶりを示した。が、京都の公家や商人たちは敏感だった。どっちが本当の実力者かを知っていた。東寺の門前には、先を争って公家や商人たちが飛んできた。清水寺の義昭の方にはほとんど人が行かなかった。
 初っ端からこういう扱われ方をしてヘソを曲げた足利義昭は、将軍になってから、反信長色を露骨に示す。諸国の有力大名にしきりに密書を送って、「織田信長は、将軍であるわたしをバカにして仕方がない。あなた方の手でかれを滅ぼしてくれ」と頼む。この密書に応じた大名が沢山いた。大名たちは反信長連合軍をつくった。そして、その連合軍の総司令官に任命されたのが武田信玄である。しかし、武田信玄は、その総司令官の任に就く途路、病が高じて急死してしまう。これは、織田信長にとって、本当に幸運であった。続いて上杉謙信も死んでしまった。織田信長は、天下人への道を、フルスピードで突進していく。
 かれをそうさせたのは、黒幕の沢彦である。織田信長に、新しい拠点の名を、「岐阜」と命名させ、また、その使用する決裁印に、「天下布武」の四文字を使わせたというのは、沢彦の意図がいかに遠大であったかを物語っている。
 「風林火山」の四文字を旗印として、戦野を駆けめぐった武田信玄に比べると、沢彦の黒幕ぶりのほうに一日の長がある。日本がおかれていた情勢をよく認識し、国を治める者が果たすべき役割を、はっきりと知っていたからだ。
 「天下人とは民衆のニーズをキャッチし、それに応えるべく努力する存在でなければならない」という姿勢がものをいったのだ。
 沢彦は、優れた歴史の仕掛人であった。

■長屋王の変に暗躍した橘三千代

<本文から>
 図式的に考えれば、朝廷の表側、つまり正式の機関は全て男社会だ。女性の大臣などはいない。そして、このころはまだ天智天皇や天武天皇の皇子たちがたくさんいた。いかに、藤原不比等に実力があっても、これらの皇子たちを全て自分の意のままに繰るというわけにはいかない。このころ、表の男社会を支配していたのは、持続天皇とこれに続く女帝たちである。そして、その男社会と女帝社会とのブリッジの役割を果たしたのが、橘三千代である。
 だから、図式的に考えれば、藤原不比等のやりたいことを三千代がよく心得て、その根回しや、裏面工作を後宮を拠点にしながら、これらの女帝たちに働きかけたということができる。そうなると、三千代は単にいわゆる「内助の功」を立てた女、ということになってしまうが、三千代の場合は必ずしもそうではない。彼女は、もっと巨大な政策マンであった。
 三千代の活躍は、何も不比等が生きていた時代だけに限られたわけでなく、不比等が死んでしまった後も続く。
 藤原不比等が死んだ後、四人の息子がそれぞれ一家を構えた。南家の武智麻呂、北家の房前、式家の宇合、京家の麻呂である。この四人は、揃って平城京朝廷の高いポストに着く。そして、父不比等が生前にまだ実現することのできなかった政策を、自分たちの手によって実現して行く。やがて、彼等は皇族を排除し、天皇と直結して、
「藤原氏にあらざれば人にあらず」あるいは
「望(満)月の欠けたことのないような存在」として、藤原氏の栄耀栄華を謳歌する。その基礎をつくったのが橘三千代だ。その意味では、橘三千代は、藤原不比等という平城京の黒幕の、また黒幕といっていい。その黒幕ぶりが、最も発揮されたのが、
「長屋王の変」であった。

■豊臣家を滅亡させた孝藏主

<本文から>
 孝藏主は、豊臣秀吉の信任が厚く、秀吉の部下大名たちから、
 「表の浅野(長政のこと。五奉行の筆頭)、奥の孝藏主」と呼ばれた。春日局が、江戸域内で、
 「表の土井(利勝。大老)、真の春日局」と呼ばれたのと同じだ。では、孝藏主という女性黒幕は、一体歴史にどんな仕掛けをしたのだろうか。彼女がやったことは二つある。一つは、関白秀次を自殺させたことであり、もう一つは、大坂の陣によって、豊臣家を減ほしたことである。そのキッカケを、この孝藏主がつくった。
 孝藏主というのは、彼女が尼さんになってからの法名で、本名はわからない。蒲生家の家臣だった川副勝重の娘だった。出家して尼となり、豊臣秀吉に仕えた。大変利発な女性だったので、秀吉は重宝した。秀吉の大奥で奥女中の筆頭を務めた。ちょうど後の春日局と同じようなポストを与えられたのである。この孝藏主は、後に徳川家康にも仕える。そして、家康の大奥の束ねを命ぜられた。孝藏主は春日局の大先輩なのだ。
 孝藏主は、秀吉に重宝されただけでなく、秀吉の妻北政所にも可愛がられた。北政所の優秀な秘書を務めた。

■徳川慶喜の黒幕・原 市之進

<本文から>
 そして、市之進の画策通り、老中の板倉勝静が中心になって、大名たちに働きかけ、慶喜に
 「ぜひ、将軍になっていただきたい」と陳情嘆願させた。慶喜に将軍になることを「頼ませた」のである。貸しをつくって、しぶしぶ将軍にならせようというのが市之進の計算である。これは一応成功した。そこで、第二段階として市之進が考えたのが、第二次長州征伐である。つまり、長州藩が、第一次長州征伐終結の条件として、いくつか決められたことを、依然として守っていないということを理由に、もう一度長州をたたいてやろうというのだ。
 このころ、慶喜は、フランスの力を借りて、幕府軍を再編成し、改良していた。西洋式に改めていたのである。だから、慶喜にも今度こそという自信があった。市之進は、これを、
 「大討ちこみ」と称した。慶喜はこのことばを好んで使った。原市之進は、
 「この大討ちこみに成功すれば、あなたが、戦争に対しても力をもっている人物だといううわさが高まり、不穏な動きを示す薩摩などの大名家をふるえあがらせることができるでしょう。もし、長州をたたくことに成功すれば、次にたたくのは薩摩です」
といいきった。幕府内にも、市之進のこういう強硬手段に賛同する者が出てきた。勘定奉行小栗上野介はその代表である。小栗は、
 「はやく、兵庫(神戸)を開港して、フランスと借款協定を結び、徳川幕府直営の商社を設立すべきだ」といっていた。かれもまた、第二次長州征伐に熱をもっていた。慶応三年五月になって、兵庫は開港し勅許を得る。この実現に狂奔したのが原市之進だ。
 こういうように、慶喜側の準備は着々整えられた。うまくいけば、あるいは長州藩はぶっつぶされたかもしれない。ところが意外なことが起こった。高杉晋作が、奇兵隊を率いて、長州藩内で反乱を起こしたことだ。呼応する諸隊があり、長州藩政府は、高杉たちに乗っ取られてしまった。高杉は、藩政府を乗っ取ると自分は身を退き、桂小五郎に政治を任せた。自分は、武士よりも、むしろ農民や一般庶民に重きをおいた新しい軍隊をつくり出していた。その中心にいたのが、大村益次郎である。第二次長州征伐軍は、この新しい長州軍によって、メチャメチャに負ける。
 市之進の黒幕ぶりは、いよいよ本領を発揮した。その土壇場に至って、徳川慶喜をさらに押し出そうとしていた慶応三年八月十四日、かれは自宅で結髪中だった。縁側近くにいた。庭先から、突然ふたりの暗殺者が飛び込んできた。暗殺者たちは、刀を一閃させた。原の首はふっとんだ。かれは簡単に殺されてしまった。下手人は、鈴木豊次郎と、依田雄太郎というふたりの武士だった。ともに幕臣である。背後には、山岡鉄舟がいたといわれる。山岡は、ずっと原市之進の行動を見ていて、「けしからんヤツだ。とくに兵庫開港は許せない」と考えていたという。
 幕末にはいろいろな人物が出たが、その中でも原市之進は本当に黒幕らしい黒幕であったといっていい。というのは、この後の慶喜の行動が、いっさい冴えなくなるからだ。つまり、黒幕を失った徳川慶喜は、常にフラフラし、グラグラするからである。その点、原市之進は、黒幕として、一本筋金が通っていた。

■家康の黒幕・本多正信が三成を陥れる

<本文から>
 豊臣秀吉が死んだ後、徳川家康と石田三成の関係が険悪になった。が、加藤清正、福島正則、黒田長政など、いわば豊臣恩顧の戦国大名たちは、全部石田三成を憎んでいた。それは、朝鮮での彼等の活躍ぶりを正確に伝えないで、石田三成が間に入って讒言をしているという事実があったからである。秀吉はこれを信じ、こういう大名たちに冷たかった。したがって、大名たちは石田三成を恨んでいた。当時豊臣政確には、五大老と、五奉行という制度があって、徳川家康は五大老の筆頭であり、石田三成は五奉行の筆頭だった。が、どちらかというと五大老は元老院的な存在で、実務はほとんど五奉行が執っていた。それだけに石田三成の力も強かった。が、秀吉が死んで、朝鮮から大名たちが戻ってくると、一斉に石田三成を追いかけはじめた。中には、
(あの男を殺してやる!)と狙う者もいた。進退極まった石田三成は、こともあろうに徳川家康のところに逃げ込んできた。そして、
「どうしたらよろしいか?」と開いた。家康は三成の問いを、そのまま本多正信に伝えた。正信は、ニヤリと笑って、
「三成に、居城である佐和山に戻れとお伝えになってはいかがですか?」といった。家康は変な顔をした。 そして、
「今、殺してしまったほうがいいのではないか? このまま放り出して、大名たちの餌食にしたほうがいい。どうもあいつは俺のやることにいちいち難癖をつけて、邪魔ばかりする。もっけの幸いだ」といった。が、正信はこう応じた。
「それは、短い企てというべきです。あなたはもっと長い企てを立てなければなりません。いまは、石田三成に恩を売るべきでしょう。ここで命を助けて、佐和山城へ戻すことです。しかし、佐和山城へ戻れば、当然、故には口を出せなくなります。必然的に奉行の職から外れましょう。そのほうが得ではありませんか?そうすれば、事の重大きに気付いた石田三成は、いずれ兵をあげます。その時は、あなたのお得意な世論を背景に、石田三成を討てば、味方する大名もたくさん出ます。あなたは、正々堂々と、天下を手にすることができるのではありませんか」
 聞いていた家康は領いた。そして、
「お前は恐ろしい男だな?」と笑った。石田三成は、この時徳川家康に命を助けられ、恩をきせられて自分の居城である近江国佐和山城に戻った。それは、正信がいったように、必然的に五奉行の座から去るということであった。そして、それだけではなかった。やがて石田三成は、自分の立場に気づくと、回状をまわして、
「徳川家康に騙された。彼は、秀吉公亡きあと、秀吉公との約束を全部破っている。彼を討ちたい。どうかお味方されたい」と告げた。呼応する大名もけっこういた。しかし、この戦いは、徳川家康の大勝に終わった。家康は、この時も「世論の流れ」に乗って、石田三成をぼすことができた。

■松永久秀が信長を助けた北陸脱走

<本文から>
  松永久秀はこれに乗った。それは、反信長連合の総司令官に、武田信玄が命ぜられたからである。信玄は、急いで京都に向かってきた。それを読んで、久秀は謀反を起こした。そして、自分の城に籠もった。ところが、運が悪いことに、武田信玄がポックリ死んでしまった。久秀はしまったとホゾを噛んだが、もう間に合わない。
 織田信長は、息子の信忠を総司令官にして、久秀の城を囲んだ。この時、信長は使者を出して、久秀にこう言わせた。
 「お前えは確か、ひらぐもという有名な茶釜を持ってるはずだ。それを渡せ。そうすれば命は助けてやる」
 すると、久秀はこう答えた。
 「馬鹿をいうな。おまえののさばり加減にはもう愛想がつきている。確かに、ひらぐもの茶釜を持っているが、これは俺が冥土に一緒に持って行く」
 久秀は、この日、城壁にのぼって茶釜を首からかけた。中に爆薬を仕掛けてあった。彼は信長軍に向かって叫んだ。
 「松永久秀の最期をよく見届けろ!」
 そういうと、茶釜の爆薬に火をつけた。すきまじい爆発が起こり、茶釜が吹っ飛んだ。吹っ飛んだのは茶釜だけではない。久秀の体も木端微塵に吹っ飛んだ。あまりにもすさまじい最期に、さすがの信長軍も圧倒されて、口を開けたまま目を見張った。久秀らしい最期である。
 この久秀が、信長の命を救ったことがある。それは、信長が北陸の朝倉義景を討つために攻め込んだ時だ。後方で、義弟の浅井長政が反乱した。浅井長政とは前々から、
 「朝倉氏を討つ時は、事前に必ず連絡する」という約束があったからだ。浅井長政は、朝倉義景と同盟を結んでいた。それを、無断で信長が朝倉を攻めたから、長政が怒ったのである。
 信長は窮地に陥った。この時、有名な信長の「北陸脱走」が行われる。
 窮地に陥った信長は、軍議を開いた。この時、
「私が、殿をつとめますから、信長様は京都に戻ってください」と主張したのが羽柴秀吉書である。当時、殿というのは必ず戦死することになっていたから、信長は心を痛めた。
 (今、秀吉を失うことは、自分が天下を取そでも大きな痛手だ)と思ったからだ。が、この時、
「羽柴殿の言葉に従うべきです」と進言したのが松永久秀である。全員、久秀の顔を見た。久秀というのは、信長軍でも信用されていない。
(この野郎、信長様を窮地に陥れる気だな)と判断した。しかし、信長はじっと久秀の顔を見つめた後、
「よかろう。久秀、案内をせよ」と命じた。久秀は、この時琵琶湖の西側を通って信長を案内した。彼が頼りにしたのは、琵琶湖の西側に住む朽木氏である。朽木氏とは、前から親交があった。そこで、密使を出して、
「この度、信長様をご案内して、無事に京都まで送り届けたい。カを貸してもらいたい」と申し入れた。朽木氏は承知した。しかし、油断はできない。朽木氏もまた、いつひっくり返るかわからない豪族だからである。
 ところが、この時信長軍から最大の警戒心を持たれていた久秀は、無事に、朽木氏の助力を得ながら、信長を京都に戻した。

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