童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          歴史のおしえ

■事をなすには優先順位を考えよ−吉田兼好

<本文から>
  吉田兼好の『徒然草』のなかの一文を意訳したものだ。兼好は鎌倉時代の文人だが、信念を曲げない硬骨漢でもあった。『徒然草』は代表的な随筆集だが、単にもののあはれ≠ノ浸る文集ではない。当時の世相を十二分に反映し、人間いかに生くべきか≠追求する苦悩の書である。
 彼がこれを書いたのは、建武の新政の大混乱期のころだ。考えなければいけないこと、判断しなけれぼいけないこと、実行しなければいけないことが山積していた。兼好はいろいろ思い悩んだあげく、「あれもこれもと一度に解決することはできない。一つずつ着実に成し遂げていくことだ」と悟った。原文は、「一事を必ずなさんと思はぼ、他の事の破るるをもいたむべからず。人の嘲りをも恥づべからず。万事にかへずしては、一の大事、成るべからず」(一八八段)である。
 ・プライオリティーをつけた場合、はかのことが失敗すると分かっても恐れるな
 ・他人に何と言われようと気にするな
 ――というのがこの一文の骨子だろう。勝海舟の「おこないほおれのもの。批判は他人のもの。知ったこっちゃ(ことじや)ねえ」(意訳)という言葉にも通じる。
 兼好は同じ『徒然草』のなかで、「弓を射るのに矢を二つ持つな。もう一つをアテにして心がゆるむからだ」(九二段)とも記している。
 時代は変わっても人間通の警句は色あせない。
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■朝の来ない夜はないのだから−吉川英治

<本文から>
 「よし今度も立派に乗り越えて見せるぞ。朝の来ない夜はないのだから」。吉川英治さんは私たちの大先輩作家。『宮本武蔵』はその代表作で、吉川さんの自伝的要素が色濃い。私は若いころ修道小説として読んだ。冒頭の言葉は同書中の武蔵の独白。今も私の胸に刻まれている。
 「『われ以外皆師也』と思っている。自分以外はすべてどんな人でもわが師、先生であると」。吉川さんが生前、語った言葉。当時、一部には優等生的で面白みに欠けるという声も聞かれた。
 私は一人の武将のことを思い起こした。江戸時代初期の幕府宿老、井伊直孝である。
 戦を知る武将として、若い大名に敬愛されていた。ある時、永井という大名が「武士として守るべきお言葉を賜りたい」と言ってきた。井伊は「では次の休日に自宅へ」と応じた。
 その日、永井は非番ゆえにラフな服装で井伊邸を訪れた。井伊は不機嫌になり、
「ものを教わるのにその格好はなんだ?出直せ」と叱った。驚いて永井が礼装して改めて教えを請うた。
 井伊が口にした言葉は「武士の心構えはただ一言、油断大敵」という、平凡なものだった。永井は「それだけでございますか」と問うた。「そうだ。ただし、当たり前の言葉も私のロから出ると重くなる」。井伊は自信たっぷり言い切った。
 吉川さんの言葉も同じだろう。非凡な努力の人だった吉川さんが語ればこそ、平凡な言葉も輝きを増す。
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■新調セザレバ用二堪へズ−山田方谷

<本文から>
 山田方谷は幕末の陽明学者で、備中松山(岡山県高梁市)藩主板倉勝静に仕えた。勝静は寛政の改革の名老中、松平定信の孫で、崩壌する幕府を最後まで支えた。忠義を貫いた政治家だった。
 勝静は農民出身の方谷を元締(家老級)に登用し、藩政を一任した。当時、老中(閣僚)はすべて現役の藩主(地方自治体の首長)が兼任したためである。方谷は期待にこたえ誠実″の二字をもって財政改革に成功した。勝静は老中になる直前に方谷を江戸に呼び、幕政の私的顧問を命じた。江戸城を見学させ、感想を聞くと、方谷は「大きな船でございますが、船底の下は波が逆巻いておりますな」と答えた。
 そして続けた。「幕府は着物と同じで、家康公が素材をそろえ、秀忠公(二代)が縫い、家光公(三代)が整え、歴代の将軍が着用してまいりました。これを吉宗公(八代)が洗濯し、楽翁公(勝静の祖父松平定信)が再び洗いましたが、いまは汚れとはころびがひどく、新調しなければならない状況です」。洗濯とは幕政改革のことだ。
 これに勝静が「三度目の洗濯をしようと思うが?」と応じると、「素材がボロボロで継ぎもあたりませんな」と笑った。原文は「爾来汚レト綻卜頗ル甚シク、新調セザレバ用二堪へズ」である。
 しかし、方谷は勝静に告げた。「でもあなたはその着物を最後まで着なければなりません」
 これが方谷の思想の神髄だ。「逃げるな」と諭したのである。
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■重箱にはすりこ木を使おう−松平信綱

<本文から>
「天下の仕置は重箱をすりこ木にて洗ふ様なるが善し。すりこ木にては隅々までは洗へず。隅々まで能く為さんと思へば悪し」
『名将言行録』という本に書かれた松平信綱の言葉だ。信綱は知恵伊豆≠ニよばれた。三代将軍徳川家光に仕え、老中(閣僚)をつとめた。家光には子供のころから忠節をつくし、よき学友であり遊び友達でもあった。合戟なんて知らないよ≠フ世代に属すアプレゲール(戦後派)だったが、寛永十五(一六三八)年に起こった天草島原の乱≠ナは、九州の諸大名を指揮しこれを鎮圧した。これによって、「文官(スーツ組)でも武官(制服組)を統轄できる」
 という範を示した。頭がよく先輩への気配りにもソツがなかったので、幕政運営の核になっていた。冒頭にかかげた言葉は、
 「重箱はすりこぎでかきまわせ、楊子で隅まで突くな」
 という意味である。つまり「天下の仕置(国政運営)は、大所高所に立って考えるべきで、楊子で突つきまわすようなセコいことはよしなさい」ということである。
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■われ教授は能はざれども、共に考究せん−吉田松陰

<本文から>
松平
 長州の吉田松陰(一八〇ページ)は、日本史を語る上で欠かせない人物ですけど、彼自身が歴史のなかで嚇々たる成果をあげたというわけではない。薩長同盟を結んだり、討幕の軍を挙げたわけでもない。ただ、松陰は高杉晋作、久坂玄瑞(一二五ページ)、山県有朋(一八三八〜一九二二、明治政府で軍制と官僚制度を整えた)、伊藤博文(一八四一〜一九〇九、初代首相)……そうした時代を切り拓いた人材を世に送り出したわけです。教育者で、松陰はどの人物はいないでしょう。
童門
 その通りです。次の世代に対する責任感がパッションとなって、松陰を突き動かしたと思います。
松平
 「われ教授は能はざれども、共に考究せん」という言葉があります。要するに、教えて授けるなどということはおこがましくてできないけれども、あなたたちと一緒に考えることはできるという、この精神。松陰のこの言葉は、教育の原点、未来への責任のようなものを伝えているように感じるんですね。
童門
 松陰という男は、根っからのやさしい人間だったと思いますよ。
松平
 童門さんの専門ですけれども、松下村塾には教壇がなかったそうですね。
童門
 はい。また興味深いことに松陰は、孟子の「忍びざるの心」について繰り返し講義している。「忍びざるの心」とは、他者への思いやりの心のことです。「良心の自覚」ということも強調していますね。松陰の教育とは、まさしく良心への訴えかけだった。
松平
 米国への密航計画が発覚して牢に入った時に、「人間至るところ教場あり」ということで、獄中で獄仲間とお互い教え合ったといいます。教育は情熱さえあれば、どこでもできる、と。なかなかできることではありません。
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■死に臨んで、志を語った松陰

<本文から>
童門
 松陰は、二十七歳の時に『松下村塾記』という一書を残しているんですが、そのなかで、自らが主宰する松下村塾の存在意義を高々と天下に公表しているんです。それをいま風に言うと、萩の郊外にある一角の松下村塾から長州藩を変革しよう、と。そして長州藩の変革によって日本そのものを変えよう、さらには日本の変革によって世界を変えよう、と。この気宇壮大さ。萩から江戸へ、ではなく、萩から世界を変えたいというスケールの大きさに驚かされます。とれは草の根の目で世界を見ようという、グローカリズムの先駆者ですよ。またこうも言えるかもしれない。教育者、松陰の責任感、志だと。
松平
 本気で萩を世界の中心にしようと考えていたようですね。
童門
 そう思います。こうも感じるんです。松陰とは、生涯自分の全身全霊を燃やし続けた男だと。つまり、自分自身をロウソクとして赤々と灯し、他者を照らし続けたのではないか。純粋なだけに松陰の言葉は時に激しい。その言葉は「涙と血」だと思っています。安政の大獄(一八五九)で処刑されるに当たって、「死して志を残す」という言葉を残しています。死んでもなお、教育者として自分が説いた精神は生きている、という信頼感。これもまた教育者としての松陰の責任感の一つの極みのよう真率がする。死に臨んで、「志」なんていう言葉は言えないよ。
松平
 それを思うと、責任という言葉が本当に軽く聞こえる時代になってしまいましたね。
童門
 これはちょっと昔の話なんですけど、「クロネコヤマトの宅急便」の生みの親、小倉昌男さん(一九二四〜二〇〇五)と対談したことがありましてね。
松平
 ヤマト運輸の社長、会長を務めた方ですよね。運輸業の規制緩和をめぐって、旧運輸省など官僚たちと激しくやりあい、壁を一つひとつ突き破っていったことで知られていますよね。
 童門 そうです。「引き際」の話をしていて、その流れでご自身が経営から退いたときの体験を語り出したんです。「実は、その二〜三日前の重役会で、誰も発言しなかった」と言うわけです。ふつうなら、まあそういうものかと思ってしまうだけのところですけど、小倉さんはナンバー2を呼んで「他の役員たちはなぜ発言しないのか」と尋ねた。
松平
 その時歴史は動いた、瞬間ですね(笑)。
童門
 まさに。ナンバー2はこう答えたそうです。「あなたがこわいんです。それで口がきけなくなっている」と。小倉さんは自分の部屋で一時間考えて、辞表を書いたそうです。
 「俺は会社を去る。いろいろな私物があるけれども持って行かないから片づけてくれ」と。
 その後、小倉さんは障害者福祉財団の理事長として活躍されたけれど、「二度と会社に足を踏み入れていません」と言っていましたね。これも人物だなと思ってね。優れた経営者として評されているゆえんなのでしょう。
松平
 「引き際」ということだけではなく、「責任」とは何なのかを考えさせるエピソードですね。
▲UP

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