童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          歴史に学ぶ成功の本質

■地方武士のニーズをきちんと捉えた足利尊氏

<本文から>
  尊氏が地方武士の心をよく捉えているというのは、その頃地方武士の唯一の欲望であった「土地」に対する執念を、尊氏がよくつかみ、代弁していたことである。河内(大阪府)の地域土豪であったために、クモの巣のような情報ネットを持っていた。ここでひっかかる情報を分析すれば、いま生きている人々がなにを考えているかが全部手にとるようにわかった。
 地方武士の唯一のニーズは、あげて自分の所有地をふやすことだった。それを建武新政府は逆に地方武士から土地をどんどん取り上げた。そして好き勝手に分けあった。ここに大きな不満が起こり、建武朝廷はゆらぎにゆらいだのである(そこへいくと、足利尊氏は地方武士のこういうニーズをきちんと捉え、それを実現しょうとしている)。
 おそらく尊氏がいま狙っているのは、こういう地方武士を土台とし背景として、「武士の、武士による、武士のための政府」をつくりだそうということだ。そして、その項点に尊氏が立とうということだろう。
 楠木正成は、「そうさせてはならない」と思っていた。
 そうさせないためには、尊氏をむしろ南朝にひきずりこんで、かれに地方武士の代弁をさせながら、南朝も謙虚に地方武士のニーズを受け入れていくこと以外ないと思ったのである。
 しかし、楠木正成のこの諌奏は受け入れられなかった。つまり後醍醐天皇の率いる南朝側には先見力が欠けていた。ということは、単に情報が足りないだけではなく、「下の意見をよく聞く」という姿勢も欠けていたことになる。とくに、天皇と正成の間に存在した公家連中が、厚い壁になった。
 楠木正成の悲劇はいろいろなことを考えさせる。つまり、先見力があっても権力がなければそれは実現されないということと、また自分の耳に痛い意見は、えてして上層部がききたがらないということ、しかしそういう連中をいきがかり上どうにもできないトップの統治能力の問題など、現在の組織にも通じるようなテーマがふんだんに揃っている。
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■トップの経営判断を誤らせる巧言は害毒

<本文から>
「口さき男」
 大名は妙な顔をして氏郷に聞き返した。氏郷はうなずいた。
「口さき男というのは、どういうことですか〜」
 納得しない大名は執物に食い下がった。
 氏郷はこう語り始めた。
 「玉川さんは確かに優秀な人物です。私の知らないこともたくさん教えてもらいました。同時に、人間関係も幅広く付き合っておられるようで、私もいろいろな人のいろいろな面を知ることができました。そういう意味では非常に重宝な人物であることは確かです。しかし、たったひとつ気に食わないことがありました」
 「なんですか〜」
 「かれは、絶対に私の悪口をいわないことです。また、私の批判をする先輩後輩の詰もまったくしませんでした」
 「それはあなたが立派だからです。結構なことではありませんか。そんなことで玉川をクビにしたのですか〜」
 「私も人間です。必ず欠点があります。私はそれを他人から聞いて、自分を改めるように努めています。しかし玉川さんのように、私を批判する人間がいてもそれを耳に入れまいとするのは、私の機嫌を損じたくないからです。
 いちばんいけないのは、かれは私が仲良くしている大名のことは褒め着え、私が嫌っている大名のことは悪様にいうことです。これは公平ではありません。他の大名にとっては有能かもしれませんが、私にとっては道に害毒になります。ですから、せっかくご推薦をいただきましたが多額の金を与えて、私の側から去らせました」
 「……」
 その大名は納得しなかった。心の中で、
 (蒲生氏郷はバカだ)
と思った。玉川左右馬はその後別な大名に仕えた。しばらくの間は、
 「物知りだ」
という評判が高かった。
 しかしやがてその家の中で問題を起こした。オレがオレがという態度が古くからいた人たちの気分を壊した。
 それだけでなく、仕えた大名への批判をまったく入れなかったので、その大名が増長した。玉川のいうこと以外聞かなくなって、家がメチャメチャに乱れた。心ある重役たちが結束して玉川を追放した。
 蒲生氏郷に玉川を推薦した大名ははじめて、
(蒲生殿はしっかり玉川という人間を見抜いていたのだ)
と悟った。
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■たくみな安藤流調整法

<本文から>
 安藤直次は付家老なので、あらゆる書類が回ってくる。特に、たとえ頼宣がヒラに直接命じた計画でも、計画書は直次を通過する。直次の決裁がなければ、案は通らない。そういう時に、頼宣におだてられて鼻を高くしているヒラたちは、気負い込んで、直次のところにやって来る。そして、
 「ご家老、すぐご決裁をください」
と迫る。
 (自分の後には殿様が控えているのだから、ご家老あたりがぐずぐずいうな)
という色がありありと現れている。が、人間ができている直次は、こんな若僧たちに対してすぐ腹を立てるようなことはしない。かれは、十分時間をかけてじっくりと案を読む。
 やがてニッコリ笑ってこういう。
 「おい、これは大変にいい案だが、ここのところがちょっと座りが悪いな」
 「座りが悪い〜」
 若い武士にはわからない。怪訝な表情で聞き返す。直次は領く。そして、子細気に書類をひねくりまわしながら言葉を続ける。
 「惜しいな。ここをちょっと直せば本当にいい案になるのだがな。おい」
 そういって直次は、若い武士の顔を見返す。
 「はっ〜」
 「おまえの上司は、こういうことにかけては得意だ。いまは畳行燈のような顔をしているが、実際には大変な経験を積んできている。席に戻ってちょっと上司に相談してみろ。必ずいい知恵を貸してくれるに違いない。そうすれば、この座りがよくなって、おそらく殿様のお気に入る案になることだろう。わが紀州藩のために、とても役立つ案だ。おもしろ。いい案だ、おもしろい、といいながら、直次は実は遠回しに、
 「おまえは、この案を直属の上司に相談してきていないだろう。もう一度戻って、上司に見せて来い。上司を飛ばして、いきなり俺のところへ持ってきたり、殿様の決裁を受けるのは間違いだ。組織というものはそういうものではない」
ということを告げているのだ。若い武士もいい案を立てるだけあって、馬鹿ではない。直次のいうことがわかった。また、直次のいうことにも一理ある。
 若い武士は、
 「わかりました」
といって、席に戻って直属上司に案を見せた。直属上司は喜んで、いい知恵を貸してくれた。以後、
 「座りが悪いな」
というのは、和歌山城の流行り言葉になった。若い武士たちは、
 「中間管理職を飛ばして、いきなり安藤さまのところにいくと、必ず座りが悪叫なといわれるぞ」
 といい合った。和歌山城内は活性化した。
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■人間のやる気を集めて組織をつくる

<本文から>
 藤吉郎が考えるのは、
 「組織というのは、ただ人を集めるだけではない。働き手一人ひとりの胸に潜んでいるやる気を引き出して、集めることなのだ」
 ということだ。つまりかれの組織論は、
 「人間を集めて組織をつくるのではなく、人間のやる気を集めて組織をつくるのだ」
 ということである。そうしなければ、組織が生きてこない。死んだ組織になってしまう。今までの担当奉行が集めた一〇〇人の部下たちはまさしく死んだ組織″だった。
 藤吉郎がまず考えたのは、
 「この一〇〇人の組織をいかにして活性化するか。それには、どうやって部下たちのやる気を引き出すか」
 ということであった。
 「それにはまず、石垣修理が部下一人ひとりの生活とどういう関わりを持つかということを説明することが必要だ」
 と思った。つまり部下たちは石垣修理を、織田信長のためだと思っている。清洲城のためだと思っている。しかし、事実そうであっても、なぜ織田信長のためであり、清洲城のためなのかということは、部下一人ひとりの生活にとっても無線ではない。たとえば、部下とその家族は、城の中で暮らしている。もし破れた石垣の聞から敵が攻め込んできて、城が落ちるようなことがあれば、家族の暮らしている共同住宅も全部破壊されてしまう。それだけではない。家族も殺されてしまうかもしれない。藤吉郎の頭にひらめくものがあった。
 (よし、これでいこう!)
 藤吉郎の眠が輝き出した。清洲城がすぐに元に戻ったのは言うまでもない。
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■足利尊氏の不思議な人心掌振術

<本文から>
 南朝軍に京都から追いたてられて、ほとんど再起不能だといわれるほどの損害を受けた足利尊氏は、半年も経たないうちに、再び大軍を率いて京都に攻め上ってきた。なぜ、尊 氏にこんな力が湧いたのだろうか。
 たしかに足利尊氏は、地方武士のニーズをきちんとつかみ、それを実現しようと努力した。口コミで、尊氏の人気は高かった。が、だからといって尊氏と実際に会ったり、話をしたりしたのはごく一部だ。にもかかわらず、尊氏はそれだけの軍勢を集めた旦やはり秘密がある。それが、いわゆるリーダーの人心掌握力≠ニいうものだろう。
 しかし、この人心掌握力というのは単なる技術ではない。そのリーダーの人間の底からほとばしってくるものだ。いうにいえないいわば気涜のようなものである。
 今、リーダーに必要な条件は、「先見力・情報力・決断力・行動力・体力」などといわれる。しかし、いってみればこれはモノやサービスにおける本体である。現在の客は非常に価値観が多様化していて、注文も難しいから本体だけでは通用しない。それにどれだけの付加価値がついているかで選ぶ。リーダーに対しても同じだ。
 「このリーダーにはどれだけの付加価値があるか〜」
 という見方をする。
 人間における付加価値とはなんだろうか。いってみればその人らしさであり、魅力であり、人望でもある。丸めていえば器量″だ。これがないと、人はついてこない。足利尊氏には、この器量が豊かにあった。かれのいいところは、決して強がりをいわなかったことである。いつも自分の弱点を平気でさらけだした。京都の清水寺に、かれが捧げた有名な願文がある。いまの言葉に直すと、
 「一日も早く、この世を去ってあの世にいきたいと思います。しかし、この世に生きている間は、一切の苦しみや悲しみを全部わたしにお与えください。この世におけるよろこびや幸せは、全部弟の直義にお与えください。が、どうか一日も早くわたしをあの世にお導きください」
というものだ。
 あれほど武士としての項点を極めながらも、かれはこの世を憂き世≠ニ見ていた。その辛さを正直に仏に告白したのである。しかし、これは公開した願文なので、多くの人が知っていた。
「尊氏殿はやさしい人だ」
 みんなそう思った。もう一つかれのいいところは、朝廷から褒美を貰っても決して自分で使わなかったことだ。全部部下にバラまいてしまう。これもかれの人気を高めた。
 そして、一番肝心なことは、かれが、「下々の苦労」をよく知っていたことである。具体的には地方武士が、何を求め、何を悩んでいるかをきちんとつかんでいた。地方武士は、足利尊氏にとってはあるいは部下というよりも、同じ時代を生き抜く同志でありたのかもしれない。
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