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<本文から>
尊氏が地方武士の心をよく捉えているというのは、その頃地方武士の唯一の欲望であった「土地」に対する執念を、尊氏がよくつかみ、代弁していたことである。河内(大阪府)の地域土豪であったために、クモの巣のような情報ネットを持っていた。ここでひっかかる情報を分析すれば、いま生きている人々がなにを考えているかが全部手にとるようにわかった。
地方武士の唯一のニーズは、あげて自分の所有地をふやすことだった。それを建武新政府は逆に地方武士から土地をどんどん取り上げた。そして好き勝手に分けあった。ここに大きな不満が起こり、建武朝廷はゆらぎにゆらいだのである(そこへいくと、足利尊氏は地方武士のこういうニーズをきちんと捉え、それを実現しょうとしている)。
おそらく尊氏がいま狙っているのは、こういう地方武士を土台とし背景として、「武士の、武士による、武士のための政府」をつくりだそうということだ。そして、その項点に尊氏が立とうということだろう。
楠木正成は、「そうさせてはならない」と思っていた。
そうさせないためには、尊氏をむしろ南朝にひきずりこんで、かれに地方武士の代弁をさせながら、南朝も謙虚に地方武士のニーズを受け入れていくこと以外ないと思ったのである。
しかし、楠木正成のこの諌奏は受け入れられなかった。つまり後醍醐天皇の率いる南朝側には先見力が欠けていた。ということは、単に情報が足りないだけではなく、「下の意見をよく聞く」という姿勢も欠けていたことになる。とくに、天皇と正成の間に存在した公家連中が、厚い壁になった。
楠木正成の悲劇はいろいろなことを考えさせる。つまり、先見力があっても権力がなければそれは実現されないということと、また自分の耳に痛い意見は、えてして上層部がききたがらないということ、しかしそういう連中をいきがかり上どうにもできないトップの統治能力の問題など、現在の組織にも通じるようなテーマがふんだんに揃っている。 |
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