童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          歴史に学ぶ危機管理

■藤原清衡は表面は都の方針に従いながら、自分の崇高な政治理念を地域に浸透させていった

<本文から>
 藤原王朝はその源義経を匿った。
 これは単に源氏の野望を持続しようとする兄に背いた弟を匿ったということだけではあるまい。藤原清衡の都への接近のモノサシは、やはり公家政権″にあったのではなかろうか。かれは心の底ではおそらく武家政治″を嫌っていた。これは、かれの判断によれば、
 ・公家政権は、王道政治を目指す
 ・武家政権は、覇道政治を目指す
 というふうに考えていたのではなかろうか。王道政治というのは、民に対して仁と徳の政治を行うことである。覇道政治というのは、民に対して力と権謀術策による政治を行うことだ。完壁ではなかったが、仏教立国を行った清衡には、やはりそれをある程度緩やかな、おおらかな気持ちで認めてくれる藤原公家政権の方が、信頼できたのだ。そこへいくと、源頼義以来源氏の武家が胸の底に秘める野望は、どうも信用できない。
 「いつ、襲ってくるか分からない」
という不安があった。
 藤原清衡は、納税、貢金、献馬を怠らなかっただけではない。中央政府である都の地方長官や、機関を否定していない。
 都の政府は、主として俘囚を抑えこむために鎮守府をおいた。また、行政官としては全国に守・介・ジョウのポストを置いた。清衡が支配する地域は二つの国にまたがった。陸奥国と出羽国である。それぞれ陸奥守と出羽守がおかれていた。
 最初に書いた清衡の「中尊寺建立供養願文」を書写した北畠顕家は、陸奥守兼鎮守府将軍であった。俘囚を監視するために、各地域に「柵」がおかれた。さらに、鎮守府の拠点が多賀城におかれた。北島顕家は、この多賀城に赴任していた。行政の府である国府や国庁だけでなく、鎮守府が置かれていたということは、やはり陸奥・出羽などの国で、依然として軍による占領が続けられていたということだ。
 しかし、清衡はこれも是認した。行政的にも軍事的にも、都から派遣された出張官を積極的に排除することはしなかったのである。
 このことは、形式的には、
 ・都の支配方針とその形式・機構を認める
 ・都の人事政策に介入しない
 ・都の示す法制に従う
 ・都が求める税の貢納を承認する
 ということである。
 これらの権力をすべて都の中央政府が持っているとなれば、地域としてはどういうことになるのだろうか。本来、地方自治というのは、
 ・独立した行政理念をもつ
 ・それを実行するための独立した役所を持ち、人事、財政についても、その地域の長が自主的に行える
 つまり、地域管理上の人事権や財政権を都とは別個に持たなければ、本当の自治は確立されない。藤原清衡の場合はどうだったのだろうか。かれには確かに、
 「仏教文化を持って、東北地方を治めたい」
 という政治理念はあった。平泉にその理念を実現する拠点を作った。しかし、その拠点は必ずしも、都の方針に真っ向から対立し、独自の東北行政を行うためのものではない。むしろ仏の道を積極的に地域に浸透させる拠点であった。もちろん、陶の底には彿々と、都に対する反感や憤懣の思いがあったことは確かだろう。しかし、清衡はそれを露骨に示すことは絶対にしなかった。かれは、表面はあくまでも都の方針に従いながら、間隙をぬって自分の崇高な政治理念を、地域に浸透させていったのである。
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■信長は現場の情報の共有し末端の経営参加の道をひらく

<本文から>
 長篠の合戦は、それまでの合戦方法に一大変革をもたらしたといわれる。信長が刀や槍の代わりに鉄砲を使用したからだが、その鉄砲の使い方も、いままでの合戦の方法とは違っていた。いままでだと、いわゆる中間管理職級が前に出て、馬に乗り、敵陣に向かって突撃していく。その後から一般の兵士が刀や槍を振り回して続く。ところが信長は、長篠の合戦で一般の兵士を一番前に出した。リーダーシップの方法でいえば、いままでは「ここへこい」といって、管理職が率先垂範する。信長の新しい方法はそうではなく、中間管理職は後ろから「あそこへいけ」と指揮をとる。
 しかし、ただ一般の兵士を全面に出したのでは危険だから、兵士が文句をいう。信長はこの不満の声を抑えるために、鉄砲をもたせた。つまり、OA化によって、危険負担を軽減したのである。
 そして、この長篠の合戦は単に機械力を導入したというだけではない。
 「いままでのように、刀や槍を振り回すなどというような個人の戦闘技術によって戦いを続けていれば、いつまでたっても埒はあかない。これからは組織の時代だ。末端にいる兵士も、自分が何をしているのか、自分のしたことがどれだけの寄与度があったのか、ということを認識しなければならない」
 いまの言葉を使えば、現場の従業員にも「経営参加の道」を開いたのである。従業員に経営参加の道を開くには、やはり情報を与え、同時に組織目的をはっきり知らせなければならない。何でもかんでも、秘密だ秘密だといって情報を隠したり、暖味な指示をしていたのでは、現場はついてはこない。信長は、「トップと現場の情報の共有」と「トップダウンとボトムアップ」の回路を設定した。この日、鉄砲を射ちまくった足軽たちは、自分たちの行動によって武田方の管理職がバタバタと射ち倒されるのを見て、歓声を上げた。こんなことはいままでになかったからだ。
 こうして信長は、「仕事は、個人が行うのではなく、組織が行う。個人はその組織の中で最大の力を発揮する」という鉄則を打ち立てた。
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■実力の限界を知った毛利元就

<本文から>
 毛利元就は、元亀二(一五七一)年六月十四日に死んだ。この時、息子や一族を集めて遺言をした。遺言の内容は次のようなものだ。
・わが息子と一族は、天下への望みを持ってはならない
・それは、この父の武威を一つの基準とすれば息子たちの武威はかなり衰えてきているからだ
・そこで、毛利家の当主は中国地方、吉川家は山陰地方、小早川家は筑前・筑後(いずれも福岡県)と豊前(大分県)をよく治め、三家がカナエの足のように共同して力を尽くすべきだ
・それには毛利家を継いだ輝元がまだ幼いので、たとえ他家に入ったといっても、元春と隆景は輝元の叔父にあたるのだから、よく本家の相続人を両川が補佐して守ってほしい
 これに対して、三男の小早川隆景がこう応じた
 「父上のお言葉を守り抜きます。兄弟親族などが不和になるのは、すべて欲心に原因があります。欲を捨て、義を守れば決して兄弟親族が不和になることはありません」
 これを聞いて病床の元就はたいへん喜んだ。そして、
「みんな、いま隆景がいった言葉を守り、決して違うようなことをしないでほしい」
 さらに、
 「あくまでも、わが業を守るように」
 とつけ加えて、安心して死んだという。
 このへんから、実をいえば元就の経営論がはっきり現れてくる。まず元就がいった、
 「決して天下に望みを抱いてはならない」
  ということは、
 「毛利家の実力の限界をわきまえ、過大な望みを持ってはならない」
 ということである。これを現代の企業経営になおせば、
 ・わが社では、あくまでも分相応の本業に励んで、副業とくに大博打的な投機事業に手を出してはならない
 ということである。この時代の武将たちは、いずれも、
 「天下人」
 をめざしていた。天下人というのは、日本全体を征服して支配者になることだ。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康はその野望を達した。世間では毛利元就に対しても、武田信玄や上杉謙信などと同じように、
 「毛利元就殿はいずれ天下人におなりだろう」
 と噂していた。それだけの力が元就にあるとみていたのである。が、元就本人は決してそんなことを考えなかった。かれは、
 「安芸の山奥から出た一国人領主が、ここまで領地を広げたのだ。これからはこの領地を減らさないように努めるべきで、一切東の方に目を向けてはならない」
 と公言していた。これはなかなかできないことだ。勢いに乗って、まだ領地を広げれば広げられただろう。が、元就はある時点で打ち切った。
 「毛利家は、もうこれでいい」
 と。いってみれば事業規模と、マーケットの範囲を確定してしまったのである。そのことは逆にいえば、
 「毛利一族の経営能力の限界は、ここまでだ」
 と悟ったということだ。
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■徳川軍との勝機を失った直江兼続

<本文から>
 無念だったがやむを待ない。兼続は、
 (すでに勝機は去った)
 と思っていた。兼続にすれば勝機は一度あった。それは上杉征伐を各日に徳川家康が多くの大名を率いて、関東地方へやってきた時のことだ。家康は下野(栃木県)の小山まで陣をすすめた。ここでしばらく滞留し、上方の変化を待った。この時一番確実な情報をもたらしたのが、かれに従っていた大名山内一豊の妻である。山内一豊の妻はなかなかの才女で、大坂での石田三成の動きを細大漏らさず書き送ってきた。同じ手紙を二通書き、一通は夫に、一通は徳川家康に直接宛てて送った。家康は感心した。山内一豊が、のちに土佐一国を貰うようになるのには、妻の千代の力が預かって大きい。これを本当の内助の功というのだろう。山内一豊の妻は、何もへそくりを貯めて夫に立派な馬を買って与えただけではない。こういう機微な活動がいたく家康の気に入ったのである。土佐一国は山内千代に与えられたといってもいいだろう。
 この情報提供によって、家康は突然、
 「上杉討伐は中止する。上方へ戻って石田三成を討伐する」
と作戦変更を伝えた。
 「徳川軍が引き上げはじめました」
という報告をきいた時、兼続は躍り上がって眼を輝かせた。すぐ主人の景勝に、
 「追撃しましょう」と進言した。
 「佐竹殿にも急を知らせ、力を合わせれば必ず家康を討ち取れます」
 と熱っぼく迫った。が、いつもに似合わず景勝は首を縦に振らなかった。ジツと考え込んでいる。
 「千載一遇の機会ですぞ。追撃しましょう」
 部将の中には、
 「石田軍が上方で勝利し、関東へ上ってきた時に家康を箱根の峠で挟み撃ちにすべきです」
 などという者もいた。しかしいずれにしても、「この際、徳川家康を追撃すべきだ」という意見ではほとんどが一致していた。大将の景勝だけが考え込んでいる。やがて景勝は顔を上げると兼続にこういった。
 「おまえはわが父謙信公を尊敬していたはずだ」
 「はい」
 「謙信公は、敵を後ろから襲ったことは一度もない」
 兼続は絶句した。しばらく景勝の顔を凝視していたが、やがてがっくりと肩を落した。うなだれた。低い声でいった。
 「その通りでございます」
 「だからオレも、子として敵を後ろからは攻めない」.
 「わかりました……」
 その時に勝機は去った。兼続はがっかりした。しかし、主人景勝のいうことにも一理あると思った。
 (それが上杉家の武士道なのだ)
 そうなった以上、できるかぎりのことをしようと考えた。
 直江兼続のことを、のちの世までも「名参謀」あるいは「名臣」という。しかし兼続の行動は、逆な見方をすれば主家を滅亡寸前に追い詰め、さらに戦後処理として会津百二十万石を米沢三十万石に減俸させてしまったのだから、主人と上杉家の進む方向を誤らせたといえないことはない。
 が、その後の兼続は、米沢に封じ込められた上杉家のために、都市づくりや新田開発などを積極的に行う。かれは戦争のない国の地域興しに勤しむ。なぜかれがそこまで熱心に米沢づくりに勤しんだかといえば、この段階ですでに、
 「上杉家の越後への帰還」
という悲瞭を放棄したからである。上杉景勝の三呂よって直江兼続はそれをあきらめた。
 (これから、米沢の土地で最後まで生きぬくのだ)
 と心に決めた。
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■細川幽斎の芸道観−即興の歌で危機を救う

<本文から>
 脇でこの連歌会に加わっていた里村紹巴という歌のブロが異議を唱えた。
 「おそれながら、殿下」
 「何だ?」
 「申し訳ございませんが、蛍は鳴きません。何かのお間違いでございましょう」
 「うむ?」
 秀吉は里村をみかえしたが、すぐ脇にいた細川幽斎の顔を見た。天下人が一旦口に出した以上、たとえ専門家にそれは間違いだといわれても、秀吉には訂正する気はない。秀吉の眼は幽斎に、
 (この危機を救え)
 と告げていた。秀吉の気持ちを知った幽斎は里村紹巴にこういった。
 「蛍が鳴いても少しも差し支えはないのではございませぬか」
 「なぜでしょうか?」
 秀吉の歌の指導者として、細川幽斎に深い敬意をもちつつも、プロとしての面子もあって紹巴は居直った。幽斎は微笑みながらこういった。
 「千載集の中に、こういう古歌がございます。
  武蔵野に しのをつかねて降る雨に ほたるならでは 鳴く虫もなし
 また、
  おく山の くち木の洞になく蛍 声なかりせば これぞ狐火
 あきらかに蛍が鳴いております。殿下はおそらくこのことをご存じで、あえて蛍が鳴くとおっしゃったのだと思います。差し支えないと思いますが?」
 自信たっぷりな幽斎の言葉に、里村紹巴は言葉を失った。渋々、
 「恐れいりました。とんだ余計なことを申し上げまして、どうかお許しくださいませ」
 と平伏した。秀吉は満足そうに、
 「そうか、蛍も鳴くことがわかって良かった」
 そういってチラリと幽斎の顔を見、
 (ありがとうよ)
 と感謝の色を浮かべた。その場を去って別室にくると、里村紹巴はたちまち幽斎に食ってかかった。
 「細川殿」
 「何ですか?」
 「先程のお話、わたしにはどうも納得できません。あなたが例にお引きになった千載集は、わたくしは隅から隅まで今まで何回も読み返しております。あなたがお口にされたような歌は、どこにも見あたりません」
 これを聞くと幽斎は、
 「おや、そうですか」
 と笑い出した。紹巴はキッとなっていった。
 「何がおかしいのですか? 千載集にない歌を、古歌にもあるなどとおっしゃって、殿下をあざむきたてまつることになりますぞ。一体、あの歌はどこからお引きになったのですか?」
 迫ってなじる紹巴に、幽斎はこともなげに答えた。
 「あの場におけるわたしの即興ですよ」
 「えっ?」
 紹巴はあきれて眼をみはった。
 「あの場でおつくりになった歌ですと?」
 「そうです」
 うなずくと幽斎は紹巴の方へ向き直った。
 真顔になってこういった。
 「里村殿、いまの秀吉さまは関白でいらっしゃる。この世でただ一人の権力者であらせられます。その天下人が、蛍に鳴けとおっしゃれば蛍も鳴きましょう。鹿に光れとおっしゃれば、鹿も光ります。そのくらいのご威光がおありです。あの場合はわたしのトンチであのようにいたしましたが、もしあなたがご自分の説におこだわりになって、あくまでも殿下に楯をおつきになり、お怒りになった殿下が、今後連歌の会など開かぬ、また余の者にも聞かせぬ、とおっしゃったとすれば、あなたは失業するではありませんか」
 といった。この言葉は紹巴には響いた。陶をグサリと突かれた思いだった。紹巴はうつむいてしばらく考えた。やがて顔を上げると、張っていた肩から力を抜きこういった。
 「おっしゃる通りです。細川殿が正しい」
 「おわかりになれば、それでよろしい。これでわたくしも当分は殿下のお側で、歌の道でお仕えできます。ご一緒に頑張りましょう」
 紹巴に対する言葉の中に、細川幽斎の芸道観が表れている。つまり幽斎がいったのは、
 「プロならば、その道に徹しなさい」
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■常に進退を潔くさせた細川幽斎の「風流心と勇気」

<本文から>
 かれが死んだのも京都で、息子の忠輿も孫の忠利も臨終に間に合わなかった。幽斎の生き方はそれほど徹底していた。
 これもなかなかできないことである。たとえ隠居しても、普通の人間だったら息子の忠輿にいうだろう。
 「おまえが中津四十万石をもらったのは、おまえの手柄だけではない。オレが田辺城で一万五千人の寄せ手を食い止めた分も入っている。だから、何もかも自分の思い通りに経営が行えると思ったら大間違いだ。オレも丈夫だから、これからも細川藩政についてはいろいろと口を出すぞ」
 くらいはいったに違いない。しかし幽斎は絶対にそんなことはしなかった。
 「細川家の経営はすべておまえに任す」
 そう告げて中津には近づかなかった。かれ自身は、京都で悠々自適の生活を送り、花の咲く頃は鞍馬山に登ったり、高野山に登ったりして過ごした。家康はこの幽斎の態度に感心し、
 「室町家代々の家式について知りたいので、ひとつそういう書物をまとめていただけないか」
 と頼んだ。幽斎は喜んだ。そして、
 「自分は信長さま、秀吉さま、家康さまと三人の天下人に仕えてきたが、自分の知識や学問を最も有効に役立ててくださるのが家康さまだ」
 と感じた。
 信長も秀吉も幽斎に対してはいろいろと面倒をみてくれたが、どちらかといえば自分たちが天下人になるために、幽斎が京都御所にもっているコネを利用するのが主だった。家康は違った。ましてや、細川家と関わりの深い室町家の格式について、いろいろ調べ、それをまとめる機会を与えてくれたというのは願ってもないことだった。幽斎は夢中になってこの仕事に力を入れる。そして、慶長十二年二月に『室町家式』三巻を完成させて家康に献上した。家康は、手に取って頁を繰りながら眼に喜びの色を浮かべた。
 この仕事が終わった直後、幽斎は豊前に下った。そしてめずらしく二年半ばかり中津にいた。中津にいたときも、精力的に付近を歩き回った。
 そして慶長十四年の十月再び京都の住居に戻ってきた。一年足らずの翌十五年八月に、京都三条の館で死んだ。七十七歳である。
  「細川幽斎は、生き上手だった」
 というレッテルが貼られている。そういう一年があったことは事実だ。しかしそうさせたのはあくまでもかれの風流心である。かれの風流心は、
 ・常に進退を潔くさせた
 ・行動に美学を添えた
 ・それが危機管理に役立った
  などという特性が挙げられるだろう。
 ふつう風流心といえば、どこか文学性が前に出て弱々しい感じを与える。とても勇気ある行動などできないような印象を与える。しかし細川幽斎の場合は逆だった。かれの勇気はむしろ胸の底にある風流心から発した。したがって細川幽斎の人間性においては、
 「風流心と勇気」
 という問題を無視することはできない。息子の細川忠興も、その後父の名をはずかしめないほど日本有数の文化人に育った。
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■藩主を後見となって上杉鷹山の第二次改革

<本文から>
 しかし藩の事情が変わっていた。城の中にも、
 「ぜひとももう一度、ご隠居さまに政治のご指導をお願いしたい」
 という層が広まっていたことである。これは、鷹山がいった「人閥」以外の所からのものが多かった。もう一つは、城の外の農村やまちの中に、
 「ぜひともご隠居さまに、前のようなご改革をお進めいただきたい」
 と、城に願い出てくる者がたくさんいたことだ。そして、
 「荏戸さまをご家老のお役に」
 ともいった。これは鷹山の目をみはらせた。胸の中に暖かい日の光が流れ込んだ。予想もしなかったことである。改革推進派たちは、鬼の首でも取ったような面持ちをして、鷹山の所に駆けつけてきた。
 「いま米沢城の内外に起こっている声をお聞きになりましたか?」
 「聞いた」
 鷹山はうなずいた。
 「しかし、おまえたちのいうように、もう一度藩主の座に戻るなどということは絶対にできないぞ。またわたしはそんなことはしない。あくまでも治広殿を立てていく。それが筋だ」
 先手を打ってそう戒めた。忠臣たちは声を失った。うらめしそうに鷹山を見かえした。
 しかし、思わぬことが起こった。天明の大飢饉が起こったからである。米沢藩も被害を受けた。が、鷹山の改革のお陰で、各地域に備荒用の倉庫がつくられていたため、餓死者はほとんど出なかった。しかし危機感は強まった。
 ついに、当主の治広が隠居所にやってきた。手をついて平伏し、こういった。
 「お父上、何とぞもう一度ご政道のご指導を仰ぎとうございます」
 現在でいえば、現職の社長が会長の所にきて、
 「もう一度社業のご指南をお願いします」
 というのと同じである。こういわれては、鷹山も黙視できない。引き込んでばかりいるわけにはいかない。
 「治広殿、手をお上げください。あなたがそこまでおっしゃるのなら、あなたの後ろにいてごく控え目に、いろいろと意見だけでも申しましょう」
 温かい養父の言葉に、治広は目をうるませた。
 「ありがとうございます。これで大船に乗った気でございます」
 と顔を上げて微笑んだ。鷹山は、
 「大船どころでなく、ドロ船かもしれませんぞ」
と笑った。
鷹山は、後見は承知したが、藩主の座に戻るなどということはあり得ない。あくまでも隠居の立場で、表に出るわけではなかった。しかし、改革期待派はそれだけでも満足した。
 「ご隠居さまがまたご出馬になった」
 米沢城内で喜びの声が上がった。
 こうして、上杉鷹山の第二次改革が始まる。しかし今度は、いってみれば会長と社長が手を取り合って、心を一つにし城全体をパワー化して、新しい体制で改革を始めたということである。鷹山は宣言した。
 「わたしが治広殿の後見を引き受けたとしても、決して昔の繰り返しではない。新しい状況下における、新しい改革推進組織をつくつたのだ。昔の改革推荒もまた自分たちの天下になったなどと、うぬぼれてはならない。新しいを力を支える一助として謙虚に身を処すべきである」
 と、とくに旧改革推進派の増上慢を禁じた。
 第二次改革は成功する。しかし、鷹山があれほど恐れた、
 「名声のひとり占め」
 は必ずしも消えなかった。やはり、上杉鷹山の名は絶対だった。現在に即して考えてみると、この問題は難しいものを含んでおり、あるいは人間界における永遠に解けない課題であるかもしれない。
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