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<本文から> 藤原王朝はその源義経を匿った。
これは単に源氏の野望を持続しようとする兄に背いた弟を匿ったということだけではあるまい。藤原清衡の都への接近のモノサシは、やはり公家政権″にあったのではなかろうか。かれは心の底ではおそらく武家政治″を嫌っていた。これは、かれの判断によれば、
・公家政権は、王道政治を目指す
・武家政権は、覇道政治を目指す
というふうに考えていたのではなかろうか。王道政治というのは、民に対して仁と徳の政治を行うことである。覇道政治というのは、民に対して力と権謀術策による政治を行うことだ。完壁ではなかったが、仏教立国を行った清衡には、やはりそれをある程度緩やかな、おおらかな気持ちで認めてくれる藤原公家政権の方が、信頼できたのだ。そこへいくと、源頼義以来源氏の武家が胸の底に秘める野望は、どうも信用できない。
「いつ、襲ってくるか分からない」
という不安があった。
藤原清衡は、納税、貢金、献馬を怠らなかっただけではない。中央政府である都の地方長官や、機関を否定していない。
都の政府は、主として俘囚を抑えこむために鎮守府をおいた。また、行政官としては全国に守・介・ジョウのポストを置いた。清衡が支配する地域は二つの国にまたがった。陸奥国と出羽国である。それぞれ陸奥守と出羽守がおかれていた。
最初に書いた清衡の「中尊寺建立供養願文」を書写した北畠顕家は、陸奥守兼鎮守府将軍であった。俘囚を監視するために、各地域に「柵」がおかれた。さらに、鎮守府の拠点が多賀城におかれた。北島顕家は、この多賀城に赴任していた。行政の府である国府や国庁だけでなく、鎮守府が置かれていたということは、やはり陸奥・出羽などの国で、依然として軍による占領が続けられていたということだ。
しかし、清衡はこれも是認した。行政的にも軍事的にも、都から派遣された出張官を積極的に排除することはしなかったのである。
このことは、形式的には、
・都の支配方針とその形式・機構を認める
・都の人事政策に介入しない
・都の示す法制に従う
・都が求める税の貢納を承認する
ということである。
これらの権力をすべて都の中央政府が持っているとなれば、地域としてはどういうことになるのだろうか。本来、地方自治というのは、
・独立した行政理念をもつ
・それを実行するための独立した役所を持ち、人事、財政についても、その地域の長が自主的に行える
つまり、地域管理上の人事権や財政権を都とは別個に持たなければ、本当の自治は確立されない。藤原清衡の場合はどうだったのだろうか。かれには確かに、
「仏教文化を持って、東北地方を治めたい」
という政治理念はあった。平泉にその理念を実現する拠点を作った。しかし、その拠点は必ずしも、都の方針に真っ向から対立し、独自の東北行政を行うためのものではない。むしろ仏の道を積極的に地域に浸透させる拠点であった。もちろん、陶の底には彿々と、都に対する反感や憤懣の思いがあったことは確かだろう。しかし、清衡はそれを露骨に示すことは絶対にしなかった。かれは、表面はあくまでも都の方針に従いながら、間隙をぬって自分の崇高な政治理念を、地域に浸透させていったのである。 |
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