童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          歴史に学ぶ「生き残り」の奇襲戦略

■表裏比興の戦略−真田昌幸

<本文から>
 石田三成に味方するか、徳川家康に味方するか、真田兄弟の意見は分かれた。次男の幸村は、自分の縁戚関係からいっても、
 「石田三成に味方すべきです。三成殿に味方するということは、ご恩を受けた秀吉公のご遺児秀頼様に味方するということです。そうしましょう」
 といった。信之は首を横に振った。
 「いや、今の豊臣政権は、烏合の衆だ。大老といっても、それぞれ虎視眈々と天下を狙う権力亡者の群れにすぎない。その中で、徳川家康殿だけは、明らかに民のことを考えておられる。この国を長く平和にし、温かい民政を行おうとしておられる。その何よりの証拠が世論だ。民衆は徳川殿を支持している。徳川殿に味方すべきだ」
 論争は果てしなかった。ついに昌幸が決断を下した。
 「俺と幸村は石田の味方をする。信之は徳川殿の味方をしろ」
 またも、表裏比輿の本領が発揮された。真田家を二分して、敵味方の両方に軍を送り込もうというのである。父と子が分かれる。信之は悲壮な顔になった。
 「父上、それはおやめください。この際、わが一族はまとまって徳川殿にお味方ましょう」
 「いや、できない」
 「なぜですか?」
 あれほど明敏で先見性に富む昌幸が、この後、世の中がどう変わるかを見通していないはずがない。天下は必ず徳川家康のものになる。昌辛にもそれはよく分かているはずだ。にもかかわらず昌幸はこれほど執拗に反対するのか。実のところ、その点が信之にしても幸村にしても今一つ腑に落ちないところであった。昌辛はこう答えた。
 「おれは家康が嫌いだ」
 「!?」
 信之は呆れた。父を見返した。父はニヤリと笑った。こういった。
 「今まで、おれは自分でやりたくないことを、やむをえずやってきたことが多い。最後には、せめて、自分の気持ちに素直な生き方をさせてくれ」
 信之は、心の中で思わずああと坤いた。
 (父はすでに死を覚悟している)
 と思った。
 徳川家康が小山に者陣する前に、真田昌幸は幸村を連れて、自分の軍勢を上田城に向かって引きあげさせた。裏切りを知った秀忠は、怒った。小山に着いた家康も驚いた。しかし駆けつけた信之から事情を開いて、
 「信之、おまえだけは私に忠節を早くしてくれ」
 と、心情を吐露していった。家康自身、小山に着いても、はたしてどれだけの大名が自分に味方するか、誰がいつ裏切って上方へ走るか、まだ見当がつかなかったからである。その中で、父と弟と離れて、自分のところに駆けつけてきてくれた真田信之の心根は非常に心強かった。
 こうして、徳川家康は千代の手駄を見て、急遽上杉征伐を取り止め、反転して上方に向かう。息子の徳川秀忠は、中山道から攻め上ることを命ぜられた。しかし、遺恨のある秀忠は、真田父子にこだわった。そこで回り道をして上田城を攻撃した。が、上田城は落ちない。そのためにまごまごしているうちに、関ヶ原の戦いが済んでしまった。家康の大勝利である。家康は遅れて関ヶ原に到着した秀忠に、
 「顔も見たくない」
 と罵った。
 本来なら、真田昌幸・幸村父子は、斬罪に処せられても文句はいえない。それを信之が必死になって嘆願した。かろうじて命を助けられた昌幸・幸村父子は、高野山に追放され、九度山に幽居する。
 ここで、昌幸は淋しく死ぬ。生き残った幸村が、その後大坂の陣で大活躍をすることはよく知られている通りである。
 信州松代に領地を与えられた真田家は、明治維新まで存続する。外様大名であるにもかかわらず、その後、松平定信家から入った幸貫が、老中になったことは有名だ。譜代大名でない家から、老中になったためしは徳川二六〇年間に一度もない。その意味では、表裏比興の者と罵られながらも、家を常に二つに分け、その存続を図った昌幸の苦労が、報いられていたといっていいだろ。

■藤堂高虎は控えめに合戦に参加

<本文から>
 そこへいくと藤堂高虎は、はじめからそういう意味の積極性はない。どちらかといえば、彼は、控えめに合戦に参加し、むしろ謀略戦や和平への努力を怠らなかった。彼が得意な能力として発揮したのは、意外にも、土木建設の能力である。その意味では、彼の心の底には、いつも、「平和への志向」が満ちあふれていたといっていいだろう。そして、それも彼自身がすぐれていたというだけでなく、彼は自分と同じような才能を持つ人間たちを、見事に組織し、集団化した。彼の能力発揮はしたがって、こういう特別の技能者集団の組織化、集団化にあったといっていい。あるいは、彼自身が、
(自分は志の高い人間だが、その志を遂げるには能力が不足している。それを補うものが必要だ。その補うものというのは、すべて技能者集団である)
 と考えていたのかもしれない。
 ここで、先に藤堂高虎のユニークさを列記しておけば、次のようになるだろう。
 ○平和志向者であった。
 ○時の流れを見抜く力を持っていた。つまり、時代に対する予見力を持っていた。
 ○パフォーマンス(自己表現)志向が強かった。
 ○目的に対する自分の能力の不足をよく認識していた。したがって、その不足分を他人の能力によって補った。
 ○自分の能力不足を補うだけでなく、特別技能者の組織化、集団化が得意だった。その特別技能者も、どちらかといえば社会の底辺や陰に生きる者を組織した。組織しただけでなく、そういう社会の底辺や陰に生きる特別技能者に、市民権を与えてこれをひなたに出した。たとえば、大工、石工、忍者などである。
○かなり謀略性に富んでいたが、主人に対する忠誠心は無垢で堅かった。
○人の使い方が抜群で、情のかけ方が際立っていた。

■藤堂高虎の律儀さのPR

<本文から>
 豊臣秀長は温厚な性格だったが、なかなかの戦略家で、攻城の名手だったという評判が高い。特に兄秀吉の中国攻めや四国攻めでは、大きな武功を立てている。播磨の三木城、鳥取城、冠嵐山城、高松城、あるいは四国の長宗我部攻めなどが名高い。
 ところが、「豊臣秀長が立てた戦功の大部分は、実は藤堂高虎の戦功だ」という説がある。秀長が手柄を立てたのは、藤堂高虎の助言と、助言だけでなく実際に高虎が敵陣を擾乱して立てた手柄だというのである。このへんも実をいうとよく分からない。よく分からないというのは、この説のほうが正しいような気がするからだ。
 高虎の複雑で屈折した生き方は、たとえ実際に自分が立てた手柄でも、自分の手柄にしないというところが多分にある。つまり、彼の慎重さの現れである。高虎は、繰り返しになるが、「平和になった日本で、できるだけ長く生きたい」と思っていたから、なまじっか手柄を立ててもそれが原因になって、偉くされてしまうと、場合によっては早く死んでしまう危険性があると思っていたのだ。そういう例を、彼はつぶさに見ていた。したがって、主人を換えるのも、
 ○能力不足の主人
 ○逆に能力がありすぎる主人
 の極端と極端の二者を捨てたということだ。つまり、彼の主人選びは、まったく無能な者に仕えない代わり、能力があまり余っている者に対してもこれを避けたのである。

■高虎は渡辺勘兵衝を高禄で召し抱える

<本文から>
 ところが、高虎はそれをしなかった。前に述べたように、彼は新しく渡辺勘兵衝という古いなじみの武士を召し抱えようとした。しかも、
 「二万石出すからぜひ来てくれ」
 といった。
 二万石といえば、藤堂が新しくもらった知行の一〇分の一に当たる。高虎の家来も驚いたが、勘兵衛自身も驚いた。
 「冗談をいってはいけない。たかだか二〇万石の大名が一割の給与を出してどうするのだ?」
 といって信じなかった。が、藤堂高虎は本気だと何遍も勘兵衛に使いを出した。
 高虎が渡辺勘兵衛をどうしても召し抱えたいというのにはわけがあった。それは、関ケ原の合戦直後、高虎は大和郡山城の接収を命じられた。城を包囲したが、城を守る大将が明け渡さなかった。城を守っていたのが渡辺勘兵衛である。勘兵衛は、
 「わたしは代理でこの城を守っている者だ。本当の城主は増田長盛という人物である。が、増田氏は、今高野山に入っている。城がほしければ、増田氏から本人が明け渡せと書いた書類を持ってきてもらいたい」
 こういった。そこで、高虎は、道理だ、と思って使いを高野山に出し、増田長盛から書状をもらった。この書状を持った高虎の部下がどかどかと城の中に入っていくと、勘兵衛は制止した。
 「そんな無礼な城の受け取り方があるか。きちんと作法を守れ」
 と藤堂兵を怒鳴りつけた。この態度に高虎が感心したのだ。そして、同じ近江の出身でもあるし、おれの知行の一〇分の一を出すから、おれのところに来ないか、と誘ったのである。勘兵衛は、藤堂高虎のここまでの思い入れに感激して、
 「あなたのお言葉に従おう。あなたは珍しい大将だ」
 と感動して、高虎の部下になったという。 

■発想の転換をつづける人間には、どうしてもこういう誤解がつきまとう−坂本龍馬

<本文から>
 もつれた糸をほぐすように、龍馬は、桂を説得して、
 「このうえは、京都にいる西郷のところに行こう」
 と誘った。桂は渋った。しかし、龍馬の情熱に負けて上京した。しかし、京都の薩摩藩邸に入っても、話は一向に進まなかった。西郷と桂は、毎日碁や将棋を打ちながら、差し障りのない世間話をしていた。それは、「いい出したほうが負けだ」と両方で思っていたからである。ここへ、寵馬が乗り込んできた。そして、いきなり二人を怒鳴りつけた。
 「馬鹿野郎!面子と日本とどっちが大事なのだけ」
 この一喝によって、二人はたちまち密約を結んだ。「薩長同盟」である。
 そして、この直後の慶応二年(一八六六)一月、坂本龍馬は幕更に襲撃された。しかし、襲撃された理由が、薩長を連合させたことにあったのかどうか疑問だ。そんなことが、軽々と漏れるはずがない。そこで龍馬が襲われたのは、彼がいままで実行してきた「発想の転換」によるものと見たほうが正しいだろう。つまり、彼も普は「攘夷派浪人」だったから、その頃の活躍を、いまだにしつこく覚えている幕吏もたくさんいた。
 坂本龍馬といえば攘夷派浪人だ、と思っている役人も少なくなかったのである。いわば、「昔の人物観で、変わってしまった今の同じ人物を追い回している」ということである。
 発想の転換をつづける人間には、どうしてもこういう誤解がつきまとう。それを払拭することはできない。というのは、相対関係であって、相手がいつまでもそう思い込んでいる以上、こちらが、「それは違うぞ」といっても信用しない。こんなことは、現在でもいくらでもあるのではなかろうか。いわば、坂本龍馬が殺されたのは、「慶応三年(一八六七)十一月十五日現在の彼が狙われたのではなくて、むしろ、何年も前に披がやったことに対する制裁」として、暗殺が行われたのである。
 幕更に襲撃された時、坂本龍馬は手に傷を負った。彼は、ピストルで応戦した。
しかし、敵は大勢で、彼は脱出した。そして、この時も西郷隆盛の世話で、鹿児島に向かった。この頃の龍馬には、お龍という妻がいて、彼女と新婚旅行気取りで、霧島や鹿児島の温泉などを渡り歩いたパやがて鹿児島を出発ヽ下関に向かった。というのは、第二次長州征伐が始まっていたからである。彼は、この時、高杉晋作と共に、亀山社中が薩摩藩名義で買って、長州藩に引き渡した軍艦で活躍した。

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