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<本文から> 石田三成に味方するか、徳川家康に味方するか、真田兄弟の意見は分かれた。次男の幸村は、自分の縁戚関係からいっても、
「石田三成に味方すべきです。三成殿に味方するということは、ご恩を受けた秀吉公のご遺児秀頼様に味方するということです。そうしましょう」
といった。信之は首を横に振った。
「いや、今の豊臣政権は、烏合の衆だ。大老といっても、それぞれ虎視眈々と天下を狙う権力亡者の群れにすぎない。その中で、徳川家康殿だけは、明らかに民のことを考えておられる。この国を長く平和にし、温かい民政を行おうとしておられる。その何よりの証拠が世論だ。民衆は徳川殿を支持している。徳川殿に味方すべきだ」
論争は果てしなかった。ついに昌幸が決断を下した。
「俺と幸村は石田の味方をする。信之は徳川殿の味方をしろ」
またも、表裏比輿の本領が発揮された。真田家を二分して、敵味方の両方に軍を送り込もうというのである。父と子が分かれる。信之は悲壮な顔になった。
「父上、それはおやめください。この際、わが一族はまとまって徳川殿にお味方ましょう」
「いや、できない」
「なぜですか?」
あれほど明敏で先見性に富む昌幸が、この後、世の中がどう変わるかを見通していないはずがない。天下は必ず徳川家康のものになる。昌辛にもそれはよく分かているはずだ。にもかかわらず昌幸はこれほど執拗に反対するのか。実のところ、その点が信之にしても幸村にしても今一つ腑に落ちないところであった。昌辛はこう答えた。
「おれは家康が嫌いだ」
「!?」
信之は呆れた。父を見返した。父はニヤリと笑った。こういった。
「今まで、おれは自分でやりたくないことを、やむをえずやってきたことが多い。最後には、せめて、自分の気持ちに素直な生き方をさせてくれ」
信之は、心の中で思わずああと坤いた。
(父はすでに死を覚悟している)
と思った。
徳川家康が小山に者陣する前に、真田昌幸は幸村を連れて、自分の軍勢を上田城に向かって引きあげさせた。裏切りを知った秀忠は、怒った。小山に着いた家康も驚いた。しかし駆けつけた信之から事情を開いて、
「信之、おまえだけは私に忠節を早くしてくれ」
と、心情を吐露していった。家康自身、小山に着いても、はたしてどれだけの大名が自分に味方するか、誰がいつ裏切って上方へ走るか、まだ見当がつかなかったからである。その中で、父と弟と離れて、自分のところに駆けつけてきてくれた真田信之の心根は非常に心強かった。
こうして、徳川家康は千代の手駄を見て、急遽上杉征伐を取り止め、反転して上方に向かう。息子の徳川秀忠は、中山道から攻め上ることを命ぜられた。しかし、遺恨のある秀忠は、真田父子にこだわった。そこで回り道をして上田城を攻撃した。が、上田城は落ちない。そのためにまごまごしているうちに、関ヶ原の戦いが済んでしまった。家康の大勝利である。家康は遅れて関ヶ原に到着した秀忠に、
「顔も見たくない」
と罵った。
本来なら、真田昌幸・幸村父子は、斬罪に処せられても文句はいえない。それを信之が必死になって嘆願した。かろうじて命を助けられた昌幸・幸村父子は、高野山に追放され、九度山に幽居する。
ここで、昌幸は淋しく死ぬ。生き残った幸村が、その後大坂の陣で大活躍をすることはよく知られている通りである。
信州松代に領地を与えられた真田家は、明治維新まで存続する。外様大名であるにもかかわらず、その後、松平定信家から入った幸貫が、老中になったことは有名だ。譜代大名でない家から、老中になったためしは徳川二六〇年間に一度もない。その意味では、表裏比興の者と罵られながらも、家を常に二つに分け、その存続を図った昌幸の苦労が、報いられていたといっていいだろ。 |
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