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<本文から>
幸福を主とする「楽市・楽座」を出現させた。楽市・楽座の目的は、
@規制を緩和する。だれがどんな商売を営んでもよい(この当時は、ものを製造したり販売するのには、いちいち面倒くさい許可と、上納金が必要だった)。
A進出商工業者には、税金をかけない。
B関所や船番所を廃止して、旅や物流の妨げになるものを全部廃止する。
C良貨を流通させる。
などである。これを彼が率先しておこなった。
「兵農分離」
の結果、プロ化した兵士を城下町に住まわせて、動員のスピードアップをはかったことに起因する。
そして、この「岐阜」というのは日本のどこにもない、中国の地名だ。
中国の西北部に渭水という川(黄河の上流)があって、この川のほとりに岐山という山がある。この山の麓から興ったのが有名な「周」という国だ。興したのは武王という王である。父は文王。周の政治については、孔子も孟子も褒めたたえる。それは、
「愛民の政治をおこなったからだ」
という。
信長の頭の中には、おそらくこのことがあったに違いない。そこで、
「おれも周の武王のような業績を残したい」
と考えた。周の武王のような業績というのは、彼が尾張時代から把捉した、
「同時代人のニーズを実現する」
ということである。これは、「平和に生きたい」から「安定したい」にいたる七つの要望事項を日本に実現することだ。それにはまず、
「なによりもこの団の戦争状態を終わらせなければならない」
と、
「日本の平和化」
に力点をおいた。
彼は次から次へと拠点を移す。
清洲城から名古屋城へ、名古屋城から小牧山城へ、小牧山城から犬山城へ、犬山城から岐阜城へ、岐阜城から安土城へ、安土城から京都へ。
そして彼が最後に拠点にしたかったのが、おそらく一向宗の総本山である石山本額寺(大阪)だったはずだ。
彼の目はすでに海外に向けられていた。 |
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