童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          歴史に学ぶ人間学

■同時代人のニーズを実現した織田信長

<本文から>
 幸福を主とする「楽市・楽座」を出現させた。楽市・楽座の目的は、
@規制を緩和する。だれがどんな商売を営んでもよい(この当時は、ものを製造したり販売するのには、いちいち面倒くさい許可と、上納金が必要だった)。
A進出商工業者には、税金をかけない。
B関所や船番所を廃止して、旅や物流の妨げになるものを全部廃止する。
C良貨を流通させる。
などである。これを彼が率先しておこなった。
「兵農分離」
の結果、プロ化した兵士を城下町に住まわせて、動員のスピードアップをはかったことに起因する。
 そして、この「岐阜」というのは日本のどこにもない、中国の地名だ。
 中国の西北部に渭水という川(黄河の上流)があって、この川のほとりに岐山という山がある。この山の麓から興ったのが有名な「周」という国だ。興したのは武王という王である。父は文王。周の政治については、孔子も孟子も褒めたたえる。それは、
 「愛民の政治をおこなったからだ」
という。
 信長の頭の中には、おそらくこのことがあったに違いない。そこで、
 「おれも周の武王のような業績を残したい」
と考えた。周の武王のような業績というのは、彼が尾張時代から把捉した、
 「同時代人のニーズを実現する」
 ということである。これは、「平和に生きたい」から「安定したい」にいたる七つの要望事項を日本に実現することだ。それにはまず、
 「なによりもこの団の戦争状態を終わらせなければならない」
 と、
 「日本の平和化」
 に力点をおいた。
 彼は次から次へと拠点を移す。
 清洲城から名古屋城へ、名古屋城から小牧山城へ、小牧山城から犬山城へ、犬山城から岐阜城へ、岐阜城から安土城へ、安土城から京都へ。
 そして彼が最後に拠点にしたかったのが、おそらく一向宗の総本山である石山本額寺(大阪)だったはずだ。
 彼の目はすでに海外に向けられていた。

■事業の文化化を行った太田道灌

<本文から>
かれの、
 「風流心」
  が、
 「ゆとりをもった人間」
 として、その人間性に詩精神と優しさと温もりを感じとるからだろう。これは、
「徳川家康のやったことなら認めないけれど、太田道潅のやったことならすべて承認する」
 という、"何をやったかではなくだれがやったか"という芸人の評価方法が、もっともはっきり表れている例だ。
 では、道潅はいったいどんなことをやったのだろうか。一言でいえば、
 「事業の文化化」
 である。現在でもよく「行政の文化化」あるいは「文化行政」などという言葉が使われる。両者は違う。「文化行政」というのは、行政が実際に文化事業をおこなうことである。これに対し「行政の文化化」というのは、
 「行政に文化性を与えて、品性や香りをつけ、国民や住民に温かくわかりやすいものにする」
 ということだ。
 簡単な例をあげれば、住民に対し出す手紋の宛て名を「殿」などを使わずに「様」に改めることであり(「殿」は「様」より敬意が軽く、現在ではより公的な用語)、また住民からいろいろ問い掛けが出たときにも、「検討いたします」だの「善処いたします」などという応じ方はしない。きちっと「それは必ず実行します」あるいは「それはとてもできません」と、明確に答えることも行政の文化化のひとつだ。なによりも、役所の文書すなわち公文書を、
 「国民にわかりやすくする」
 ということが、最たる「行政の文化化」である。だから、本来なら文化事業をさておいても、役所はまず行政の文化化に努力すべきなのだ。

■家康の分断支配

<本文から>
「君、君たらずとも、臣、臣たれ」
という、使う側にとっては非常に都合のいい論理が走者することになる。この論理が"武士道"として、日本の全武士に適用された。使う側の権力は一段と強くなった。使われる側は、結局は上を見ずに下ばかり見るようになる。
 これは、信長・秀吉の両先輩が残していった日本社会を、ローリング(修正)を加えながら長期維持管理するための家康としては、どうしてもそうならざるを得なかった。家康の得意な組織と人事の管理法は、
「分断支配」
である。家康自身、
「ひとりの人間にすべての能力がそなわっているなどということは考えられない。人間には必ず長所もあるが、欠点もある」
 と告げていた。したがって、
「仕事は、複数の人間の組み合わせによってはじめて成功する」
という考えを貫いた。かれは少年時代から青年時代にかけて、駿河の今川家の人質になっていた。人間の実態をよくみた。そのためにかれの人生観は有名な、
 「人の一生は重き荷を負いて遠き道をゆくがごとし。必ず急ぐべからず」
  という根気強いものになる。同時にこのころかれは、
 「人間不信の念」

■平和政権の長期維持した家康の論理・施策

<本文から>
これがかれの歴史に対する、
 「平和政権の長期維持」
とも絡まって、独特な「組織と人事の管理運営方法」を生む。それが「分断支配」である。あるいは「船底の論理」といってもいい。船の底は、いくつかのパートに分かれている。いろいろな仕事があるからだ。しかし、座礁などのアクシデントが起こったときには、普段は互いに行き交いができる各パートには、突然厚い遮蔽壁が降ろされる。被害を受けた部分に浸水し、極端にいってそこに生きている人間がいても、遮蔽壁は開けられない。その場にいた人間は、溺れ死んでしまう。が、それを見捨てなければ船全体が沈んでしまう。これが「船底の論理」である。家康の組織管理法をみていると、このことを痛切に感ずる。
 それがかれの独特な、
「管理職ポストの複数制」
であるとかれが今川家の人質から解放されて独立したのは、織田信長が桶狭間の合戦で義元を討ち取った直後のことだ。しかし当時今川家に属していた家康は、義元の倅に、
「父の仇を討とう」
ともちかけたが、息子はウンといわなかった。そこで家康は独立した。しかしかれは青年大名としてすでに、
「今後は民政がたいせつだ」
と思っていた。そこで岡崎奉行を任命した。が、単数ではなく三人の複数制をとった。岡崎市民たちは選ばれた三人をみて、こうはやし立てた。
「ホトケ高力・オニ作左・どちへんなし(どっちでもない)天野康景」
というものである。高力清長はホトケのように心がやさしく温かい。本多作左衛門重次は、オニのように怖い。しかし、天野康景はそのどっちでもない公正な裁きをおこなうという意味だ。このへんも家康の、
「各人の長所と短所をみぬいたうえでの組み合わせ」
の例がとられた。同時に、「月番」という制度をとって、一カ月交替で仕事をさせる。させられるほうにとっては、これはあきらかに、
 「ドッグレース」
であり、また市民側の、
「批判にさらされる存在」
になる。つまり市民たちは、先月の奉行のほうがよかったとか、いや、来月の奉行のほうが期待できるとか比較するからである。いきおい、奉行に選ばれた三人は競争心をもたされ、同時につねに緊張させられる結果を生む。これがのちの徳川幕府の職制に応用される。

■家光 献上された苗木を植えたエピソード

<本文から>
<この若い将軍は頼もしい>
 と思ったからである。大名たちも、家光の幼少年時代を知っていた。そして父母に疎まれ、危うく将軍の座を弟に奪われるような危機に陥ったことも知っていた。それを突破してきた将軍だけに、若年ながらこのような大宣言をしたのだと理解した。
 しかし家光はそのままにはすまさなかった。かれはこのハッタリ宣言をした後、列席していた大名を一人ひとり自室に呼んだ。部屋の中には、見事な刀が山と積まれていた。家光は呼び込んだ大名に、その中から一本ずつ取り上げて渡した。そして、
 「中身をお改め願いたい」
 と言ってその大名に刀を抜かせた。すべて研ぎ上げられたすぐ斬れるような光を放った。しかし家光は、身に寸鉄もおびていない。自分の刀はどこかへ片づけている。つまり無刀である。
 家光にすれば、大名に刀を与えて、
 「もし新将軍に反心があれば、ただちに斬れ」
という姿勢を示したのである。大広間でハッタリ宣言をかまされたうえに、今度はひとりずつ呼び込まれて刀を渡され、
 「斬りたければ斬れ」
 という強硬を家光の態度に、大名たちはことばもなかった。
 <この若造にはとてもかなわない>
 と感じた。こうして家康と秀忠の時代には、家臣というよりも同僚的立場で接してきた外様大名たちは、この日をもって完全に徳川将軍家の家臣の座に位置づけられてしまった。
 しかし家光は、外様大名たちを臣従させたからといって、成張り散らすようなことはしなかった。かれは植木が好きだった。このことを知った大名たちは先を争って、家光のところに自分の領国で得られた苗木を次々と送り届けた。よろこんだ家光は、植木職人に江戸城の庭に植えさせた。ある日、家光が庭に出てみると植木職人が、大名の献じた苗木の一部を捨てていた。みとがめた家光がきいた.
「なぜその苗木を捨てる?」
「枝ぶりがよくございませんので。公方さまのお庭にはふさわしくありません」
専門家をもって任ずる植木職人は得意気にそう言った。家光は怒った。
「ばかなことを言うな.全部植えろ」
「しかし、こんな妓ぶりの悪い木を植えたのでは、せっかくのお庭の風情を壊しますが」
 植木職人も頑固だ。
<おれの仕事に間違いはない>
と専門家としての自信をもっている。家光は植木職人を見すえながらこう言った。
「いいか、その苗木は大名たちがわたしに献じてくれたものだ。おまえが植えているのは単なる植木ではない。大名たちの、わたしへの忠誠心を植えているのだ。わかるか?」
「?」
 植木職人は思わず家光を見かえした。そして、いま家光がいったことばを頭の中で反芻した。やがて、ハッと気がつき、
「これは恐れ入りました。わたくしとしたことが、とんだ出過ぎたことをいたしまして誠に申し訳ございません」
 と、ハチマキを取りその場に正座して手をついた。家光はわらった。
 「わかればそれでいい。全部植えてくれ」
 「はい」
 こういう話も大名たちに洩れていく。大名たちにしても、
「自分が献上した苗木を、上さまは植えてくださっただろうか」
 と期待して江戸城にやってくる。チラリと庭を盗みみる。献上した苗木はたしかに植えられていた。大名たちはよろこんだ。この家光の、
 「庭に植えているのは単なる苗木ではない。大名たちの忠誠心だ」
 ということばは、その後長く大名たちの評判になった。家光は、ハッタリと同時に、大名たちの心を掴む巧みな人心掌撞術を身につけていたのである。名君といっていい。

■蕃山 名臣を育てた「孝」の思想

<本文から>
 藤樹が教えたのは、
 「孝」
 である。藤樹はこう言う.
 「孝というのは、親に対してだけでなく、地域に対しても孝をつくす。国(この場合は藩)に対してもつくす。さらに天に対してもつくす。こうすることによって人間の世の中が豊かで思いやりのあるものになる」
 蕃山は感動した。蕃山は再び池田光政の側で仕えるようになり、光政は蕃山が中江藤掛から学んできたことを、城の藩士たちにも伝えるように命じた。この教えがしだいに広まり、他の大名家から、
 「池田家の武士は違う」
 といわれるようになった。例えば、参勤交代では、大名が長い行列をつくって宿場に泊まる。この宿泊ぶりを宿場の人たちは比較した。もっとも評判のよかったのが池田家の武士たちである。それはこうだ。
・夜になると、他の大名家では酒盛りなどをして大騒ぎをするが、池田家の家臣たちは静かに宿泊し、多くの武士が読書をしている。
・武士たちが眠りにつくと、交代で番をする。火の元に気をつけたり、布団をかけなおしてやったりなど、温かいおこないをする。
・池田家が宿場を立つときは、各部屋はきれいに掃除されていて塵ひとつ落ちていない。
 「これは、熊沢蕃山先生の教えがいき渡っているからだ」
 と、宿場の人たちは語り合った。
 しかし蕃山を、池田家の武士たちのすべてが歓迎していたわけではない。当時はまだ戦国時代の気風が残っていたので、荒々しい考えをもつ武士も残っていて、悪口を言った。蕃山が城の一室で、熱心な武士たちに学問を敢えていると、いきなりその部屋に割り込んでくる。そしてどっかと胡座をかくと、蕃山をにらみながらまわりの武士たちに大声でわめいた。
 「このごろは、この城のなかにもおケッコウという妙な鳥が舞い込んできて、いろいろとつまらぬことを言い立てては、武士を迷わせている。おケッコウどころか、たいへん迷惑な話だ。こんな鳥は、はやく殺さなければダメだ」
 ところが蕃山はにこにこ微笑んでいる。そんな蕃山の態度に、怒鳴り込んだ武士のほうが自分をもてあまし、すごすごと部屋から出ていってしまう。すると蕃山は、
 「では、続きを話そう」
 と言って、何事もなかったかのように講義を続けた。門人たちは、蕃山の態度に感心した。

■松陰 わたしは師ではなく学友である

<本文から>
 久保塾から引き継がれた門人の一人に、吉田栄太郎がいる。叔父の五郎左衛門が経営してい た久保塾は、学問を教えるよりもむしろ、
 「生活に役立つ読み書き算盤を教える」
を方針としていた。吉田栄太郎の家は貧しかった。そこで母親の、
「久保先生のところへ行って、読み書き算盤を習っておいで」
という勧めで、栄太郎は久保塾に通っていた。ところが、松陰が塾を引き継ぐと教育方針はガラリと変わった。松陰は叔父のために『松下村塾の記』を書いたが、叔父は必ずしもこの理念を実行しなかった。そこで松陰は、
 「『松下村塾の記』を、自分の手によって実現しよう」
と思い立ったのだった。ところが吉田栄太郎は、たちまち松陰の虜となった。
 「これこそ、自分が求めていた本当の学問だ」
と目を輝かせた。母親は驚いた。そして、訴えた.
「松陰先生は危険な人だから、もう村塾には行かないでほしい」
 しかし栄太郎は開かない。吉田栄太郎は後に、稔麿と名のって、過激な運動に身を投じていった。かれはとくに、藩内の差別に苦しむ人々の解放に努力した。倒幕運動にも参加し、集結中の京都の池田屋で新選組に襲われて、傷を負った。長州藩邸まで戻ったが、なかに入れてもらえず、ついに門前で切腹して果てた。悲劇の志士である。ところで、吉田栄太郎は、家が貧しかったので、
 「江戸の藩郎に行けば、少しは給与を上げてもらえるかもしれない」
 と考えた。これが許可された。当時栄太郎を慕う少年が三人いた。大野音三郎、市之進、溝三郎である。三人とも、萩の城下町では持て余し者だった。いまでいう"非行少年"である。栄太郎が十七歳、大野音三郎も十七歳、そして市之進と溝三郎は十四歳だった。音三郎は藩の身分の低い武士の子供で、幼いころ父を失っていたので、母の手で育てられた。そのためか次第に性格が歪んだ。市之進も父親がいない母だけの家庭で育った。そんな事情から母親が甘やかしたのだろう、わがままいっぱいの少年に育っていた。溝三郎は、萩の城下町の骨董商の子だ。しかし、父親に、
 「家業をつげ」
 と言われたことに反発していた。溝三郎の見た父は、
 「客にペこペこお辞儀ばかりしていて、自分というものがまったくない。情けない人間だ」
 と思っていた。三人それぞれに
 「自分が非行少年になった理由」
をもっていた。そして不思議なことに、三人とも吉田栄太郎を慕っていた。しかし栄太郎は江戸に行かなければならない。ある日松陰に、
「先生、わたくしは江戸に行きますので、この三人を預かっていただけませんか」
と頼んだ。松陰はニコニコして、
「いいだろう」
と承知した。三人は顔を見合わせて、松陰をじろじろ見ながら、心の中で、
(あまり冴えない先生だな)
と思った。松陰はまだ二十八歳だった。松下村塾に入門した三人の非行少年に対し、松陰は、
「きみたちは何のために勉強がしたいのだ?」
と聞いた。音三郎は、
 「家にいたくないからです」
と答えた。市之進は、
「字をうまく書きたいからです」
と答えた。溝三郎は、
 「家業の骨董商をつぐのがいやだからです」
と言った。開きおわった松陰は領いた。
「わかった。しかし、学問というのは人のために、藩のために、天下のために行うものだ。その辺からよく話し合おう」
松陰はそう言った。そして、
「ばくは師ではない。きみたちの学友だ。だから、わたしにすべてを訊けばわかると思わないでもらいたい。わたしも一緒に勉強する。わたしの知らないことも、きみたちはたくさん知っているはずだ。それを敢えてほしい。議論をしよう」
 そう告げた。松陰は、
 「わたしは師ではなく学友である」
という言い方をだれにもした。また自分のことを"僕"といった。つまり松陰は、
 「自分は学問の僕である。学僕だ。門人と立場はなにも変わらない。自分が門人に教えることがあるかもしれないが、自分もまた門人から学ぶことがある」
と考えていた。

■日本の主権維持に大きな貫献をした晋作

<本文から>
晋作が頭を剃り、東行と名乗ったのはこの直後である。したがって、
「自由な立場で、いよいよ倒幕行動に移る腹なのだろう」
と思われたのも当然だ。
 文久三年五月十日、長州藩は開門海峡を通過する外国船を片っ瑞から砲撃した。攘夷は天皇の命令だ。したがって将軍が、幕府として五月十日を擾夷期限として奉答したのは、あきらかに公武によって、
「攘夷期限が正式に設定された」
ということになる。長州藩は勢いを得た。長州藩が徳川幕府に穣夷を迫ったのは、高杉晋作たちにすれば、
「幕府にそんな力はない」
とみていたからである。高杉晋作は、前年に中国の上海に行って、外国諸列強による国土の割譲と、その割譲された土地内において、中国人民がまるで奴隷のようにこき使われている様をまざまざと見た。晋作は憤慨し、
「日本は、絶対に中国の二の舞にはならない」
と深く心に決した。しかし、その日本を担う徳川幕府は劣弱だ。時間稼ぎばかりしている。
「このままでは、日本は亡国の憂き目をみる。新しい政府が必要だ」
とかれは思った。晋作自身は、すでに開国論者である。
「いつまでも鎖国をしていては、日本は国際社会から取り残される」
ということは十分に認識していた。しかし幕府にはその反省がない。今度の攘夷期限奉答も、
「期限の設定だけはしておこう」
というごまかし政策に違いない。そこで長州藩は、率先して開門海峡を通過する外国船を、実際に攻撃しはじめて攘夷の実をあげたのである。これは、
「絶対にできるはずのない擾夷を幕府に追って、幕府をさらに窮地に追い込もう」
という、長州藩有志の戦略でもあった。
しかし、砲撃された外国船は黙っていなかった。イギリス、フランス、アメリカ、オランダの四国が連合艦隊を編成して、長州に報復にやってきた。長州藩もよく戦ったが、なにしろ四国の新鋭武器にはかなわない。ついに和睦を申し入れることになった。このとき使者に立ったのが高杉晋作である。そして、当時密出国してロンドンに留学していた伊藤俊輔が急ぎもどってきたので、伊藤を通訳として帯同した。数度にわたる交渉の結果、次の条件で和議が成立した。
一、これから外国船が海峡を通過するときは、親切に取り扱うこと。
一、石炭、食物、水など外国船が必要とする品物は、長州藩で用意し有価で供与すること。
一、風が強く港に避難したときは、外国船の乗組員が下関港に上陸することを認めること。
一、新しく長州藩に砲台は置かない。古い砲台も修理はしない。
いわば、武装解除のうえ、今後は平和な友好関係を築こうというものである。晋作もこんな条件なら別に異議はない。全部承知した。四国側は、
「賠償金を払え」
と強く要求したのだが、晋作はきかなかった。
「攘夷命令は、天皇と幕府から出たものであって、長州藩はその命に従ったまでだ。籍償金をとりたければ、幕府からとれ」
と強行に突っ張ったのである。これには、四国側も言い返せなかった。のちに幕府が長州藩に代わって莫大な賠償金を支払う結果になる。これも幕府の力を弱めた。このときイギリスだけがひそかに、長州藩使節に対し、
「関門海峡上にある彦島を有年間租借したい」
と申し入れた。イキリスはすでに、香港を同じ条件によって中国から租借していた。晋作は、断固これも拒否した。もしも晋作に、上海の光景が知識としてなく、同時に列強に対する卑屈な精神をもっていたら、承知してしまったかもしれない。そうなると、百年間彦島は、
「日本の法のおよばない地域」
として、香港、スペインのジブラルタルのような扱いになってしまっただろう。晋作のこの拒否は、
「日本亡国」
の一端にもなりかねない、外国列強の日本国土租借を見事にはねのけ、日本の主権維持に大きな貢献をしたのである。

■無血革命を志た龍馬

<本文から>
 師勝海舟の志を継いだ龍馬は、長崎亀山に貿易グループをつくる。「亀山社中」と称した。この存在を知った土佐藩が乗り出して、「土佐海援隊」に発展させる。しかし龍馬は、海援隊の自主性を主張した。
@海援隊に入る者は脱藩人(自由人)に限る
A海援隊は「射利(利益追求の営業行為)」を行う。
Bその利益によって、海援隊の費用を賄う。
C海援隊士の給与は全部平等とする。隊長もこの限りではない。
 当時としては珍しい会社だった。が、主目的は朝敵の汚名を着ていた長州藩のために、イギリスから艦船鉄砲を買い込むことだった。いわば、密輸会社であり同時に"死の商人"敵色彩をもっていた。この海援隊の管理を行うために土佐藩から長崎出張を命じられたのは後藤象二郎である。龍馬は後藤に、有名な「船中八策」を建言する。それは、
「徳川幕府を解体し新政府をつくる。新政府は、旧徳川を中心にした大名の連合政権とする。議会もつくる。天皇をその頂点にいただく」
というようなものだ。そして、
「そのためには、将軍がまず率先して大政奉還をおこなうべきでだ」
と告げた。この構想は、
「平和の無血革命」
である。

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