童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          新釈楽訓

■願いによって得られるのは、″努力するチャンス″

<本文から>
 最近読んだある本にこんなことが書いてあった。
 「祈りとか願いによって得られるのは″そう努力するチャンス″を得ることだ」
 という一文である。われわれが祈ったり願ったりするのは、
 「あることを得たい」
 という気持からだ。しかしこの一文は、
 「たしかに願ったり祈ったりすれば、人間は何かを得るだろう。しかしそれは得たいものがそのまま得られるのではなく、得たいものを得ようとする努力のチャンスが得られるのだ」
 ということだ。ぼくはこの一文を読んで大いに目から鱗が落ちた。また新しい考え方を教えられた。
「願うということは、そのものを得るための努力のチャンスが与えられることだ」
 ということに思い至らなかった。祈ったり願ったりすることは、即物的にそのもの自体を得ることだとばかり思い込んでいた。それがそうではなく、
「そのものを得ようと努力するチャンスを与えられたのだ」
 ということは、ハードルを一段下げられた意味でもあるし、また、
「努力を怠って、すぐそのものを得ようとする横着な心を戒めることば」
でもあった。
 今度、貝原益軒の『楽訓』を読むに当たって、ぼくはつくづくこのことばの正しさを思う。したがって長々と紹介した益軒の、
 「日本国の優れている点」
 は、そのまま鵜呑みにするわけにはいかない。日本が東方の気の発するところであって、人々が孔子や孟子がいなくても、聖賢のいう人の道″を守り、すでに実現済みの理想郷をつくつている、という言い切り方は、
 「日本人が、まずそういう努力をしなければいけない」
ということだ。

■楽しみ同士が出力・入力となって相乗効果を起こす

<本文から>
 この文章の中からぼくが学んだのはつぎのようなことだ。
・人間は、天から与えられたよろこびを自分の体の内に秘めているが、ただそれだけではよろこびは得られない。つまり自分で自分の体内にあるよろこびをただ掘るだけでは楽しめない
・やはり、人間は生きていく上で暮らしの中から一種の助長剤や触発剤を得なければ、楽しみも楽しみとして機能しない
・だから、物を食べたり飲んだり、あるいは衣服によって寒さや暑さを防いでもらうことも、人間が内に秘めている楽しみを純粋に保ち、それを楽しむことができるためには必要なのだ
・そして、人間を取り囲む自然の折々の現象も、この助長剤や触発剤になっている
・しかし、それを助長剤や触発剤と思うためには、こっち側の心構えがいる。つまり、自然の動きや、鳥や獣、あるいは植物の生命の動きについて、やはり深い関心を寄せなければ、体内のよろこびも埃をかぶってしまう
・自分の持っている楽しみを楽しみとして認識し、それを実際に楽しむためには、この自然の営みに対する深い感動と敬愛の念を持たなければだめだ
・つまり、外からの働きかけは、人間が本来持っている楽しみの存在に気づかせてくれたり、育ててくれているのだ
・それに気がつけば、育ててくれる存在やそのおこないに当然注目するはずだ
・それは、こちらの心が飲食や衣服にさえ動くということである
・心が動くというのは、助長剤や触発剤に対する感謝の気持の表れなのだ
・そういう気持が湧けば、自分の持っている楽しみがいかに貴重なものであり、それを楽しむことが生きるよろこびを深めてくれるということに気がつくだろう
 括っていえば、
 「この世の中に存在するものはすべて楽しみを内に秘めているのであって、しかも、その楽しみ同士が出力・入力となって、相乗効果を起こすことが、余計楽しみを深めるのだ」
 ということである。

■説得される側にニーズがなければ納得しない

<本文から>
 「楽しみを持たない人」
 がむきになって説得するから、相手もむきになって頑張るのだ。説得する側も、
 「自分の心にある楽しみを楽しむ人」
 でなければだめだ。つまりゆとりを持って、相手に、
 「道理に従うことの楽しさ、よろこび」
 を伝える方法をとる必要がある。頭ごなしに、
 「自分の方が正しい。相手は間違っているのだから、徹底的に説得して納得させてやる」
 と意気込んでも、相手はそうなれば余計頑なにガードを堅くする。
 ぼくはいつのころからか、こういう事例は、
 「説得される側に、ニーズ(需要)がなければだめだ」
 と思うようになった。二−ズというのは、
 「それがほしい」
 と思う心であり、いわば″飢え″である。飢餓感がなければ、どんなことを言っても相手は馬の耳に念仏だ。右の耳から入っても、左の耳へ聞き流してしまう。いや、はじめから耳に堅い防壁が設けられてあって、こっちのことばなど全然受け付けないかもしれない。益軒は、
 「相手に、無駄なエネルギーを費やすよりも、自分の楽しみを楽しみ続けよう」
 と言うのだ。

■心の鏡を磨く楽しみ

<本文から>
 どういう人だったか忘れたが、
 「表現を持って生きる人は、必ず感動を伝えようとする。しかしその感動も、他人から受けたものが多い。だから自分の受けた感動を、他人に伝えたくて巧みな表現をするのだ。他から受けた感動を伝えることを、いやしむ人がいるかもしれないが逆だ。他から感動を受けるということは、その人の心の鏡がいかにピカピカに磨かれていた かを物語るからだ」
 というような意味のことをいった。胸の中に強く残っていることばである。これは前に近江聖人といわれた中江藤樹が、
 「人間はだれでも心の中に美しく輝く鏡を持っている。それは、人の心や社会の現象を正確に映し出す。それに応じて、自分が何をしなければいけないかということを思い立たせてくれる。したがって、人の心や物事を正確に映すためには、鏡を曇らせてはならない。鏡を曇らせるのは、必ず私利私欲である」
 といっていたことを紹介した。ここでいうのも同じだろう。益軒がいうのは、
 「この世における出来事や、自然の運行をありのままに受け止めよう。それには、自分の心の鏡をピカピカに磨いておく必要がある。だから、自分の心の鏡を磨くということは、絶えることのない楽しみなのだ」
 という意味にとっていいだろう。

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