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<本文から>
ところが皮肉なことが起こっていた。それは、松平定信が白河藩主として、
「やがては中央政治で、自分の志を実現してみたい」
という野心を持ったとしても、その野心を実現するためには、時の老中筆頭田沼意次の髭の塵を払わなければならなかったということである。長崎平戸の藩主松浦静山が、そのころの見聞を『甲子夜話』という随筆集に書き残しているが、その中に、
「時の権力者田沼意次の家には、毎日仕事や役職のことをたのみに来る人間たちが列をつくっていた。家の中もそういう連中で一杯だった。田沼意次は、訪問客をいくつかの種類に分け、自分の居室で会う者、客間で会う者、玄関で会う者、門前で帰す者などに分けていた。私はかれの居室に行くことができたが、たまたまそこに白河公もいた……」
という意味のことを書き残している。白河公というのは松平定信である。つまり、潔癖な松平定信にしても、幕府の要職を得るためにはやはり時の権力者田沼意次に挨拶をし、何らかの礼物を届けなければならなかったということである。考えてみればおかしい。松平定信は、心の中で、
「打倒田沼意次」
を叫んでいる。が、倒す相手であるべき田沼意次にお世辞を使わなければ、倒せる権力を握ることができなかったということだ。定信は耐えた。しかしおそらくひどい屈辱を感じたに違いない。この屈辱感が爆発し、田沼が追放され松平定信が老中になったあと、徴底した田沼色の払拭にカが注がれる。
松平定信が老中として江戸城に乗り込んできてすぐ、
「文武奨励令」
を出したのは、このためだ。さらに、
「学問吟味」
を設けて、有能な幕臣を発見しょうとしたのもそのためである。とにかく定信にすれば、江戸城の隅々まで染みついた田沼の体臭を徹底的に拭き消したかったのである。
そういう意味では、大田直次郎が突然狂歌・戯作との絶縁宣言や、学問吟味受験の態度を示したことは、
「時流におもねるもの」
として、その志の低さを指弾されるのもやむを得なかったかもしれない。
世間が大田直次郎に対して、そういう批判の声をあげるのにはもうひとつ理由があった。それはそれまでの大田直次郎が、田沼政治を支えていた勘定所の組頭土山宗次郎の半は村問的な存在として、常に遊興の巷を共に渡り歩いていたからだ。もちろん大田直次郎にすればそんな気持ちはなく、
(土山さまは、われわれの文芸精神を尊重されて、文化の振興に努力されているのだ。われわれはそのお手伝いをしているにすぎない)
と思っていた。
■狂歌によって学問吟味には合格してもポストは与えられなかった
しかし学問吟味には合格したものの、すぐには大田直次郎にいいポストは与えられなかった。相変わらず御徒組に身を置いたまま将軍の外出には駆り出されて供をした。
学問吟味があった翌年、つまり覚政七年に将軍が浜御殿(今の浜離宮)へ行った時も、ぷっ裂き羽織をきて行列の最後尾を歩かせられた。また江戸城に京都御所から勅使の公家が来た時は、接待のお膳を上げたり下げたりする役をいいつけられた。そんなことを続けているうちに、直次郎は次第に、
「一体、なんのために学問吟味に合格したのか」
と疑問を持つようになってきた。べつに勘ぐるわけではないが、
「合格だけはさせてやったがしかし、幕府は決してお前はいいポストにつけないぞ。なぜなら、おまえの作ったあの蚊の狂歌をいまだに忘れてはいないのだから」
といわれている気がした。 |
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