童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          ぬくもりの人間学

■二宮金次郎が人のために働き出したきっかけ

<本文から>
 「でも、おれは毎日取ってきたよ。誰も文句はいわなかったよ」
「叔父さんがそうしてくれたからよ」
「叔父さんが」
 びっくりして金次郎はきいた。母はうなずいた。
「そう。叔父さんが入会権を持っている人に全部話をして、あなたが薪をとることを大目にみてくださいってたのんだのよ」
「そんな、うそだ! だって叔父さんは畠を貸してくれなかった。おれはしかたなく川の堤を耕して菜種を植えたんだよ」
「金次郎、川の堤というのはね、水を防ぐためにあるの。だから耕したりしたら、水を防ぐ力が弱くなるの。ほんとうは耕しちゃいけないのよ」
「それなら、なぜみんなだまっているんだ?」
「叔父さんが村の人や、お殿さまのごけらいに話して許可をもらったからよ。あなたのために」
「……?」
 何もかもはじめてきく話だった。金次郎は呆れて母をみつめた。
(あのケチ叔父さんが?)
 というきもちだった。が、母の話はスジが通っていた。山はたしかに村人全部のものだ。木は共通の財産だ。枝一本でも取ればそれは盗みになる。
(すると、おれずっと盗みを働いていたのか?)
 しかもそれを売っていた。
(叔父さんはそこまで話を通しておいてくれたのか?)
堤防のことも母のいうとおりだ。固く踏みかためた堤を掘ったり耕したりすれば、それだけ堤は柔らかくなる。洪水が起きたら一ペんにくずれてしまう。
(そういうことを全部知りながら、叔父さんは、だまっておれのしたいようにさせてくれていたのだ)
 母の話は、いままでのことを思い起こすと、全部心当たりがある。
(そうだったのか!)
金次郎は、はじめて叔父の温かい心を知った。ケチなどと悪態をついたのが申し訳なかった。
「お母さん、よくわかったよ。叔父さんにすぐ謝るよ」
「いいえ」
 母は首をふった。
「叔父さんには何もいわなくていいわ。それより、自分のことばかり考えるのでなく、誰かさんのためになる人になってちょうだい」
「わかった。かならずそういう人になります」
 金次郎は誓った。翌日からかれは生まれ変わったように、″人のため″に働き出した。
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■毛利敬親は部下にすべてを任せる

<本文から>
 毛利敬親は長州藩主である。
「そうせい侯」
 というあだ名があった。なぜこういうあだ名が付けられたかといえば、敬親は、家臣のいうことを黙ってきいたうえで、決まって、
「そうせい」
 といったからである。つまり、家臣の意見をいつもまるごとのみこんでしまって、自分の判断を加えるということをせずに、思うままに仕事をさせたからだ。
 組織のトップにはいろいろなタイブがあって、独断先行型で家臣を引きずっていくタイブや、家臣に論議をさせて、そのうえで自分の決断を下すタイブなどいろいろある。しかし毛利敬親は、そのいずれでもなく、いつも家臣のいうことをうのみにした。一見、これはトップとしての決断力や判断力もなく、家臣に責任を転嫁するように受け止められる。が、敬親はちがった。かれは家臣の意見をまるごとのみこんで、
「そうせい」
 といった以上は、その責任のすべてを自分が負ったのである。
 その頃の大名は、日本国政の動きと無関係でいるわけにはいかず、また幕府や朝廷の動向と関係なしには生きられなかった。自分の藩だけをうまくまとめていけばそれでいいというわけにはいかなかったのである。
 毛利敬親は、この辺のところをよく心得ていた。したがってかれの人間管理術は、適材適所を重視しながらも、家臣たちが自分の思想信条に従って、思うままに生きていくことを認めた。桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作、久坂玄瑞たちが攘夷論に力を注ぐ一方、長井雅楽のような穏健派が「航海遠略策」のような妥協案を進めることも認めた。つまり矛盾する右の方向、左の方向の双方を、同じ藩の中で許していたのである。
 こういう藩主は、珍しい。
 しかし、一方、家臣からみるとこういうトップが一番やりにくい。自分の判断がなくて、
「よし、そうせい」
 といわれたからといって、もし失敗したときに、
「この責任は、藩主のあなたにあります」
 とはいえないのである。失敗した以上は、失敗著その者が自分で責任を負わなければならなかった。そのために、幕末の長州藩では、藩論が変わるたびに、前の論を唱えていた人々が、かならず切腹したり、殺されたりした。長州藩で、かなり粛清がおこなわれた理由である。だから、毛利敬親の藩士管理術は、「そうせい」という言葉によって全面信頼という形をとりながらも、その実は、そういう意見を述べる藩士たちに、かなり厳しい緊張を求めていたことになる。
  それは藩士たちにとって、
 「いいたいことはいえ。やりたいこともやれ」
 というように、トップからの全面信頼を受けたように受け取られるが、その反面、自分の責任で、自分のいいたいことをいい、自分のやりたいことをやらなければならないということである。そして、この敬親の、一見苛酷とも思える厳しい管理術があったからこそ、幕末の長州藩は、外様藩でありながら、日本政局の主導権を着々と握っていったのである。
 敬親は決して″ぬるま湯″的な雰囲気の中で、藩士たちを生かしはしなかった。そうせい侯の、春風のようなのどかさの中に、実は木枯らし以上の厳しい冷たさが潜んでいたのである。
 しかし、そういう藩主をいただいて、長州藩士たちは、それぞれ己が志すところを実行していった。藩主の態度がそうである以上、それぞれが自覚して、自分の責任において事を成し遂げていったのである。長州藩の成功は、この藩士ひとりひとりの自覚自立を促した″そうせい侯"すなわち毛利敬親の功績によるところが大きい。
 藩主には、いわゆる名君というタイブがある。頭脳明晰で、決断力に富み、統率力にすぐれたトップをいうが、そういう物差しからいえば、あるいは毛利敬親は生温くて、名君といえないかもしれない。しかし、みかたによっては、かれほどの「真の名君」はいなかったともいえるのである。西郷や大久保を出した薩摩藩の島津久光が、明治維新後、西郷や大久保に向かって、
 「おれは、いつ将軍になれるのだ」
 ときいたというエピソードに比べれば、長州藩主毛利敬親のほうが、はるかに時代を見抜く先見性を持っていた。その意味でも、家臣群に自由に行動させたかれは、歴史の流れに対して、自己の、つまり藩主という存在の限界を、いち早く知っていた人物だといえよう。魅力あるトップの一つのタイブといえるだろう。
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■小谷三志は二宮尊徳の完全主義を諌めた

<本文から>
 三志はこういうことをいった。
 「大先生に、こんなことを申しあげると怒られるかもしれませんが、私が感じたことはこういうことです。つまり、先生は、あまりにも桜町の人々を過大評価して、完全主義を求めていらっしゃるような気がします」
 「完全主義?」
 二宮尊徳は眉を寄せた。
 「そうです。人間は弱いものです。神や仏ではありません。だからこそ、宗教がはやるのだと思います。お話をうかがっていると、どうも先生は高いところに立って、役人や農民たちを裁いておられるような気がします。むしろ、高いところから降りて、かれらと一緒になって、かれらの悩みを悩みとし、楽しみを楽しみとするようなお気持ちが必要なのではないでしょうか。そして、一緒に悩み、苦しむ中から、道路を直したり、堤防を作ったり、橋を修理したり、そして水利をよくして農作物が豊かにできるような方法を講ずるべきだと思います。まず身を正せということを求められているのではないかと思います。つまり、いまの先生は、役人も農民も、すべて自分に従うようになってからでなければ、仕事をはじめないというようにうかがえます。それより何が大切かということを問題にすべきではないでしょうか。村にとって、一番大切なのは、復興だと思います。その復興は、復興できるような状態づくりが先で、仕事は後だということになると、おそらくいつまでたってもできないでしょう。先生の態度が、いまのままだと、桜町の人々は決して先生には従わないと思います」
 普通の人間だったら、怒ってしまうだろう。これは、徹底的に二宮尊徳をやっつけているのだ。つまり、桜町の状況が悪いのは、何も桜町の人々だけが悪いのではなく、それを導こうとする尊徳側にも、欠点があるのではないかという指摘である。その指摘が、つまり尊徳が目指す″完全主義″であった。
 「人間は決して完全な存在ではない。みんな欠点を持っている弱い生き物なのだ」
 という小谷三志の言葉は、鋭く二宮尊徳の胸を貫いた。尊徳もバカではない。この三志のいうことがよくわかった。とくに、
 「あなたは人を裁いている」
 というひと言は痛かった。暗に
 (あなたも人間なのに、神か仏の立場に立って、弱い人間を裁いているのではないか?)
 といわれたと感じたからである。
 三志の言葉によって、翻然と悟った尊徳は、改めて桜町に帰っていった。そして、有名な桜町の復興を成し遂げる。そのカをつけてくれたのは小谷三志である。
 小谷三志の考え方は、外国では比較的少ない「経営と道徳との融合」といっていいだろう。しかも、それが地域に根づくという広がりをもっていた。二宮尊徳は、小谷三志から学んだことを、桜町で実行したのである。
 小谷三志は天保十二年(一八四一)に死んだ。七十五歳だった。かれの墓は、富士山の自然石でつくられている。
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■失業武士を救済に奔走した定政

<本文から>
 そういう絶望感が走政を襲った。そうなると、いてもたってもいられない心配のタネが、いま日本中にあふれている失業武士のことであった。こんなに大量の失業武士が出たのは、関ケ原の合戦や、それに続く大坂の陣、さらに、理由をもうけてつぶされた大名の家臣たちが、全部町に放り出されたからである。その数は、何万とも何十万ともいわれていた。
 松平信綱の考えは、この急迫した浪人たちを、さらに窮地に追いつめ、そのまま餓死させてしまおうという策だ。
 阿部は反対だ。逆に抱きかかえることによって、かれらに生活の道を与え、鋭くとがった反抗心をゆるめさせようということだ。定政は決意した。
 (家光公は亡くなってしまった。もう少しでおれもいいポストを得られるところだったが、もう無理だろう。いいポストが得られるのなら、阿部殿といっしょに浪人問題に手を付けたかったが、それはもう見果てぬ夢だ。それなら、別な行動をしよう)
 かれは、浪人問題に自分の残りの命を捧げようと決意した。死を覚悟して、失業武士たちのひとりでも多くを救おうと考えたのである。
 かれが最初親しい人々を集めて渡した意見書には、松平信綱に対する批判が書かれていた。
 「人間というのは弱い者で、ただ冷たい風をビュウビュウふきつけるだけではいうことに従わない。従ったとしても、それはみせかけだ。そこへいくと、暖かい日の光でポカポカと照りつければ、どんなにいじけた人間も太陽の熱で、あるいは汚れた古い衣服を脱ぐかもしれない。新しい人間に生まれ変わるかもしれない。愛情がなければ、人はまっすぐには生きない」
 と書いてあった。信綱は激怒した。自信の強いかれは、自分のやり方を批判されることがなによりも嫌いだった。定政は、信綱の弱いところをグサリと突いたのである。それだけではない。
 意見書には、
 「失業武士を救済しろと叫びつづけても、自分がのうのうと暮らしていたのでは申し訳ない。神君(家康のこと)からいただいた領地を返上するから、これを失業武士の救済に充てる基金にしてほしい」
 と書いてあった。これもまた信綱を怒らせた。とんでもないパフォーマンスをして自分だけ目立とうとするけしからん男だ、狂っている、とののしった。結局、信綱の狂っているというひと言が、定政を狂人扱いにしてしまったのである。
 定政は平気だった。信綱が心を改めるとは思っていない。しかし自分が領地を返上し、大名を辞めることによって失業武士にそれだけ真剣だということがわかれば、ほかの人があるいは胸を打たれて共感の意をあらわしてくれるかもしれない。政策が変わって、もう少し失業浪人に温かいものになるかも知れない。それに期待しようと思った。
 しかし、あくまでも自分の生きざまに熱い思いをいだく定政は、大名を返上しただけでは気が済まなかった。かれは実際に江戸市中を歩き回って、寄付を募った。募金をして歩いて、少しでも金を集め、失業武士の生活費に充てようと思ったのである。
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