童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          信長・秀吉・家康の研究

■人を見抜くこととは

<本文から>
  企業やビジネスマンにとって、現代は、
 「戦国時代と幕末の複合時代だ」
 と言われる。どちらかが単一に襲ってきた時代はいままでにも何度かあるが、二つがダブって同時に訪れたことはない。
 それだけに、既成の方法のほとんどが役に立たなくなり、結局は、
 「やはり人だ」
 ということになる。そのために、人材発見やその育成・活用が、いまやどこの職場でも合言葉になっている。
 しかし、人を育てるのは植物を育てるのと同じで、
 「この木は何の木なのか」
 「花を咲かせるのか、実をならせるのか」
 と、まずはその植物の持つ可能性を見極めなければならない。そうしなければ、どういう肥料を与え、時に剪定をし、副え木をすればいいのか見当がつかないからだ。
 人の場合、この可能性や本質を見極めることを、
 「人を見抜く」
 と言う。人材の発見・育成・活用のスタートは、すべてこの「人を見抜く」ことから始まる。しかし、人を見抜くと言っても、ただ無目的に見抜こうとしても始まらない。
 まず、「何のために」という″目的″をしっかりわきまえる必要がある。
 ということは、
 「見抜かれる側」
 の状態以前に、
 「見抜く側」
 の状態が問題になる。つまり見抜く側が、自分の属している組織の目的をどう認識し、どう寄与しようとしているのかに加えて、職務に対する情熱や自己能力が深く関わりを持ってくるからだ。
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■信長・秀吉・家康の役割分担

<本文から>
 織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三人の天下人は、奇しくも同じ現在の愛知県で生まれた。これは、偶然の出来事ではない。三人の事業にはそれぞれ、
 「継続性・連続性」
 があったからだ。戦国民衆という同時代人のニーズ(需要)を満たすために、三人の果たした役割は、次のとおりである。
 ●信長=旧価値観を破壊する
 ●秀吉=新価値社会を建設する
 ●家康=新価値社会を修正改良しながら維持する
 言ってみれば、
 ●信長=破壊
 ●秀吉=建設
 ●家康=推持管理
 という役割を負ったのである。そうなると、それぞれトップとしてのリーダーシップのとり方も変わってくる。信長は信長なりに、秀吉は秀吉なりに、家康は家康なりに、
 「自分の目的を達成するには、どういう部下が必要か」
ということが定まってくる。
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■秀吉は人間と人間の真心の交流を大切にした

<本文から>
 「われこそは」
 という個人単位の武技を競い合って生きている。それを小六は、
 「仕事は集団でするものだ」
 とはっきり言いきったのである。秀吉は感動した。そして、
 (これからの事業は、集団で行なうほうが能率が上がる)
 と感じた。
 「一応、主人と相談します」
 と言って秀吉は城に戻り、このことを信長に報告した。信長は怒った。
 「バカなことを言うな。野盗をそっくり雇うなどできることではない。小六が嫌なら、他の人間を探せ」
 とにべもなかった。しかし秀吉は懇々と信長に説いた。
 「殿の事業を完成させるには、これからはやはり個人が武技を競うのではなく、集団で仕事をする必要があります。墨俣城の築城はその実験です。蜂須賀小六は立派にやり遂げるはずです。どうか、小六だけでなく小六の部下もまとめて雇ってください」
 珍しく強引な秀吉の頼みに、信長はたじろいだ。しかし、秀吉にも考えのあることがよくわかったので、信長はついに承知した。
 蜂須賀小六は感謝した。そして秀吉の期待に応えて見事に洲に城をつくつた。このとき秀吉は、小六の連れてきた部下を三つの隊に分けた。一つの隊は城づくりに励ませる。一つの隊は敵に備えさせる。そして一つの隊は休憩するという仕組みだった。小六は感心した。
 「おぬしは、組織づくりの名人だ。わたしにもこれほどの知恵はなかった」
 小六は、秀吉が信長に交渉して自分の部下全員を正式な家臣にしてくれたので、感謝していた。
 (若いが、この木下藤吉郎はきっと伸びる。忠節を尽くそう)
 と思った。以後の小六は、まるで秀吉の腰巾着のように忠誠を尽くしとおす。
 その息子は、阿波徳島で二十五万石の大名に取り立てられた。
 このとき、秀吉の「人を見抜く目」は、単に小六の技術だけを重要視したわけではない。技術者は律儀なところがある。小六が、
 「自分の部下もまとめて家来にしてほしい」
 と言ったのは、仕事は組織でするものだが、そのトップとして部下には深い愛情を持っているということを示していた。それが秀吉の胸を打ったのだ。小六のほうもまた、自分の願いを信長に強引に聞き届けさせた秀吉の誠意に感動していた。秀吉の建設事業の底には、こういう、
 「人間と人間の真心の交流」
  があったのである。
 結局、織田信長は明智光秀に殺されたが、秀吉はのちに側近にこう語っている。
 「信長公は勇将ではあったが、良将ではない。いったん部下に憎しみを持つと、その憎しみは長く続いた。そのために、部下のほうも信長公をオオカミのように恐れていた。オオカミは結局は殺される」
 意味の深い言葉だ。あれほど尊敬した信長に対しても、秀吉はこういうクールな目を持って眺めていたのである。ニコボン(ニッコリ笑って部下の肩をボンと叩き、しっかり頼むよというやり方)とほうびのバラ撒きが得意だと言われた秀吉にも、こういう冷たい″人を見抜く目″があった。
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■家康はたゆまぬ緊張感を持ち合わせた

<本文から>
 また、近くの安倍川を通りかかったあるとき、子供たちが石合戟を始めるところに出くわした。石合戟というのは、川の両側に分かれて石をぶつけ合う遊びだ。供をした武士が、
「若さまはどちらが勝つと思いですか?」
と聞いた。両岸に分かれた子供たちは、一方が多勢で、一方は人数が少ない。家康は、
 「あっちだ」
 と人数が少ないほうを示した。供は笑った。
 「反対でしょう。石合戟はなんといっても人数が多くなければダメです。こちらが勝ちますよ」
 「いや、そんなことはない」
 家康は頑強に人数の少ないほうが勝つと主張した。合戦が始まった。結果、家康の言ったとおり人数の少ないほうが勝った。供の武士は驚いた。
 「なぜおわかりになったのですか?」
 と尋ねる武士に家康は説明した。
 「人数が多いほうは油断している。だから、石を投げるときも、たとえ自分が投げなくてもだれかが投げるだろうと手を抜いている。ところが、人数の少ないほうにはそんなゆるみは全然ない。自分が投げなければ、負けてしまうという責任感に満ちている。それがみんなの気持ちを一つにしている。だから結束力が強い。人数の少ないほうがかならず勝つと思ったのは、人数の少ない側に鋭い気迫がみなぎつていたからだ」
 自分の立場に置き換えて、家康はこういう見抜き方をしていたのである。
 信長・秀吉という二人の先輩が残していった天下を長く維持管理するためには、
 「細かい緻密な目」
 だけでなく、
 「たゆまぬ緊張感」
 が必要になる。その緊張感をつねに家康が持っていた例として、有名な言葉がある。
 「水はよく舟を浮かべ、また覆す」
 というものだ。″水″は部下、″舟″は主人の意味だ。
 「部下は水のようによく舟を浮かべてはいるが、ときには波を立ててひっくり返すこともある」
 という意味だ。もっと突っこめば、
 「主人は部下に全面的に気を許してはならない。いつ裏切られるかわからない」
 という意味である。したがって家康は基本的には、
 「部下に対する不信感」
 を持っていた。しかしかれが信長・秀吉の行なった事業を引き継いで、二百六十年もの長い間天下を維持する礎を築くためには、何よりもこの緊張感が必要だったのである。したがってかれの″人を見抜く目″は、これがモノサシとしてつねにものを言った。
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■次々と本社を移した信長

<本文から>
 信長の人使い・非情のテクニックは、織田軍団のトップ・ミドル・ローの三つの階層に向かって行なわれた。そして、それらの三つの層が身を置く組織そのものを、つねに流動的にし、不安定にした。この「流動性の追求」こそ、織田信長が
 「一所懸命の思想」を叩き壊すために据えた理念である。
 こんな話がある。かれほど拠点を変えつづけた戦国大名はいない。いまの企業で言えば、本社の位置を次々と変えていったということだ。尾張(愛知県西部)にあっては那古野城から清洲城へ、それから小牧山城へ、さらに岐阜城へ、やがて安土城へ。さらに京都に進出していく。
 本当は、そのあと大坂に出て、石山本願寺を攻略し、大坂に拠点を据えたかった。大坂に拠点を据えるということは、信長の目は、すでに海の彼方を見ていたということである。海外侵略の意図がかれにはあった。そのために、かれの本社は、つねに落ち着かなかった。次から次へと移った。
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■信長は部下を使わせて中間管理職を育てる

<本文から>
 ミドル、すなわち中間管理職に対する人材革命にも、信長は次々と新しい手を打った。それまでの中間管理職は、自分が率先して危地に飛びこみ、部下に向かって「ここへ来い」と言うのがいいリーダーだと言われてきた。しかし、信長はこれを見ていて、「こんなことばかりしていたのでは、中間リーダーが真っ先にみんな死んでしまう。せっかく育てた能力者たちが、あたら命を失うことは、織田家にとっての人材損失である。もっと温存しなければならない」と考えた。そのためかれは、「ここへ来い」式でなく「あそこへ行け」式のリーダーシップをとる中間管理 職を重く用いはじめた。
 桶狭間の合戦における染田政綱を「今日の合戟における勲功第一人者である」と表彰して、城一つ与えたのもこの考えに基づくものだ。桶狭間の合戟は、駿河(静岡県)の今川義元が大軍を率いて京都に向かったときに起こった戦いだ。織田信長は、このとき兵力三千で対抗した。勝ち目はない。織田家は全員が玉砕を決意していた。信長は、何とかして一人でも勝ちたいと思った。
 このとき、深夜、染田政綱が訪ねてきて、今川軍の動きをこと細かく伝えた。信長は喜んだ。そして、「その情報はどのようにしてつかんだ?」と聞いた。梁田は「部下に忍びの者が多数おりまして、これらの活躍によりました。わたくしが直接動いたわけではありません」と答えた。
 信長は心の中で、
(染田のような中間リーダーこそ、おれの求めるリーダーシップの発揮者なのだ。つまり、自分は後方にいて、長良川の鵜飼の鵜匠のように、鵜に綱をつけて巧みに操り、鮎をくわえさせてくる。これがこれからの本当の中間リーダーなのだ)
 と思った。中間リーダーがすぐ手を出して「何をやっているんだ。おれにやらせろ」という率先垂範型では、部下が育たない。つまり部下の可能性をその段階で潰してしまう。部下のほうも「このリーダーは、何にでも手を出す、いやなリーダーだ。勝手にしろ」と心を閉ざしてしまう。信長は、そういう人の使い方が嫌いだった。
 「部下の一人ひとりが木だ。それぞれが可能性を持っている。それを引き出して育てるのがこれからの中間リーダーの役割なのだ」
 と考えていた。染田政綱を桶狭間の合戟における勲功第一人者にしたのには、そういう意味もあった。つまり、「全管理職が、梁田のようになれ。『ここに来い』ではなく、『あそこへ行け』型に変わらなければならない。しかも、部下が喜んでそこへ行くようにモラールアップをし、また部下の可能性を引き出すようにリーダーシップを発揮しろ」ということである。
 このことは、のちに述べるように、すでに清洲城の塀修理や墨俣城築城のときに、当時まだ木下藤吉郎と名乗っていた秀吉が発揮したリーダーシップのとり方にも現われている。秀吉という中間管理職は、言われなくてもどんどん信長の気持ちを汲んで、人を使い物事を進めた。信長はそんな秀吉を重用した。このことは逆に、「中間管理職が、秀吉のようにならなければ承知しないぞ」ということの現われでもある。中間管理職もボヤボヤしてはいられない。
 信長が相対的に嫌いなのは、グズで、のろまで、そして優柔不断な連中だ。信長は、こういう連中はどんどん置き捨てた。かれは気が短かったから、部下の人材育成は全部中間管理職に任せた。だから管理職がそういう部下育てができないと、今度は幹部そのものを追放したり罰を与えたりしたのだ。
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■秀吉の虎穴に入らずんば虎子を得ず

<本文から>
 柴田勝家は呆れて秀吉の顔を見つめた。しかし柴田もバカではない。思わず、
 (この野郎、なかなかやるな)
 と感じた。
 言ってみれば秀吉は、
 「虎穴に入らずんば虎子を得ず」
という言葉を、文字どおり実践したのだ。
 秀吉は、柴田勝家が先頭に立って、自分の新城主就任に反対していることを知っていた。しかし秀吉は、性格が向日性だ。バイタリティもある。言ってみればかれはヒマワリか、カボチャのツルのようなものだ。進む方向にかならず太陽の光が当たる。あるいは秀吉にすれば、
 「おれは太陽の光に向かって進んでいるのではない。おれの進む方向に太陽の光が当たるのだ」
 などという極楽トンボのようなことを考えていたかもしれない。とにかくその自信は大変なものだった。
 だからと言って、かれは先輩を無視してしゃしゃり出るようなことはしなかった。秀吉は、
 (おれに反対する柴田さまに敵対しても、世論は柴田さまに味方する。おれはまだ新参者だ。新参者のおれが柴田さまと仲良くするにはどうするか。むしろ柴田さまの懐に飛びこんで、理解を得ることのほうが先だ)
 そう考えたのである。文字どおり、
 「虎子を得るために、虎穴に飛びこもう」
 という決断をしたのであった。
 この気持ちが柴田勝家にも通じた。勝家は渋い顔をしたまま、
 「わかった。名を一字やろう」
 とうなずいた。この日から、木下藤吉郎は羽柴秀吉と名を変えた。
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■豊臣秀長は秀吉の一部としてなって助けた

<本文から>
 この信玄と信繁の関係を豊臣秀長が知っていたかどうかはわからない。しかし秀長は、
 「自分は秀吉公との兄弟の関係を大事にして、兄の心身の一部となろう」
 と考えた。かれの秀吉に対する補佐ぶりは、秀長という独立した弟が存在するのではなく、むしろ秀吉の心身の一部となって秀吉の行動を助けようという考え方で貫かれる。
 秀長は、秀吉が功績を立てた合戦にはほとんど参加している。墨俣城の築城や、稲葉山城の攻略、信長の方針による中国攻略、四国征圧、九州征圧などにはすべて参加している。
 参加できなかったのは、秀吉の最後の事業、小田原の北条征圧のときだけだ。このとき秀長はすでに病の床にあった。このため、秀吉の天下平定の実現を見ずに先に死んでしまった。
 しかし、具体的な合戦−−たとえば中国攻略における諸方面での征圧は、秀長が指揮を執って行なったものだ。四国征圧に至っては、長宗我部氏を降伏させたのは秀長の独力である。この合戦に秀吉は参加していない。降伏式というセレモニーに出席しただけだ。九州征圧も同じだ。実質的に島津氏を屈服させたのは秀長だ。
 そして最終場面の晴れやかなセレモニーに兄を呼んで、花を持たせたのである。
 このように、秀長は単に秀吉の参謀としての仕事をしただけでなく、現場の司令官としての優れた能力を持っていた。つまり秀長にすれば、
 「自分が中国方面や四国や九州を平定しているわけではない。兄が平定しているのだ。自分は兄の分身であり、その一部なのだ」
 と思うからこそ、かれが存分に能力を発揮することができたのだ。
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