童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          信長 破壊と創造

■田楽狭間の論功行賞で情報収集した梁田を功労者にする

<本文から>
田楽狭間の論功行賞がその場で行われた。信長は、
「本日一番の功労者には、三〇〇〇貫の土地を与える」
と告げた。
一貫は約一・五石になる。従って、三〇〇〇貫は四五〇〇石の土地に相当する。ほとんどの兵は、敵の大将の首を取った服部・毛利の二人が最大の功労者だと考えた。
だが、信長が
「この者である」
と言って、三〇〇〇貫の土地を与えたのは梁田政綱であった。梁田は今日の合戦に参加していない。昨夜のうちに信長が、
「ご苦労であった。明日は休め」
と言って、家に戻してしまっていた。
「合戦に参加していない染田が、なぜ最大の功労者なのか」
兵たちは明らかに不満の色を浮かべ、
「納得がいきません」
と口にする者もいた。
信長にしてみれば、
(よくぞ開いてくれた)
という思いだっただろう。信長は、昨夜のいきさつを話した。それでも兵たちは半信半疑な表情だった。
「梁田が持ってきた情報の重大性もある。だが、それだけではない」
と信長は言った。
「なぜ梁田が情報をつかみ、おまえたちにはできなかったかだ。そこに染田とおきえたちとの違いがある。梁田のところに情報が集まるのは、やつが常に地域に溶け込み、そこに住む者と深く接触をしているからだ。
 梁田に情報をもたらした老人は、命懸けだったはずだ。本来なら、今川に情報を持っていく方がよい。それが、身の危険を冒しても、染田のところに行ったのは、それだけやつに恩義を感じていたからだ。普段から役立ちそうな者に目をつけ、その者の身になって汗を流してやる。その積み重ねがあるからこそ、ここぞという時に恩を返してくれる。よいか、ただ待っていても情報は集まらない。また集まったとしても、ろくなものではない」
 信長は染田への論功行賞によって、自らの評価のモノサシを部下に強烈に印象づけた。誰が大将の首を取ったか、という多分に戦場での運に左右される武功よりも、日頃の用意周到な準備と問題意識がモノをいう情報収集・分析を上位に置く信長の考え方は、織田軍団に深く浸透した。

■信長は拠点を移し一所懸命の思想の破壊を実行

<本文から>
 信長がこの「一所懸命の思想の破壊」で実行したことのひとつが、「本拠の移転」であった。
 天文三(一五三四)年、尾張の名古屋城に生まれた信長は、およそ二十年の間、ここを拠点にしていた。父の信秀は、このころ古渡城にいた。
 弘治元(一五五五)年に二二歳になった信長は、一族内の内紛を鎮圧して、清洲城に移った。そして、水禄六(一五六三)年、三〇歳になった信長は美濃征庄の拠点として、小牧山城に移った。そしてさらに永禄一〇(一五六七)年、三四歳の時に、美濃を征圧し斎藤氏の拠点であった稲葉山(井の口)城へ移動し、この地を「岐阜」と改めた。
 そして天正四(一五七六)年、四三歳の時に安土城へ移る。ちなみに、安土のあづちという地名は、こじつけだが信長が実現しようとしている"あゆち"に語音が似ている。ここが信長の最後の拠点である。
 天正一〇(一五八二)年、四九歳になった信長はこの年六月二日の早朝、明智光秀によって殺される。しかし、信長はこの時点でもまだ「本拠の移動」を考えていたと推測できる。その地は、恐らく大坂の一向宗の最大拠点であった石山本願寺だっただろう。一向宗関係者を退去させた後、この城を拠点にして信長がその後目指していたのは明らかに「東南アジアとの国際交流」である。
 信長の「本拠の絶え間ない移動」は、確かに「天下への道」を目指す必然として、やらなければならなかったことではあった。だが、それだけではない。信長は、
 「拠点を移動させることによって、部下の一所懸命の思想も併せて破壊していく」
 と考えていた。ともすれば、安定を得たがる部下たちに対し、
 「状況は常に流動している。おまえたちの足元も、いつひっくり返るか分からない」
という不安定感を与えることによって、緊張と新しい事業に対する意欲を掻き立てようとしたのだ。彼の部下管理は、
 「創造は破壊から生まれる」
というものだ。
 さらにここで、「兵農分離」を実施に移す。兵農分離のメリットのひとつに、プロ化した武士を短時間に大量動員できる点がある。そのためには、彼らを城下町に集めて住まわせる必要があった。そこで信長は、岐阜に本拠を構えた時、兵士たちの「共同住宅」を城下に造り、
 「至急、尾張にいる家族を呼び寄せろ」
と命じた。だが、部下たちはただ顔を見合わせただけで、信長の命令に従わなかった。合戦が終わり、岐阜に引き揚げた後に兵士たちに休養を与えると、彼らはすぐ尾張に飛んで帰る。家族は依然として尾張にいた。信長から見れば、これは明らかに、「悪しき一所懸命の思想」の表れだった。だから口を酸っぱくして、
 「一日も早く家族を岐阜に呼び寄せろ」
と言うが、部下たちは言うことを開かない。ついに業を煮やした信長は、相変わらず尾張の家族のところにいる部下たちの留守を狙って、その居宅を焼き払ってしまった。

■天下一の称号を持つ職業人と同格とする信長

<本文から>
 絵画関係でも、画家が輩出する。技を競い合う。芸能面においても同じだ。特に能楽が盛んになれば、各地から長年修業してきた芸達者が次々と現れる。茶の湯は言うまでもない。千利休ほかの茶の名人が次々と現れた。そして信長や秀吉の「茶頭」として活躍する。
 初期の茶人は、「唐物」を大切にし、その所有量の多さを誇り合ったが、次第に「国内生産の茶道具」が重んじられるようになり、優れた陶磁器の技術者が輩出した。
 着る物も、そのデザインや仕立て染色などに工夫が凝らされ、一挙に高級化していく。食事も一部の権力者しか食べられなかった、普茶料理が次第に一般化する。
 こうして「衣食住」全般にわたって文化という「付加価値」が重んじられるようになれば、当然「内需」が膨む。従って、安土・桃山文化は、文化政策ではあったが、同時に「経済成長の大きな起爆剤」でもあった。安土・桃山時代ほど、「内需だけで」経済が高度成長した歴史的状況は少ない。
 大名も変質した。織田有楽斎・古田織部・小掘遠州など、茶道や造園・作庭あるいは絵画面においてのみ、その才能を発揮し、合戦場における武闘など一切関わりなしとする武士まで現れてきた。そして、社会はそれを容認した。そこまで日本は変質し始めていた。
「旧価値社会」は見事に破壊され、新しく「文化を主体とする新価値社会」が出現しつつあった。その火つけは、何といっても信長である。信長が、「一所懸命の思想」による「土地を至上の財産とする」という日本人の財産観を根底から覆してしまった。一所懸命を破壊すると同時に、信長は「文化による新社会」を創造した。
 この文化振興による経済発展を進める時に、信長が活用したのが、あらゆる職人や芸能者の第一人者に「天下一」という称号を許し、税免除などの特権を与えることだった。
 「天下一の大工」「天下一の石工」「天下一の鉄砲作り」「天下一の陶器作り」「天下一の花作り」などである。
 これは信長が、様々な技芸者の優劣を決める唯一の権威者の位置に立つことを意味する。時の権力者が、こうした称号や勲章などを付与することによって、自らの権威を箔づけしようとする事例は少なくない。
 だが、信長の性格からして、そうした虚名にはまるで関心がなかったはずだ。やはり、それぞれの道を極めた者への素直な称賛と、それを通じた技芸者間の競争促進、そして、さらなる文化の興隆を目的に、「天下一」の号を定めたと考えるべきだろう。
 さらに言えば、信長は、
 (天下一の称号を持つ職業人はおれと同列・同格である)
 とさえ考えていたのではないか、と筆者は想像する。

■言わなくても分かる部下を求めた信長

<本文から>
 信長は部下を次のように分けている。
一 言わなくても分かる部下
二 言えば分かる部下
三 いくら言っても分からない部下
 秀吉は「一」だった。余計な説明はいらない。
「分かりました」
とおでこをピシャリとたたくと、信長が意図した通り活躍する。今までの戦歴を見ても、その実績はすべて「言わなくても分かる部下」として機能してきた。
 これに次ぐのが明智光秀や細川藤孝だ。彼らはやはり初めから「天下を視野に収める」という生き方を続けてきた。それぞれ浪人生活が長いが、その流浪生活も肥料になったのだろう。情報通だ。しかもその情報を一つの経路からのみ求めない。広く天下から情報を得る。そのため、
 「今がどういう世の中なのか」
ということは、光秀や藤孝に聞けばすぐに分かる。尾張一国からのし上がり、美濃・近江と団子をひとつずつ串に刺してきた信長にすれば、この二人の感覚や意見はしばしば目からウロコが落ちるほど新鮮であった。
 美濃を制圧し「天下布武」を宣言した時の信長は、「周の武王を目指す」気概に燃えていた。だが、その気概は単なる志にすぎず、それを実行する手段を持っていたわけではない。京都に入って初めてそれに気がついた。
 (これは容易なことではない)
 信長は深い峡谷の両側にある崖に両足を開いて立っていた。しかもその両足は、長い竹馬に乗っている。峡谷は、激流でアワを吹いて信長が落下するのを待っている。天下布武を目標に、自分なりに成功の道を歩いてきたつもりだが、振り返ってみれば、相当危険な場所に身を置いてしまったことを改めて知った。
 足元を見下ろせば、その光景は異様であった。信長に心から帰服するような連中は一人もいない。むしろ疑惑と憎悪の光を目に宿し、
 「いつ、信長を倒してやるか」
 と虎視眈々と狙っている。その連中をひそかに、旧権威によって操っているのが、皮肉にも自らが擁立した将軍足利義昭であった。
 信長が改めて「部下の用い方」を再考したのも、一言で言えば、
 (自分が置かれている状況をどのように理解し、どのように自分のやることに協力してくれるか)
 という基準で部下を評価し始めたということでる。

■比叡山焼き払いに対し近江の一般民衆からはあまり非難の声は上がらなかった

<本文から>
 元亀二(一五七一)年九月一二日、信長はほとんど全軍を動員して、比叡山の東西南北の出入り口を塞がせた。早朝、まず坂本の町を焼いた。翌一三日には、山上の東塔・西塔・無動寺谷に放火した。指揮を執る光秀は、気が進まないまま部下に命じて松明を振り周させた。信長は、
 「逃げ出す者はすべて斬れ」
と命じていた。
 一四日には、わずかに残った坊にも放火した。そして一五日には完全に山上の妨も焼き払ってしまった。根本中堂・山王二一社・東塔・西塔・日吉山王御社関係の一〇八社なども、すべて焼き尽くした。当然、納められていた仏像・宝物・経巻・文書なども灰になった。それだけではない。山中や坂本にいた僧俗数千人がすべて殺された。
 比叡山焼亡の報はたちまち日本全国に広まった。特に京都を中心にした上方人の動揺は大きかった。公家の山科言継はその著「言継卿記』の中で、
 「仏法の破滅説くべからず、説くべからず、王法が何にあるべきことか」
と悲鳴を上げている。
 ところが意外なことに、近江の一般民衆からはあまり非難の声は上がらなかった。驚いて口がきけなかっただけではない。彼らは比叡山の僧兵たちの傍若無人な振る舞いに反発を感じていた。
 しかも、近江の一般民衆の中に多い一向宗徒を比叡山が弾圧したため、恨みを持つ者も多かった。信長を敵視する一向衆だが、この一件に溜飲を下げた者も少なくなかった。知識人層は意外にクールな見方をした。「太閤記」などを書いた当時の記録史家、小瀬甫庵は、
 「山門(比叡山)を亡す者は山門也。信長にあらざるべし」
 と言い放っている。

■信長の懲罰の特徴は過去の過ちを許さないこと

<本文から>
 「本願寺攻撃に、身を入れないで怠けてばかりいた」
というものだった。だが、本当の理由は別のところにある。三方ケ原の戦いの時、佐久間は徳川家康への援軍の隊長格として浜松城に赴いた。
 「徳川殿がどんなに血気にはやろうと、絶対に武田信玄と戦ってはならぬ。浜松城を死守しろ」
という信長の命にもかかわらず、佐久間は、戦いにはやる家康の勢いに呑まれて、三〇〇〇人の織田軍を率いて出撃し、大敗を喫した。この時、同僚の平手汎秀は戦死してしまった。
 林秀貞の追放については、遠い昔の信長への反抗であることを明言している。勝家と一緒になって、弟の信行を擁立したことを罰しているのだ。つまり二四年も前の出来事を理由に、自分に害となる可能性のある人物を排除したわけだ。
 信長の人事の特徴が「機能主義・能力主義」にあることは以前にも触れた。だが、その裏には、過去の過ちや不忠を、年月を経た後も決して忘れずに報復するという恐ろしいほどの執念深さがあったのも確かである。
(中略)
すさまじい断罪ぶりだ。相当に、ネチっこい文章であり、小さな針を棒のように大きく扱って、ことさらに非を鳴らしている。古いことも結構入っている。三河国苅屋の領主時代のことや、山崎の代官時代のこともあるが、やはりこの一九項目の中で、めぼしい罪というのは一六番目に咎めている「遠江国での出来事」である。これは言うまでもなく、元亀三(一五七二)年の三方ケ原の戦いのことだ。
 当時浜松に拠点を定めていた徳川家康は、北方を通過する武田信玄の軍に、自分の方から合戦を仕掛けた。この時、信長は家康に三〇〇〇の援軍を提供し、その大将として佐久間信盛や平手汎秀たちを派遣していた。信長はあらかじめ佐久間・平手に、
 「家康は若い。老練な信玄の作戦に引っかかって出撃しようとするかもしれないが、死を賭して家康を諌め、武田軍の通過を待て」
 と厳命した。ところが、家康は決戦を主張してやまず、周囲の反対を無視して三方ケ原へ突出した。こうなるとやむを得ない。佐久間信盛と平手汎秀は徳川軍と一緒に出撃した。結果、老檜な信玄の作戦に引っかかり、徳川・織田連合軍は大敗を喫し、信長が派遣した大将のひとり、平手汎秀は戦死した。信長にとって、はらわたが煮えくり返るような事件だった。
 「あれほど出撃するなと言っておいたのに、佐久間のやつはいったい何をしていたのか。まして同僚の平手まで死なせるとは何事か!」
 信長は、怒りで体を震わせた。
 三方ケ原の戦いは八年前の痛恨事だが、二八年という時間は、信長の怒りを鎮めるには短すぎた。
 否、信長の激情は時間によって癒やされることなどなかった。彼の心の一角にはいつも「自分の言うことを開かなかった部下」に対する怒りが渦を巻いていた。そして、これが時折、連鎖反応を起こす。ひとりの人間が犯した罪を思い起こすと、「あいつもだ、こいつもだ」と、次々と飛び火していくのだ。
 その意味で、柴田勝家、前田利家、佐久間信盛とその息子信栄、そして林秀貞などは、信長の胸に怒りの連鎖を引き起こすひとつの環であった。彼らのうちのひとりが何らかの失策を犯すたびに、信長の記憶は、彼らの過去の失策を次々と呼び起こした。
 信長の場合、怒りの炎がいったん燃え始めると、相手に徹底的な屈辱を与えない限り、その炎が消えることはない。そのため、部下への懲罰は、執拗で、かつ人格侮辱の傾向を持った。

■光秀の反逆心の原因は

<本文から>
 秀光がよく言われるように「相当前から、信長に逆意を砲いていた」という説は信じ難い。この軍法を書いた時点では、光秀には信長に対する謀意などかけらもなかったはずだ。後に彼が本能寺の変を起こす原因となった何らかの感情は、ほんのわずかな期間に芽生え爆発的に膨らんだことになる。
 では、光秀を短期間にそこまで追いつめた信長の行為とは一体どのようなものだったのだろうか。
 信長は、いわゆる世襲についてはあまり関心を持ってはいなかったと言われる。確かに、出身や家格などを無視して、能力本位で人物を登用してきた。ところが、この頃の信長には一族重用の傾向が表れている。武田討滅戦の総大将には嫡男の信忠を命じたし、さらに、信忠の弟たちにも、大事な仕事を任せている。そのひとつが、三男の神戸信孝の四国征伐への登用である。
織田家の宿将たちは、
(ご一族に冷たかったお館が、ようやく真っ当な家族愛を示されるようになった)
と受け取った。しかし、流動者出身の中途採用者は、中でも特に光秀は、
(おれたちを、使い捨てになさるおつもりではないのか)
と警戒心を抱いた。
光秀が明智光秀軍法で表明した信長への忠誠心に偽りはない。しかし忠誠心というのは相対的なもので、差し出す側と受け取る側の心がひとつに結びついて初めて成立する。
(差し出すおれは純粋無垢だが、受け止める信長棟は果たして・・・)
という危惧を光秀はいつも抱いていた。息子たちの重用によって、その危惧が現実のものとなり、光秀の忠誠心は揺らいだ。
 一方、信長は単純な愛情から一族を登用したわけではなかった。彼には彼なりに、そうせざるを得ない事情があったのである。支配地域の拡大とともに、信長の天下布武の事業は加速度を増していた。征庄地域ごとに現地採用の部下が増え、組織も急速に肥大化に向かう。これを隅々まで統制するのは、いかに信長でも至難の業となった。
(中略)
その頃、羽柴秀書は毛利攻略の最前線にいた。石山本願寺との戦いを有利な形で終結させ、武田家を滅ぼした信長にとって、毛利家は最後に残された強敵であった。
「何をグズグズしておる」
信長はついに声を荒らげた。
「いえ、丹州の国侍に対する動員令を、信孝様に撤回していただかなければ、ここを動くわけにはいきません」
 信長は険しい表情で光秀を睨みつけながら、大きくうなずいた。
「分かった。貴様が兵を出さぬと言うなら、丹波を取り上げるまでよ。ついでに坂本も返してもらおうか」
 光秀は驚愕した。まさか信長がそこまで極端なことを言い出すとは思ってもいなかったからである。思わず見返すと、信長は大まじめな表情で、目を鋭く光らせていた。光秀は、背中にヒヤリとするものを感じた。こんな時の信長には一切逆らってはいけない。だが光秀は言わずにはいられなかった。
「それでは、私の所領国が一切なくなってしまいますが・・・」
「ならば、毛利と戦って切り取ってこい。出雲と石見(いずれも島根県)あたりがよかろう」
 光秀は呆れて信長の顔を見つめ返した。言いようのない不安の雲が心の中にわき立った。光秀が所領している地域は京都、すなわち天下の中心に近い。しかし出雲や石見では、「織田政権の管理中枢機能」から遠く切り離されてしまう。
 実例がある。上杉謙信の進撃を抑えるためという名目で、雪深い北陸に送られた柴田勝家や前田利家、佐々成政、不破光治たちである。彼らは、一国一城の主になったとはいえ、二度と織田政権の中枢に戻ってこられないだろう。柴田家中の諸将は、柴田らが体よく「左遷」させられたと見ていた。
 (信長様は、その程度にしかおれの存在を評価していなかったのか・・)
 光秀は絶望した。
 信長には別の底意もあった。信長は自分の家臣を「知型」と「情型」の二タイブに分けて考えていた。知型の幹部は「何のためにやるのか」という目的を重視する。行動を起こすためには、まず道理が必要であり、それだけに理屈っぼい。
 反対に情型は「何のために」などということにはあまり頓着せず、「誰のために」を重んじる。光秀は典型的な知型人間であり、一方、秀吉は情型人間であった。
 光秀は、
「おれの給与は組織から出ている。信長様個人からではない」
と考える。
ところが秀吉の方は、
「おれの給与や出世はすべて信長棟のサジ加減ひとつだ。信長棟はまた単なる主人ではなくいろいろなことを教えてくださった師でもある。足を向けては寝られない」
 と思う。トップとしてどちらがかわいいかと言えば、それは当然情型だ。秀吉がおべっか使いで、時に背中がくすぐったくなるような調子のいい世辞を言うことくらい信長も承知している。しかし秀吉は口舌の徒ではない。信長の意図を先読みして、与えられた地域で天下布武の事業を見事に展開してみせている。それに比較し、
 「おれの給与は織田組織からもらっているので、信長様個人ではない」
 と考える光秀は、使いやすい部下とは言えない一面があった。たとえ上司の命令であっても、理非曲直を言い立て、納得するまでは頑として動こうとしない。そうした態度がしばしば、気短な信長の癪に触った。合理的な思考能力に優れた信長は、光秀の理屈がよく分かる。分かるだけに、理にこだわり、素直にうなずかない光秀を余計に小憎らしく感じた。
 天下人として比類のない権勢を手にしたこの頃の信長は、配下の人間はすべて自由に動かせる手駒と見るような組織管理観を持ち始めてもいた。

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