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<本文から> 田楽狭間の論功行賞がその場で行われた。信長は、
「本日一番の功労者には、三〇〇〇貫の土地を与える」
と告げた。
一貫は約一・五石になる。従って、三〇〇〇貫は四五〇〇石の土地に相当する。ほとんどの兵は、敵の大将の首を取った服部・毛利の二人が最大の功労者だと考えた。
だが、信長が
「この者である」
と言って、三〇〇〇貫の土地を与えたのは梁田政綱であった。梁田は今日の合戦に参加していない。昨夜のうちに信長が、
「ご苦労であった。明日は休め」
と言って、家に戻してしまっていた。
「合戦に参加していない染田が、なぜ最大の功労者なのか」
兵たちは明らかに不満の色を浮かべ、
「納得がいきません」
と口にする者もいた。
信長にしてみれば、
(よくぞ開いてくれた)
という思いだっただろう。信長は、昨夜のいきさつを話した。それでも兵たちは半信半疑な表情だった。
「梁田が持ってきた情報の重大性もある。だが、それだけではない」
と信長は言った。
「なぜ梁田が情報をつかみ、おまえたちにはできなかったかだ。そこに染田とおきえたちとの違いがある。梁田のところに情報が集まるのは、やつが常に地域に溶け込み、そこに住む者と深く接触をしているからだ。
梁田に情報をもたらした老人は、命懸けだったはずだ。本来なら、今川に情報を持っていく方がよい。それが、身の危険を冒しても、染田のところに行ったのは、それだけやつに恩義を感じていたからだ。普段から役立ちそうな者に目をつけ、その者の身になって汗を流してやる。その積み重ねがあるからこそ、ここぞという時に恩を返してくれる。よいか、ただ待っていても情報は集まらない。また集まったとしても、ろくなものではない」
信長は染田への論功行賞によって、自らの評価のモノサシを部下に強烈に印象づけた。誰が大将の首を取ったか、という多分に戦場での運に左右される武功よりも、日頃の用意周到な準備と問題意識がモノをいう情報収集・分析を上位に置く信長の考え方は、織田軍団に深く浸透した。 |
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