童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          ニッポンの創業者

■和魂洋才の渋沢栄一は静岡に留まった

<本文から>
「蟻地鉄の底からでも奮い立って、斜面を逢い上がる」
という積極的な精神があった。この時がそうだった。悪い言葉を使えば、
「転んでもただは起きない」
ということである。栄一は大久保の申し出を承知した。大久保はただちに、栄一を勘定組頭に任命した。しかし、静岡でバンクの実験をするといっても、まず資金がない。
それに、エラールの話では、
「一般大衆が、持ち金を按配して投資する」
 ということだったが、雪崩れ込む旧幕臣たちが投資をするほどの金を持っているはずがない。金がないから静岡に殺到しているのだ。
「その辺をどうするか」
栄一は考えた。しかしこういうゼロの状況から出発するということは、栄一にとっては快い経験だった。それは自分が体の底に秘めている、「可能性」が轟き出して、どんな窮地に陥っても絶対に絶望はしないという自分の性格が確認できたからだ。栄一は、転んでもただは起きないと前に書いた。かれはたとえ蟻地嶽に落ちても、その底に潜む虫に掴まることなく、砂の斜面を必死に這い上がって行く。そして脱出する。今までの危機もそうやって切り抜けて来た。
(今度も同じだ)
栄一はそう思った。そして自分がそう倍ずるに足る動機は、
(結局は、日本人の精神だ)
と思った。幕末時代に、開明的な思想家だった佐久間象山(信州松代)や横井小楠(肥後熊本)たちは、「和魂洋才(芸)」と唱えた。
「日本人の精神を忘れずに、外国のすぐれた科学技術を取り入れよう」
ということである。この考えが明治時代になって、
「ヨーロッパに追いつけ追い越せ」
という合言葉になる。主として、工業化の面においてこの言葉が使われた。しかし佐久間象山や横井小楠が唱えたのは、
「だからといって、単なる外国かぶれになることではない。絶対に日本人の精神を忘れてはならない」
と″和魂″の保持を主張した。しかし明治期になると、和魂の方がどこかへ行ってしまていって、そういう精神を持ち続けている人間から見ると、「洋魂洋芸」という体たらくになってしまう。しかも、その西洋かぶれの連中は和魂を持ち続けている日本人を、「時代の潮に乗り切れずに遅れた人間」といって軽蔑した。
 渋沢栄一は文字通り、
「和魂洋才」
の人間だ。かれが、静岡に残ろうと思った動機は、やはり旧主人徳川慶喜や中老大久保忠寛の生き方に感動したためだ。二人とも、
「置かれた苦境から逃げようとはしない。踏み止どまって、全力を尽くす」
という姿勢を貫いている。栄一の、
「日本に一日も早くバンクをつくりたい」
という志は、公共的なものであって、決して私的なものではない。自分が利益を得たいために行なう事業ではない。しかし、それを理由に今静岡から去るのは、やはり、
「困窮しているかつての仲間たちを見捨てて、自分だけいい思いをしようとする敵前逃亡だ」
と思えた。旧主人の徳川慶喜は一度それを経験している。鳥羽伏見の戦いに敗れて敗兵が引き上げて来る大阪城から、一人だけ脱出したのがそれだ。そういう先例があるからこそ、栄一は、
「この状況から逃げ出すのは、敵前逃亡であり、同時に和魂を失うことだ」
と思った。栄一のいう"和魂"というのは、やはり"武士道"のことだ。栄一は踏み止どまった。そして構想を立てた。それは、「困窮武士をいかにして救うか」という方策だ。しかし単なる生活救助だけでは別に新味がない。最初に志した日本に創設するバンクの実験を合わせて行ないたい〕どうするか。

■論語とソロバンの一致を訓示した渋沢栄一

<本文から>
 この時の栄一はまだ三十四歳だ。当時にはまだ国会が開設されていないので、日本の国政は条例によって運用されていた。栄一は明治六年に、「銀行条例」を政府に認めてもらい、日本で初めての銀行として、「第一国立銀行」を設立した。もちろんかれが初代の頭取になった。パリのフリューリ・エラール頭取から教えられた″ナショナル・バンク″を「国立銀行」と和訳したのである。しかし国立とはいっても、政府がつくつた銀行ではない。純粋に民間銀行であった。栄一は頭取になると同時に、第一国立銀行員に有名な訓示を行なう。それが、
「論語とソロバンの一致」
というものであった。
渋沢栄一は国立第一銀行頭取としてこう訓示した。
「銀行業務はほとんどがソロバン勘定だ。ソロバン勘定抜きにした銀行の仕事は有り得ない。しかし、ソロバン勘定にばかりうつつを抜かしていると、いつの間にか人の道に反するようなことをしかねない。これは困る。すべからく、国立第一銀行員は人の道を守ってもらいたい。それには、格好のテキストがある。論語だ。論語は孔子というすぐれた思想家が、人間としてしなければいけないこと・してはならないことを門人との対話で克明に定めた。諸君は、机の一角にこの論語を置いてくれたまえ。そして時間がある時は必ず播いて読んでほしい。国立第一銀行員は、必ず論語とソロバンを一致させてもらいたい」
という意味のものだ。この辺を、
「渋沢栄一における、士魂洋才(芸)だ」
という人がいる。士魂というのはそのまま和魂と考えていいだろう。本来「士」というのは孔子たちが想定したのは、「文官」である。ところが徳川幕府は、そのトップに立つ征夷大将軍が武官の筆頭であり、同時に幕府そのものが軍事政府であったために、武士が運営する政府になった。したがって、本来「士道」と「武士道」とは違うと思う。ところが、
「武官が管理運営する政府(これは地方における大名家も同じ)」
になってしまったので、やはり、
「文官の仕事を行なう武士の心構え」
が必要になった。これが栄子学を主体にした儒教の導入である。だから、武士が政治行政を行なってもそれは、
「国民のため」
であるために、
「武士は農工商三民の模範にならなければならない」

■"西の五代"と言われる大阪構想はパリ時代に発想していた

<本文から>
レオン・ジュリエーは眉を潜めたままずっと友厚の諮を開いていた。しかし、大いに関心は湧いたらしい。
「一存では決定できない。相談させてほしい」
といった。そして、二、三日後に、レオン・ジュリエーは明るい表情で五代友厚と佐野常民を呼び出した。こう告げた。
「先日のお話はよくわかった。そこで、徳川幕府とは別個に、薩摩藩と佐賀藩については独自な出品を認めます」
 友厚と佐野は肩を叩き合って喜んだ。それは単に出品が認められたからではない。日本国内でもやもやしている「幕府(将軍)と藩(大名)の関係」が、親幕色の強いフランス国の首都パリにおいて立派に認められたからだ。しかも、このパリ万国博覧会が認めたのは、今でいえば、地方分権ではなく″地方主権″だったということである。
 友厚はその後もパリ近辺の諸工場を見学して歩いた。ロンドンとも往復し、モンブランとさらに協議を深めた。「日本国内の資源開発方法」について前の契約よりもさちに幅広く、項目を増やした。たとえば、日本にまだない大船の修理場(ドック)の設置や、大坂をはじめとする諸都市の水路の流砂を掘り起こす蒸気船の開発、あるいは大坂と往来する九州・四国・中国地方からの人と物・手紙などの送達のスピードをあげるような大型飛脚船の開発などである。別に、「動物館(園)の設置」などの案もあった。そしてこれらの終結地をすべて友厚は、
「大阪の地とする」
と告げている。したがって、かれが後に″西の五代″といわれて、大阪経済の恩人になるについては、何も明治になってからそんなことを考えていたわけではない。幕末のパリ・にいたときにすでに発想していた。それは友厚の頭の中には、
「江戸は政治の都、大坂は経済の都」
という大きな機能分担の考えがあったためだろう。江戸時代は幕末に至るまで、現在問題になっている、「諸機能の分散」が公平に行なわれていた。皇室機能と文化機能は京都に、外交と貿易機能は長崎に、そして経済通産機能は大坂にという風にである。したがって、江戸は開府以来、「政治機能都市」であった。江戸時代の経済はいうまでもなく「米経済」であって、その単位は「石」である。全国の大名も、自分たちの最小限の食い扶持を残したあとは、全部大坂の蔵屋敷にその年の米を運んで来る。そして堂島で相場が立てられ、その年の米価が決定する。徳川時代の経済は、「米価を安定させることによって、他の物価を統制する」というものだ。こんな考え方はいつまでも続かないが、しかしいずれにしても、「日本経済を左右するのは大坂だ」という考えは全国に行き渡っていた。五代友厚ももちろんそれを信じていた。だからかれは、
「大坂の経済横能をいよいよ増強させよう」
と思ったのである。この辺は、かれがすでに薩摩藩の域から脱皮していたことを物語る。
「薩摩のことだけではなく、日本全体のことを考える」
という立場に立っていた。しかも、「それも経済を通して考える」ということだ。

■後進の育成を計った日銀・川田小一郎

<本文から>
 そこでかれらは、東京商法会議所という機関をつくつた。これは現在の商工会議所の前身だが、当時は中小企業の経営コンサルタントや情報の提供を行なう機関ではなかった。むしろ、
「新しい財界人の養成」
を目的とする研修所である。
この「後進の育成」については、川田小一郎も同じだった。川田小一郎はその後進の育成も、海援隊精神に通ずる考えで実行した。川田はこんなことをいっている。
「世間ではオレを女道楽のようにいうが、実は男道楽なのだ」
つまりそれは、
「オレの楽しみは、後進の育成なのだ」
ということである。かれは総裁になってから、日銀内に漂う官庁的空気や、あるいは前総裁時代の重苦しい雰囲気を払拭しようと考えていた。
「それを行なうのは何といっても人材だ」
と考えた。かれの後進の育成は、単にシロウトをプロに仕立てあげたということではない。すでにプロ化している有能な人材を、政府の各省庁から引き抜いた。そのために、かれの持っていた人間関係のネットワークをフルに活用した。つまり各省庁に、
「お宅で優秀な人材を、日本銀行にもらいたい」
と要請したのである。坂本龍馬がつくつた海緩隊の規約に、
「志を有して藩を脱する者、みな海援隊に入る」
という意味の青葉がある。藩を政府省庁の組織、そして海擾隊を日本銀行に見立てれば、川田小一郎の引き抜き方針はあきらかだ。かれは新しい血を入れることによって、日銀内の空気を一新しようとはかったのである。おもしろいことに、各省庁のトップたちはこれに応じた。あるいは川田との人間関係によってやむを得ずそうした者もあるかもしれない。しかし、英才が続々と集まってきた。大蔵省から薄井佳久(後の理事)、外務省から川上謹一(後の理事)、鶴原定青(後の理事)、海軍省から片岡直輝(後の大阪支店長)、法曹界から植村俊平(後の文書局長)、そして民間からは山本達雄(後の総裁)、小泉信書(後の取調役)、高橋是清(後の総裁)、たちが続々入行した。同志社第一期生の市原盛宏も同様である(市原は金庫局長心得の時に辞職し、後に第一銀行横浜支店長、横浜市長などを歴任した)。
すでにプロとして充分に通用する能力の持ち主だけでなく、″新知識"もどんどん入行させた。大学出の新人の採用である。帝国大学出身の志立鉄太郎、渡辺千代三郎、久保勇、柳谷卯三郎、伴野乙弥、青木鉄太郎、長崎剛十郎、土方久徽、井上準之助などが続々入ってきた。

■根津嘉一郎と若尾逸平との一期一会の出会い、

<本文から>
 しかし、この夜の若尾逸平との対談は、義一郎にとってまさに「一期一会の出会い」であった。一期一会というのは仏教や茶道の用語だ。一期というのは、
「その人間が生まれてから死ぬまでの期間」
をいう。一会というのは、
「その生涯において、たった一度しか会えない人、あるいはその機会をいう」
と定義づけられている。だからこそその出会いと機会を大事にしなければいけないということだ。嘉一郎は、この夜の若尾逸平からの話を、その後の「自分の生きる指針」に定めた。特に山峡の国というハンデキャップの多い環境に生まれた戦国時代の武田信玄が、あらゆるハンデを克服して、
「甲斐国に住む民のために、そして日本国に住む同時代の民のために」
という、"天下"をめざす偉業を改めて逸平から話されたことに、輿香していた。それは、
(おれも、若尾先生の後を追って、明治の武田信玄公になろう)
と志を定めたからである。このことは、今までともすれば「私益を追求する」というためでもあった自分の事業遂行が、この夜はじめて「多くの人のために」という公益性を帯びたことに自信を持ったからである。どんなに儲けても、それが自分自身の利益のためであれば、普通の人間ならやはり後ろめたさを感じ、忸怩たる思いを重ねる。が、
「儲けが他人のために役立つ」
という考えを持てば、仕事にいっそう励みが出る。根津嘉一郎は、故郷の山梨市にも多くの今でいう「利益の地域還元」を行なつた。同時に、「後進の育成」にもカを注いでいる。現在の武蔵大学の設立などはその一つだ。しかし、嘉一郎のその後の行動で師とも仰いだ若尾逸平とやや趣を異にする点がある。それは若尾逸平は基本的には、
「鋭い嗅覚を持つ相場師」
だった。時の流れを逸早くキャッチし、「どの株を買えばよいか」ということに他人にない鼻を利かせて、次々と利を得た。その意味では、やはりきったはつたの大賭博を株で行なうという「相場師的実業家」といっていいだろう。根津嘉一郎と同じように逸平から大きな影響を受けた同郷の雨宮敬次郎にしても同じである。雨宮敬次郎は若尾逸平よりもさらに「一匹狼の相場師」的な性格を持っていた。その証拠に、若尾逸平が大正二年(一九一三)年に、九十三歳で死ぬと、若尾財閥は次第に衰退の道をたどって行く。つまり、若尾財閥の主柱は逸平そのものであり、主柱が倒れると、枝葉も共にこけるという現象が起こって来るのだ。つまり、若尾財閥が組織的・集団指導的・合議制などによって運営されていないために、ある種の脆弱性がはじめからあったということだろう。
そんなことを根津嘉一郎ははじめから認識していたわけではない。とにかく、逸平にいろいろと教えを受けた明治二十五年のその夜には、
「何が何でも若尾先生」
と、遮二無二逸平に傾倒していたから、そんな批判を行なうような余力も考えもその夜の嘉一郎にはなかった。

■根津嘉一郎は武田二十四将を取り入れた

<本文から>
 そこで嘉一郎は、その頃現場でリーダーであった「主任」を全部「課長」に昇任させた。みんなびっくりした。
「こんな不況な時に、主任を全部課長に格上げしてしまって、一体新社長は何を考えているのだろうか」
とその意図を疑った。新課長に辞令を渡したあと、嘉一郎はこう告げた。
「君たちは、武田二十四将のつもりで仕事をしてもらいたい」
新課長たちには何のことかかわらない。嘉一郎は説明する。つまり、
●武田信玄軍団には、二十四人のすぐれた幹部がいた
●これらの幹部は、それぞれ支城を任されていた
●信玄は社長として、この二十四人の支城主に大幅な権限を与えた
●そのかわり、それぞれの支城の運営を支城主に責任を持って行なわせた。多少のことが起こっても、すぐ本社に来て、社長に「どうしましょうか」などとは言わせなかった。
●つまり、信玄が支城主に与えた権限は、その反面において「与えられた権限に対する責任は、社長と同じものがあると思え」と命じたのである。すなわち、「分権と責任の関係」を明確化したのだと説明した。そして嘉扁も、新課長陣にこれと同じことを求めた。
それぞれの課の運営リーダーシップは新課長に任せたが、嘉扁は注文をつけた。それは、紙一枚、ペン一本の無駄も許さないという厳しい達しであった。
もつと大きなことをやった。それは、本社の社屋を月に六十円の家賃を払っていた場所

■日本一の海運王となった岩崎弥太郎の三菱

<本文から>
 たまたま起こった台湾征討で、兵員や軍需物資を運ぶのに、本来なら日本国郵便蒸気船会社がその仕事を引き受けるべきなのだろうが、この会社が長州閥との結びつきが深いというので、政府側も会社側も話がまとまらなかった。弥太郎はそこへ割りこんだ。よろこんだ政府は集めた十三隻の船を弥太郎に貸しつけた。弥太郎は政府の船を使って兵員と軍需物資を輸送した。気前のいい運賃が支払われた。この快挙に感心した政府は、
「十三隻の船のうち、七隻を無債で三菱に払い下げよう」
といってくれた。三菱商会の海運事業は飛躍的に発展した。やがて西南戦争になって、実績のある三菱商会に対し政府は、
「洋銀七十万ドルを貸与する。これを資金に、戦争の兵員・軍需物資の輸送を請負うよう
に」
と、いまでいえば競争入札ではなく指名によってこの仕事のいっさいを弥太郎に委任した。競争相手だった日本国郵便蒸気船会社はとっくに潰れていた。明治八年六月のことで、その持ち船や倉庫、あるいは港湾施設などはすべて三菱に引き渡された。三菱は、四十余隻の船を抱える日本最大の海運会社に成長した。西南戦争でもかれは多大な利益を得た。
「今後役立つ海の男を養成する学枚をつくろう」
と考えて商船学枚も創設した。商会は会社に携帯を改めた。その「社則」の第一条に次のような文章がある。
 「第一条 当商会ハシバラク会社ノ名ヲ命ジ会社ノ体ヲナストイエドモ、ソノ実全ク一家之事業ニシテ他ノ資金ヲ募集シ結社スル者卜大イニ異ナリ、会社二関スル一切ノ事及ビ褒等スベテ社長ノ特裁ヲ仰グベシ
 第二条 故二会社ノ利益ハスベテ社長ノ一身二帰シ、会社ノ損失モマタ社長ノ一身二帰スベシ」
 思い切った社則だ。いうところは、
 「会社は三菱会社だ。三菱会社はあくまでも岩崎弥太郎個人の所有物である。だから、得をしても損をしても、すべて、この岩崎が処理する」
ということだ。
西南戦争が終わった後、
「民間人としての戦争協力の功績大である」
として、明治天皇が三菱会社に四千円を、そして弥太郎個人に銀杯をあたえている。すでに弥太郎は、
「日本一の海運王」
と呼ばれていた。口の悪い連中は、
「海坊主」
とあだ名した。その後弥太郎は福沢諭吉と親交を結び、福沢の経営する慶応義塾の出身者を優先的に三菱会社に採用している。茅場町の本店には、
「三菱会社の社員は武士気質を徹底的に捨てろ。それにはこのお面をみるがよい」
といって、お多福の面を飾った。武士気質の抜けない石川七財のような番頭には小判を貼りつけた扇子を渡した。
「どういう意味ですか」
ときく石川に、
「おまえさんのように武士気質がまだ抜けない人間は、客になかなか頭を下げない。だから、客に頭を下げるのではなく、客の持っている金に頭を下げるのだと思いなさい」
 といっている。かれは旧大名家の屋敷や庭園を買い取るのが好きで、下谷の本邸のほか、深川の清澄園、駒込の私邸と買いあさり、総計実に十二万坪という敷地を持つにいたった。むかしでいえば大名とおなじだ。その間、長州閥を後ろ楯とする三井との競争、あるいは明治十四年の政変で大隈重信の失脚など、三菱汽船への風当たりはかなり強くなる。政府は三井の出資によって再び半官半民の「共同運輸会社」をつくる。弥太郎はこれとも争う。運賃競争だ。相当な赤字を出した。そして弥太郎は、
「これが最後の戦いかな」
とつぶやいた。競争の最中の明治十八年二月七日、弥太郎は、
「腹の中が裂ける。もう何もいえん」
とつぶやいて死んだ。まだ五十二歳だった。
弥太郎の三菱汽船はその後三井がバックの共同運輸と合併する。これが古本郵船」となる。弥太郎が死んだ後は、弟の弥之助が事業を引き継ぎ、さらに発展させていく。新興財閥となり、海運だけではなくいろいろな企業に進出していったことはすでによく知られている。

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