童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          二宮尊徳の経営学

■二宮金次郎のモットー「積小為大」により腑抜けから戻った

<本文から>
  ところがある日、テレビを観ているとこんなことが起こった。紹介されたのは、被災地のある避難場所である。津波にさらわれなかった小学校の体育館の光景だった。なぜか雰囲気が異常に明るい。そこヘテレビカメラとマイクが入って、
 「なぜ、こんなに明るいのですか?」
 とキャスターが訊いた。訊かれた避難者は体育館の隅に目を向け、
 「われわれが明るいのは、あの子のせいですよ」
 と言って、隅を走り回っている一人の中学生を指差した。そこでカメラとマイクが中学生に向かった。
 「なぜ、君はそんなに明るいの〜」
 と訊くと、少年はこう答えた。
 「三月十一日まで、ぼくはこの地域で有名な悪ガキだった。でも、あの日以後自分の親や先生を見ていると、こんなにも人を喜ばせるために活躍しているのか、と感じるほどの姿を見せられた。そこでぼくも悪ガキでいられなくなって、たとえつまらないことでも人が喜ぶことなら一所懸命やろう、と考えていま連絡係をやっているんですよ。雑用ですけどこんな楽しいことはない」
 と応じた。観ていたわたしは思わず、
 「これだ!」
 と感じた。これだというのは、二宮金次郎のモットーである、
 「積小為大」
 という言葉を思い出したからである。積小為大というのは、
 「小さなことを積んで大きなことを成し遂げる」
 という思想だ。言葉を変えれば、
 「自分の身近なところで、できることをやり続ける」
 ということである。避難場所を明るくしている少年の行動はまさにそれである。つまり、
 「いまいる場所で自分のできることを続けていく」
 ということだ。わたしの胸に大きく開いていた穴が、この少年の行動でかなりの部分埋まった。わたしは気づいた。
 「そうだ。東京にいて被災地のことを思い、人間の無力さを悪戯に嘆き、あるいは何もできない自分の無力感を感じるだけが能ではない。いまいる場所で、いま与えられた仕事を懸命にやり遂げることが、被災地の復興へのエールにつながるのだ」
と思い立ったのである。以後のわたしは、約半年にわたる腑抜け人間からかなり元へ戻った。
▲UP

■世界初の協同組合をつくった二宮金次郎

<本文から>
 たまたま震災の翌年である二〇一二年は、国連主導による「国際協同組合年」であった。これは、
 「協同組合の精神を現在に生かそう」
 という試みである。協同組合の精神とはかいつまんで言えば、
・協同組合は、金と金によって結びついた組織ではない
・協同組合は、人と人との結びつきによってつくられた組織である
 と述べられている。人と人との結びつきということはいうまでもなく、
 「心と心の結びつき」
 を指す。つまり絆″のことだ。そして、日本の関係機関の発表した文書によれば、
 「世界で最初の協同組合は、二宮金次郎と大原幽学がつくつた」
と書いてある。一般的には世界で最初の協同組合は、一八四〇年代にイギリスでつくられた物づくりの組合や、ドイツでつくられたパン屋さんの組合が挙げられている。しかし先学の研究によれば、
 「いや、その前に日本では大原幽学と二宮金次郎が協同組合をつくつている」
と発表された。いずれも日本の天保年間のことで、自然災害や人災が続くこの時期に、二人は、
 「心と心の結びつきによって、荒廃した土地を再興しよう」
と考え、その考えを具体化した。
 大原幽学は「先祖株組合」をつくり、二宮金次郎は「報徳仕法」を展開した。
▲UP

■金次郎の復興策は経験に基づく

<本文から>
 復旧と復興には差がある。しかし実際に復興に携わるのは人間だ。人間は当然、心と心をつなぎ合わせる必要がある。その時に二〇一二年の「国際協同組合年」の趣旨が生きてくる。
 そんを意味で改めて、
 「二宮金次郎の経営学」
 を考え直してみたい。金次郎が行った荒廃農村の復興法はまさに、
 「復旧ではなく復興」
 を実践したからである。
 それに二宮金次郎の経営学は、必ず、
 「自己の経験に基づいている」
 という強みがある。かれは経験しなかったことはそのまま仕法に取り入れてはいない。すべてかれの切実な経験が基になっている。すでに挙げた「積小為大」や「一円融和」さらに「報徳仕法」などは、すべてかれの少年時代からの″痛い経験″が動機になっている。したがってそれらのすべてが、
 「身近なところで起こった経験」
 を土台にし、
 「いまいる場所でできることから実行する」
 ということの積み重ねだ。この考えはどれだけわれわれに勇気や励ましを与えてくれるかわからない。それは被災者だけではない。
▲UP

■相手の立場に立って考える

<本文から>
 復旧と復興の違いについては前にも書いた。復旧というのは、
 「元の状況に戻す」
 ということだが復興は違う。
 「全く新しくつくり直すか、古いものに新しい要素を加える」
 ということだ。考えてみれば復興というのは、
・かつての姿を全く否定するわけではない
・ある部分については旧形に戻すこともある
・それに新しい形を加える。つまり創造部分もある
・創造部分を加えるためには、古い形のある部分を壊さなければならない
・したがって、復興というのは、旧形の破壊・創造・旧形の保存の三つから成り立つ
・すなわち、壊す・創る・保つという三要素によって成り立つ
 これは人間の″心の復興″についても同じことがいえる。
・これからも使える良い部分は残す
・もはや時代状況に合わない考え方は捨てる
・そして時代状況に合った新しい考え方を取り入れる
 というプロセスを踏む。二宮金次郎の″心の復興法″は、すべてこの壊す・創る・保つ≠ニいう三要素によって成り立っている。
▲UP

■飢えるような学問への希求心

<本文から>
 ここで改めて書いておくと、金次郎の主張したいろいろな考え方や思想のすべては、かれの経験に基づいている。金次郎は経験しなかったことは自分の考え方に止揚していない。
 金次郎の偉いところは、「経験したことを理論化する」ということであり、そのために、猛勉強をしたことだ。かれに学問の師はいない。すべて独学だ。が、学問に対する勘所がよく、無駄な本は読まない。はっきりいえば、「自分の経験を、他の人や地域のために理論化するのに役立つ書物」を狙い撃ちにした。
 昔、全国の公立小中学校にあった金次郎の少年姿の銅像は、古い人の目に焼きついている。少年らしい丁督姿で薪を背負い、本を読んで歩いているかれの像は、勉学と勤労の象徴だった。そして読んでいる本は前にも書いた「大学」である。「大学」という本の主要なモチーフは「譲」だ。しかし、金次郎が創始した「報徳仕法」の大きな柱である「推譲」も、実をいえば金次郎が唱えたのは単なる「譲」であって、門人がその後「推」の一字を加えたものだといわれている。
 「譲」の徳は、当時の志士学者(儒学者)にとって欠くことのできない人間の徳であっで、上杉鷹山の師細井平洲もこの徳を重んじた。鷹山の要望によって再興した藩校(興譲飴)にもこの「譲」の字が用いられている。
 これを推譲と称することによって、譲の解釈を「ゆずる」から「差し出す」という積極的な行為に止揚したのは、たとえ門人たちがあとで加えたとしても、金次郎の考え方をよく引き継いでいる。金次郎の場合は単に「譲」というよりも
「差し出す(推譲)」と言った方がピタリと当てはまる。
▲UP

■五常講は金だけでなく人を結び付けた

<本文から>
 二宮金次郎は服部家に仕える武士たちの生活困窮状況を見ていて、この事実に気がついた。しかし国家の政策や藩の政策にまで、一農民である金次郎が口を出すわけにはいかない。せめて、
 「自分の身の回りだけでも、救済策を考え出そう」
 と思った。そこで金次郎が案出したのが、
 「五常講」
 である。講というのはいまでいえば組合のことだ。多くの人が集まって同じ目的を達成するために心を合わせようということである。金次郎はそれを、
 「人間の徳である五常すなわち仁義礼智信」の考え方を応用しようと思った。その応用の論理は次のとおりだ。
・金銭の貸借では確実に約束を守ることが最大条件だ。この約束を守るということはすなわち「信」である
・この「信」を行うためには、金を貸す余禰のある人がない人に貸付を行う。つまり、余裕金を差し出すことが必要で、この差し出すことを「仁」という
・金を借りた人が約束を守ってきちんと返済することを「義」という
・さらに約束を守って金を返した後、貸してくれたことに対し感謝して、その恩(徳)に報いるために礼金を差し出したり、また返済する過程において、貸してくれた人に迷惑を掛けないように配慮すること、また逆に貸した方が余裕金を出したことを得意がったり、威張ったりしないことなどをひっくるめて「礼」という
・そしてどうしたら他人に貸すだけの余裕金ができるか、また借りた金をどうすれば早く返済できるか、など知恵を働かせて工夫し、貸す人も借りる人もお互いに利益が多くなるように努力することを「智」というこのように金次郎は「五常の徳」を、金の貸し借りについても適用したのである。いってみれば、「道徳と金融の融合」と言っていいだろう。しかし金次郎はさらにこの論理を締めて、
 「すべては信≠フ一字に要約される。しかもその根元は仁″の心に発する。親が子に対するような愛情が元になるのだ」
 と告げている。
 前述したようにたまたま平成二十四(二〇一二)年は、国連主導による「国際協同組合年」だった。日本では、政府もマスコミもあまり力を入れて扱わなかったが、二宮金次郎の「五常講」もその歴史は古い。「五常講」は、実に文化十一(一八一四)年に服部家で結成されている。金次郎はさらにこれを、「小田原藩大久保家」の組合に発展させる。したがって、誤解を恐れずに私見をいえば、
 「世界最古の借用組合(協同組合の一つ)は二宮金次郎の″五常講″である」
ということができよう。
 そして、これも前に書いたとおり、国連では「協同組合の理念」を、
・金によって結びついた組織ではない
・人間と人間が集まってつくつた組合である
 と、「互助の精神」を高く謳っている。筆者はこれに、
 「日本では、この人と人との結びつきにさらにヒューマニズム≠加えてける」
 と付け加えたい。二宮金次郎の「五常講」は、いままで書いたように、
 「あくまでも人間の徳をちりばめて、一円融和を図る」
 というものである。
▲UP

■体制奉仕者との批判に対して

<本文から>
 後世の研究の中には、二宮金次路の「報徳仕法」の実績を認めつつも、その有り様については、
 「所詮、二宮金次郎は体制への奉仕者であった」
 という厳しい見方がある。表面だけを見ればそうかもしれない。が、わたしは必ずしもそうではなく、金次郎の一見体制内に奉仕するかに見える諸仕法も、やはり、「大久保忠実との信頼関係」がその動機であったと見る。
 つまり金次郎が頭の中で考えていたのは、決して徳川幕府良かれということではなく、
 「大久保様のためには身命を投げ打つ」
 という強い忠誠心が発動したからである。それは大久保忠実個人に対する忠誠心であって決して小田原藩や、まして徳川幕府全体に対する忠誠心ではない。そこに二宮金次郎の真の面目があるのではなかろうか。
 あくまでも、「人間対人間の関係」が重視されていたのである。
▲UP

■各戸調査と心田開発

<本文から>
 金次郎の各戸調査はどんどん進んでいった。かれが調べたのは、
・家族数
・所有地の坪数
・所有する農耕具の種類と数量
・その家の労働力
・牛や馬などを飼っているかどうか
 などであった。何のためにかれがこういう調査を行うかといえば、もちろん復興のためのパワーを把握するためだ。しかし同時にかれは、
 「土地の復興には、まず人間の心の復興が必要だ。農民一人一人の心の田を開発することを先に行う必要がある」
 と考えていた。
 かれはこの心の復興を″心田開発″と呼ぶ。では、各家庭の状況を把握した後に、何をしたかといえば金次郎がまず行ったのは、「善行者の表彰」であった。
▲UP

■改革を押し付けない態度

<本文から>
 しかし二宮金次郎はこの二つの敵に対して、真っ向から歯向かおうという手段はとらなかった。
 「そんなことをしたら、自分の仕法がすぐ挫折し、桜町は復興できない」
という責務感があったからである。金次郎は、
 「これに対抗してゆくためには、農民が結束することだ。それには、全員の心田開発を行って一つにまとまることだ」
 と考えた。ここに、先年の「国際協同組合年」の趣旨が生きてくる。協同組合の目的は、
「金によって結びつく組織ではなく、心によって人と人が結びつく組織である」
 といわれた。この考えは金次郎の時代にもそのまま応用されている。金次郎が狙ったのもそのことだ。そして金次郎が「心と心の結びつきによる人の組織」でいう心≠、「推譲の精神」に置いたのである。かれが少年時代に、山で取った枝をまとめて薪とし、小田原の町へ売りに行く往路復路で読み続けた「大学」から学んだものだ。
 そしてこの推譲の精神は、二宮金次郎が桜町で自分の仕法を適用し、その復興に渾身を込めた過程において、現在のわれわれが大いに学ぶことがある。それは、
・金次郎はたしかに小田原準王大久保忠実の命令を受けて、大久保家の分家桜町の字津家の復興を引き受けたが、それを金科玉条にしていつも正面から反対者に振り回さなかったことである。そんなことをすれば、すぐ復興事業がダメになり、同時に大久保忠実に迷惑が掛かることを知っていたからだ
・金次郎は小田原藩の家老服部家に奉公した時から、ある程度小田原城内の武士たちの気質を知っていた。したがって城内にあるク官僚主義″が一朝一夕で変革できないことも知っていた。さらにかれは農民だ。身分制度がある
・しかも、二宮金次郎はたった一人だ。小田原城内の武士は束になるだけの数を持っている。到底太刀打ちできない
・そこで金次郎はここでも推譲の精神を発揮し、この場合は忍耐強く時間を掛けて説得するという方法に出た。これには相当な忍耐力が必要で、またそれを保つだけのエネルギーも必要になる
 つまり二宮金次郎は、自分の改革が絶対に正しいと思いながらも、相手に対し、
 「正しいことをやっているのだから、黙って従え」
 などというようなエロ同庄的な態度に出なかったのである。
▲UP

■七年掛かって変わった社員の意識

<本文から>
 宇津家すなわち桜町領の再興は文政五(一八二二)年から、天保二(一八三一)年にわたり行われた。十年である。しかしその前の七年のうち、最初の三年か四年は準備に忙殺された。そしてその後の三年か四年は、ほとんど、「二宮仕法に反対する者への対応」に費やされた。つまり、
 「桜町の復興は十年掛かります」
 と最初に契約した年月のうち、七年間はほとんどこういう煩わしい事柄の対応に費やされてしまったのである。
 再興などの改革を行うのは「三つの壁への挑戦」だといわれる。三つの壁というのは、一つ目はモノの壁(物理的な壁)、二つ日はしくみの壁(制度の壁)、そして三つ目がこころの壁(意識の壁)である。この三つの壁への挑戟という意味でいえば、金次郎が費やした七年間はまさに、
 「こころの壁への挑戟」
 につきる。いまの言葉を使えば「意識改革」でぁる。これは現在でも同じだが、やはり改革というのは「意識改革」に重点が置かれ、そしてこの意識改革さえ行われれば、後の物理的な壁や制度の壁も容易に壊すことができる。
 もちろん前に書いたように金次郎の改革は、ステップ・バイ・ステップ(一段ずつ階段を上っていく)≠ニいうやり方ではない。場合によって一挙に二段とびをする。三段とびもする。
 しかしそのためには、七年の歳月を金次郎は単に「意識改革」だけに費やしていたわけではない。かれは仕法に基づく改革作業をいくつか平行して進めてきた。たとえば村人たちが、
 「あんな荒地は耕すだけ時間と労力の無駄だ。また耕したとしてもろくなものはできない」
 と言って見捨てていた荒地を開拓させ、見事な田畑に変えさせた。またこの辺は水が悪い。そのため、従来から潅漑用水についてはいろいろ問題があった。そこで金次郎は村人たちから詳しく地理を聞いて、良い水源を探しこれを引いた。
そのために、いままで村では、
 「あそこは下田(価値の低い田)だ」
 といわれていたいわゆる″下田″が、良い水を引くことによってたちまち「上田」に変わった。
 さらに、金次郎は破壊された家々を自ら陣頭指揮を執って、補修した。良心的な住民はこれに協力し、屋根に藁を積み、あるいは傾いた柱を押して元どおりの位置に戻した。母屋だけではない。廊・木小屋・灰小屋なども修理し、あるいは必要とあれば新築した。
▲UP

■金次郎の本当の遺言

<本文から>
 安政三(一人五六)年十月二十日に金次郎は死ぬ。数え年で七十歳であった。この時の遺言は、自分の墓は小さいもので広い場所を取るな。墓石は必要ないなどというものだ。
 しかしわたしは金次郎の本当の遺言は、安政二(一八五五)年十二月三十一日の日記に書かれた文章だと思っている。
 「予が足を開け、予が手を開け、予が書簡を見よ、予が日記を見よ。戦々競競探淵に臨むが如く、薄氷を踏むが如し」
 という激烈な言葉である。
 わたしはいつもこの「足を開け・手を開け・書簡を見よ・日記を見よ」という激しい言葉の底に、金次郎の烈々たる復興への意欲と熱情を感じる。
 そしてそこからは、かれが成田で参籠期間中呪み合っていた、不動明王の背後に燃え立つ怒りの炎をそのまま感じ取る。
 怒りの炎に金次郎の持つヒューマニズムと、正義感から発する、″悪しき社会に対する憤怒の気持″を見るからである。
 現在、わたしたち一人一人がまず持たなければいけない思念ではなかろうか。
▲UP

童門冬二著書メニューへ


トップページへ