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<本文から> 自然の力は恐ろしい。それまでの人間の努力を、一挙に押し流してしまう。あの洪水がそうだった。先祖代々、丹精して耕してきた土地は、一夜のうちに流れ去った。代わりに川の右がゴロゴロと座り込んだ。土など全部どこかへいってしまった。右の畑に変わってしまったのである。あの金次郎が感じたのは、一種の無常観だった。同時に、
「自然の力の恐ろしさ」
であった。金次郎はその自然の力の恐ろしさを、
「天の力」
と受け止めた。かれは霊的な人間だったから、その天の力に対して無常観を持ったのではない。かれは、
「人間の努力も、時には天の力によって一挙に消滅させられる」
ということを知ったのである。そうなると、普通の人間だったら、
「どんなに人間が努力しても、天の気まぐれでそれを押し流すのだったら、もうバカバカしくて努力などできない」
と考えるだろう。ところが金次郎は逆だった。
「天の力も時には理不尽なことがある。不条理なことがある。であれば、その理不尽さや不条理に対して人間の論理を組み立てる必要がある」
と考えた。前にも書いた、
「水車の論理」
は、この金次郎の哲学を示すものだ。つまり、
・水車は、川の流れという天の力だけで回っていると思うのは間違いだ。
・もし水車が、天の力だけに頼っているのであれば、当然川下に流れ去ってしまう。
・しかし水車は踏みとどまって、自分で回転している。ということは、天の力に逆らう水車自身の力があるからだ。
・これが人間の力だ、人間の論理だと金次郎は考えた。
この、
「天の力に逆らう人間の力」
を、金次郎は生涯自分を生かすパワーの源としていく。
豊かであり、父や母の情け深さが村の人に及んでいた時は、村の人々も金次郎一家を尊敬し、
「仏の利右衛門さん」
などと、父を崇めた。しかし、いったん貧乏してしまうと、村人たちは見向きもしない。極楽から地獄へと落ちた人間を見るような目つきをする。しかし金次郎は、
(これも天の理なのだ)
と思う。つまり、金持ちから貧乏人に落ち込んだ二宮一家を見る村人の目が、蔑みのそれであったとしても、そういう目つきをする村人に罪があるわけではない。天の理が、そう命じている.つまり、
「金持ちには憧れと尊敬の日を向け、貧乏人には蔑みの目を向ける」
というのは、人間の自然発生的な感情であってこれは天がそのまま与えたものだ。しかし、金次郎はだからといって天の力に屈しようとはしない。その天の力を、不条理と思い不合理と思う。
「それには、人間の理を持って対抗していくことが必要だ」
と考えた。しかしだからといって、その天の力に対しいたずらに人間のカを誇示して、ケンカをしようというわけではない。金次郎は別な方法を考えた。それは、
「一つひとつ、小さなことを積み重ねて天の力に向き合えるような人間の力を生もう」
ということである。
これが金次郎の有名な、
「積小為大」
の根本になる。つまり、
「どんな大きなことも、小さなことの積み重ねからはじまる」
ということである。別ないい方をすれば、
「どんな大きなことも、いきなり完成はしない」
ということだ。 |
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