童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          日本人の生き方

■三つの出会い-西郷の例

<本文から>
 人間の一生は、生涯学習だといわれる。生涯学習というのは、学問だけを勉強するのではなく、人間を勉強するということだろう。そして、
「人間に、完全ということはあり得ない」
 ということをしっかり心の中に置いて、少しでも自分を高めようとする努力の逆続が生涯学習だ。そのためには、本を読んで知識を得ることもそうだが、それ以上に広く人間と交流して、自分よりす
ぐれた人たちから何かを学びとる態度が必要だ。そうなると、生涯学習というのは、
○ すぐれた人から学ぶ
○ いい友達と語りあう
○ いい後難に学ばせる
 ということになるのではなかろうか。したがって、そのためには世の中から、学べる人・語れる人・学ばせる人を発見しつつづけるということになる。西郷隆盛の前半生は、この生涯学習の中での「学ぶ・語る」で貫かれていた。そして、後半は完全に「学ばせる」立場に立った。かれ自身が、後輩に学ばせようとしたわけではなく、後輩の方が、「西郷さん、西郷さん」と西郷をしたって、か心から学ばうと必死になったのである。この立場の違いが、前半は西郷を勝たせ、後半は負けさせてしまった大きな原因だ。
 このことは、やはり人間にとって大切なのは、
「自分は、何のためにこの世に生まれたのか?」あるいは「自分は、何のためにこの件の中で生きでいるのか?」
 という目的が必要だということを示す。そしてそのために 「自分は何をすべきか」ということをきちんとふまえているかいないかによって、その人の一生が豊かになったり、あるいは貧しくなったりする。

■西郷は若いときに人間の傷を知った

<本文から>
 この経験は、西郷が若いときにはじめて、「人間の傷、そしていたみ」を知ったということである。つまり、世の中には、一種の不合理といっていい、理屈を超えた悪が存在しているということを知ったのである。西郷は、そういう理屈にならない恋を、自分の生涯の敵としようと考えた。そして、何よりも、それには人の心のいたみを知らなければならないと考えた。だから、かれはつねに自分をゼロの状態においた。ゼロの状態においておけば、人からいろいろと学べることがあるからである。その点、かれは謙虚な人がらだった。かれの生涯は、よくかれ自身が口にしていたように、
「人事を尽くして天命をまつ」
ということである。

■西郷は斉淋によって広い視野をもった

<本文から>
斉淋は西郷にいった。
「おまえの意見書は全部読んだ。しかし、おまえの考え方はまだ井の中の蛙だ。他の連中といっしょになって、日本に近づく外国船は打ち払えなどいっている。わたしが、西洋かぶれなので、少しはほどほどにしたほうがいいですなどともいう。が、それはおまえの間違いだ。いまの日本は、そんな位置にはいない。外国がどんどんせまってきている。そういう中で、どう日本は生きていけばいいのかということを考えなければいけない。おまえの考えは、ただ薩摩藩の中の、一地域のことだけに怒っている。しかし、その怒りは決して間違いではない。それなら、そういう不合理や、あるいは悪いことがなぜ起こってくるのかを追及してみよう。やはり、徳川幕府の政治の悪さが根幹なのだ。それを、われわれは正すべきだ。そのためには、広い視野を持って、海のかなたの同の文化や文明を受け入れるべきだ。そういう勉強をしよう。西郷よ、おまえの怒りを徳川幕府に向けろ、そして、日本の怒りとして、日本人を結束させるような仕事をしろ。わたしは、いまそう考えている」
 とさとした。
西郷は感動した。それは、これまでの自分がいかに小さいかを知らされたからである。
「まさしく、おれは斉彬さまのいう、薩摩という井戸の中のカエルにすぎなかった」
と反省した。斉彬によって、西郷は日をひらかれる。つまり、国際社会の中における日本人のひとだ。西郷が、もしこのころも、まだ島津斉彬や藤田東湖のように、学べる人や、あるいは橋本左内などのような語れる人を持っていたら、あるいはこういうことが起こらなかったかも知れない。ということは、やはり、判断のもとになるのは情報だからである。鹿児島の一角に引っこんだ西郷が、そのころの目まぐるしく変わる東京の情報を、すべて正確につかんでいたとはいえない。また、鹿児島にいる旧武士階級の連中も、頭が熱くなっているから、自分たちに都合のいい情報しか取り入れなかっただろう。いってみれば、全体を見渡す冷静な判断力を、このころの西郷は失っていたといえる。つまり、
「ヨーロッパに追いつけ、追い越せ」
 という大久保政府の怒濤のような動きの意味を、正確にはつかみきれなかったのである。だから、依然として西郷は、自分のまわりにいる鹿児島の旧武士たちに同情し、かれらを何とかして生かす場所を得ようと模索していた。これが西南戦争になった。
 巨人西郷隆盛は、前半でなぜ勝ち、後半でなぜ負けたのか。それは、生涯学習における三つの要素、すなわち、学ぶ、語る、学ばせるのうち、前半においては、西郷はよく学び、よく語ったが、後半においては、ついに学ばせるだけの立場に立たぎるを得なかったことが大きな原因だろう。

■率先垂範と先憂後楽がリーダーの条件

<本文から>
 昔からいわれる言葉に、
「部下や後輩は、り−ダーや上役の後ろ姿から学ぶ」
というのがある。これは、たとえリーダーや上役がどんな立派なことをしていても、それを自分からいい出してひけらかし、挙句の果ては、
「言分がここまでやっているのに、一体おまえたちは何をやっているのだ? 少しはオレの真似をしろ」
 と威張ることだ。威張るだけではなく、それを仕事として押しつける。こういうことをされると部下や後輩は必ず反発する。
(確かに、あなたは偉いよ。でも悪いところがある。それは、なんでも自分だけが正しく立派で、われわれがまったくなっていないという態度を取ることだ。だから、あなたのり−ダーシップは常に押しつけがましい)
と思い、拒否反応を示す。こういうことで、リーダー自身は自己満足をおぼえるかもしれないが、実際の管理としては失敗だ。
 リーダーの条件としてもちろん、
● 率先垂範(自分が一番先に立って、そのことを行なってみせる)
● 先憂後楽(リーダーは、悩みや苦しみを自分が先に味わい、部下や後輩には楽しみを先に味わわせる。つまり、り−ダーが楽しみを味わうのは、一番後になる)
 が必要だ。そして、なによりも部下や後輩がり−ダーや上役をみて、
「ああ、この人は立派だな」
 と思うのは、”責任″の取り方だ。大きくいえば、
 「進退の美学」
 だといっていい。これが汚いと、後輩たちは上役をパカにする。場合によっては、
「こんな人だったのか」
と失望し、絶望してしまう。場合によっては見放してしまう。

■リーダーが部下から慕われる条件

<本文から>
 わたしは、リーダーが部下から慕われる条件として、
● なるべく、部下の自主性や能力を生かす。
● そのために、対外的にいろいろと問題が起こるときは、りーダーが防壁になってその交渉を一手に引き受ける。
● しかし、部下がその仕事を成し遂げたときはほめたり、感謝の志を表わしたりする。
● 人事問題については、極力部下がさらにいい条件のところにいけるように人事担当者に交渉する。いいところというのは、部下の能力がさらに生かせるような適材適所の職場ということだ。もちろん、付加的に地位、給与面その他が良くなることも含まれる。
● しかし、自分の人事については、部下の前で露骨に野望や出世欲を表わすようなことはしない。淡泊な態度をとる。
● とくに、社内で「あの職域に行くことは左遷だ」というようなうわさが立っているようなところへ転勤したときは、「ここは落ちこぼれがくる職場ではない。立派に仕事をしている」と、社内の悪いうわさを自らふき消すような努力をする。少なくとも自分自身が「オレは飛はされたのだ」などとブツブツ文句をいわない。
こういうことが必要だと思っている。

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