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<本文から> この浪人時代のことを、のちに利家は『名将言行録』という本のなかで次のように告白している。
「こっちの羽振りがいいときは、いろんな人間がおべんちゃらを言って寄ってくる。しかし、一旦失業したとなると、おべんちゃらを言っていた連中もくるりと変わってしまう。自分が浪人したときには、城内の武士たちも四通りの反応を示した」
利家の言う四通りの反応とは次のようなものだ。
一、失業した利家を疫病神のように考えて、まったく寄りつかなくなった者
一、いままでは利家にいろいろとおいしいことを言ったが、腹の底は別だったようで、利家が落ちぶれた様子を覗いては、おまえもバカだなとあざ笑いにくる者
一、クビになって、おそらく信長様を恨んでいるにちがいないと考え、うまいことを言っては信長様に謀反の気持ちがあることを探り出し、そのことをすぐ信長様に密告しようとする者
一、こういう心の卑しい連中とは別に、心から自分のことを心配してくれる者
最後の、
「浪人しても自分のことを心から心配してくれる者」
というのは、わずか二人か三人で、具体的には木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉や柴田勝家たちだけだったという。
この利家の分析は現代でも通用する。いまでも、羽振りのいいときは盆暮の挨拶や、あるいは元旦の挨拶にも真っ先にやってきた連中が、その人物の力が衰えたと見るや手のひらを返して寄りつかなくなる。年賀状の数も減る。
利家が味わった思いは、おそらくこれと同じものだったろう。
「あれだけ面倒を見てやったのに、なぜあいつは訪ねてこないのだ?」
浪人したてのころは、利家も妻のまつにそんなグチをこぼした。まつは気丈な女性だったが、根は温かい。浪人したときも、他の女性だったら、
「なぜ信長様がお気に入りの十阿弥を斬るなどという、バカなことをなさったのですか?これからの家の生活をどうするつもりなのですか?」
と失業のつらさをなじったに違いない。ところがまつはそんなことはひと言も言わなかつた。
黙って、
「生活はわたしが何とかしますから」
と言って、いっしょに城外の小さな家に引き移った。 |
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