童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          人間の絆

■前田利家 浪人したときの城内武士の4つの反応

<本文から>
 この浪人時代のことを、のちに利家は『名将言行録』という本のなかで次のように告白している。
 「こっちの羽振りがいいときは、いろんな人間がおべんちゃらを言って寄ってくる。しかし、一旦失業したとなると、おべんちゃらを言っていた連中もくるりと変わってしまう。自分が浪人したときには、城内の武士たちも四通りの反応を示した」
 利家の言う四通りの反応とは次のようなものだ。
 一、失業した利家を疫病神のように考えて、まったく寄りつかなくなった者
 一、いままでは利家にいろいろとおいしいことを言ったが、腹の底は別だったようで、利家が落ちぶれた様子を覗いては、おまえもバカだなとあざ笑いにくる者
 一、クビになって、おそらく信長様を恨んでいるにちがいないと考え、うまいことを言っては信長様に謀反の気持ちがあることを探り出し、そのことをすぐ信長様に密告しようとする者
 一、こういう心の卑しい連中とは別に、心から自分のことを心配してくれる者
最後の、
 「浪人しても自分のことを心から心配してくれる者」
というのは、わずか二人か三人で、具体的には木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉や柴田勝家たちだけだったという。
 この利家の分析は現代でも通用する。いまでも、羽振りのいいときは盆暮の挨拶や、あるいは元旦の挨拶にも真っ先にやってきた連中が、その人物の力が衰えたと見るや手のひらを返して寄りつかなくなる。年賀状の数も減る。
 利家が味わった思いは、おそらくこれと同じものだったろう。
「あれだけ面倒を見てやったのに、なぜあいつは訪ねてこないのだ?」
 浪人したてのころは、利家も妻のまつにそんなグチをこぼした。まつは気丈な女性だったが、根は温かい。浪人したときも、他の女性だったら、
「なぜ信長様がお気に入りの十阿弥を斬るなどという、バカなことをなさったのですか?これからの家の生活をどうするつもりなのですか?」
 と失業のつらさをなじったに違いない。ところがまつはそんなことはひと言も言わなかつた。
黙って、
「生活はわたしが何とかしますから」
と言って、いっしょに城外の小さな家に引き移った。

■まつ、ねねは平和人・徳川家康に味方した

<本文から>
 まつ夫の利家に話した。利家ははじめは抵抗した。しかし懇々と諭されているうちに、
「わかった。秀吉どのに味方する」
 と心を決めた。これによって、秀吉は柴田勝家を滅ぼし、北陸地方を平定した。ねねの言ったとおりだった。秀吉が天下人になったのは、
「あくまでも信長様の志をこの国で実現したいからだ」
 ということは本当だった。
 しかし天下人になった秀吉が死ぬと、その子秀頼が幼かったために、また日本がふたつに割れて戦争が起こった。大坂の陣である。このとき、ねねは徳川家康の味方をした。豊臣秀頼をはじめ、豊臣家の大名はみんなまゆをよせた。
「ねね様は、秀吉公を裏切るおつもりなのか?」
 とうわさをした。しかしねねはこう考えていた。
「秀頼様は幼い。この国をおさめるのは無理だ。やはり、多くの大名が納得するのは徳川家康どのが天下人になることだ。そして家康どのは、何よりも日本の平和を願っている。家康どのの平和志向は本物だ。われわれ女性の悲願を実現してくれるのは、やはりいまの日本では家康どの以外いない」
 そう考えたねねは、家康に積極的に接近し、自分の居館まで家康に提供した。家康はねねに感謝した。
大坂の陣は終わり、豊臣氏は滅びた。ねねは京都の一画に寺をつくり、高台院と名づけた。萩その他の植物をたくさん植えて、季節になると花の咲くのを楽しんだ。
 前田利家の未亡人まつがよく訪ねてきた。ふたりは、こもごもむかしの思い出を語り合った。しかしふたりとも、
 「徳川どのの天下になってよかった」
 と話した。家康は豊臣氏を滅ぼしたあと、慶長といっていた年号を元和に変え、有名な偃武令を出した。値武というのは、
 「武器を倉庫にしまって鍵をかけ、二度と出さない」
 ということである。家康の、
 「平和宣言」
 であった。
 萩の花を愛でながら、語り合うふたりの老婦人は、
 「わたしたちはけっしてまちがっていなかった」
 とうなずきあった。

■真田信之の妻・小松のメリハリある生き方

<本文から>
戦後処分がおこなわれた。石田三成たちは斬られた。三成に味方した大名は全部領地を奪われた。
 ゲリラ戦で秀忠軍をくいとめて、ついに秀忠軍を決戦に参加させなかった真田昌幸・信繁は、重大な戦争犯罪人だ。当然死刑が予想された。
 このとき小松は、
 「おふたりの助命をお願いしましょう」
 と、信之に頼んで家康に昌幸・信繁の助命嘆願をさせた。そして、
 「わたくしも実父にお願いします」
 と言った。小松の実父は家康の功臣・本多忠勝だ。はじめは、「真田父子は殺す」と考えていた家康も、この嘆願には心を打たれた。ふたりは命を助けられ、紀州(和歌山県)の紀ノ川上流の九度山に流きれた。
 そうなると小松は、
「この果物を召し上がってください」とか「ご不自由でしたら、何でもお申しつけください。すぐお届けします」と、しきりに差し入れをした。そのたびに夫の信之は、「すまぬ」と礼を言った。九度山で流人生活を送る昌幸は信繁に、
「小松はすばらしい嫁だ。おかげで命が助かった。くらしもあまり不自由せぬ。信之は果報者だ」
 と言った。妻に感謝しつつも、夫の信之は半面では不思議に思う。
 「なぜおまえは父と弟に温かいのだ? 関ケ原の合戦のときには、ふたりを沼田城で門前払いにしたではないか」
ときく。小松は微笑んでこう答えた。
「あのときのおふたりはあなたの敵でございました。でも敗れたのちは家康様に降伏なさいました。いまはただの人でございます。というより、わたくしの舅と義理の弟です。困っているのに、そのまま知らん顔はできません」
 「なるほど」
 メリハリをつけて、生き方に筋道を通す妻に、信之は改めて、
 「おれはこの妻に支えられている」
と思うのだった。
 その後起こった大坂の陣の前に昌幸は死に、信之の弟信繁は大坂方のために奮戦する。が、豊臣家は滅びる。真田信之は信州松代城を与えられ、明治維新まで続く。当主のひとりは、外様大名でありながら徳川幕府の老中にまでなる。
 これもすべて、信之が小松姫と心を合わせて、徳川家康のために尽くした結果であった。最初の婿探しで小松が選んだ信之という夫は、まさに期待どおりの大名だったのである。

■後醍醐天皇のように行動には動機以外に風土が必要

<本文から>
 「理屈ばかり言っている人間は角ばっているから嫌われる。しかしだからといって情はかり大事にするような人間は、その情の川に流されてしまって正しい判断ができなくなる」
 つまり、知あるいは情のどっちに片寄ってもだめだということだ。が、漱石の言葉を日本人に当てはめて見れば、
 「日本人は、もともと情念を大きなモノサシにして生きていく民族だから、理論だけ言っていても通用しない。ハートを揺るがすような何かがなければ、人は動かない」
 ということだろう。人間が行動を起こすにはかならず″動機づけ(モチベーション)″が必要だ。それは普通には、
 ・何のためにこんなことをおこなうのか(という目的)
 ・自分がやったことがどれだけその目的に役立ったのか(という寄与度あるいは貢献度)
 ・それに対してどんなほうびが与えられ、あるいは罰が与えられるのか(という評価、信賞必罰)
 の三つが必要だと言われる。しかしこれは理屈だ。人間の多くは、この三つの要素を示されるだけでは動かない。
 「そういうことをさせる人間がだれか、どういう人間なのか」
という、
 「だれが言っているのか」
 「どういう人間が言っているのか」
という相手のキャラクターも問題にする。楠木正成のような主蜃活をおくつてきた地方人は、とくにこの「だれが」ということが大切だったにちがいない。しかしこの笠置山の会見における楠木正成は、そんな普段の考えをかなぐり捨てて、もろに後醍醐天皇にのめりこんだ。はっきり言えば後醍醐天皇のもつ魅力に参ってしまったのである。これは後醍醐天皇が取りも直さず、他人を吸引する「風度」が巨大であったからである。
 だからこそ正成はこの日、
 「いずれにおいでになろうと、楠木正成がまだ生きているとおききになったときは、かならずご運が開けるものとお考えください」
 と大言壮語したのである。後醍醐天皇はうれしかった。まわりの公家たちが疑問をもったことはよくわかった。しかし後醍醐天皇にすれば、楠木正成を呼んだのは何も正成の力で、この劣勢を挽回しようと考えたわけではない。後醍醐天皇はすでに先を見通していた。それは、
 「幕府軍がやがてはこの笠置山にも押し寄せてくる。そのときはかなわない。自分はふたたび逃亡するか、あるいは捕らわれの身になるかもしれない。捕らわれれば、一度ならぬ謀反の罪で、命を絶たれるかあるいは速くの島に流されるだろう。が、自分は命さえあればかならずカムバックする。そのときに、力となるような武士を諸所に据ておきたいのだ」

■藤田東湖も吉田松陰も二年足らずで青年たちの可能性を大きく引き出し歴史を変えた

<本文から>
 そして、嘉永七年(一八五四)は、十一月二十七日に改元されて安政と変わった。翌安政二年(一八五五)十月二日は、江戸時代でも規模最大の大地震が起こる。この地震で、藤田東湖は母親を庇って落ちてきた梁の下敷きになり、圧死してしまう。五十歳だった。
 実を言えば、藤田東湖の諸国の青年たちに与えた影響は、幕府の海防参与になってから地震で圧死するまでの年月である。たかだか二年にしかすぎない。吉田松陰の場合も同じだが、松陰が松下村塾を開いていた期間も、二年足らずである。
 こう考えると、すぐれた人間の他人に与える影響は単に時間の問題ではない。質なのだ。その意味では、吉田松陰も藤田東湖も、わずか二年足らずの間にこの国の青年たちの胸に潜んでいた可能性を、大きく引き出した。それが国を変え、歴史を変えた。偉大さにおいては、藤田東湖もけっして吉田松陰に劣らない。
 しかし藤田東湖が吉田松陰とちがうのは、東湖があくまでも、
 「良臣」
を目指したことである。東湖の頭のなかにはつねに、
 「名君と良臣」
という対置関係があった。中国からきた学問の影響で、
 「主人に仕える立場としては、主人を名君に仕立て上げる義務がひとつ。そしてそのためには、仕える身として良臣を目指すことが二つ」
 という考え方を強くもっていた。良臣というのは、主人に対して諌争をいとわず直言癖を捨てない家臣を言う。これは、藤田東潮に限らない。幕末では、備中松山準王板倉勝静と家老だった
 山田方谷、越後長岡藩主牧野忠恭と家老河井継之助、そして越前福井藩主松平慶永と学者橋本左内、熊本から呼ばれた学者横井小楠の関係などが、まさしくこの「名君と良臣」の関係を示していた。
 言ってみれば、良臣はどんなに能力がすぐれていても、けっして家臣の立場、埒を越えない。分をわきまえて、あくまでも主人に仕えるという能心度を捨てない。
 吉田松陰は、その点もっと自由な考え方をしていた。かれは長州藩の人間で毛利家の禄を貰っていたが、かならずしもかれが忠節を尽くしたのは、藩主の毛利だけではなかった。松陰の眼はもっと広く日本全体を見ていた。
 しかしその松陰は長州の萩郊外という限られた地域で、松下村塾を開き門人たちを教育した。塾経営の期間が短かかったせいか、松陰を慕って、日本全国から若者が集まってきたという話はあまりきかない。

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