童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          日本史に学ぶ女の器量

■ガンコ者の"奇才"を支えた苦労人の賢妻【上田秋成とたま】

<本文から>
たまは夫の悩みをそのまま自分の悩みとするから、自分自身もつらくて仕方がない。しかし、たまにすれば、いつまでも自分を責めつづける秋成に、ぜひ弱った心を奮い立てて立ちなおってもらいたい。そんな気持ちが伝わったのか、ある日、秋成がたまを呼んだ。
 「ちょっと話がある。医者をやめようと思う。医は意だ、と言ってきたわたしが、医者にあるまじきことをして娘さんを死なせてしまった。どうにも責任の取りようがない。いっそのこと、お坊さんにでもなって、あの娘さんにお詫びをしたい」
「では、そうしましょう」と微笑みながらうなずくたまを、秋成は驚いて見返した。
「なんだって? おまえさんはわたしの気持ちをそんな簡単なものと思っているのかい?」
「決してそんなことはありません。あなたがお坊さんになって、難波屋のお嬢さんの菩提を弔いたいとおっしゃるなら、わたしもいっしょに髪をおろします」
 たまの日の底には、「あなたの行くところには、いつでも、どこでもついていきます」という決意が秘められていた。
「たまさん、おまえさんは、そこまでわたしのことを・・・」
「あなたとはいったい何年いっしょに暮らしてきました? わたしがお店の家事手伝いをしていた頃からの伸ですよ」
「知らなかったな、おまえさんのそういう気持ちを。若い頃のわたしは、養子のくせに道楽をつづけていて、おまえさんなど眼中になかった。おまえさんのほうも、わたしのことをしょうのない道楽息子だと思っていたに違いない。しかし、こうして夫婦になったのも何かの縁だ。縁というよりも、ホトケさまのおぼしめしかもしれない。おまえさんの存在がわたしにとっていかに大切かを、今夜はあらためて知ったよ」
そう言って、秋成は一瞬、幸福感に浸っていたが、まもなくきびしい表情になった。
「しかし、そんな勝手なことができるかな。暮らしの費用が得られなくなる」
「両方を立てようとしても無理ですよ。自分のしたいことをすれば、一方では何かを失うのです。仕方ないでしょう」

■芭蕉殺しの汚名の「試練」を分けあう【斯波渭川と園】

<本文から>
 元禄七年(一六九四)の九月二十七日、芭蕉は弟子の支考を連れて、おしどり俳人の家を訪れ、句会を開いた。じつはこの時、芭蕉は体調を崩し、熱が高く悪寒に身を震わせていた。しかし、サービス精神の旺盛な芭蕉は、そのことをおくびにも出さず、いつものようにおだやかに振る舞った。
 芭蕉の体調のことを知らない周は、「先生にごちそうをしてさしあげよう」と、用意していたキノコをいろいろ工夫しながら調理して出した。芭蕉は喜んで食べた。ところが、その帰途、病状が悪化し、芭蕉はそのまま大坂の南御堂前の花屋の離れで寝込んでしまった。それを開いた園はあわてた。
 「まさか、お出ししたキノコがあたったのではないでしょうね?」
 「そんなはずはない。だって、あの席にいた人は、私を含め、みんなおまえさんのキノコ料理を食べたのだからね。私だってこのとおりピンピンしているじゃないか」
 と、夫の渭川はなぐさめた。園は夫のことばに、「そうですね」といちおうは安堵した。
 ところが十月十日の午後、芭蕉は死んでしまう。諸国から弟子たちが集まった。うわさが流れた。それは、「先生は園女が出したキノコにあたって急に亡くなられたのだ」というものだ。おせっかいな弟子のひとりがこれを園に伝えた。園は「わたしのせいだ」と自分を責めた。
 心あたりはあった。芭蕉の病状が悪化したと開いて、園は何回か花屋の離れに見舞いに行った。ところが、部屋にいる弟子たちは、冷たい表情で園の見舞いを拒否した。目の底には、「おまえさんが出したキノコのせいで、先生の病状は悪化したのだ」という非難の色がありありと見えた。
 そういう事情だったため、園は葬式にも行けなかった。もちろん、芭蕉を弔う句会にも参加させてもらえない。園は嘆き悲しんだ。
 「あれほど先生を慕っていたわたしなのに、なぜ、お花一本供えさせていただけないのか」
 そう嘆く園を、そっといたわったのが夫の滑川だった。ただし、滑川は底の浅いなぐさめ方はしなかった。
 「おまえさんがそれほど苦しむのなら、その苦しみにいっしょに立ち向かおう。逃げるわけにはいかない。しつかりと苦しみと向きあおう」
 ふつうの夫だったら、「体をこわすといけないから、あまり心配しなさんな」と言うに違いない。が、渭川はそうではなかった。園はしみじみ思った。
 「夫婦は一心同体だと言われる。まさにわたしの夫は、そのことを実行してくれている」
 渭川と園はその後も、芭蕉門下の人びとから、「師を殺した悪人」という非難のツブテを投げられた。しかし園は、夫にしっかり寄り添って生きぬく。そして、ふたりにそういうカを与えたのは、やはりあの慈悲深い芭蕉のおもかげと、豊かな俳句の心である。
 「先生が残してくださったこの心さえ失わなければ、わたしたちは生きていける」
  夫の滑川はそう言った。園はうなずく。
 しかし、「師殺し」の汚名はなかなか消えることはなかった。そのうち、滑川が病の床についた。渭川は医者だから、自分の体のことはよくわかった。やがて、固に言った。
 「ダメかもしれないな」
 「心細いことを言わないでください。まだ、わたしの苦しみは終わっていません。もうすこしいっしょに生きてください」
 「いや、おまえさんはもう、ひとりで立派に生きていけるよ。もともと、芭蕉先生を死なせたのはおまえさんではないのだから、そろそろ免罪符をもらってもいい頃だよ。わたしは先に逝っても、あの世からずっとおまえさんを見守るよ」
 滑川は気弱く微笑みながら、そう告げた。そして滑川はあの世へと旅立った。
 夫を弔ったあと、園は江戸に出た。冷たいまなざしに囲まれて大坂で生きることはもうできない。知己のいない江戸で生きようと考えたのだ。
 滑川に死なれた当時、園は四十二歳だったという。まだ女盛りなので、言い寄る男も少なくなかった。園はザルをかぶったり、あるいは化粧なしのすっぴんで客に応対したりして、できるだけ自分の体から漂う女らしさを隠した。やがて男たちも寄りつかなくなった。
 園の心の中には、つねに滑川がいた。「同行二人」のことばどおり、夜、夢を見ると、園はかならず夫といっしょに杖をついて、遠い道のりを歩いている。その毎晩の夢が、昼間の苦しみに満ちた生活をどれだけ救ってくれたかわからない。
 享保十一年(一七二六)四月二十日、囲も死ぬ。しかし、決して孤独ではなかった。
 「すぐ行きますよ、待っててくださいね」
あの世への道をたどりながら、園は待ってくれている夫にそう呼びかけた。

■人間の運命を見事に全うした女の一生【細川忠輿とガラシャ玉】

<本文から>
 ある日、久しぶりにふたりで食事をした。庭で植木職人が高い木に登って努定を行なっていた。が、どうしたのか突然、足を踏みはずした。地面が揺れた。怒った忠輿は、だまって立ち上がると、刀を抜いて、いきなりその植木職人を殺してしまった。
 戻ってきた忠輿を、玉は静かな表情で見た。あまりの冷静さに、忠興があきれて言った。
「ずいぶん冷静だな。おまえは蛇か?」
 玉は静かにこう答えた。
「鬼の女房には、蛇がふさわしゅうございましょう」
 これには忠輿も言い返すことばを失った。
 忠輿は秀吉に重用されて仕事が忙しいため、なかなか屋敷に居つかない。玉はひとりで過ごすことが多くなった。やがて玉は、変わらずに仕えていたマリアの言に従って、ついに洗礼を受けた。ガラシャという洗礼名をもらった。ガラシャというのは、<神の恩寵>のことである。信仰一途に生きはじめた玉は、生きがいを得た。
 やがて、関ケ原の合戦が起こった。忠興は父・幽斎とともに、徳川家康のひきいる東軍につく。西軍の将として、石田三成は大坂にいた徳川方の大名の妻子に人質として大坂城に入城するよう追った。玉のところにも軍勢がやってきた。この時、玉は入城を拒み、家老に、「わたしはキリシタンなので自殺はできません。あなたが殺してください」と言って、自分の胸を槍で突かせた。家老は玉を殺したあと、屋敷に火を放ち、その火の中で腹を切って死んだ。
 そのことを前線で知った忠輿は、言いようのない衝撃を受けた。
 「わたしは石田三成の人質にはなりません。自分を大切にして、お先にあの世へまいります」
 忠輿への遺書には、そう書かれていた。忠興が感動したのは、「妻は最後まで人間の尊厳を大切にして生きぬいた」ということである。そして、そのために死を恐れなかったということだ。
 以後の忠輿は変わる。かれは玉の死によって学んだ。「自分にとっていちばん大切なものは、どんなことがあっても失ってはならない」ということを。

■「徳川の人間」になりきった内親王【徳川家茂と和宮親子】

<本文から>
 ところが嫁いでみると、家茂は意外とやさしい、気品のある青年だった。ともに十七歳である。親近感がしだいに「夫と妻の愛情」に変わっていった。和宮は献身的に家茂に尽くすようになった。
 やがて、第二次長州征伐の総指揮をとるために、夫の家茂は大坂城に下った。しかし、もともと病弱だった家茂は、この大任に耐えることができず急死してしまう。慶応二年(一八六六)七月のことである。二十二歳だった。出発する前に、家茂は和宮に対し、
「大坂へまいりますので、何か京都で土産を買ってきましょう」
 と言った。和宮は喜んで、
 「それでは、京の錦の布がほしゅうございます」
と答えた。家茂は大坂城に入ると、すぐに使いを出して、京都から錦の布を賄入し、それを大切に持っていた。そして、
 「早く江戸に戻って、これを和宮さまにさしあげたい」
と楽しみにしていた。ところが急死してしまった。家茂の遺体とともに、土産になるはずだった錦の布が届けられた。和宮は泣いた。そしてこう詠んだ。
 うつせみ(空蝉)の 唐織ごろも 何かせん
  綾も錦も 君ありてこそ
「いまはむなしくなってしまったこの錦の布、わたしにとっては何の意味もない。美しい綾も錦も、君(家茂のこと)がいらっしやつてこそはじめて価値があるのだ」という、哀切極まりない歌である。
 家茂のあと将軍になった徳川慶喜は、やがて大政奉還し、徳川幕府は消滅する。しかし京都新政府は、「慶喜を朝敵として殺し、江戸を焼き払う」という方針を決めた。
 その東征大総督には、皮肉なことに有栖川宮蛾仁親王が任命された。和宮のかつての許嫁である。これを知った和宮は、有楢川宮に手紙を書いた。
 「最後の将軍徳川慶喜には、朝廷への謀反の気持ちなど毛頭ありません。どうか、かれの命を助け、徳川家を存続させてください。また、江戸には百万の市民がおりますので、火をかけるようなことはなさらないでください」
 いまや完全に「徳川の人」となった和宮の悲痛な願いであった。有栖川宮はこの手紙を参謀の西郷隆盛に見せた。西郷も腕を組んで考えた。西郷の胸の中にも、
 (もしも和宮さまに万が一のことがあったら、政府軍の責任になる)
という心配があった。西郷は旧幕府代表の勝海舟との会見心よって、江戸の無血開城を実現させた。江戸は救われた。
 ここにいたるまでの和宮の努力は、並大抵のものではなかった。かつての許嫁に、「最後の将軍の助命嘆願」の手紙を書く気持ちは、じつに複雑なものであった。しかし、いったん嫁入りした以上、和宮はあくまでも、
 「わたくしは徳川の人間だ」
と考えていた。そしてそうさせたのは、生前の夫家茂のつねに静かでやさしいまなざしと、深い愛情であった。
 和宮は、明治十年(一八七七)の秋、三十二歳で箱根の温泉宿で静かに亡くなる。家茂が京都で買ってきてくれた錦の布を生涯大切にしていたという。

■島流しの夫を支えつづけた利家の娘【宇喜多秀家とお豪】

<本文から>
 一方、秀家が薩摩に逃亡したのち、お豪は実家の前田家に戻った。前田家は加賀国(石川県)の金沢城に拠点をおいていた。
 しかし、やがて夫の秀家が自首し、家康に命を助けられて八丈島に流されたと開くと、
 「私も八丈島に行きたい」
 と、お豪は無茶なことを言った。お豪はかなり強気な女性で、男のような振る舞いが多かったという。まわりの人間はしきりに止めた。が、お蒙はあきらめなかった。
 その後、前田家は富山に分家をつくつた。現在の富山城である。これに目をつけたお豪は、一策をめぐらして、富山の山岳部のふもとに、「奥山番」という役所を設けてももらった。これは、分家が管理する山林関連の仕事を行なう役所だ。ところがお蒙のねらいは、山林管理などではなかった。
 「ここを基地にして、八丈島の夫に密かに必要な食糧やお金を送りたい」
 というのが、役所新設のほんとうの理由だった。加賀の金沢城でそんなことをおおっぴらに行なえば、すぐ徳川幕府ににらまれる。そこでお豪は知恵を働かせて、分家の城下町の片隅にこの秘密の基地を設け、実家が困らないようにしたのである。
 現在も富山市内では、この奥山番の役所のことを「浮田屋敷」と呼んでいる。字が違うが、これはおそらく世をはばかって「宇喜多」を「浮田」に変えたのだろう。
 富山を訪れた時、この家の管理責任者に話を開くと、
 「ここは山林管理を表向きの役目にしていますが、じつは八丈島の字喜多一族に差し入れをするための秘密の基地だったのです」
 と説明してくれた。
 お豪の夫思いの心は、八丈島の秀家に通じた。
 本来、島に流された罪人は、餓死させられるのがふつうだ。島の人間は面倒を見ない。秀家もかつての大名の身分を忘れて、自分で海藻を拾ったり、魚を捕まえたりしなければ生きていけなかった。秀家はつくづく「こんな暮らしには耐えられない」と思ったことだろう。
 そこへ、思いもかけぬお牽からの差し入れである。秀家は喜んだ。そして、島の端から本土を望み、遠く金沢の地にいる妻の姿を思い浮かべながら、
 「ありがとう」
 と心の底から礼を言った。
 この差し入れは長くつづいた。
 秀家とお豪は二度と会うことはなかったが、お豪の夫を思う気持ち、秀家の妻を思う気持ちは、時空を超えて行き交った。秀家はこの鳥で八十三歳まで生きぬく。
 ちなみに、字喜多秀家の子孫は島に定住したが、徳川幕府が存続する限り、その罪は許されなかった。幕府が倒れて明治維新になって、やっと許された。この時、宇喜多家の子孫が、まず訪ねていったのが前田家であったという。前田家の八丈島の秀家の子孫に対する厚情は、その後もつづいていたのだ。
 宇喜多秀家とお豪夫婦は、戦国に咲いた「一輪の美しい花」である。
 秀吉が秀家を愛し、おねがお豪を愛したのは、ふたりが「汚れのないナイーブな気持ち」を持っていたからである。詩人中原中也の「汚れちまった悲しみ」とは縁のない、ふたりの心の美しさを愛したのだ。苦労の連続だった秀吉とおね夫婦は、秀家・お豪蒙夫婦に、「あるべき夫婦像」を見たに違いない。

■"当て馬"を見事に変身させた女の器量【真田信之と小松】

<本文から>
 しかし、決戦場である関ケ原では、西軍側に次々と裏切り者が出た。大坂城からは豊臣秀頼も、総大将の毛利輝元も出てこなかった。徳川家康は大勝し戦後後処分が行なわれた。首謀者の石田三成たちは捕らえられて処刑され、三成に味方した大名は全部領地を奪われた。
 ゲリラ戦で秀忠軍をくいとめて、ついに秀忠軍を決戦に参加させなかった真田昌幸と信繁父子は、重大な戦争犯罪人だ。当然、死刑が予想された。
 この時、小松は、
 「おふたりの助命をお願いしましょう」
 と、まず、信之に家康への助命嘆席を頼んだ。そして、
 「わたくしも実父にお願いします」
 と、みずからも手を打った。小松の実父は家康の功臣本多忠勝だ。はじめは「真田父子は殺す」と考えていた家康も、この嘆願には心を打たれた。ふたりは命を助けられ、紀州国(和歌山県)の紀ノ川上流の九度山に流された。
 そうなると小松は、「この果物を召し上がってください」とか、「ご不自由でしたら、なんでもお申しつけください。すぐお届けします」と、しきりに差し入れをした。そのたびに夫の信之は「すまぬ」と礼を言った。一方、九度山で蟄居生活を送る昌幸は信繁に、「小松はすばらしい嫁だ。おかげで命が助かったし、流刑の地での暮らしにもあまり不自由せぬ。信之は果報者だ」と再三語った。
 妻に感謝しつつも、夫の信之は半面では不思議に思い、
 「なぜ、おまえは父と弟にこんなに温かいのだ? 関ケ原の合戦の時には、ふたりを沼田城で門前払いしたではないか」
 と訊く。小松は微笑んでこう答えた。
 「あの時、おふたりはあなたの敵でございました。でも、敗れたのちは家康さまに降伏なさいました。いまは"ただの人"でございます。というより、わたくしの舅と義理の弟です。困っているのに、知らん顔はできません」
 「なるほど」
 生き方にメリハリをつけて筋道を通す妻に、信之はあらためて、「おれはこの妻に支えられている」と思うのだった。
 その後に起こった大坂の陣の前に昌幸は死に、信繁(幸村)は大坂方のために奮戦するが、豊臣家は滅びる。信之は信州松代城を与えられ、その地位は子孫に受け継がれ、明治維新までつづく。当主のひとりは、外様大名でありながら徳川幕府の老中にまでなる。
 これもすべて、信之が小松と心を合わせて、徳川家康のために尽くした結果であった。最初の婿探しで小松が選んだ信之という夫は、まさに期待どおりの武士だったのである。

■大きなフイゴの"空洞"となった秀才塾のおかみさん【緒方洪庵と八重】

<本文から>
 洪庵は幕末に死ぬが、八重は明治十九年(一八八六)まで生きる。この塾から出た俊秀たちは、折りふれて八重を訪ねた。そして、その当時の日本の状況や自分が日下やっていることなどについて話した。ニコニコしながら耳を傾ける八重は、かれらが帰ると、かならず夫の位牌に報告した。
 「今日は福沢さんが来て、こういうお話をしていきましたよ。福沢さんもずいぶんと立派におなりです」
 位輝にそういう報告をすることが、夫がいなくなったあとの八重のなによりの楽しみであり、同時に生きがいでもあった。 
 緒方洪庵の教育方法は、単なる自由奔放主義ではない。洪庵の思想の原点は、中国古代の思想家の老子や荘子である。とくに老子だ。
 老子にこういうことばがある。
 「フイゴにとって大切なのは、器具の部分ではなく、むしろなにもない空洞だ。空洞がなければ、フイゴは風をおこして火をおこすことができない」
 洪庵が適塾の門人に教えたのは、
 「フイゴの空洞になれ。その心がまえが世の中に役立つ」
 ということであった。八重はこの教えを守った。
 「私は夫のフイゴの空洞になろう」
 と志した。だからこそ逆に、門人たちにとって、なくてはならない存在になったのである。

■文字通り「たとえ火の中、水の中」を生涯つらぬく【桂小五郎と幾松】

<本文から>
 桂の恋人幾松は、京都三本木の芸者である。若狭国小浜の武士の娘だったというが、家が貧しかったので、京都に出てきて芸者になった。当時、京都の芸者も、武士と同じように勤王芸者と佐幕芸者に分かれていた。幾松は勤王芸者である。
 禁門の変の前後から、恋人の桂のゆくえがわからなくなってしまっていた。幾松は必死になって探し歩いた。
 たまたま長州藩に出入りしていて、幾松も知っている商人にバッタリ会った。
 「桂さんはいまどこにいらっしゃるかわかりませんか?」
と訊くと、その商人は声をひそめてこう言った。
 「鴨川の橋の下にいらっしゃいます」
 幾松はびっくりした。鴨川の橋の下にいるということは、桂は物乞いになって身をひそめているということだ。幾松は、「桂さんはそこまで追い詰められているのだ」と思うと、胸がいっぱいになった。
 そこで夜になると、幾松はにぎり飯をたくさんつくつて、鴨川に足を運び、河原を忍び歩いた。ある席の下に行くと、
 「幾松」
と呼びかける男がいた。近寄ると、桂だった。
 「先生」
 幾松の目には、喜びの涙がどっとあふれた。
 「ひどいことになった。行き場所がない」
 桂はそう言って苦笑した。どんなに追い詰められても、笑顔を忘れないのが桂の性格だった。幾松はほっとして、持ってきたにぎり飯をさし出した。すると、桂はとても喜んだ。
 「これはありがたい。ちょうど腹が減っていたところだ。おい、みんなで食おう」
 そう言って桂は、幾松からもらったにぎり飯を、橋の下にいる仲間に分けた。仲間たちも喜んで、にぎり飯にむしゃぶりついた。そんな光景を、幾松は胸がしめつけられる思いで見つめていた。
  次の晩も、その次の晩も、幾松はにぎり飯を運んだ。
 「こんなところを幕府の役人に見つかったら、おまえも捕まるぞ」
 桂が心配してそう言った。幾松は激しく首を横に振った。
 「いいえ、先生のご苦労を思えば、こんなことぐらいなんでもありません。わたしも命がけです」
 そう強い決意で言う幾松に、桂は心から感謝した。

■激情家にして「現実対応」をよくした尼将軍【源頼朝と北条政子】

<本文から>
 やがて頼朝が急死し、二代目二二代目将軍がそれぞれ若死にすると、頼経が四代目将軍になった。ただし、頼経はまだ幼かったので、政子が後見した。そこで政子は、「尼将軍」と呼ばれた。
 京都の後鳥羽上皇が、平家の残党たちを語らって、「鎌倉幕府打倒」の兵を挙げた。かつて頼朝に従っていた東国の武士たちは動揺した。鎌倉を守るべきか、それとも京都側について鎌倉を攻めるべきか。侃々諤々の騒ぎになった。この時、政子は東国の武士を鎌倉に集め、こう宣言した。
 「あなたがたは、かつて京都でどういう扱いをされたか忘れてしまったのか。あの頃、東国の武士はすべて公家のイヌとして扱われ、雨の日も雪の日も門の外に立たされ、番犬の役割をしていた。しかもその費用は全部自分持ちだった。だから京都からは、ポロポロの着物に、すり切れたワラジひとつで戻ってきた。しかも、任期は三年だった。それをわが夫頼朝公は、期間を半年に縮めたうえ、費用は全部京都持ちにさせた。そのことをお忘れか?もう一度あの惨めな状況に戻りたいのならば、さっさと京都へ行くがよい。しかしその時は、かならずこの政子を殺してから行ってほしい」
 火を吐くような政子のことばに、東国の武士たちは感動した。

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