童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          日本史に刻まれた最後の言葉

■楠木正行の自由な精神

<本文から>
 かへらじとかねておもへばあづさ弓 なき数にいる名をぞとどむる 楠木正行
″なき数にいる″というのは″死んだ者の中に入る″ということで、
「生きている今、すでに死者の中に自分の名を加えておく」
 という悲壮な決意の表明だ。かれの父正成と源義経、そして戦国末期の真田幸村(正しくは信繁)の三人をぼくは、
「ゲリラ戦の達人」
 と思っている。が、それぞれ高い戦功を上げながらも、その遇され方はけっしてよくはない。これは身分の問題だけではなく、
「かれら自身の人間性」
 に基づくものではなかろうか。つまり三人とも、
「自由を愛する気質」
 が強い。したがってかれらに従う者もすべて自由人だ。勢い、組織には馴染まない。頼朝が弟の義経を嫌ったのも、あるいは義経の、
「自由を愛する精神と、これに従う自由人家臣団」
 の群れに嫌悪感をもよおしたのかもしれない。
 楠木正成も同じだ。河内の土豪としてかれは「配水権や道路管理権」などを掌握していた。したがって生活には因っていない。だからかれは南朝で大きな功績を立てたにもかかわらず、その適され方がかなり不公平だったことにけっして文句はいわない。満足していた。それはかれの持つ、
 「自由な精神」
がそうさせるのである。その血を継いだ息子の正行の″最期の言葉″には、したがって、
 「自分たちの父子を冷遇した対象が憎い」
 などという気持ちは微塵も表われていない。従容として死地に赴く潔さがある。
 しかし南朝も室町三代将軍足利義満の時代に、北朝の天皇に神器を返し、南北朝は合体する。つまり北朝の中に南朝は発展的解消を遂げてしまう。現在の天皇が北朝系であることはだれもが知っている。
 とくがわいえやす
 徳川家康がこんなことをいっている。
 「平氏を滅ぼすものは平氏なり、鎌倉を滅ぼすものは鎌倉なり」
 つまり、
 「栄えた政権が滅びるのはけっして敵の手によってではない。自らの手によって滅びるのだ。滅びる原因は自分の組織内にある」
 ということである。徳川家康も江戸幕府を開いたが、
 「今までに滅びた政権を他山の石(反面教師)として、徳川政権が簡単に滅びるようにしてはならない」
 という戒めであろう。その意味でいえば南朝もまた、
 「滅びた原因は南朝内の公家たちの政争にあった」
 といっていい。しかしそんな公家たちの醜い争いに身を汚すことなく、最後まで敵と戦い抜いた楠木父子の生き方は実に爽やかだ。山中の透明な谷川を見る思いがする。
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■信玄は部下に分権と責任を与えた

<本文から>
  人は城 人は石垣 人は堀 武田信玄
 この言葉の後に「情は味方仇は敵なり」という下の句がつく。情というのは部下に対する愛情であり、仇というのは部下を憎む心だ。したがって下の句から上の句を解釈すると信玄のこの言葉は、
・武田信玄は部下に温かい愛情を持っていた
・一人ひとりの部下に対し、おまえは城、おまえは石垣、おまえは堀というように、城全体の構成になぞらえて、部下を慈しんだ
 という意味にとられている。しかしぼくは違った解釈をしている。信玄が治めた国は甲斐(山梨県)だ。甲斐の原語は″山峡″から来たといわれる。というのは、平地が少なく、山が多いということだ。第一次産業、とくに米をその国の富の源とする時代に農耕地が少ない、
 というのはそれだけ生産性が低いといわざるをえない。したがって甘ったれた管理をしていたのでは武田企業は潰れてしまう。
 加えてこの言葉はもっと冷たい意味を持っている。
 「分権と責任」
 ということだ。分権というのはトップの持っている権限の一部を、信頼できる幹部に委ねることである。信玄はそれを実行した。かれには二十四人の幹部がいた。したがって幹部に対し、
 「おれの権限の一部をお前たちに与える。もしも問題が起こった時はおれと同じ責任を取れ」
 という意味である。厳しい。しかしそういう厳しさがなければ武田軍団は保てない。この頃は、何か不祥事が起こるとマスコミもすぐトップを記者会見に呼び出す。これは間違いだ。
 本当は仕事の面においてトップは幹部に委任をしているはずだ。つまり分権された仕事についての責任は、委任された幹部にある。したがって一時的に仕事の面についてはその幹部を問い詰め、さらに、
 「そういう幹部に仕事を委ねたトップの任命責任はいかに?」
 という問い詰め方をすべきである。分権責任と任命責任とはまったく違う。この頃はこの辺がごっちゃになっているので、トップはすぐ退任してしまう。本当は、
 「辞めればよい」
 というものではなかろう。
 武田信玄がそういう厳しさを持っていたということは、たとえば次の言葉でもわかる。
  われが人を使ふは、人をば使はず、その業を使ふなり
 今風にいえば、
 「おれ(トップ)が人を用いるのは、別に本人の人間性だとか人徳だとかを問題にしてるわ けではない。その能力を活用するのだ」
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■山中鹿之介の不屈の精神

<本文から>
 憂きことのなほこの上に積もれかし かぎりある身の力ためさん 山中鹿之介
 あるいはかれが毎夜月に祈った言葉として、
 「われに七難八苦を与え給え」
 というのがある。前の辞世も願いの言葉も同じ意味だ。しかし、
 「この世の苦難はすべてわが身に与えてほしい」
 という思想は、かなりマゾヒズムだ。しかしぼくはこの山中鹿之介の月に祈る姿を思い浮かべては、辛い時に、
 「山中鹿之介はもっと辛かったぞ。このくらいでへこたれるな」
 と自分を励ます。織田信長の判断によって (同時に明智光秀その他秀吉の足を引っ張る織田家の重臣たちの策謀によって)、秀吉は信長から、
 「上月城を放棄して三木城を攻めよ」
 と命令される。秀吉はこの時城内に使者を送って、尼子・山中主従に、
 「城を開いてわが軍に加わったほうが良いのではないか」
 と申し入れたが尼子・山中主従はきかなかった。主人の尼子氏はいずれかに去り、山中鹿之介は毛利家に改めて召し抱えられる、ということで西へ向かった。しかし途中の高梁川(岡山県西部)の岸辺で暗殺された。三十五歳である。
 人間の中には、ある 志 を抱いて、それを目標としつつ懸命な努力をするが、心の一角
一−ま、
 (どうせ、またうまくいかない)
 という諦念が根深く巣くっている場合がある。山道にたとえれば、五合目六合目まではと
んとんと行くが、七合目八合日あたりになると相当辛くなる。山頂ははるか遠くだ。
 結局、
 (いくら努力しても、けっして山頂には行けない。そういう宿命をおれは負っているのだ)
 という諦めの念がどこかでちらちらする。そしてそのとおりになる。七合目八合目を通過して九合目に差し掛かった時に、必ず何かアクシデントが起こる。そのまま下へ落下して行く。こういういわば、
 「自分が落ちて行く下降感覚あるいは崩壊感覚」
 というものを宿命として抱えている人間がいる。こういう人は蟻地獄に落ちたと同じで、どんなに努力しても這い上がることはできない。しかし蟻地獄に落ちた生き物もそのことをよく知っている。が、這い上がろうとする努力はやめない。いってみれば神話にあるシジフォスと同じだ。岩をかついで山頂まで行こうとするが絶対に行けない。山中鹿之介はシジフォスだ。しかしかれは潔かった。
 (おれの尼子家再興という志はけっして実現できない。しかしだからといって諦めない。たとえ実現できなくても実現しようとする努力だけは、生きている限り続けるのだ)
 と思っていた。だからこそ毎夜月に向かって (月の出ない日もあったろうが、そんなことは鹿之介にとって問題ではない。雨雲が厚くたれこめていても、鹿之介は雨雲の上に必ず月があると思っていた)、
 「われに七難八苦を与え給え」
 と願ったのは本心だ。かれは、
 (まだまだおれの苦難は軽い。さらに苦難に立ち向かって行こう)
 という不屈の精神を保ち続けたのである。この前に、
 「山中鹿之介はマゾヒストだ」
 と書いたが、けっしてからかいの気持ちで書いたわけではない。ぼく自身、毎日の生活に即して、山中鹿之介の不屈の精神から勇気づけを得ているのである。
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■秀吉は秀頼の安全であれば、だれが天下人になってもいいと考えていた

<本文から>
 つゆとおちつゆときへにしわがみかな なにはの事もゆめの又ゆめ 豊臣秀吉
 哀切極まりない″最期の言葉″だ。なにはの事もゆめの又ゆめとはいっているが、実をいえば死の直前に政権の五大老すなわち徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元の五人に、
 「秀頼のこと、頼み申す、頼み申す」
 と実に哀憐極まりない頼みごとをしている。政治家秀吉として考えれば、この哀願は、
「わたしが死んだ後は秀頼に跡を継がせ、みんなで守り立ててほしい」
 という意味にも聞こえる。が、単に一個人としての親秀吉と考えれば、
 「間違っても秀頼を殺すようなことはしないでほしい」
 と、その生命の長い保持を願っているようにも聞こえる。このへんは秀吉の身になってみ
なければわからない。ぼくは意外と後者のような気がしている。つまり秀吉には、織田信長と同じように、この段階では政権欲はないのではないかということだ。
 「わが子秀頼の身が安全でさえあれば、だれが天下人になってもいい」
 と思っていたのではないかという気がする。むしろ豊臣政権の保持にこだわったのは秀頼の母淀殿だろう。しかし生き残った者の政権争奪戦は凄まじい。とくに徳川家康を中心とする勢力は、この機会を逃すまじと一挙にいろいろな手を打つ。やがて関ケ原の合戦が起こる。
 関ケ原合戦の直接の動機は、会津の国主上杉景勝が兵を挙げたせいだという。しかしこれは従来、
・石田三成と上杉景勝の家老直江兼続は義兄弟だった
・そこで二人は共謀し、会津でまず上杉が兵を挙げる。おそらく徳川家康は軍を率いてこれを討伐に行くだろう
・その隙を狙って石田三成は必ず挙兵する
・そこで上方の石田軍と会津の上杉軍とで徳川家康を挟み撃ちにする。おそらくこれには常陸(茨城県)の佐竹氏も参加する。そうなれば石田方の勝利は間違いない
 という作戦だったという。が最近は研究者の間で、
 「上杉景勝が兵を挙げたのは、必ずしも天下を二分しようなどという気はなく、むしろ豊臣秀吉に追われた旧地越後に、勢力を回復したかったのではないか」
 といわれるようになった。このほうが正しいような気もする。しかし徳川家康は上杉が兵を挙げたと聞いて、自分に同調する大名を率いて東北に向かった。ただ断わっておきたいのは、この時の徳川家康が率いた軍勢はけっして徳川軍ではない。あくまでも豊臣軍である。
つまり家康にすれば、
 「上杉は豊臣秀頼様に謀叛を起こした」
 という観点で問題を捉えている。豊臣秀吉がよく自分に従わない大名たちに、
 「おまえたちはおれに従わないのではなく天皇の命に背いているのだ」
 という大義名分を立てたのと同じだ。当時いかに動乱の世の中ではあっても、やはり軍を起こすにはそれなりの名目が必要だった。したがって徳川家康が上杉景勝を征伐するというのは、
 「豊臣秀頼公に代わって上杉を征伐する」
 ということだ。これに同調する大名もしたがってこの時はまだ家康と同格だ。主従関係は成立していない。
 家康の率いる軍勢は下野小山(栃木県小山市)まで進んだ。この時に一つの事件が起こった。それはこの軍に参加していた山内一豊(掛川城主)のところに、妻の千代から二通の手紙が届けられたことである。内容は二通とも同じだった。しかし一通は夫宛、もう一通は徳川家康宛である。一通は家康宛の手紙を封も開かずに届けた。家康は開いた。読んで目を見張った。それには、
 「徳川様ご出陣後大坂近辺の状況」
 が詳しく書かれてあった。
・徳川様がご出陣の後に石田三成がすぐ兵を挙げたこと
・石田三成は、徳川様に同行している諸大名の家族を人質として大坂城へ拉致していること
・その中で細川忠興様の奥様(玉・洗礼名ガラシャ)は、拉致を拒み自決なさったこと。
・しかしお王様は敬虔なクリスチャンなので自殺ができなかったこと。そのため家老の小笠原という人に長刀で胸を突かせてお果てになったこと
・徳川様にお供すべきであった大公呈口継様がお味方なさったこと
・故太閤様の御台様は京都高台寺にお移りになったこと
・今大坂近辺では、やがてはじまる大合戦にはたして豊臣秀頼様がご出馬になるかどうか、いろいろな噂が飛んでいること
・石田三成は西軍の総大将に毛利輝元様を立てたが、輝元様の態度は必ずしもはっきりしないこと
・加えて秀頼様の御母堂淀様も秀頼様のご出馬にそれほど乗り気ではないこと
 などである。家康は息をのんだ。そして大きく手で膝を打った。
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