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<本文から> かへらじとかねておもへばあづさ弓 なき数にいる名をぞとどむる 楠木正行
″なき数にいる″というのは″死んだ者の中に入る″ということで、
「生きている今、すでに死者の中に自分の名を加えておく」
という悲壮な決意の表明だ。かれの父正成と源義経、そして戦国末期の真田幸村(正しくは信繁)の三人をぼくは、
「ゲリラ戦の達人」
と思っている。が、それぞれ高い戦功を上げながらも、その遇され方はけっしてよくはない。これは身分の問題だけではなく、
「かれら自身の人間性」
に基づくものではなかろうか。つまり三人とも、
「自由を愛する気質」
が強い。したがってかれらに従う者もすべて自由人だ。勢い、組織には馴染まない。頼朝が弟の義経を嫌ったのも、あるいは義経の、
「自由を愛する精神と、これに従う自由人家臣団」
の群れに嫌悪感をもよおしたのかもしれない。
楠木正成も同じだ。河内の土豪としてかれは「配水権や道路管理権」などを掌握していた。したがって生活には因っていない。だからかれは南朝で大きな功績を立てたにもかかわらず、その適され方がかなり不公平だったことにけっして文句はいわない。満足していた。それはかれの持つ、
「自由な精神」
がそうさせるのである。その血を継いだ息子の正行の″最期の言葉″には、したがって、
「自分たちの父子を冷遇した対象が憎い」
などという気持ちは微塵も表われていない。従容として死地に赴く潔さがある。
しかし南朝も室町三代将軍足利義満の時代に、北朝の天皇に神器を返し、南北朝は合体する。つまり北朝の中に南朝は発展的解消を遂げてしまう。現在の天皇が北朝系であることはだれもが知っている。
とくがわいえやす
徳川家康がこんなことをいっている。
「平氏を滅ぼすものは平氏なり、鎌倉を滅ぼすものは鎌倉なり」
つまり、
「栄えた政権が滅びるのはけっして敵の手によってではない。自らの手によって滅びるのだ。滅びる原因は自分の組織内にある」
ということである。徳川家康も江戸幕府を開いたが、
「今までに滅びた政権を他山の石(反面教師)として、徳川政権が簡単に滅びるようにしてはならない」
という戒めであろう。その意味でいえば南朝もまた、
「滅びた原因は南朝内の公家たちの政争にあった」
といっていい。しかしそんな公家たちの醜い争いに身を汚すことなく、最後まで敵と戦い抜いた楠木父子の生き方は実に爽やかだ。山中の透明な谷川を見る思いがする。 |
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