童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          日本史にみる経済改革

■北条早要の善政、武田信玄も攻略を諦めた

<本文から>
 早雲は、
「新しく小田原に町をつくる。商人を歓迎する。諸国からきてもらいたい」
 と告げた。しかし商人たちはそういわれたからといってすぐやってくるというふうにはならなかったというのは、いつ敵が攻めこみ町に火をつけるかわからない。戦国の城下町というのは、生命財産がつねに危険にさらされる場だ。
「おちおち商売もできない」
 と考えるのがふつうだった。
 織田信長はそのために、
「楽市・楽座」
 と呼ばれる、いわば誘致企業の優遇措置を講じたのである。
 北条早雲は信長とは別な考え方を持った。それは、
「商人たちの不安を一掃しなければだめだ」
 と考えたことである。ではどうするか。早雲は、
「城下町も、城の一部にしてしまおう」
 と思い立った。
 城下町を城の一部にするというのは、城下町のまわりにぐるりと城壁を築くということだ。
 中国の城の真似をしようということである。当時の戦国大名の城下町は、すべて城の中には 入らない。敵が攻めてくれば、すぐ危険にさらされる。たちまち焼かれてしまう。
  それを早雲は、
 「町も全部城壁で囲もう」
 と考えた。さっそく工事に取りかかった。これが諸国で噂になった。
 「早雲さまがおつくりになる小田原の城下町では、商人や庶民の町まで全部石垣で守ってくださるそうだ」
 そうなると諸国の商人たちも考えを改めた。
 「それでは試しに小田原にいってみようか」
 という商人が出てきて、その数がしだいに増えた。やがては、われもわれもといっせいに 小田原の城下町に押しかけてきた。そして噂がほんとうだったことを知った。小田原の城下町は、ぐるりと厚くて高い城壁に囲まれていたのである。商人たちは顔を見合わせた。
 「これなら安心して商売できる。いざとなったときは、北条さまがわれわれを守ってくださる」
 そううなずき合った。
 こうして小田原の城下町にはたくさんの商家町が密集した。山海の珍物、琴、碁、書、画、細工物、舶来品などの店ができて、いっせいに豊富な品物を並べた。
 そうなると、商人たちの定住化がすすみ、同時にまた、
 「われわれの町を大切にしよう」
 という愛情が湧く。そこで商人たちは相談して、
 「まちをきれいにしよう」
 という運動をはじめ、やがて小田原の城下町はいつでもチリひとつないきれいな町になった。これがまた評判になった。早雲は喜んだ。戦国の名将といわれた武田信玄が、あるとき二万の大軍をひきいて小田原まで攻めてきたことがある。すぐ物見を出して中を探らせた。戻ってきた物見は、
 「城下町にはチリひとつありません。店が軒を並べ、たいへんに繁盛して賑やかです。しかし、町の人間の心はすべて城主の北条氏を慕っています」
 と報告した。信玄は考えこんだ。
 「うかつに城下町に入ると、逆にこっちがやられる」
 と警戒した。そこで、
 「引きあげよう」
 と全軍にUターソを命じた。名将信玄がUターソしたので、たちまちこの噂が流れた。そこで、
 「小田原城は難攻不落だ」
 といわれるようになった。
 この噂もすべて、北条早雲の、
 「民政重視」
 という方針と、
 「そのための商人の保護と育成」
 が原因だった。
 北条早雲の前半生はほとんど放浪生活だったという。したがって旅から旅を続けているうちに、かれは、
 「世の中では経済が大切だ」
 ということを身にしみて感じた。それを小田原で実験したのである。しかもかれの場合は
「大名が商人を支配するのではなく、大名と商人が溶け合って住む人びとの幸福を増進す
る」
 という方針を取った。この方針は、かれの子孫も守った。それがのちに、領国をそっくり引き継いだ徳川家康を四苦八苦させる結果になったのである。

■長州藩の特別会計、明治維新の軍事増強の資金に

<本文から>
  特別会計資金″撫育方″
藩によっては、新田を開発した場合は、
 「当分、開発した新田については年貢をかけない」
 と、生産者に対する労働の喜びを保証する場合がある。が、重就は年貢をかけた。ただしかけても、
 「これは、別途に積み立てておいて、おまえたちが困った場合には救済費として支出する」
 と告げた。そして、プールされた資金を扱う役所を設けた。重就はこれを、
 「撫育方」
 と命名した。撫育方に勤める役人は、
・絶対に不正をおこなわないこと。
・撫育方に積み立てられた金額は、絶対に公表しないこと。
 などの条件を求められた。したがって、新田はどんどん開発されたが、いったいいくら撫育方に貯蓄されているのかだれも知らない。
 やがて、この新田開発がバネになって、長州藩内では新しい産品を開拓した。塩、紙、蟻などである。これに米を加え、その中から三つを取って、
 「長州の三白」
 と呼んだ。いずれの製品も色が白かったからだ。
 やがてこういう製品が他国へ輸出されるようになると、
 「長州藩にない品物を輸入しょう」
 ということになって、物資の流通を扱う役所が設けられた。これを、
 「越荷方」
 と名づけた。面白いのは、この越荷方に高杉晋作、桂小五郎、伊藤博文などのいわゆる"志士"が勤務していたことである。したがって長州藩の志士たちは、単に政治感覚にすぐれていただけではなく、経済感覚にもすぐれていたといっていい。
 撫育方に貯蓄された金は、長州藩内に自然災害や人災が起こったときには、どんどん支出された。とくに生産者である農民に対しては、
 「年貢を減免する」
 と告げ、その年の年貢を免じた。しかし会計上は、
 「その分は、撫育方から支出する」
 ということにして、年貢減免分については一般会計へ引当金として支出した。この撫育方資金の活用によって、長州藩内はしだいに活気を取り戻した。
 これに目をつけたのが、桂小五郎たち越荷方の武士だ。
 「長州藩には、撫育方という特別会計資金がある」
 桂たちは顔を見合わせた。かれらの胸の中には、
 (これを討幕の資金に使おう)
 という気持ちが湧いた。こうして越荷方の活動は活発になった。上方と交流し、
 「すぐれた製品の交流」
 をおこなうようなこともはじめた。
 だから、明治の元勲といわれた長州藩の志士たちが、藩内で懸命におこなっていたのは、
 「長州藩を富ませるための経済活動」
だった。これは薩摩藩も同じだ。薩摩藩も、血みどろな経営改革によって得た資金を、軍事力増強に使った。
 長州藩もやがて、この撫育方に貯められていた資金を使って、イギリスからひそかに新しい武器を購入する。その仲介に当たったのが、坂本龍馬たちである。龍馬もまたすぐれた経済人である。そう考えると、
 「明治維新は、経済感覚にすぐれていた下級武士によって実現した」
 といえるのではなかろうか。

■豊島十右衛門は酒を原価で売って成功をおさめた

<本文から>
酒樽を売って酒を原価で売るというのはこういうことだ。十右衛門は、洒の製造元に大量の注文をする。製造元は豊島屋に樽で送り込んでくる。十右衛門はこれを原価でどんどん売る。酒はみるみる売り切れてしまう。十右衛門は酒の製造元に、
 「空いた樽を買い取って欲しい」
という。酒の製造元では、樽はノドから手が出るほど欲しい。買い取る。ここで、十右衛門は樽を売って得た利益で、酒の値を安くできるのだ。
 十右衛門が考えたのは、
 「大坂の商人は、よくカネがなければチエを出せ、チエがなければアセを出せという。江戸の商人も同じだ」
 と思った。そこでかれはチエを出したのだ。
 しかし、十右衛門が問いに対して答えたことはその一部でしかない。もうひとつ秘密があった。それは当時の取引は、すべて、
 「節季払い」
 だったことである。節季払いというのは、盆と暮れにそれまでの分を精算するということだ。
 十右衛門は、酒の製造元に対してこの方法を取った。つまり、
 「買い入れた酒の代金は、盆と暮れに支払います」
 と告げたのである。ところが、かれは自分の店に飲みにくる客に対しては、
 「掛け売りいっさいお断り、現金取引」
 と宣言した。
 「酒を原価で売る代わり、掛け売りは認めない」
ということである。となると毎日入る日銭は、まとめておけば他にまわせる。融資もできる。酒造業者に対する支払いは年二回なのだから、その間利子を稼ぐこともできる。
 もうひとつは、かれの店の田楽は大きくて安いということだ。これはなにもサービスだけはない。十右衛門の考えによれば、
 「田楽にぬった味噌はかなり辛い。味噌が辛いと、酒をさらに飲む」
 という目論見もあった。
 ところで店にくる客たちのほとんどが、
 「この不景気は、ご政道が立ちいかないせいだ」
 という不平不満を洩らす。十右衛門は、毎日のようにそれをきいた。たしかにそういうこともあるだろう。しかし、不平不満だけいっていても、世の中はよくはならない。十右衛門にすれば、
 「せめて安い洒を飲んで、明日から元気に働いてもらいたい」
 ということだ。そうなると、十右衛門が心配したのは、
 「家の主人は、こうして洒を飲んでウサを晴らすことができるが、家族たちにはそれができない」
 ということだった。十右衛門は、
 「家に残っている家族のための飲料を考えよう」
 と思った。考え出したのが白酒である。これがたちまち評判になった。とく三月の節句近くになると、どっと人が押し寄せた。十右衛門はここでも、
 「予約制」
 を取った。これは、
 「白酒の交換券」
 ともいうべきもので、その客が欲しいだけの量を申し出れば、そこで現金取引をしでしまう。そして、
 「白酒何合の交換券」
 という札を出す。予約なら、販売のときのように客がどっと押し寄せはしない。何波にも分かれてやってくる。したがって、販売のときに押し寄せる代金や、つりのやりとりなどで時間を食う必要はまったくなかった。それに十右衛門は、予約票を整理して、
 「どなたさまには、白酒何合」
 と分類整理していたから、販売の日には客が交換券を出しさえすれば、
 「はい、どうぞ」
 と、すでに用意してあった白酒を渡すことができた。この商売は当たった。のちに『江戸名所図会」にも、豊島屋の白酒の販売光景が描かれている。

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