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<本文から> 早雲は、
「新しく小田原に町をつくる。商人を歓迎する。諸国からきてもらいたい」
と告げた。しかし商人たちはそういわれたからといってすぐやってくるというふうにはならなかったというのは、いつ敵が攻めこみ町に火をつけるかわからない。戦国の城下町というのは、生命財産がつねに危険にさらされる場だ。
「おちおち商売もできない」
と考えるのがふつうだった。
織田信長はそのために、
「楽市・楽座」
と呼ばれる、いわば誘致企業の優遇措置を講じたのである。
北条早雲は信長とは別な考え方を持った。それは、
「商人たちの不安を一掃しなければだめだ」
と考えたことである。ではどうするか。早雲は、
「城下町も、城の一部にしてしまおう」
と思い立った。
城下町を城の一部にするというのは、城下町のまわりにぐるりと城壁を築くということだ。
中国の城の真似をしようということである。当時の戦国大名の城下町は、すべて城の中には 入らない。敵が攻めてくれば、すぐ危険にさらされる。たちまち焼かれてしまう。
それを早雲は、
「町も全部城壁で囲もう」
と考えた。さっそく工事に取りかかった。これが諸国で噂になった。
「早雲さまがおつくりになる小田原の城下町では、商人や庶民の町まで全部石垣で守ってくださるそうだ」
そうなると諸国の商人たちも考えを改めた。
「それでは試しに小田原にいってみようか」
という商人が出てきて、その数がしだいに増えた。やがては、われもわれもといっせいに 小田原の城下町に押しかけてきた。そして噂がほんとうだったことを知った。小田原の城下町は、ぐるりと厚くて高い城壁に囲まれていたのである。商人たちは顔を見合わせた。
「これなら安心して商売できる。いざとなったときは、北条さまがわれわれを守ってくださる」
そううなずき合った。
こうして小田原の城下町にはたくさんの商家町が密集した。山海の珍物、琴、碁、書、画、細工物、舶来品などの店ができて、いっせいに豊富な品物を並べた。
そうなると、商人たちの定住化がすすみ、同時にまた、
「われわれの町を大切にしよう」
という愛情が湧く。そこで商人たちは相談して、
「まちをきれいにしよう」
という運動をはじめ、やがて小田原の城下町はいつでもチリひとつないきれいな町になった。これがまた評判になった。早雲は喜んだ。戦国の名将といわれた武田信玄が、あるとき二万の大軍をひきいて小田原まで攻めてきたことがある。すぐ物見を出して中を探らせた。戻ってきた物見は、
「城下町にはチリひとつありません。店が軒を並べ、たいへんに繁盛して賑やかです。しかし、町の人間の心はすべて城主の北条氏を慕っています」
と報告した。信玄は考えこんだ。
「うかつに城下町に入ると、逆にこっちがやられる」
と警戒した。そこで、
「引きあげよう」
と全軍にUターソを命じた。名将信玄がUターソしたので、たちまちこの噂が流れた。そこで、
「小田原城は難攻不落だ」
といわれるようになった。
この噂もすべて、北条早雲の、
「民政重視」
という方針と、
「そのための商人の保護と育成」
が原因だった。
北条早雲の前半生はほとんど放浪生活だったという。したがって旅から旅を続けているうちに、かれは、
「世の中では経済が大切だ」
ということを身にしみて感じた。それを小田原で実験したのである。しかもかれの場合は
「大名が商人を支配するのではなく、大名と商人が溶け合って住む人びとの幸福を増進す
る」
という方針を取った。この方針は、かれの子孫も守った。それがのちに、領国をそっくり引き継いだ徳川家康を四苦八苦させる結果になったのである。 |
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