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<本文から> その実、日本の政務を思いどおりしたいのは中臣鎌足なのであり、鎌足は、軽皇子(孝徳天皇)−中大兄皇子(皇太子)という二重の虚権を設けることによって、より自分の実権をカムフラージュできるのだ。
孝徳帝は新政府の陣容を発表した。
左大臣 阿倍内麻呂
右大臣 蘇我倉山田石川麻呂
内 臣 中臣鎌足
国博士(政策顧問)僧みん・高向玄理
こういう顔ぶれである。政策顧問にふたりの中国通を据えたことは、中大兄・中臣のいわゆる"大化の改新"の推進者が、日本をこれからどうしようとしているのかを、如実に示すものである。つまり、日本の諸制度を、当時の中国にマネようというのであった。
新政府は、六四五年八月、即ち、入鹿を暗殺した二カ月後に、諸地方の土地と人民に対する調査を開始した。中臣鎌足は、まず、国家財源である土地と人民を″国有″にする意図を持っていたのである。
中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を暗殺したのは、六四五年六月十二日である。入鹿の父蝦夷は翌六月十三日自殺した。そして、新政府の陣容の発表は六月十四日である。血まみれのクーデターから組閣にいたるまでのうごきは、まさに電光石火だ。
そして、その二日後の六月十六日、新政府は日本最初の元号である「大化」を定めた。有名な歴史的事件である。元号設定が中国からの制度輸入であることはいうまでもない。このことによっても、そのときの新政府、(中大兄・中臣政権)が、こんごの日本国家をどのようにつくりあげて行こう、としているのかは歴然である。
ところで、
この国家構想は、前にもふれたが、決して中大兄・中臣政権の創造ではない。この構想は、すでに聖徳太子に発している。
聖徳太子は蘇我馬子・蝦夷父子の専横ぶりをみるにつけ、地方蒙族主導による日本の政治のありかたにいつも疑問を持っていた。というより、天皇家主導による国家の実現をゆめみていた。聖徳太子を、日本における仏教興隆の恩人とみるのはまちがいではない。しかし、単なる宗教人であるよりも、すぐれた政治家であった。 |
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