童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          日本を創った官僚たち 歴史にみる虚像と実像

■大化改新が日本官僚の始まり

<本文から>
 その実、日本の政務を思いどおりしたいのは中臣鎌足なのであり、鎌足は、軽皇子(孝徳天皇)−中大兄皇子(皇太子)という二重の虚権を設けることによって、より自分の実権をカムフラージュできるのだ。
 孝徳帝は新政府の陣容を発表した。
 左大臣 阿倍内麻呂
 右大臣 蘇我倉山田石川麻呂
 内 臣 中臣鎌足
 国博士(政策顧問)僧みん・高向玄理
 こういう顔ぶれである。政策顧問にふたりの中国通を据えたことは、中大兄・中臣のいわゆる"大化の改新"の推進者が、日本をこれからどうしようとしているのかを、如実に示すものである。つまり、日本の諸制度を、当時の中国にマネようというのであった。
 新政府は、六四五年八月、即ち、入鹿を暗殺した二カ月後に、諸地方の土地と人民に対する調査を開始した。中臣鎌足は、まず、国家財源である土地と人民を″国有″にする意図を持っていたのである。
 中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を暗殺したのは、六四五年六月十二日である。入鹿の父蝦夷は翌六月十三日自殺した。そして、新政府の陣容の発表は六月十四日である。血まみれのクーデターから組閣にいたるまでのうごきは、まさに電光石火だ。
 そして、その二日後の六月十六日、新政府は日本最初の元号である「大化」を定めた。有名な歴史的事件である。元号設定が中国からの制度輸入であることはいうまでもない。このことによっても、そのときの新政府、(中大兄・中臣政権)が、こんごの日本国家をどのようにつくりあげて行こう、としているのかは歴然である。
 ところで、
 この国家構想は、前にもふれたが、決して中大兄・中臣政権の創造ではない。この構想は、すでに聖徳太子に発している。
 聖徳太子は蘇我馬子・蝦夷父子の専横ぶりをみるにつけ、地方蒙族主導による日本の政治のありかたにいつも疑問を持っていた。というより、天皇家主導による国家の実現をゆめみていた。聖徳太子を、日本における仏教興隆の恩人とみるのはまちがいではない。しかし、単なる宗教人であるよりも、すぐれた政治家であった。
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■藤原氏のための官僚へ変貌

<本文から>
 この、
 「武よりも知」
 という点に、かれの意図した、
「官僚制」
の根幹があったにちがいない。この武よりも知、というのは一見妥当だが、後代への影響からみれば、かなり悪影響があり、いわば、知は、
「悪ヂエ化」
して行っているのである。というのは、
中臣の遺志は、かれの没後も着々とひきつがれ、ついに道長の、
「この世をば・・・」
 の歌にまできわまるからだ。
 いうならば、ここにおいて、当初、中臣が創設した、
「日本天皇官僚」
 は、いつのまにか、
「藤原氏のための官僚」
に変質していたのである。そして、官僚群は、そのことに深い屈辱をおぼえることなく、むしろ、逆に、
 「もちづき圏内」
 に、すすんで組みこまれることを志向したのである。
 したがって、このころの官僚には、人民に対する配慮などはまったくない。あるのは、制度化され、その密息を次第に深めつつあるこの制度をいかに守りぬいて行くかである。
 なるほど、いままでの官職独占ともいうべき、
「世襲制」
 は天智・中臣によって廃止された。官僚にとって自由競争の時代がきた。ということは逆にいえば、その地位がつねにまったく不安定な状態においこまれたということでもある。
 しかし、このへんが、官僚の官僚たるゆえんだが、それぞれ個人個人の不安はあっても、その不安を基点に、
「官僚制」
 そのものを決して否定しは、しなかったということだ。
 つまり、
「おれがなれないのなら、あの制度職を廃止してしまえ」
 という気持ちにはならなかった、ということだ。
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■記紀におけるヤマトタケルの記述の違い

<本文から>
 この天武天皇は、「中臣鎌足」のところにも書いたが、ひじょうに多情多感な、いうならば人間的な生きかたをつらぬいた天皇である。
 兄の天智天皇の即位に不満があれば、琵琶湖畔の楼上で槍を突き立て、死を賭してのケンカも売るし、また、古代の美人、
 「額田王」
 と恋をし合って、これを天智にとられ、また、とりもどす、というようなこともくりかえす人である。
 さらに、"壬申の乱"で、天智の子と武力で争うし、その前は、吉野山中にこもって忍従の日をおくる、というようなことも辞さない人だ。
 話を飛躍させる。
 中臣鎌足の項でもちょっと触れたが、ヤマトタケルという青年がいる。ぼくたちの習った教科書に登場し、
 「クマソ退治」
 や、
 「エゾ征伐」
 などで活躍し、中部地方のある野(いまの焼津といわれている)では、賊に火をかけられ、剣で難をのがれたり、荒れ狂う相模灘の波をしずめるために、愛妻のオトタチバナヒメが海中に身をおどらせたり、荒野に死ぬと、その塞から白い繋がとび立ったりする、というような、どちらかといえば、哀調のこもった″説話″で有名な皇子である。
 「記紀」
 の記述のちがう例として、たとえば、このヤマトタケルの扱いが記と紀ではまったくちがうのだ。
 記におけるヤマトタケルは、実に奔放な、たとえ帝といえども、理不尽なことがあればくつてかかるし、いやな命令はきかない、といった、何というか、
 「自由意志」
 をふんだんに持った、古代人のよさみたいなものを多分に持つ男としてえがかれている。
もちろん、
 「ヤマトタケル」
 というのは、集合名詞であり、多くの王子たちの事績を、ひとりの人間に集約し、
 「こうあってほしいこと」
 を集めて位置づけた、
 「歴史の虚像」
 であろう、とぼくは思っている。だから、はっきりしたいいかたをすれば、ぼくは、
 「ヤマトタケルは実在しない」
 即ち
「不在の虚像」
 であると信じている。しかし、この稿では別にヤマトタケルの、
 「実在・不在」
 を論議するのが目的ではないから、くわしくはそのことにふれないが、このタケルのえがきかたが、「紀」になると、まったくそういう、
 「古代人の自由」
 を剥がれてしまうのである。すくなくとも「記」においては、天皇ともっと人間的なつきあいをし、喜怒哀楽をかくさずに表現する人間であったのが、「紀」においては、ただいたずらに天皇に、
 「慴伏」
 する、つまらない皇子になってしまっているのだ。
 これはタケルが変身したのではなく、書き手の態度が変わっているのである。ヤマトタケルという、もっともポピュラーな皇子ひとりの記述方法についても、「記」と「紀」では、そういうちがいが出ている、ということは、はっきりいえる。
 そして、ぼくがふしぎに思うのは、「記」と「紀」が別な時期に書かれたものでなく、つまり、
 「記が書かれたのちに、紀がその修正をした」
 というのでなく、まったくおなじころに、
 「同時進行」
 していた書物だということである。天武・元明・阿礼・安万侶という「記」グループと舎人親王以下の「紀」グループの、特に「紀」グループの冷徴な、しかし着々と、歴史をつくりあげて行く光景を思い浮かべると、ぼくはゾツとするのだ。
 「歴史は夜つくられる」
 ということばを、別なイミで感じる。かれらにとっては、ヤマトタケルの多感性を剥ぎとることくらい何でもないことなのだ。
 そして−
 なぜ、こんなことをいうかといえば、ぽくは、ヤマトタケルの中に、「古事記」企画者である天武天皇そのひとの青年の日を嗅ぎとるからなのである。
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■平将門は東国の民衆の書いた脚本にのり演技するタレント

<本文から>
 平将門はたしかに京都天皇政府に反乱し、東国に新政府をつくって自ら新皇と称したが、その反乱性についてどこまで評価すればいいのか、実は弱っている.テレビドラマの加藤剛の将門があまりにもつぶらなヒトミで終始したせいもあり」緒形拳の純友にくらべて悪人性や根性の稀薄さが目立つために」イメージがあれでは弱るのである。加藤剛には何の恨みもないが、ぼくはぼくで地方自治を考える立場から将門を語らなければならない。
 テレビの将門の反乱は周囲の状況や、周囲の人物たちによる、いわゆる、
 「やむをえない反乱」
 というようにえがかれていたが、一時、ぼくはそういう扱いは将門の反乱性を弱めるものであり、また後世への言い訳になるという感じも持ったが最近はまた考えを変えた。それは、何といっても東国一帯に依然として残る将門への虐仰の厚さであり、それを基にしての史蹟の多さである。この事実は無視できない。ぼくはこう考える.
 「将門の反乱は、将門に託した東国民衆の自治の願望のあらわれではなかったのか」
 と。つまり将門は将門でなくてもよかったのである。足立郡司判官代の武蔵武芝であろうと興世王であろうと、だれでもかまわなかったのだ。東国の民衆の書いた脚本にのり、その演出によって演技するタレントなら誰でもよかったのである。その意味で将門は恰好のタレントであった。従って将門事件は、そこまで追いつめられていた東国民衆の意志の事件とみるべきで、しかも、それは単なるもの盗りやもの乞いの精神ではない。東国自治の事件である。
 前に、将門がこぼした酒を拭き、落としたメンツブを拾うのをみて、田原藤太が、
「この男はちいさい、とても大事ができる人間ではない」
 とアイソをつかした、という俗話を聞いた。あるイミで、このエピソードは象徴的である。というのは将門がこぼした酒を拭いたり、落としたメシツブを拾うのは東国民衆の生活の一端を如実に表しているからだ。とすればそれをみて、
「この男は大器ではない」
 と断ずる藤太という男は一体どういう男なのだろう。
 飛躍するが、武士が拾頭したあと源頼朝政府が躍起になって潰そうとした相手に奥州の藤原一族がある。東北の一角で、独特の文化まできずきあげた妖しい光茫を放つ一族である。この藤原一族が田原藤太秀郷の子孫だ。平泉文化と呼ばれる一連の文化に、ぼくは妙な話だが感覚的に日本よりも大陸を感ずる。それも朝鮮を感ずる。
 藤太(秀郷)は若いころから手のつけられない反抗人間であり、囚人となって流されても、その流されたところで反乱をおこすという徹底ぶりであった。何も反乱が即自治だというわけではないが、日本史における反乱者の扱いが画一的で資料もほとんどない。もっと民衆史と、その民衆の生まれていた地域の歴史を掘りおこして反乱者と結びつければ、日本はじまって以来の地方自治の歴史がまだまだ沢山あるはずだし、日本史ももっと厚みのあるものに怒るはずである.
 ぼくが田原藤太にこだわるのは、実は藤太こそ真の、
 「東国自治の首謀者」
 ではなかったのか、と思うからだ。特に、将門を討って下野押領便から鎖守府将軍になっているが、全体に藤太には、
 「中央志向」
 はない。あったのはむしろ将門のほうだ。藤太には独立・自主心が旺盛で、また東国への愛情もあった。将門をみて、
 「この男はたのむに足らない…」
 と感じた。
 藤太は将門を東国民衆の書いた脚本にのる最終的なタレントとしては失格者だと断じたのだ。やる以上は必ず東国民衆を幸福にしなければならない。反乱加担者が地の果て、山の隅まで追われるようではこまる。そのためには何よりも反乱は成功しなければならぬという強固な、
 「割拠」
 即ち、日本国内における独立をかちとらなければならない、そのことが将門をみていて藤太の感じたいちばん大きなことであったろう。だから藤太は将門を殺した。そして自身をスターの座に据えたのである。そして意志を後代の一族に実現させたのであった。
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■源頼政は純粋次元における武士精神を大事にした

<本文から>
 それは開都以来何百年もの重みを持つこの土地のすみずみまで澄みこんだか政治の中心地としての歴史的特性が、折にふれてはよみがえり、悪魔のような魔力を発捜するからだ。
 権力の座に長くいるものはいつかはなれる、権力の都に長く住めばいつかはそこの気風に染まる。それは避けえない。そうさせないためのフィードバックとしての世論が完備していれば別だが、当時の世論は権力の思いのままだ。さからうものなどいない。頼政が生きていた当時は、世論は平清盛のために存在するのであって、それにそむけばたちまち殺される。このころの批判とは、そのまま死を賭さなければできなかった。
 「自分が権力をにぎるためには、まず現在の権力にちかづくことである」
 という″権力哲学″はいまの時代だってある。権力奪取にはふたつの道があって、
 ○ひとつは徹底的にその権力と闘い、それをほろぼして奪取する方法であり、
 ○もうひとつは、倒すべき権力の中に入りこみ、自分もその一部になりながら内部から食いつくす白アリ式の方法
 である。
 明治維新のときや、戦国時代の権力奪取はこのどっちかで争っている。西郷隆盛は前者だし大久保利通は後者だ。豊臣秀吉や徳川家康、あるいは明智光秀などは後者であり、かれらに食われた織田信長は前者だろう。おもしろいことに白アリのほうが権力奪取の確率は高いのだが、ロクな死にかたはしていない。死ぬときの年齢とは関係なく死にかたに必ず問題がある。非業の死が多い。歴史が罰するのか天が罰するのか、とにかくちゃんとした死にかたはしていない。ちゃんと死んでもあとに問題を残している。特に京都で政権をうばった者に非業の死が多い。織田僧兵もそうだし信長を殺した光秀もそうだ。いや、大久保利通にしても幕府を倒したのは京都においてである。だから暗殺された。京都というのはそういう怨念の都というか、ふしぎな町だ。"魔性の都"なのだ。
 源頼政はこの魔性の都で生まれ、育ち、七十七年間ズッポリ京都につかって生きた人間である。習俗そのものをほとんど京都に範をとりながら、しかしついにその魔性にスポイルされなかった。
 「純粋武士による武士政府」
 を実現しようという初心を忘れなかった。頼政からみれば平滑盛は武士の出身ではあってもその生きかたは完全に貴族であり、
 「武士の風上にもおけない」
 輩であったろう。
 こういう例をいやというほど知っている頼朝や家康が都と接触を持たなかったのは、
 「純粋次元における武士精神の培養」
 ということを大事にしたかったからにほかならない.そしてその選択は当っていた。
▲UP

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