童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
  二番手を生ききる哲学・信念の武将・藤堂高虎が身をもって示したもの

■二条城の改築案を2通提出、仕える心構え

<本文から>
こんな話がある。
 あるとき、二代将軍徳川秀忠が、京都二条城の改築を思い立った。藤生高虎が築城の名人であり、同時に城下町づくりにも堪能だというので、高虎にこの件を命じた。高虎は有り難くお受けした。ところが高虎は、設計図を二枚作った。互いに多少中身がちがう。家臣が訝って、
 「なぜ二条城の設計図を二枚お作りになるのですか?」
ときいた。高虎は笑ってこう答えた。
 「二通作ったのは、このうちどちらかを上様(秀忠)に選んでいただくためだ。上様がどちらかをお選びになれば、それは上様がお決めになった設計図だということになるだろう。もし一通しか出さずに、それをそのまま上様がお許しになつたら、二条城の設計はこの高虎が定めたものとなる。それでは上棟のお立場がなくなる。
 いいか、主君に仕えるにはそういう心構えが必要なのだ。つまり、主君に対しては常に敬う気持ちが大切だ。敬う気持ちというのは、もしも上棟のお立場に立ったときに、どうお思いになるかというJJとを常に頭に置かなければ駄目だ。
 一通しか出さず、たとえ上様がそれをお認めになったとしても、上様のお心の中では、世間ではおそらく藤堂高茂が書いた設計図をそのままお認めになって城を改修させたのだと思うことだろう、と多少ご不満をお残しになる。それでは本当に主君の身になつて物事を運んでいるとはいえない。
 だいたい、人に仕える者は、自分の立てた功績は主君に差し上げ、失敗したときはその罪を自分が引き受けるというふうにしなければならない。何でも自分が前へしゃしゃり出て、功績をひけらかすようなことをすれば、主君との関係もぎくしやくしたものとなり、世間の評判も決してよくはならない。この辺を十分心得よ」
 きいていた家臣たちは、なるほどと感心した。そして、
〈これが、高虎様が、あまり他人から非難されない理由なのだな)
 と感じた。つまり、二番手主義を貫くには、
「二番手の立場を守り抜く方法論」
 が必要なのだ。藤堂高虎は、その、
「二番手に身を置く技法の達人」
でもあったのである。そしてそれは、この二条城の設計図を二枚作って秀忠の立場を尊重するような、
「常に相手の立場に立って物を考える優しさ・思いやり・温もり」
という、EQに求められることを、かれは四百年前にすでに実行していたということである。

■敗者の石田三成への優しい態度、勝者でも奢らない

<本文から>
  関ケ原の合戦は、藤生高虎たち豊臣系大名の活躍によって徳川家康の大勝となった。西軍の大将であった石田三成は捕らえられた。そして、本多正信の陣の前に繋がれた。筵に上に座らされた三成を、次々と通りかかる豊臣系大名が罵倒した。
「馬鹿者。身のほども知らずにこんな企てをするから、そういう目に遭うのだ」
「少しは恥を知れ」
 と口々に罵った。そんな連中を三成は睨みつけた。そして、いい返した。
「貴様たちが豊臣家を裏切ったからこそ、このような始末になった。命のある限り、あくまでも徳川家康を殺す」
と豪語した。大名たちは嘲笑してその場から去った。その中で二人だけ、三成に対して温かい扱いをした大名がいる。黒田長政と藤堂高虎だ。黒田は、通りかかったときに馬から降りると、丁寧に三成に一礼し、自分が着ていた陣羽織をその背に掛けた。そして、
「武運というのは、人間の知恵では分かりません。このようなことになったのも、あなたに武運がなかったためでしょう。どうかご自愛を」
 といって去っていった。三成は感謝した。
 藤堂高虎の場合はちがった。かれは馬から降りると、三成の前に屈み込んでいった。
「この度はまことにご苦労でござつた。が、武運は徳川殿にあり、このような結果と相成った。過ぎたことは過ぎたことで、最早、元へ返すわけには参らぬ。そこで、貴殿に一つだけ伺いたいことがある」
 高虎の態度が丁重なので、三成も静かに、
「どんなことでござるか」
 ときいた。高虎は、
「この度の戦で、わたしははじめて鉄砲隊を用いた。貴殿からご覧になつて、わが藤堂軍の鉄砲隊の活躍ぷりはいかがでござつたか」
 三成は高虎を出見返した。そして感動した。
(藤堂殿は、やはり偉い)
と感じた。戦勝者の側にいながら、敗けた側から見た自軍の鉄砲隊の有り様に、忌悼のない意見を述べてほしいというのだ。そこで三成は領き、
「藤堂殿のお言葉なので、ありのままに申し上げる」
「伺います」
「貴軍の鉄砲隊の活躍は見事でした。が、一つだけ指揮者がどうも身分が低いらしく、全体の士気(モラール)がまとまっておりません。多少乱れがあります。即刻、鉄砲隊の指揮者をしかるべき身分に格上げし、給与も増やすべきでしょう」
 これをきいた高虎は、思わずボンと自分の膝を打った。そして、
「なるほど、そういうことでござつたか。実はわたしも、鉄砲隊が多少まとまりを欠いているのではないか、とその原因を探していたところです。さすが石田殿だ。ご意見まことにかたじけない。早速、陣に戻り次第、鉄砲隊の指揮者の格上げを行いましょう」
 と感謝した。そして、
「どうぞ、御身お大切に」
と告げ、去っていった。その場で馬に来らずに、馬の手綱を引きながら、何度か振り返り、三成に会釈した。三成も礼を返した。黒田長政とともに、藤堂高虎のこの扱いは、
「敗将に対する武士らしいいたわり」
 として、いまも美談として伝えられている。高虎にはこういう面があった。つまり、勝利者の側に身を置いたからといって、決して著り高ぶったり、安心したりしない。
「今日の戦闘には、どこか欠陥があったはずだ。その原因は何か」
 ということを最後まで追究するのである。この辺は、築城や都市づくりの達人であった合理精神や科学精神によるものだろう。

■二番手の立場を貰くためになりふり構わぬ手段をとることもある

<本文から>
 「二番手の立場を貰く。しかし、それには容易ならぬ戦略・戦術が必要だ。場合によっては、なりふり構わずに生きることもやむを得ない」
と考えた。いってみれば、二番手を貫くということは必ずしも他人から褒めたたえられる美学ではない。その二番手の立場を貰くためにも、
「なりふり構わぬ手段」
が必要になるのだ。高虎はそう感じた。したがって、今後かれが山を下りて、太閤秀吉の家臣になったとしても、それは、自分が本当にやりたいことをいずれ実現するための、一種のモラトリアム期間としての君臣関係である。そんなことはもちろん口には出せない。が、太閤秀吉殿下がなぜ腹心の生駒親正を使者として高野山に送り込んできたのか、その意図は明らかだ。いままで高野山にいる自分と、伏見城の天守からこつちを睨んでいる秀吉との間には、目に見えぬ緊張した視線の激突があった。それは、秀吉の方は、
「高虎め、おれがいまやっていることの真相を見抜いたな」
という警戒心であり、高虎は、
「そのとおりです。あなたは実に恐ろしい方だ」
と応じてきた。つまり、一連の秀次追放・切腹並びにその一族の惨殺、高虎の主人羽柴秀保の溺死事件などの真相を、はっきりと秀吉の態度によって知ったのである。そしてそのことを秀吉も知った。だから秀吉は高虎を恐れている。これが高虎の秀吉に対する狙い目だった。付け目といってもいい。
(新しい生き方のきっかけとして、この秘事を最大限に活用しよう)

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