童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          謎の太平記

■太平記の魅力

<本文から>
  その意味で、『太平記』が、今、関心を持たれるとすれば、それは南朝を舞台として、美しい死に方をした新田義貞や、あるいは楠木正行などに同情するよりも、むしろ後醍醐天皇の、後白河法皇にも似た、武力なき主権者が展開する権謀術数の数々や、後年、後醍醐天皇亡き後に、その遺志を引き継いで、義士を手玉に取る大むじなに成長する北畠親房らの活躍ゆえであろう。
 また悪党と呼ばれながらも、なぜか最後まで後醍醐天皇にピタリとついて、公家たちにその身分の低さを馬鹿にされながらも、従容として湊川で死んだ楠木正成、さらに、人間的には性善でありながら、立場上、後醍醐天皇と対立して武家政権を確保しなければならなかった足利尊氏の苦悩に惹かれるのである。
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■容れられなかった正成の確かな予見力

<本文から>
 この考えは、現代の経営方法に照らせば、リストラクチャリング(事業の再構築)の手法だといってよい。つまり普通ならいきなり過激な手段に訴えるのをジッと我慢して、敵の中にも理解者と協力者を得ていこうとする根気強い方法だ。現代は、これが自分の目的を達成する一番いい方法だといわれている。
 楠木正成は根気強いリストラクチャリングの名手であった。しかし、それも限界がきた。いったん、天皇軍によって都から遠く九州まで追い落とされた足利尊氏が、ほとんど間を置かず地方武士の応援を得て、大挙して都に迫ってきたからである。南朝で軍議が開かれた。楠木正成にとって決定的な軍議である。
 この時、正成は進言した。
「思い切ってこの際、新田義貞を追放し、足利尊氏と手を組んで朝廷を強化すべきです」
 公家たちは驚いた。
「いったいなんというバカなことを言い出したのだ」と憤激した。
 しかし、楠木正成には不思議な予見力があって、彼は時代の流れをハッキリ見通していた。「このままだと、足利尊氏の天下になる」と見ていた。そうしないためには、その尊氏を抱き込むよりしかたがない。その際、尊氏が敵とする新田義貞を追放するよりしかたがないのだ、と考えていた。
 このへんの選択肢は、正成なりの苦悩の所産である。けっしてベストだと思わない。次善の策だ。しかし、南朝が生き残るためにはそうするよりほかないのだ。そういう屈辱の部分を、朝廷も負わなければならないと思っていた。そして、もしよければ自分がその使者に立つつもりでいた。
しかし、後醍醐天皇のまわりにいた公家たちは、一斉に正成を罵倒し
 「犬の本性が現われた」
 「犬の分際で、なんと無礼なことを言うのだ」
 「貴様は臆病な犬だ。千早城や赤坂城で示したあの勇気はどこへいったのだ」
 「貴族の仲間入りをさせてもらって、いい気になりすぎる。武士の気骨まで失ったのか」
 聞くに耐えない罵言が次々と投げられた。正成はジッと耐えていた。後醍醐天皇だけが痛ましげな目で正成を凝視していた。目の中に「正成よ、許せ」という色があった。天皇にもどうすることもできない公家たちの心情なのである。正成は目の中でうなずき、平伏した。そして「出陣いたします」と答えた。胸の中では「もうダメだ」と思っていた。
 こうして楠木正成は死の戦場である湊川に出陣していく。彼にほ、公家たちのこうしいう予見力のない時代への対応が、せっかくの後醍醐天皇から聖徳を失わせ、人の心を離反させるのだと思っていた。「バカ公家どもが」。心の中で罵りながら、正成は勇躍戦場に向かっていく。
 正成が進言した「新田義貞を追放して、足利尊氏を抱き込め」という政略は、現在も「もし、そうなっていたら」という仮説として多くの論議を呼んでいる。
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■帝二代に仕え、孤独に死んだ親房

<本文から>
 そんなとき足利尊氏が再び巻き返しを謀って、ついに都に迫った。天皇は再び比叡山に退避した。そして、尊氏がさしのべた和解の策にのって、天皇は都に帰った。
 身の危険を感じた親房は、伊勢方面に脱出した。そして、伊勢から天皇に「吉野山に都をお遷しください」と進言した。和睦が尊氏の策略だと知った天皇は、この言に従って、吉野山に退避した。これが南朝の始まりだ。つまり京都に対して奈良の吉野山は南に当たるからである。
 北畠親房の活躍が始まるのは、南朝が開かれてのちだ。このころは、さすがに後醍醐天皇も親房の進言に頼らざるを得ないほど追い詰められていた。親房の進言によって、天皇が当初、考えていた皇子の各国派遣が改めて敢行された。顕家がすでに戦死していたので、その弟顕信を再び奥州鎮守府将軍に命じ、義良親王を奉じて大軍が伊勢から舟を出した。
 このとき、親房は自ら東国の武士たちを結集させるという目的を持って、船団のなかに加わった。ところが、この船団がたちまち嵐にあってバラバラになってしまった。親房は霞ケ浦に漂着した。ここから彼の『神皇正統記』の執筆生活が始まる。しかし、彼は『神皇正統記』を書き続けるために東国にいたわけではない。
 北畠親房が東国の主として小田城、あるいは関城にこもって行ない続けたのは、白河に拠点を構える結城親光の兄親朝に対する説得工作であった。
 結城親朝の父宗広は後醍醐天皇の類れなる忠臣で、八十数歳まで忠節を尽くし続けた。伊勢を出発した船団に加わっていたが、嵐にあったのち伊勢に漂着し、そこで病気になって死んだ。その子親光は、三木毒の一人に加えられた忠臣である。三木一草の三木とは、結城親光、伯耆守名和長年、楠木正成を指し、一草は千種忠顕のことである。にもかかわらず、結城親朝は北畠親房の説得に何ら色よい反応をみせなかった。頑強に黙り続けた。
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■足利直義党と高師直党で二分、兄に毒殺された直義

<本文から>
 これがこんどは師直を怒らせた。
 「直義は、ことごとにオレたちの行き方に枠をはめようとする」
 そっちがそっちなら、こっちもこっちだという態度で、師直たちはいよいよばさらぶりを発揮した。
 「彼らの行動は目にあまります。なんとかしないと、上下の信頼を失いますぞ」
 何度も兄の尊氏に迫ったが、尊氏はノラリクラリとしていっこうに断を下さない。そこで直義は自分の判断で、目にあまるばさら者を処断した。土岐頼遠を処刑し、佐々木道誉を流罪にした。これが直義とばさら者を決定的に対立させた。
「直義の目指す鎌倉ふうは、武士は何よりも質実剛健でなければならない。はさら者はその逆、逆に出る。もっと厄介なのは師直たちばさら大名は、圧倒的に尊氏を支持している。だから尊氏も強い口はきけないのだ。
 両者の争いに、日本の武士たちも二分化した。すなわち直義党と師直党に分かれたのである。やがて武闘に至る。
一時期、師直は尊氏の屋敷に逃げ込んだ直義の権限を取り上げる。が、巻き返した直義は、南朝と手を組んで兄を圧迫し、高兄弟を謀殺させてしまう。この頃になると、尊氏もしだい自分の二分化政策が混乱の度合いを増していることに気づく。
 すでに坂をころがりはじめた樽と同じで、どうにもならない。やがて、兄弟の間にも亀裂が生じ、修復のつかないものになる。尊氏は直義を攻める。直義は降伏する。が、尊氏は直義を毒殺してしまう。
 考えてみれば、足利直義は優柔不断な兄を支えるために、実に割の合わない役割を負った。終始憎まれ役を買って出た。かれには「義」という行動規範があったが、それが全国の武士たちによく理解されたとは思えない。武士たちは、むしろ尊氏を愛した。人気も二分化されたのである。直義は終生不完全燃焼部分を抱いたまま、ついに悶死したのであった。
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■阿野廉子の不公平な恩賞配分

<本文から>
 後醍醐天皇は、地方武士への恩賞の細部についてはそれほど関心がないから、廉子の言うとおりにした。何といっても隠岐島まで一緒に行き、脱出までの苦楽をともにした存在として、廉子に対しての愛情は変わらなかったからである。
 しかし、この廉子の恩賞配分への干渉は、せっかく実現した建武の新政の評判を著しく落とした。評判を悪くしただけではない。建武の新政実現に協力した地方武士の信頼を一気に失ってしまった。それは廉子だけでなく、千種忠顕、あるいは天皇の思想的指導者であった僧の文観が、鎌倉幕府によって硫黄島に流されていたのが戻って来て、専横の限りを尽くしたからである。千種と文観はそれだけでなく、うってかわって贅沢な暮らしをはじめた。その豪華ぶりは、人々の目を見張らせた。この三人の側近の振舞いが、著しく後醍醐天皇の朝廷の評判を落としてしまった。
 しかし、阿野廉子はあまり気にしなかった。
「これくらいはあたりまえだ」
 と考えていたのである。廉子にすれば、後醍醐天皇が挫折し、みじめな流人生活を送っていた時もずっと、天皇の苦労を凝視してきた。そして、それを支え抜いた。男と女の関係を越えている。文字どおり一心同体となって、天皇の親政実現に力を尽くしてきたのである。
 後醍醐天皇の正夫人である皇后については、あまり伝えられていない。むしろ、廉子のほうが皇后的な役割を果たしていた。それだけに、廉子も誇りがあったし、自信もあった。
「帝に、その志を実現していただくうえで、私も十二分に役立っているのだ」
 確かに楠木正成や足利尊氏や新田義貞や、あるいはたくさんの公家・武士たちは協力したし、手柄を立てただろう。しかし、ほんとうの苦しみに襲いかかられた隠岐島の流人生活の時、ピタリと天皇の脇に付いてその苦労なともにしたのは、わたしと、わずかに若い公家の千種忠顕だけなのだ、という思いは、その後も廉子の胸の中に強く据えられていた。この自信が裏返しとなって、北条氏の土地を配分するのに、自分がロを出して何が悪いことがあろうかと思わせたのである。
 しかし、それは廉子の思いあがりで、土地に生命をかける地方武士たちはそうはいかなかった。というのは、廉子の配分方法にも情実があったからだ。彼女のところにおべんちゃらを言いに来たり、あるいは物を持って来たりすると、廉子はたちまちこういう連中に惜し気もなく土地を与えてしまう。勢い、手柄を立てた地方武士に対する恩賞のほうが薄くなる。これが、どんどん不満の声となって、京都を核とし、地方に拡がっていった。この不満の声は日本列島上に満ちはじめた。
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■我が子を天皇の後継ぎにする阿野廉子の野望

<本文から>
 もうひとつ、廉子には野望があった。それは、自分の産んだ皇子を後醍醐天皇の跡継ぎにすることである。
 廉子の胸の中には前から、壬申の乱を起こした大海人皇子とその寵妃である鵜野皇女の面影があった。後醍醐天皇と自分の仲を大海人皇子と鵜野皇女に見立てていたのである。大海人皇子と鵜野皇女も苦労した。兄の天智天皇にうとまれて、一時は吉野山に逃げ込んだ。しかし、吉野から巻き返して壬申の乱を起こし、大海人皇子はやがて天武天皇となる。鵜野皇女は皇后になった。廉子自体は何も皇后になろうと思っていない。が、
(自分の存在は、大海人皇子さまの時の鵜野皇女さまと同じだ)
という自負心はあった。廉子の野望はのちに実現する。それは産んだ義良親王が、後醍醐天皇の跡を継いで後村上天皇になるからだ。廉子は天皇の生母になる。志を果たす。しかし、その朝廷は京都ではなく、吉野山の俺住まいだ。さらに、吉野山を足利方のばさら大名高師直に焼かれて、天皇たちは賀名生に行宮を移す。廉子もついて行く。かつて、京都で北条氏の遺領を思いのままに配分していたあの賛沢な日々に比べれば、何という侍しさだろう。しかし廉子は挫けなかった。
 「いつか京都を奪い返す」
 という激しい気持ちを持ち続けていた。この辺は、後醍醐天皇に長く接していたので、天皇の志が廉子の志になっていた。廉子も女だから、やほりここまで落魄した境遇になれば、挫折感を感じないわけではない。今ごろは京都の御所の中で、華やかな生活を続けている連中のことを考えると、腹の中は煮えくり返るような思いになる。屈辱感も増す。しかし、そんなものは廉子にとっては苦の種にはならない。彼女もまた意思の強い女性であった。
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