童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          直江兼続と上杉家家訓十六箇条

■兼続の行動は家訓と合致する

<本文から>
  鎌倉時代・室町時代から江戸時代にかけて栄え、上杉謙信や上杉鷹山らを輩出した上杉家には、代々受け継がれた家訓が存在する。その家訓こそが、群雄割拠の戦国時代から明治までの長い期間、上杉家を支えたのだ。
 中でもとりわけ有名なのが、上杉謙信が残した「上杉家家訓十六箇条」。
 この家訓に大きな意義があるのは、この家訓を残した上杉謙信の生き方が、時代を超えて尊敬されるべきものだったからにほかならない。
 謙信は″戦国時代″と呼ばれる群雄割拠の時代を生きながら、決して自分のために戦を行なうことがなかった。戦えば織田信長や武田信玄、北条氏康といった歴戦の戦国武将にもまったく引けを取らないどころか、その生涯においてほとんど負けたことがないという戦の天才だったにもかかわらずだ。
 彼が戦うのは、その戦いに「義」があるときのみ。戦国乱世の秩序回復を心の底より願い、助けを求める者がいれば全力でこれを助けた。
 また、争いを減らすため、国を豊かにすることにも尽力し、謙信が当主となってからというもの、越後は全国でも屈指の豊かな国へと変貌を遂げている。
 こうした姿勢を持っている人が、歴史上どれだけいただろう。世界を見渡しても、それほど多くないに違いない。もちろん、この謙信の信念は現代でも変わらず通用するものだといえるだろう。「上杉家家訓十六箇条」は、この信念を要約した非常に含蓄のある教えというわけだ。
 この偉大なる上杉謙信の教えをもっとも忠実に、色濃く受け継いだのが、戦国一の名参謀とも誉れ高い直江兼続、その人である。兼続の行動を紐解いていくと、御館の乱しかり、新発田重家討伐しかり、直江状しかり、そのひとつひとつが謙信の残した家訓と合致することに気づかされる。
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■謙信の後継者争いに先手

<本文から>
 兼続の行動は迅速だった。謙信が倒れるや否や、景勝の実家である坂戸城(上田長尾家)へと急使を送り、春日山城へと武装した兵を派遣するように求めたのである。
 これはいうまでもなく、謙信の死後に起こる後継争いを見越してのものだった。
 真偽のほどは定かではないが、一説には幼いころに謙信にその才覚を見出され、小姓として側につき従う中で武将観を形成したともいわれる兼続である。その心中が穏やかでなかったことは疑いようがない。
 だが、わずか十九歳の彼は謙信の危篤を悲しむよりも先に、自分が仕える景勝がライバルである上杉景虎を差し置いて後継者になるにはどうすればいいかを考えた。その結論が、内乱を想定した上での武力集結だった。
 もうひとつ、後継争いを有利に運ぶために兼続が行なったのが、謙信の遺言を取ることだった。幸いにも、倒れた謙信を介抱したのは与板城主・直江景綱の娘だった。
 兼続の母は直江景綱の妹。つまり、謙信を介抱した娘は兼続の従妹に当たる。これを利用した兼続は、しゃべれない謙信の耳元で「世継ぎは景勝様ですね」と噴かせたのだろう。謙信がうめき声を上げれば、それが「後継者は景勝だ」という返事になるという寸法である。こうして兼続は「景勝を後継者と認める遺言」を手に入れた。
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■直江状にこめられた意地

<本文から>
 約二十万名という大軍勢を率いて、家康は上杉家を攻めようとしていた。ただこの作戦は石田三成の挙兵によって実現されることはなかった。だが、結局″徳川家にとっての敵方″としての汚名を着せられることとなった上杉家は、兼続が三成と個人的に親交があったこともあって、関ケ原の戦いにおいては西軍につく。そして西軍は敗退し、上杉家は多くの領地を失い、歴史の表舞台からは姿を消してしまう結果となる。
 ただ、「直江状」の中身をよく見ると、果たして兼続が本当に書いたのかどうかについては疑問が残る。兼続の名だけを借りた文書なのではないかと考えるほうがすんなり納得できるほど、あまりに内容が好戦的でやや軽薄すぎるきらいがあるからだ。
 しかし一方で、こうは考えられないだろうか。兼続は、家康の景勝への侮辱とも取れる態度に一矢報いたかったのだ。自国の発展のため、あらゆる手段を講じて力を蓄えようと努力していた最中に、己の私利私欲のために策を弄し、愚劣なまでに嫌疑を仕向けてくる家康の姿が目に余り、どうしても反論を突きつけてやりたいと決意したのではないだろうか。
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■関ケ原の戦いが短期間で終わった誤算

<本文から>
 もう少し合理的な説も挙げられる。もし徳川を追って上杉軍が南下すれば、北から伊達や最上が攻めてきて、背後を突かれる危険性がある。それならばまずは背後の敵を攻め落とし、安全になってから関東に攻め入ろう、という作戦である。つまり、石田軍と徳川軍の戦いがかなりの長期戦になると踏んでいたのである。
 上方の大名の多くは三成に味方していたし、上杉家と徳川家の間に位置する信州には真田昌幸がいて徳川軍との戦に備えている。これらのことを考慮すれば、戦が長期化すると予測するのも無理はない。むしろ、この時点で関ケ原の戦いが短期間で終わるなどと予想している者は皆無だったはずだ。例えば豊臣秀吉に長らく仕えた黒田如水も、この戦が長期化することを予想していた人物のひとりだ。如水は徳川と石田がつばぜり合いをしている間に九州を平定して戦力を整え、戦いには勝利したものの疲弊しきっているであろう勝者と戦い、天下をわがものにしようと考えていた。ところが、予想に反して戦いは極めて短期間で終わってしまったために、細水の夢は破れたのだ。
 確かに戦いが長期化するのであれば、最上領を手に入れることは、上杉軍の足場を固めるという意味では非常に効果的だった。上杉領は、会津・庄内・佐渡と三つに分断されており、それぞれ孤立している。これは戦略的には大きな弱点であった。最上領を手に入れれば、この問題は解決される。細かく分けられた三つの領地より、大きなひとつの領地の方が何かと都合がよいからだ。「弱点をカバーしてしっかりとした足場を築いてからじっくり徳川軍と対決する」という作戦は、もしこの戦が予測どおり長期化していれば、非常に理にかなったものだった。
 もうひとつ考えられる説は、徳川軍と戦う目的について、兼続と景勝の間でズレがあったというものだ。この説によれば、家康を討ち取ることで景勝に天下を制覇させたいという野心が兼続にはあったと考えることができるのに対し、当の景勝は会津を守ることができればそれでいいと考えていたとされる。
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■石田三成と直江兼続の共鳴する「義」

<本文から>
 直江兼続と石田三成は、落水城の会見のとき同じ二十六歳。ふたりはこのときから互いにシンパシーを感じて、それ以降、密かにやり取りをするようになっていく。
 兼続と三成が共鳴した理由は何だったのか。それは三成に「義」があったからではないだろうか。慶長三年(1598年)には上杉家に会津百二十万石への国替えが命じられたが、この裏には石田三成の尽力があったという。当初、金山がある佐渡は豊臣家が召し上げる予定だったが、三成の進言によって取りやめとなり、佐渡はそのまま上杉家の所領とするところとなった。また、国替えにあたっても三成はさまざまな援助を行なったという。食料・人足の手配、農民とのトラブルの処理、越後の屋敷の売却と会津の屋敷の購入まで、実に全面的なサポートを行なっているのだ。三成は佐和山十七万石の勢力しか持たない一武将にすぎなかった。にもかかわらず、格上の上杉家にこれだけ尽くしたのは、彼が「義」の男だったからにほかならない。
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■兼続の農業への強い思い

<本文から>
 兼続はまず、荒地の開墾を積極的に行なわせ、庭木にも食用になるものを植えさせるよう奨励した。いまだに米沢の名産品でもある紅花や漆や桑といった植物の生産も奨励し、農作物によって米沢を発展させていこうとしたのである。そしてそうした農業を大切にする姿勢は、年貢を一度も上げなかったことからもうかがい知ることができる。兼続は増税によって一時的に得られる利益よりも、それによって不満が増大することが大きな損になると考えていたのである。
 そして、そうした農業への強い思いが『四季農戒書』という彼の著作に如実に表われているといえる。
 詳しくは後述するが『四季農戒書』は農業の専門書で、兼続が農業について述べた言葉を養子の本多政重が口述筆記したもの。内容は、四季を通じてどういう農作業を行なうべきかということに多くの頁が割かれている。正月には縄をなえ、薪伐り、肥料運搬といった農作業の準備を行ない、二月には農業用水、三月には農具の準備を行なった上で、籾や苗代をまく、といったようなことが細かく記載されている。
 直江兼続という人物は、稀代の戦国武将であり、名軍師であったといわれている。様々 な資料や記録からその姿に偽りはないだろう。ただ、兼続が持っていたもうひとつの 側面である文化人としての生き方にも我々は魅力を感じずにはいられない。それは、天下分け目の決戦を経て、戦乱の中心から離れ、米沢をまとめる政治家となってからの暮らしがあってのことなのではないだろうか。
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■兼続の米沢を発展させて手腕

<本文から>
 また、川の氾濫や農業用水、飲み水の確保を目的に土木工事も積極的に行ない、実際に兼続が現地に赴き、指導を行なっていた。その際、兼続含む一団は腰に刀を据えたままだったことから、鬼面川から水を引く「帯刀堰」と今でも名を残している。
 それでもやはり、四方を他国に囲まれており、最上や伊達といったいつ攻めてくるかもわからないような大名がいたため、兼続は軍備にも心を砕かねばならなかった。
 いつなんどき他国が攻めてくるかもわからない状況の中であっても、鉄砲と大砲を配 備しておけば、家康ですら恐怖を感じていたほどに強い上杉家がそう簡単に負けるようなことはないだろう、そう判断した兼続は、急いで大砲の生産に乗り出している。
 このような隣国への警戒心は、街造りの仕方にも反映されていた。例えば、城下町の道だ。道はまっすぐに城を目指せないように、少しずつずらして作らせていった。このやり方は近世ではごく当たり前となったものだが当時としては非常に珍しく、まさに時代を先取りした手法であったといえる。また、街道の整備においても「分かれ道に石で道しるべを作ろう」「街道筋には相や松を植えよう」などと指示を出し、雪で道がわからなくなったときの備えとして「小屋を作り、そこに暖を取る道具と飲み水を置いておこう」など、どんな事態が起きても対応できるように、あらゆるシーンを想定した準備を行なっていった。
 さらに兼続は、日常の生活用具にも軍備を念頭に置いたような工夫を施した。五〜六升は炊ける「直江釜」と呼ばれる大鉄瓶を作らせたのだ。この釜は硬度が非常に高く、もしも戦いが起きればこれを加工して武器を作り出すことも考えた上で用意したといわれている。また、墓石を作る際も中を空洞にして、できるだけ軽量化させる。これは戦いのときにこの石を重ねて保塁を築くためである。
 このように、兼続は米沢をまとめる敏腕政治家として、様々な側面で色々な政策を実行していたといえる。
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■お船との愛のエピソード

<本文から>
 ふたりの愛の深さを示すエピソードに、兼続が生涯にわたって側室をひとりも持たなかった、というものがある。当時、戦国武将たるもの側室のひとりやふたりは当たり前。秀吉や家康などは十人以上の側室を持っていたというのだから驚かされる。このように側室がいて当然だった時代背景を考えると、兼続が正室しか持たなかったことがいかに例外的だったかがわかるだろう。
 兼続はお船との間に、一男二女をもうけた。もちろん、お船以外の女性との間に子供はいない。兼続が直江家の婿養子であるという事情もあっただろうが、自らを立ててくれた妻を大切にし、その思いに報いる様子がうかがえる。
 側室の話だけでなく、この時代にあって兼続とお船のように互いを認め合ったおしどり夫婦でいることはとても稀なことだったようだ。
 たとえば兼続の主君である景勝は、武田信玄の娘である菊姫を正室に迎えているが、彼女との仲は非常に険悪で子供は生まれなかった。景勝が四十九歳のとき、側室との間に長子・定勝を授かったものの、その側室は出産後すぐに亡くなっている。一説には、景勝が極端な女性嫌いで衆道(男色)を好んだため、世継ぎを産ませるために兼続が男装した側室を送り込んだのだという詰もあるほどだ。ちなみに、この側室は菊姫の激しい嫉妬が原因で自害したというのがもっぱらの噂だったようだ。
 これらの説は信憑性に疑問が残るとはいえ、火のないところに煙は立たない。景勝夫婦の仲はあまり睦まじいものではなかったことが推測できる。
 また、景勝の養父である謙信にも子はいなかった。これは謙信が「生涯不犯」を誓って女性を遠ざけていたためである。彼もまた、温かい夫婦愛とは無縁の武将だった。
 謙信を尊敬し、彼の行動からすべてを学んだ兼続だが、「妻を愛する」という一点においてだけは、謙信から学ぶことばなかったようだ。
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■上杉家救済のための政略結婚

<本文から>
 養子・政重のもとへ嫁いだ娘・お松は結婚の翌年、病気で亡くなってしまう。兼続は愛する長女の死への悲嘆に暮れた。しかし同時に、本多家との濃密な関係を保とうと冷静に気を配ることも忘れなかった。軍役の免除があったのと同年、兼続の実弟である大国実頼の娘(兼続にとっての姪)の阿虎を政重に嫁がせたのである。愛娘が死んですぐ行動に移るその迅速さにも驚かされるが、それ以上に驚かされるのは″実頼の娘を養子にした″ という点だ。元々、実頼は兼続が政重を養子にしようとしていることに猛反対の姿勢を貢いていた。それが悪いほうに働き、政重を迎えにきた使者を殺害するという事件を起こしてしまっていたのである。この事件以降、実頼は高野山に隠遁していた。彼の隠遁中は兼続が娘の阿虎を預かっていたのだが、そんな最中に起こったのがお松の死だったのである。実頼にとっては皮肉な話だ。自身が猛反対し、隠遁生活を送る原因となった男のもとへ自分の娘が嫁いでしまったのだから。これにより、兼続と実頼が絶交状態になったのはいうまでもない。しかし、本多家との繋がりを維持するためならば、娘のみならず姪までも差し出す、というのが兼続の覚悟だったのだ。
 また、これと同じ年、兼続の長男・貴明の結婚も決定する。相手は、現在の滋賀県大津市に位置する膳所城主・戸田氏鉄の娘だった。氏鉄は徳川家康の近習として仕えた経歴を持つ幕府の有力者である。この結婚もまた、兼続と正信によって仕組まれた「政略結婚」だった。
 氏鉄のような幕府の実力者の娘と結婚するということは、景明が幕府に直江家の次期当主として認められたということをも意味する。この縁組が成立したことは、上杉家の徳川家への忠誠心がやっと正式に認められたという証でもあった。
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