童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          武蔵の道

■関ヶ原に参加した武蔵には自殺願望があった

<本文から>
 「武士の心得は、すべて沈黙の一字に尽きる」
 という姿勢を貫いたのだ。それを知らずに、ただ自分の生母の問題で父を恨んできた。見当外れだったような気がする。そうなると、
 「一日も早く死にたい」
 と望んできた武蔵の自殺願望は、その根底を覆される。つまり死ぬ理由がなくなる。武蔵はそんなことを感じはじめていた。だからいま堺港から、入江権左衛門の好意によって、薩摩藩預かりの船で、瀬戸内海を船出する時は、心が躍っていた。別世界へ行く喜びと楽しみだ。中途半端な接し方をして来た新免宗貞との距離も一挙に縮まった。宗貞も武蔵に、改めて新しい親近感を抱いたようである。
 関ケ原の合戦現場から逃れ、あの亭主を殺された若い女の憎悪のまなざしに射疎められたときに、主人の新免宗貞はわざわざ醍井の谷間から戻って武蔵を迎えに来てくれた。その醍井の谷間に向かう時に宗貞がきいた。
 「おまえがこの合戦に参加した本当の理由は何だ?」
 「それは」
 武蔵はためらった。しかし宗貞の温情が身に染みていたので、正直に答えた。つまり、自殺願望の話をした。原因は、父の平田武仁との不和だと告げた。宗貞は微笑した。ひとりで領いた。こう言った。
 「そういうことだったのだな。よくわかる」
 そしてそのときに、宗貞は、
 「実はだな」
 といって、家老だった武蔵の父平田武仁が、なぜ新免家を飛び出して行ったのかを、細かく話した。
 「わしのためだ」
 宗貞はそういった。遠くへ視線を投げながら、
 「だから、今でもおまえの父には感謝している」
 そう告げた。武蔵ははじめて、自分がなぜ新免宗貞の養子になったのかを知った。
 「母は、宗貞様の娘だといわれているためだろう」
 と一部では思ってきた。しかしそうではなかった。もっと違う理由があった。そしてその理由の方が、武蔵には理解し易かった。そうなると、一緒に暮らしていたときの父との不和が根拠のないもので、ガラガラとその土台が崩れた。
 (原因はもっと他のところにあったのだ)
 と思えた。しかし父の態度を思い浮かべてみると、やはり武蔵に対するまなざしの底には、一種の冷たさがある。あの目付きは、
 (おれを、母が産んだ不義の子と思っているためだ)
 という思いはどうしても去らない。が、だからといってそのために死んでやろうと思ったのは、いってみればそういう不条理な世の中に対する報復だ。仕返しだ。

■武蔵の心は明鏡のため将軍兵法役の清十郎に勝った

<本文から>
 立会いの当日、宮本武蔵は朝早くから座禅した。そして、いつものように、
 「おい、主人公」
 と自分に呼び掛けた。
 「何だ」
 応えるもう一人の武蔵にきいた。
 「きょうの明鏡は光り輝いているか、それとも曇っているか」
 「今のところ、光り輝いている」
 「安心した。では、蓮台寺野へ出掛けよう」
 「一緒に行く」
 こうして二つの人格を抱えた武蔵は、指定された蓮台寺野に行った。すでに吉岡清十郎が待っていた。立合いはすぐはじまった。武蔵は、右脇に木刀を構え、相手を見た。吉岡清十郎は異常に張りつめている。武蔵は直感した。
 (敵は、迷妄の念に満ち満ちている)
 おそらく吉岡清十郎は、今まで唱えてきた、
 「将軍家兵法指南役」
 という意識と、
 「天下一の兵法者」
 という金看板に毒されて、
 「その二つをあくまでも守らなければならぬ」
 という迷妄の念に襲われているのだ。したがって、吉岡清十郎の心の鏡は、その迷妄の念によって曇りに曇っていた。武蔵がこの日、心に決したのは、
 「天下一の兵法者・前将軍家指南という、相手の金看板に眩惑されぬことだ。その虚名に怖れを抱かぬことだ」
 という一点である。
 「もし、その虚名に怖れを抱いたら、それこそおれの明鏡が曇る」
 と思った。だから吉岡清十郎の焦りはうれしかった。武蔵は心の中でほくそ笑んだ。
 (打つべき敵が発見できた。勝てるかもしれぬ)
 そこで相手が打ち込んできた木刀を宙でうけとめ、掛ねあげて間髪を入れず、鋭い気合いと共に太い木刀を吉岡清十郎の肩に打ち込んだ。清十郎は呆気なく倒れた。肩を砕かれて、苦痛に身を揉んだ。が、信じられない表情で武蔵を凝視した。敗北が実感できない。
 武蔵は、そんな吉岡清十郎をチラリと見るとすぐその場から去った。ばちばらと、脇に潜んでいた清十郎の門人たちが駆け寄って師を抱き起こした。師は、苦痛に歪んだ表情のまま、苦悶の声を漏らし続けた。門人たちは、武蔵が去った方向を睨み、
「このままには済まさぬ」
 と互いに頷き合った。
 立ち去る武蔵の前に、ふらりと本位田内膳が現れた。腕組みをし、憎しみを込めた語調で言った。
 「やはり、天下一の兵法者の看板に傷を付けてくれたな」
 「己むを得ない」
 武蔵は言った。そして、相手が理解しようとしまいと構わぬという思いでこう告げた。
 「おれが吉岡清十郎殿に打ち勝ったのは、清十郎殿の方に明鏡のくもりが色濃く現れていたからだ」
 「めいきょうのくもりとは何だ?」
  本位田内膳は聞き返した。武蔵は説明した。
 「明鏡とは、明るい鏡と書く。なにごとにも拘りを持たぬ自分の心をいう。吉岡清十郎殿にもそれがある。しかし、今の吉岡殿は、おぬしのいう天下一の兵法者という看板を守り抜きたいために、欲心が出、執念が色濃く出た。今日おれが打ったのは、その執念だ」
「小療なことを。言い訳をいうな」
 内膳は憎々しげにそう言った。そして、
 「これで済むと思うな。必ず、次の立合いを仕掛けるからな」
 と言った。捨て台詞だった。武蔵はその後ろ姿に声を追わせた。

■武蔵は小者ばかりを狙って勝利してきた

<本文から>
四月にかれは九州に下った。そして有名な厳流佐々木小次郎との立合いを行なう。佐々木小次郎は当時豊前(福岡県)小倉城主細川家の兵法指南であった。しかし、年はすでに七十歳近い高齢者であった。まだ二十九歳の健康な体力を持つ武蔵に対し、所詮敵ではなかった。武蔵はこの時、船の櫂を自ら削って太い木刀を作り、これによって小次郎を撲殺した。このとき武蔵は、定められた試合の時刻にわざわざ遅れて行ったという。また波打ち際における場所争いでは、互いに、
 「太陽を背にしようと争った」
 といわれる。わずかな隙をみつけて、武蔵が太陽を背にする位置を占め、小次郎に陽光が強く当たる一瞬を待って、櫂の木刀を叩きつけたということだ。
 後に、かれの終焉の地となった熊本城主細川家に提出した履歴書の中で、武蔵は、
 「若年の頃、六十余度立合いを行ないましたが、一度も敗れたことはございません」
 と、立合いにおける、全勝記録を自ら告げている。が、後世の研究者たちによれば、
 「六十余度勝ったといっても、相手はすべて小者であって、有名な武芸者は佐々木小次郎ぐらいしかいない」
 という指摘を受けている。そのために、
 「武蔵は、必ず自分が勝てるという自信が持てる小者ばかりを狙ったのではないか」
 という批判がある。批判は当たっていないが、武蔵が小者ばかりを狙ったのは確かだ。

■豊臣方に味方した史実への疑問

<本文から>
 徳川方の探索を逃れて西国方面に潜行した」
 とされ、
 「以後、その足跡は不明である」
 とされている。しかしその後の武蔵の出現や、関わりを持った大名家との因縁を考えると、武蔵が大坂方に加わったというのは再考の余地がある。武蔵の履歴については、もちろんかれが書いた「五輪書」の冒頭以外ない。したがって、諸事や後人の記憶などによって、
 「宮本武蔵の略歴」
がつくられている。その中に、たとえば関ケ原の合戦の時にも、
 「武蔵は西軍(石田三成方)に味方した。敗れて九州に潜行した」
とある。この小説も、その記録に従って書いた。が、ある記録によれば、翌慶長六(一六〇一)年の七月に、武蔵は伏見城を攻撃し、八月にはさらに美濃岐阜城を攻めたとある。これは明らかに間違いだ。七月の伏見城攻撃と、八月の岐阜城攻略は、関ケ原合戦の時のことである。そして伏見城は徳川家康方の京都の関西拠点であり、岐阜城は織田信長の孫三法師の守る患臣方の城であった。たしかに、攻略戦が行なわれたのは事実だが、いずれも慶長五(一六〇〇)年九月十五日に行なわれた、関ケ原の決戦の序盤戦というべき合戦だ。その意味では、
 「これが武蔵の略歴だ」
として、年表化されている項目についても、再点検の必要がある。そうなると、この疑いの目で見た場合に、
 「大坂の陣で武蔵が豊臣方に味方した」
 という記述も、単純に信ずるわけにはいかない。それは、関ケ原合戦後の武蔵の行動と、かれ個人におけるいわば、
 「修養生活」
 に照らして見て、すでに関ケ原の合戦で味わった、
 「個人戦の終了と集団による戦闘」
 に形を変えた、当時の戦争方法を十分に知り尽くしていたはずだ。そのかれが、軍団対軍団が激突する戦闘に参加して、
 「一兵法者の腕前を見せる」
 と考えるのは、いかに何でも無謀であり、同時に、
 「あまりにも時代の変化を知らなすぎる」
 ということになるからである。武蔵は九州にいた時から主人の新免宗貞から、
 「先見カを養え。新しい時代を生き抜くのは、それ以外ない」
 と教えられた。その新免宗貞が寄寓した筑前の黒田如水からは、
 「先見カだけでは駄目だ。それを形あるものにするには、何といっても人間関係を広めることが必要だ」
 と、人と人とのネットワークの拡大を教えられた。沢庵からはすでに、
 「剣は人を殺すものではない。生かすものだ。そのために禅を学べ」
 といわれている。関ケ原の合戦の時に十七歳だったかれも、これまでに十数年の月日を送っている。精進に暇のないかれが、果たして、
 「この合戦で名を上げ、一国一城の主になりたい」
 などという、古い武芸看たちが持っているような、昔の夢を保ち続けていたかどうかは大き疑問だ。そうなると、
 「いったい武蔵はどっちの味方をしたのか」
 ということになる。もちろんかれが大坂の陣に参加したと前提してのうえだ。筆者は、密かに、
 「武蔵が加わったのは、徳川軍の方ではなかったか」
 と思っている。だからこそ、その後細川家や小笠原家との関わりがスムーズにいき、かれもそれなりの遇され方をするのだ。大坂の陣に豊臣方に味方して、徳川方からいわば、
 「全国指名手配」
 を受けるような立場であれば、そんなことは有り得ない。あるいは、大坂城内にあったとしても、かれが後にいう、
 「大きな合戦に六回参加した。その戦功は他人がよく知っているところである」
 と履歴書に書いた、
 「大いなる戦功」
 そのものは、眉に唾を付けざるを得ない。かれがいうようにもしも豊臣方に味方して大きな戦功をあげたとすれば、敗戦後の落人狩りの対象者としては、
 「名高い大物」
 になるからだ。しかしそんな事実はない。徳川方でも宮本武蔵を日本中追い掛け回したという形跡はない。とすれば、この時のかれのいう戦功は至って小さなものであり、目立たぬものであったはずだ。ということは、場合によってはかれは、大坂城内にあっても、
 「状況を静観していた」
  という、いわばかつて筒井順慶の、
 「洞ケ時の日和見」
 でも行なっていたのだろうか。どうも、宮本武蔵の大坂の陣参加については、このようにはっきりしない。今となっては完全に霧の中である。

■五輪書について

<本文から>
 「我執が心の明鏡を蒙らせている」
 ということでもあった。我執といっていいかどうかわからないが、実をいえばこの頃の武蔵には心残りがあった。それは、先に細川忠利に提出した『兵法三十五ケ条』は拙速の書で、完全に自分の思いを伝えてはいない。いわば、
「新しい細川家の兵法指南任命への、見せ金」
 的な意味合いがあった。そこで、
「何とかして、これを完成したい」
という願いがあったのである。その気迫が、あるいは蛇を怖れさせたのかもしれない。
 武蔵はこの悲願を達成するために、寛永二十(一六四三)年十月十日、実の刻に筆を取って書きはじめた。これが、
 「五輪書」
 である。五輪書の五輪は、いうまでもなくかつて沢庵から教えられた「地・水・火・風・空」
 の、この宇宙を形成している五つの元素を、それぞれ章としたものだ。書き出しに、
 「朝鍛夕練してみれば、おのずから兵法の道にあう事、われ五十歳のころなり。それより以来、訪ね入るべく道なくして、光陰を送る。兵法の利にまかせて、諸芸諸能の道となせば、万事において、師匠なし」
 「今この書を作るといえども、仏法儒道の古語をわからず、軍記軍法の古きことをももちいず、この一流の見立て、実の心を顛わすこと、天道と観世音を鏡として、十月十日の夜、真の一点(午前四時ごろ)に、書きはじむるものなり」
 と告げている。簡単にいえば、
 「この書には、参考書も、学んだ文法も全くない。自分の独断で書き進めるものだ」
 という宣言である。
 正保二(一六四五)年ごろから武蔵は健康を害した。病名はよくわからない。癌だという説もある。見かねた細川家の武蔵に好意を寄せる重役たちが、強引に霊巌洞から武蔵を担ぎ出し、千葉城跡の邸に連れ戻した。武蔵はこんなことを言っている。
 「かねて患っていたが、もう手足も動かなくなってきた。もはや何の望みもないが、先の兵法の理について、上意によって先侯に粗筋を呈上したが、不満があるので書き改めました」
 「自分の見立てた二刀の理法は、他流のように儒仏の古語を用いたのではなく、じっさいに役立つもので、また諸芸諸能の道を考え合わせたものです。しかし、時勢に合わず残念です」
 と、はじめて自分の兵法に対する世間での受け止め方を告げ、
 「しかしそれも今までの自分の生涯を振り返ってみますと、あまりにも兵法一途に生きてきたことに原因があるのでしょう。これはいわば"兵法の病気"にとりつかれていたので、今はこの病気がわたしの肉体を蝕んでいるのです。あるいは、兵法の名人としてわたしは後世に名を残すかもしれませんが、無念の思いは残ります。もう、残りの命もそれほど無いと思いますので、一日でも山に籠ったまま、死期を待ちたいのでどうかお許しいただきたい」
 と告げたが、長岡寄之たちは許さなかった。

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