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<本文から> 「武士の心得は、すべて沈黙の一字に尽きる」
という姿勢を貫いたのだ。それを知らずに、ただ自分の生母の問題で父を恨んできた。見当外れだったような気がする。そうなると、
「一日も早く死にたい」
と望んできた武蔵の自殺願望は、その根底を覆される。つまり死ぬ理由がなくなる。武蔵はそんなことを感じはじめていた。だからいま堺港から、入江権左衛門の好意によって、薩摩藩預かりの船で、瀬戸内海を船出する時は、心が躍っていた。別世界へ行く喜びと楽しみだ。中途半端な接し方をして来た新免宗貞との距離も一挙に縮まった。宗貞も武蔵に、改めて新しい親近感を抱いたようである。
関ケ原の合戦現場から逃れ、あの亭主を殺された若い女の憎悪のまなざしに射疎められたときに、主人の新免宗貞はわざわざ醍井の谷間から戻って武蔵を迎えに来てくれた。その醍井の谷間に向かう時に宗貞がきいた。
「おまえがこの合戦に参加した本当の理由は何だ?」
「それは」
武蔵はためらった。しかし宗貞の温情が身に染みていたので、正直に答えた。つまり、自殺願望の話をした。原因は、父の平田武仁との不和だと告げた。宗貞は微笑した。ひとりで領いた。こう言った。
「そういうことだったのだな。よくわかる」
そしてそのときに、宗貞は、
「実はだな」
といって、家老だった武蔵の父平田武仁が、なぜ新免家を飛び出して行ったのかを、細かく話した。
「わしのためだ」
宗貞はそういった。遠くへ視線を投げながら、
「だから、今でもおまえの父には感謝している」
そう告げた。武蔵ははじめて、自分がなぜ新免宗貞の養子になったのかを知った。
「母は、宗貞様の娘だといわれているためだろう」
と一部では思ってきた。しかしそうではなかった。もっと違う理由があった。そしてその理由の方が、武蔵には理解し易かった。そうなると、一緒に暮らしていたときの父との不和が根拠のないもので、ガラガラとその土台が崩れた。
(原因はもっと他のところにあったのだ)
と思えた。しかし父の態度を思い浮かべてみると、やはり武蔵に対するまなざしの底には、一種の冷たさがある。あの目付きは、
(おれを、母が産んだ不義の子と思っているためだ)
という思いはどうしても去らない。が、だからといってそのために死んでやろうと思ったのは、いってみればそういう不条理な世の中に対する報復だ。仕返しだ。 |
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