童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          武蔵 兵法革命家の生き方

■剣技一筋の武蔵は遅れて来た武士

<本文から>
いわば、
「大名家の富を増すような知識と能力の持ち主」
が重視されるようになった.
「どこどこの戦場で、こういう手柄を立てた」
などという武功歴など、洟も引っ掛けられなくなったのである。
宮本武蔵は、こういう時代を生きた.つまり、
「下剋上の時代から、君、君たらずとも臣、臣たれ」
という、
「イヌのような忠誠心を求められる時代」
を生き続けた。その中にあって、
「剣技一筋」
で生き抜いた。
武蔵にも若い頃は、「一国一城の主になりたい」という青年武士らしい野望があった。だからこそかれは関ケ原の合戦にも大坂の陣にも参加した。しかし武蔵には気の毒だが、かれは、
「遅れて来た青年武士」
である。つまりかれが得意とする剣技は次第に役に立たなくなっていた。それは織田信長の時代にすでに、
「これからの合戦は、個人個人の刀や槍の技ではなく、組織で行なうもの」
と、今でいえば合理化・近代化・機械化(鉄砲導入など)されていたからである。鉄砲の導入は、日本の合戦史を大きく塗り替えた。そしてこれが、
「戦国時代の終了時期を早めた」
といっていい。そういうように、日本の歴史の区分によれば、
「戦国時代から近世」
へと、どんどん容器とその中に盛られた水の性格が変わっていく中で、宮本武蔵は最後まで、
「剣捜一筋」
に生き抜いた。はっきりいえば、
「時代遅れの、役に立たなくなった技術」
を持って、新しい世の中を生き抜こうとしたのである。そう考えると、
「宮本武蔵はいったい、生涯において何を考えていたのだろうか」
という疑問を持たせる。

■『五輪書』に書かれた略歴の問題点

<本文から>
 かれが死んだのは、正保二(一六四五年五月十九日のことで、病気はどうも今でいう癌だったようだ。死亡時年齢は六十二歳だった。この『五輪書』に書かれた略歴を今日風に意訳して、問題点を取り出してみると次のようになる。
●生まれたのは播磨国(兵庫県)だった
●子供の時から兵法(この場合は剣術)を修行し、十三歳で新当流の有馬喜兵衛という兵法家と試合をして勝った
●十六歳の時には、但馬国(兵庫県)の秋山という兵法者と試合をしてこれにも勝った
●二十一歳の時に京都へ行き、天下の兵法者といわれた吉岡一門と度々試合をした。すべて勝った
●その後、日本国内を巡り歩き、いろいろな流儀の兵法者と試合をし、それは六十余回に及んだが、一度も負けたことはない
●しかし、今まで勝ち続けたのは、生まれつき武芸の才能にめぐまれていて、自然に剣術の理法にかなっていたためではないのかと思い、以後は兵法の神髄を会得する修行に切り替えた
●そのひとつに、剣術だけではなく諸芸・諸能にも関心を持ち、この修行に励んだ。しかし修行の基本的態度は「兵法の理」を基盤に置いた。したがって、すべての諸芸・諸能の修行においても、師匠と呼ぶべき存在はない.自分一人で修行した
●今この『五輪書』を書くうえでも、仏法や儒道の古い言葉を借りてはいない。また、軍記や軍法に書かれた古い記事も参考にしてはいない
●ただ、自分の二天一流の道を書き連ねるのには、真実の見解を述べたいので、天道と観世音を鏡とし、十月十日の午前四時三十分から筆を執りはじめたものである
この考えや表現の中にも、宮本武蔵の性格の一つである、
「孤高狷介であると同時に、自分自身に対する強烈な自信」
が窺われる。

■体制に順応しようとしない武蔵

<本文から>
「仕官を認める」
という通知はついに来なかった。名古屋城内で武蔵採用に二の足を踏む論議が交わされたからである。その原因はやはり、尾張藩の兵法者の刀を挟んだまま、得意気に広場をぐるぐる回した武蔵の態度にあった。
「様変わりした社会に順応する気が全くない。己を誇ることだけに生き甲斐を感じている」
と名古屋城の重役たちは判断した。義直もこの意見に従わざるを得なかった。
「惜しい男だが」
義直は呟いた。そして、
「大名家の檻の中で飼うよりも、野を一人で歩かせた方がよいかもしれぬ」
そう告げた。
晩年、武蔵はこの時のことを後悔している。
「尾張へ行った時も試合などしないで、はじめから柳生兵庫之助殿の弟子として神妙に精進し、柳生殿の推薦によって尾張徳川家に仕えるべきであった」
とひとに語った。そしてその時のことを思い出し、
「自分もあの頃は分別がなかった」
と苦笑したという。しかし、そういう処世上の技術が武士にしきりに求められている現状を知りつつも、武蔵自身は、
「おれも自己変革して、体制に順応しよう」
とは思わなかった。かれは江戸で柳生一門に接触した時に感じた、
「幕府や大名家が起こしている兵法ブームは偽りだ。上辺だけであって、その底にあるのは兵法者に対する冷たい軽侮の念でしかない。煽りに乗っている兵法者は、実をいえば徳川家や大名家の笑い者なのだ」
ということの真実を深く認識した。だが、武蔵はその真実を知ったからといって、気落ちするようなことはなかった。屈する気もない。むしろ逆に、
「その真実を打ち破るような、こちら側の真実を構築してやる」
と思い立った。それが宮本武蔵なりに編み出した、
「剣美一如」
といっていいようなものだ。つまり、剣の技と真善美とを一致させ、
「ものごとに潜んでいる真善美を、剣の技に溶け込ませる」
ということだ。同じような発想が、将軍家の兵法指南役柳生宗矩にある。有名な、
「剣祥一如(致)」
だ。

■武蔵が選んだという第三の道

<本文から>
 つまり、新しい革袋すなわち、
「改善された社会環境」
で生きるべき人間は、これまた、
「新しい人間に自己改善を行なわなければならない」
ということになるだろう。徳川幕藩体制は、完全に新しい容器をつくり出し、
「その中で生きるべき日本人像」
を、事細かく規定した。
「武蔵が選んだという第三の道」
というのは、次のようなことだ。
●武蔵は、徳川家康の発想によって、その後目まぐるしい法令によって人工的につくられた社会環境には、本質的には馴染まない。また是認していない
●しかし、だからといってかれは反体制的な行動には走らない。つまり、この体制に対して反乱は起こさない
●新しい社会体制を心の底では否定しつつも、現実にはその枠の中で生きて行く
●しかしその生き方は、あくまでもク主体性のある議の水々の精神を貫く
そうなると、やはり人工的政治都市であり、その機能をいよいよ強化拡充する江戸という新しい首都には、かれの生きる場は次第に失われる。どんなに武蔵が、
「ある部分において、新しい環境に妥協しよう」
と考えたとしても、本質的にはかれは、
「兵法者」
なのだから、ギリギリのところに行けば、どうしても、
「絶対に妥協できない部分」
が残る。江戸という政治都市は、そういう残る部分を認めない。ジョージ・オーウェルの『一九八四年』に出現する巨大な権力は、一個人の、
「自由な発想と考え方と行動」
を認めない。
「すべての人間を規格化・定型化」
する。権力には権力の音志がある。つまり、
「絶対に自分のいうことをきかせる」
という"ねじ伏せ"の意志とパワーだ。

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