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<本文から> いわば、
「大名家の富を増すような知識と能力の持ち主」
が重視されるようになった.
「どこどこの戦場で、こういう手柄を立てた」
などという武功歴など、洟も引っ掛けられなくなったのである。
宮本武蔵は、こういう時代を生きた.つまり、
「下剋上の時代から、君、君たらずとも臣、臣たれ」
という、
「イヌのような忠誠心を求められる時代」
を生き続けた。その中にあって、
「剣技一筋」
で生き抜いた。
武蔵にも若い頃は、「一国一城の主になりたい」という青年武士らしい野望があった。だからこそかれは関ケ原の合戦にも大坂の陣にも参加した。しかし武蔵には気の毒だが、かれは、
「遅れて来た青年武士」
である。つまりかれが得意とする剣技は次第に役に立たなくなっていた。それは織田信長の時代にすでに、
「これからの合戦は、個人個人の刀や槍の技ではなく、組織で行なうもの」
と、今でいえば合理化・近代化・機械化(鉄砲導入など)されていたからである。鉄砲の導入は、日本の合戦史を大きく塗り替えた。そしてこれが、
「戦国時代の終了時期を早めた」
といっていい。そういうように、日本の歴史の区分によれば、
「戦国時代から近世」
へと、どんどん容器とその中に盛られた水の性格が変わっていく中で、宮本武蔵は最後まで、
「剣捜一筋」
に生き抜いた。はっきりいえば、
「時代遅れの、役に立たなくなった技術」
を持って、新しい世の中を生き抜こうとしたのである。そう考えると、
「宮本武蔵はいったい、生涯において何を考えていたのだろうか」
という疑問を持たせる。 |
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