童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
       もう一度読みたい 童門冬二の堂々!人物伝

■織田信長の撰銭令は世界史で例がない

<本文から>
 かれのところには、よくキリシタンのバードレ(神父)がたずねてきた。布教の許可を求めてだった。岐阜や安土で信長はこれを認め、同時に神父たちがもたらす西洋文化を積極的に導入した。岐阜や安土の城下町には、キリシタンの教会・病院・学校・市民会館などが次々と建てられた。日本の町の一角に、ヨーロッパの町がそのまま出現したのである。もちろん建物だけではない。パンやブドウ酒などの食物や珍しい工芸品、衣類なども持ちこまれた。信長自身ヨーロッパ風の服装をし、アフリカの先住民族を供に連れたりしている。神父のひとりがこんなことをいった。
●十五世紀末にイギリスにグレシャムという人物がいた。エリザベス女王の時代だ
●グレシャムがみたところ、そのころのイギリスは輸入超過でイギリスの良貨がどんどん海外へ流出していた。イギリスに残ったのは悪貨ばかりである
 そこでグレシャムはエリザベス女王に意見を具申した。
「もっかイギリス国では、良貨が悪貨に駆逐されております。ご是正ください」
 この話をきいた信長はなるほどとうなずいた。そこでかれは自分が経営する城下町においては、
「良貨に悪貨を駆逐させよう」
と考えて、よい銭を選んで使えという目的で「撰銭令」を発布した。こんな法律をつくつた人物は世界史にもあまり例がない。
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■人間の欲を離れた存在を秀吉は玉の中に発見

<本文から>
 複縁した玉は、夫に連れられて秀吉のところに挨拶に行った。その時の秀吉の眼の底から発した光を、玉以上に忠興が気にした。秀吉の眼の光は、明らかに好き者のそれであった。
 玉造の屋敷に帰ると、忠興は玉にいった。
 「今後、外出は許さない」
 侍女を十七人も付け、何不自由のない生活を送らせてくれたが、忠興は玉が外に出ることだけは絶対に許さなかった。かれは嫉妬深い。味土野から下りてきた玉が、かなり性格が変わったことは忠興も感じていた。が、基本的な愛はいまだに変わらない。同時に、嫉妬深さも昔以上につのっている。
(好き者の秀吉様に、玉を取られてはたまらない)
 という恐れが、忠興にいつもまといついた。さんざん酷いことをしておきながら、自分の気持だけは大事に保ちたいという身勝手が忠輿にあった。
 しかし玉は淡々と夫のいうことに従った。彼女は、すでに別の夫を持っていた。別の夫というのは神である。清原マリアから教えられて、玉は完全に神の存在を信じ、神に仕えようと心を決めていた。まだ洗礼は受けていなかったが、心はすでに神の許に走っていた。だから、俗世の夫が何をいおうと秀吉がどんなちょっかいを出そうと一切気にならなかった。その意味では、精神的にははるかに夫の忠興を引き離していたのである。
(中略)
 秀吉は、細川忠興がはじめて連れてきた時と同じ印象を玉に持った。つまり、
 「他の女性とは違う」
 という印象である。他の女性と印象が違うというのは、抱こうという気を起こさせないような美しさだということだ。この世離れのした、つまり人間の欲を離れた存在を秀吉は玉の中に発見したのだ。
 俗な言い方をすれば、
 (こんな女を抱いても、寝室の中はさぞ味気けなかろう)
 という感じを持ったのだ。こうして玉は秀吉の毒牙から逃れた。しかしその後の忠興との生活が決して心静かで幸福なものだとはいえない。割れた皿は元に戻らない。玉の心は味土野の山中で完全に割れてしまった。おそらく秀吉が、
 「寝室へ来い」
といえば、玉は平然と従っただろう。懐剣の話はどこまで真実なのかわからない。秀吉に抱かれていても玉はおそらく、
 「自分には夫がいる。その夫とは神だ」
と心の中で念じていたに違いない。そんな気味悪さを感じたからこそ、秀吉も玉を抱くことをやめたのだ。
 その意味では、好き者の秀吉に不気味な畏れを感じさせた存在として、細川ガラシャは異彩を放っていた。
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■秀長は秀吉の″緩衝装置″

<本文から>
 仮説というのは、
●秀長イメージは、秀吉がつくり出したものである。
●秀長は、秀吉に対する世間からの反感・攻撃を弱めるための″緩衝装置″として機能させられた。
●そのため、秀吉が世間から反感をもたれ、攻撃されるような要素、つまり悪徳は、秀長にあって逆な美徳として設定され、世間の反感・攻撃はここで視点をそらされ、海綿に水が浸みこむように吸いとられた。
 ということだ。
 ことばをかえれば、「事実としての秀長」よりも、「真実としての秀長」が世に送り出されたのだ。
 秀吉のPR好きは、側近の大村由己に、『天正記』を書かせたことだけでもあきらかだ。自分が天皇のかくし子だとまで書かせている。が、実はこういう穴が秀吉の底の深い謀略なのであって、かれは他人の追随をゆるさない人間通である。
 同時に何百年に一度しか出現しない異能者であることもたしかだ。溢れ、みなぎる才能をそのまま露出したのでは、世間の反感はますますつよいものになる。そうであれば、溢れ出た才能は形をかえて誰かが受け皿となつて活用しなければならない。
 その″受け皿″が秀長である。兄弟がそこまで戦略を話しあったとは思えない。秀吉が自然にそう仕向けていった。甥の関白秀次を鬼畜化していったのと同じである。
 秀次は秀吉の″悪″の面の防壁となり、秀長は″善″の面の防壁となった。秀吉の人の使い方は″機能的分断″であり、今日のシステム・アナリシスである。人間の細分化・機能化だ。肉親もその例ではない。家康の後妻に押しこんだ旭姫の扱いをみてもわかる。
 一見、″情の人″にみえる秀吉は、実はかれほど″非情の人″はいない。死ぬまぎわの小便をもらしながらも、
 「秀頼をたのみ申す、たのみ申す」
も、どこまでが本当で、どこまでが芝居だかわからない。
 その意味では、豊臣秀長は豊臣秀吉の完全な分身である。しかし、そのことをはっきり意識して、「おれは豊臣政権樹立のために、兄の求めるイメージを自らつくり出そう」と考えたかどうか疑問である。
 「そうしなければ兄に殺される」
 という、秀吉への素朴な恐怖であったかも知れない。
 とにかく戦国大名はひとすじナワでは行かない。その中でただ好人物だというのは、″いてもいなくてもいい人″、″どうでもいい人″になりかねない。それを克服して一個のイメージをつくり出したのは、やはり秀長も並々ならぬ人物だったといえる。
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■武田勝頼滅亡の原因

<本文から>
 やがて勝頼は越後(新潟県)の上杉景勝や、小田原の北条民政との政争に巻きこまれる。しかし父信玄とはちがって、外交政策が得意ではないかれは右往左往する。またそのうちに、南信濃の木曾義昌が織田信長に通じた。信長・家康連合軍が信濃から甲府をめざして突入してきた。弟の仁科盛信が城将をつとめる高遠城が落城した後、信長の代理であるその長男信忠のひきいる軍勢が怒涛のごとく甲府へ押し寄せる。勝頼は新府城を焼いて、岩殿城の小山田信茂を頼りかけるが、小山田に峻拒される。いきどころを失いついに天目山へ向う途中、田野で自決する。このとき殉じたのは妻・息子の信勝(このとき十六歳になつていた)、家臣の土屋昌恒・小宮山内膳・安倍勝宝・小原忠継・麟岳長老ら四十六人、侍女二十三人であった。勝頼滅亡の原因は、最初にも書いたように、
●父信玄が″名将″の名を欲しいままにして、それを棺桶に貼りつけたままあの世にいってしまったこと
●しかも、勝頼を相続人に指名しなかったこと。さらにそれを裏づけるように武田家の軍旗の使用を禁じたこと
 などが大きなキズを勝頼の胸に与えたことだろう。その意味では武田信玄はたしかに名将だが、
 「後継者の養成」
については、きちんとした考えを持ち実行していなかったといえる。したがって武田家滅亡の原因の一半は、信玄そのものが負わなければならない。
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■石田三成は島左近を全面的に受け入れたとは思えない

<本文から>
「天の時(運)・地の利(条件・状況)・人の和(人間関係)」
である。特に最後の人間関係が大きくものをいう。
 「野の遺賢」
が、召し出されるのも、
 「人を見る目」
 を持ったすぐれたトップリーダーがいなければだめだ。その意味では名軍師も同じだ。軍師が名軍師として活躍できるためには、やはり、この三つが整えられることが必要だ。しかも軍師にとっては、
 「登用してくれるトップリーダーが、その三条件を揃えてくれる」
 という″場づくり〃が必要だ。これが「あ・うん(あは吐く息、うんは吸う息)の呼吸がぴつたり合う」
 ということである。そう考えると、石田三成と島左近とは、本当に″あ・うんの呼吸″が合っていたのだろうか。どうも、石田三成の自信過剰が、島左近の言ったことを全面的に受け入れたとは思えないような節がいくつかあるのだ。その意味では、島左近は前に書いた三つの条件をそのまま、
 「天の壁・地の壁・人の壁」
 という″三つの壁″としてとらえ、その三つの壁を完全に破壊できなかったといっていいだろう。というよりも、石田三成のほうがそういう壁を取り払って、島左近にもっと十分な活躍をさせるだけの器量を欠いていたといっていいかもしれない。そこに、島左近の悲劇性があった。
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■宮本武蔵は時代に遅れてきた青年だから超人的な技が生まれた

<本文から>
 宮本武蔵はとりわけ自己顕示欲のつよい人間だった。時に抑制がきかない。理性ではそう思っても欲望のほうがいうことをきかない。突出した行動に出ることがある。だから、かれは「独行道」で自己規制する。あそこにならべられた条項は、武蔵がそういう境地にいたということではない。むしろ逆で、そういう煩悩に苦しむ自身への、「べからず集」である。
 それにしても、武蔵は、なぜ、あそこまで超人的な生き方をおのれに課したのだろうか。理由はひとつ、かれが「時代に遅れてきた青年」だったからだ。かれが青年になったときは、新社会(近世)の骨組みはもう終わってしまっていた。「一国一城のあるじ」の夢は、文字どおり夢で、世の中はどんどん″徳川管理社会″に向かってすすんでいた。
 徳川管理社会は、日本人のすべてをいまいる場に釘づけにし、上を見ずに下を見て生きろ、という社会である。武蔵が本能として燃やしている「自己顕示」と、それによる「上昇志向の充足」ができにくい世の中だ。
 武蔵はそういう社会の中でそれをやろうとした。かれの言行は「遅れをとり戻す」ということに絞られ、いきおい一日の時間を他人の二倍、三倍に使わなければならなかった。行動も超人的な技がおのれから生まれることを期待した。普通の同年輩の若者のように、恋をすることも、妻帯も、家を持つことも、財をたのしむことも、そんな余裕はかれにはなかった。そんなことは時間のむだづかいだった。
 『五輪書』をよむと、かれは相当に鋭い時代感覚を持っていることがわかる。特に、人間に対し、かなりの洞察力を持っている。人間学の大家だ。
 この書で、かれは「なぜ、日本は近世になったのか?」などという分析はしない。なってしまったものはしかたがない。
 「この新社会にどう生きるか?」だけを模索する。
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■多彩なブレーンをもった徳川吉宗

<本文から>
 吉宗はある時室鳩巣に尋ねた。室鳩巣は中国から例を取って、
 「中国には昔、足し高利というのがございました」
 と告げた。
 「足し高利というのはどういうものか?」
 「一種の役職手当といってよろしいでしょう。その役についた時に、その役に就いた人物の給与が、その役職手当に及ばない時は、その差額を補完いたします。しかし、そのポストから離れた時は元の給与に戻します」
 「なるほど、それは面白いな」
 実行すればそのポストについた人間は、さぞかし張り合いを感ずることだろう。吉宗は早速この制度を取り入れた。
 心が広く、人を決して憎まない吉宗であったが、しかしかれ自身は呑気坊主ではない。鋭い所もあった。そのひとつが「お庭香」の創設である。
 既成の組織と人事をそのまま尊重するという吉宗の基本方針はある面で欠陥を生ずる。それは、かれ自身の情報に不足が生ずることだ。それをかれは、ひとつは目安箱によって補おうとした。これは単に情報収果だけではない。いうことをきかない役人に対し、
 「上と下から挟み撃ちにする」
 という目的があったに違いない。お庭番の創設は、一種のスパイ政治である。お庭番というのは情報収集者だ。江戸城の庭の番をするという形をとりながら、実際には町で見聞してきたことを、庭に出てきた将軍吉宗に報告する。だれにもきかれないし、また吉宗のほうも、
 「他の鯉は元気か?」
などというきき方をしながら、その実、
 「実はこれこれ」
 という機密情報を耳にすることができるからである。このお庭番に登用したのが、紀州から連れてきた部下たちであった。かれらは幕府の表のポストには就かなかったが、こういうお庭番になることによってより密着して吉宗に忠誠心を示した。
 見方によれば、市民の意見を直接かれに達する「目安箱」という媒体と、見聞したことを直接吉宗に報告する「お庭番」もまた、将軍吉宗の強力なブレーンのひとつだったといっていいだろう。
 このように徳川吉宗のブレーン群は、実に多方面に及んでいた。
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■高田屋嘉兵衛は″三バン″とはまったく無縁

<本文から>
 むかし政治家が成功するためには″三バン″が必要だといわれた。三バンというのは「地盤(基礎)・看板(名)・カバン(金)」の三つのことだ。また別に「天の時(運)・地の利(状況・条件)・人の和(人間関係)」の三つも必要だといわれる。高田屋嘉兵衛は、″三バン″とはまったく無縁だった。かれは淡路島の貧しい家に生まれ、子どものときから島を取り巻く海をみながら、
 「いつかは北前船に乗って、日本海を思う存分渡り歩きたい」
 と考えていた。三バンはなかったが天の時には恵まれた。というのは、かれが成人になる時期は、ちょうど老中松平定信(白河藩主)が″寛政の改革″を展開していたころだ。松平定信は神道を信じ、国学にも明るかったが、当時北方にしきりにあらわれる外国船を気にして、国防問題を幕府政治の一本の柱にした人物である。多くの探検家が北方へ派遣された。領土確保と外国の侵略を防ぐための手が次々と打たれた。これが高田屋嘉兵衛の北方における活躍を容易にしたゆえんだ。また二番目の状況や条件については、かれの資質が天性の船乗りに向いていたことだ。先のみとおしがよくきく、そして情報収集にも敏感だ。さらに度胸がよく、決断力に満ちている。しかも行動が素早い。船乗りにもってこいの資質をかれは子どものときから備えていた。特に三番目の人の和(人間関係) については、かれならではの能力を発揮した。多くの庇護者(パトロン)が出現した。島を出て兵庫に渡ったかれが奉公した廻船問屋の中で北風家がかれをみこみ、六年ばかり乗組員をやったあと船をつくってくれた。この船をかれは辰悦丸と名づけた。
 もともとかれは北前交易を望んでいたから、目標は一本にしぼられている。大坂から、北方に住む人びとが必要とする織物・塩・雑貨などを運ぶ。かわりに北方の海産物・木材・米などを積みこんで大坂に戻ってくる。いわゆる海の″ノコギリ商売″だ。
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■グローバルにモノをみてローカルに生きる発想に欠けていたから徳川幕府が崩壊

<本文から>
「地方分権の実現とは、地方がそれぞれ自前の政策形成能力を持ち、それを実現するための財源調達能力を自ら発揮する」
 ということだ。薩摩藩と長州藩は、これを行った。現在でいえば、
「地方自治体レベルにおける血の濠むような行財政改革」
 を行った。しかし、それは精神主義的なものではなく、
 「経済を発展させることによって、藩そのものを富ませる必要がある」
 という観点に立った。割拠というのは、現在では
 「国からの地方交付税や補助金をいっさい当てにしない」
 ということだ。したがって、
 「金の切れ目が縁の切れ目」
 になる。いわば、
 「金の世話にならなければ、こっちも好き勝手なことができる」
 ということだ。薩摩藩は、奄美大島から南の島々の黒砂糖の栽培を奨励し、同時に琉球貿易の利益をかなりかすめ取った。また、三百万両高におよぶ債務はすべて「五百年払い」という、事実上の踏み倒しを行った。これによって大きな黒字を出し、イギリスから軍艦や大砲や鉄砲などを買い込んだ。
 長州藩もきびしい行政改革を行った。そしてここは、武士だけでなく藩民も一緒になって、
 「大割拠」
を実現する。これは意外に、藩民の士気を高め、主導したのは高杉晋作だったが、
 「武士よりも、農工商の三民のほうが頼りになる」
 という考えを湧かせた。これがかれの奇兵隊の編成や、明治国家になってからの、
 「国民皆兵」
 の制度につながっていく。長州藩はきびしい行財政改革によって″長州の三自(あるいは四白)″を生んだ。塩、紙、蝋、そして米などの産出を際立って増大させたことである。しかし長州藩は朝敵だったから、表立って外国から武器を輸入するわけにはいかない。そこで坂本龍馬の海援隊に頼んで、薩摩藩名義によって武器を購入する。これが、
 「薩長同盟」
 の礎石を築く。なんでもそうだが、喧嘩していた国が仲良くなるのには、
●まず物の交流
●人の交流
●文化の交流
●政治の交流
 という段階を踏んでいくようだ。薩長同盟は、その典型である。
前に、
「養子トップたちの力量発揮には限界があり、整合性を欠いたのではないか」
ということは、
●薩摩藩・長州藩の、こういう自己努力を見落としていたこと。あるいは、軽くみていたこと。
●公武合体派の各大名も、それぞれ思惑があり、とくに養子トップたちの「私意を抑えきれないわがまま」が作用して、すぐに空中分解させたこと。
などである。特に前者の、
「西南雄藩の自己努力を見落としていた」
 という事実は大きい。松平定敬もそのひとりだ。現在必要なのは、
「グローカリズム」
 の思想だといわれる。グローカリズムというのは、
「グローバルにモノをみて、ローカルに生きる」
 ということだ。
「国際情勢をはっきり見極めながら、日本の進路を探り、その中で自分の藩あるいは立場でなにをなすべきか」
 をしっかり掌握すべきだということである。残念ながら、京都守護職松平容保も、京都所司代松平定敬も、もっといえば、老中板倉勝静も、さらに将軍後見職一橋慶喜にも、この、
「グローカリズムの発想」
 が相当に欠けていたといっていい。これが、徳川幕府崩壊の大きな原因になる。
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■薩長同盟の実現を後押しした世論

<本文から>
 坂本龍馬は、西郷をはじめとする薩摩藩の要人たちに
「徳川幕府が、長州藩の次に狙っているのは、薩摩藩だ」
 という危機感を植えつけることを忘れなかった。そして、これは坂本のホラでも何でもなかった。徳川幕府は、その方向で力を加えていた。先頭に立っていたのが小栗上野介である。そして、彼を尻押しするフランス国であった。フランスは、薩摩藩と結んだイギリスを意識し、「対日貿易をイギリスの思うようにはさせない」と決意していた。フランス公使ロッシュも、「日本との貿易は、フランスが独占する」と考えていた。したがって、坂本龍馬のいうことは、かなり説得性があった。
 薩長同盟は、坂本龍馬の駆けずり回りによって実現したように伝えられているが、決してそうではない。こういう大きなことが実現するためには、何といっても世論が要る。やはり、時代の空気が求めるという気運がなければ、こういうことは成功しない。幸いなことに、この時期、その世論が次第に盛り上がりつつあった。多くの有志たちが、「この際、薩摩藩と長州藩が手を結ぶべきだ」という考え方を持ちはじめていたのである。
 特にその考えを口にしはじめたのが、筑前藩に移されていた五人の公家であり、その中心にいた三条実美である。五卿の盟主と、親衛隊長である中岡慎太郎、それに土方久元たちが、このことを、声を大にして叫びはじめた。世論は、九州の一角にあって、どんどん拡大された。
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