童門冬二著書
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          宮本武蔵

■宮本武蔵ではなく、吉川武蔵

<本文から>
吉川英治さんの宮本武蔵は素晴らしかった。だから、「宮本武蔵ではなく、吉川武蔵だ」などともいわれた。
 武蔵の生涯は、だれが調べても、この『五輪書』の「地之巻」の冒頭部分に書かれた、「わたしの履歴書」以外に史料がないのだから、これは建造物にたとえると、「太い柱だけの巨大な建物」といえる。あまりにも空間が多すぎる。戸障子もはまっていない。
 そこで、吉川さんは自分なりに綿密に土台を構築し、柱を立て直し、壁を塗り、戸障子をはめ込んだ。さらに、塀や庭までつくつた。絢爛たる建造物が出来上がった。そのためいかなる後代の作品も、到底この完成品を超えることはできない。
 吉川英治さんは、子供のときから苦労した。『宮本武蔵』のほかにもたくさんの現代小説がある。たとえば、『かんかん虫は唄う』などは、吉川さんが実際に経験した埠頭の辛い労働者の話である。家の事情で高い学歴を得ることが不可能だった吉川さんは、独学で自分の教養を深めた。
 宮本武蔵には、吉川さんが自己を投入した部分が多い。いってみれば、吉川さんの「わたしの生き方」が色濃く投影されている。今では日本に数少なくなった、「修養小説・精神形成小説」である。それが宮本武蔵がいまだに多くの人に愛されている所以なのだ。
 筆者自身も、青少年時代、この小説によって随分刺激を受けたし、考えさせられもした。
 とくに「独行道」における、
 「我事において後悔をせず」
 という言葉は、「吉川武蔵」におけるいろいろな名場面とともに、いまだにわたしの胸の奥の一角にはっきり打ち込まれていて、何かあるたびに、
 「我事において後悔をせず」
 と呟いている。というのは、毎日後悔するようなことばかり行なっているからだ。
 吉川武蔵は、その意味では、多くの悩む人々に大きな励ましと勇気を与えた。「あなたも生きていていいのですよ」ということを、読む人は揃って吉川さんから保障されていた。
 それだけに、「宮本武蔵のことをもっと知りたい」という希求があらゆる層に湧き、先学による研究が次々と成果を生んだ。

■武蔵の履歴

<本文から>
  さて、出生とその幼少年時代に暗い影があり、その影を重い傷として受け止めた武蔵は、その後、どのような経歴を辿ったのだろう。先学の研究成果を利用しながら、「その後の武蔵の経歴書」をつくつてみる。
天正十五(一五八七)年 四歳
この頃、生母が実家に戻り、やがて田住政久と再婚した。
天正十八(一五九〇)年 七歳
この頃、父の平田武仁が死んだと推定される。別説に、父は豊前・豊後(九州)に亡命し、慶長十二年まで黒田家や細川家で兵法指南していた、というのがある。
慶長元(一五九六)年 十三歳
新当流の兵法者、有馬喜兵衛と試合し、これを打ち負かす。
慶長四(一五九九)年 十六歳
但馬の兵法者、秋山某と試合し、これに勝つ。
慶長五(一六〇〇)年 十七歳
 関ケ原の合戦に参加する。西軍か東軍かという問題があるが、主家の新免家が西軍の首脳だった宇喜多家に仕えていたので、当然西軍だったと思われる。そのため、敗れた後には残党狩りが厳しく、武蔵も新免家とともに九州に逃れたという説がある。とすれば、このとき豊前だか豊後だかに、父武仁が亡命していたとすれば、そこを訪れたとも思われる。この説によれば、後に黒田如水にしたがって大友家との合戦に参加したともいわれている。
慶長九(一六〇四)年 二十一歳
 当時京都で天下の兵法者として名を馳せていた吉岡清十郎と、京都蓮台野で試合をして勝った。さらに、吉岡清十郎の弟、伝七郎と洛外で試合をして、これにも勝った。その後、吉岡清十郎の子、又七郎を名目人とする、吉岡一門と京都一乗寺下り松で決闘し、これにも勝った。このとき武蔵は、名目人だった少年又七郎を真っ先に斬ったので、批判の襟を浴びた。同じころに、奈良の宝蔵院流槍術の奥蔵院と試合して勝った。
慶長十一(一六〇六)年から十六(一六一一)年にかけて 二十三歳から二十八歳
 伊賀で、宍戸某という兵法者と試合して勝った。江戸で棒術の達人夢想権之助という兵法者と試合し、これにも勝った。同じく江戸で、柳生流の大瀬戸隼人、辻凰某と戦い、これを倒した。その後、下総行徳で、開墾事業に従事する。
慶長十七(一六一二)年 二十九歳
 豊前(福岡県)小倉の船島で、巌流佐々木小次郎と決闘してこれを倒した(相手の佐々木小次郎は、小説や映画・テレビなどでは若々しい武者に描かれているが、研究者の推測によると、もしも小次郎が生存していたとすれば、このときすでに七十余歳であったといわれる)。
慶長十九(一六一四)年 三十一歳
大坂冬の陣で西軍に参加する。
慶長二十(一六一五)年 三十二歳
 五月に行なわれた大阪夏の陣に再び西軍として参加。しかし、西軍は敗れ大坂城は炎上する。徳川方の残党狩りが厳しいので、これを逃れて地下に潜行する。以後、諸国を回ったらしいが、足跡は全く不明である。
元和五(一六一九)年から寛永十(一六三三)年 三十五歳から五十歳
 摂津尼崎街道で造酒之助を拾い養子として宮本姓を名乗らせる。
 東軍流の三宅軍兵衛という兵法者と試合し、勝つ。
 明石城下に仮住まいし、明石藩中に知己を得て、城下の縄張り(設計)などを行なう。宮本伊織を養子とする。尾張(愛知県)で、尾張徳川家の兵法指南役柳生兵庫守利巌とめぐりあう。寛永三年に、養子の造酒之助は、主君本多忠刻が死んだため、これに殉死する。
寛永十五(一六三八)年 五十五歳
 島原の乱が勃発して、伊織の縁で小笠原忠真軍に参加し、軍監となる。このとき、籠城した一揆側の投げた石で膝に負傷する。しかし、功績が抜群だった伊織は、家老に登用される。
寛永十七(一六四〇)年 五十七歳
 肥後熊本藩主細川忠利の知遇を得る。食客として、熊本の千葉城跡に居宅をもらう。
寛永十八(一六四一)年 五十人歳
 細川忠利のために「兵法三十五箇条」を完成させる。名僧春山和尚と交流する。この年、
よき理解者だった忠利が死ぬ。
寛永二十(一六四三)年 六十歳
 しばしば岩戸山霊巌洞に寵るようになる。『五輪書』を執筆しはじめる。
正保二(一六四五)年 六十二歳
『五輪書』を完成させ、『独行道』を書く。五月十九日に死ぬ。六十二歳。

■個人の無力さを徹底的に知らされた

<本文から>
宇喜多軍も襲われて、クモの子を散らすように逃げはじめた。おそらく、この逃亡軍の中に、宮本武蔵もいたに違いない。
 「宇喜多軍は、五段に構えて陣を張った」
といわれている。武蔵が何段目に参加していたかはわからない。しかし、当時の陣形とすれば、
 「その大名の直臣は大将の側近くに置き、傭兵は前に出す」
という方法が採られていただろうから、武蔵は、あるいは福島正則軍や、藤堂高虎軍と向かい合っていたのかもしれない。ところが、関ケ原の合戦でもっとも勇猛な働きをしたのが、この福島軍と藤堂軍である。そのすさまじい勢いに押されて、武蔵は得意の剣法を発揮することなど思いもよらず、這々の体で逃亡兵の一人として逃げ回ったことだろう。
 このときに武蔵が味わった絶望感は、かれの今までの考えを一変するものであった。それは、「個人の無力さ」ということを徹底的に知らされたことである。
 同時に武器として刀や槍がほとんど役に立たなかったことだ。合戦は鉄砲の時代に入っていた。これは、織田信長の長篠の合戦における成功が、その後、各大名の鉄砲に対する関心を深めさせたことによる。したがって、「合戦の個人から組織への変化」と「武器の変化」が併せて行なわれた。
 武蔵がこのとき味わったのは、「合戦は組織対組織で行なわれる」ということと、「鉄砲が威力を発増する」ということであった。そんな合戦場で、いくら刀を振り回し、「おれは剣法の達人だ」などと威張ってみても、結局は銃弾に打ち倒されてしまう。おそらく、武蔵も首を縮め、木陰から木陰へ、草の陰から草の陰へと逃げ回ったことだろう。十七歳のかれは、そういう不条理な状況に出会って、
 「畜生、畜生」
 と無念の叫びを上げたに違いない。十三歳のときに、
 「弁之助は兵法の神童だ」
 といわれて、天下の遍歴兵法者有馬喜兵衛を打ち倒したときの、あの高揚感などどこかへ吹っ飛んでしまった。あるのは、
 「あまりにも無力で、孤独な一個人の小ささ」
である。その無力感を抱えて、武蔵は逃げ回った。

■一剣の絶技によって存在を天下に知らしめるという志

<本文から>
 かれの心は常に「乱世」を求めている。波立つ社会の中で、自分の存在がはっきり示せるような場を得たい。が、では、
 「何によってそれを示すのか」
と武蔵は考えを煮詰める。結局、
「おれにできること、もっともおれに相応しいことを磨いて、この世に問う以外ない」
と思った。次第に平和に馴染み、それが続くことを願うような同時代人とはやはり気が合わない。
「おれが生き抜くのは、あくまでも激動の世の中だ」
という自覚がある。かれ自身も次第に、
「一国一城の主になることは難しい」
と思いはじめていた。
「形を変えて、一国一城の主と同じような自分の存在意義を示す」
ということに視座が移ってきた。武蔵が選んだのは、「兵法者の道」である。それも、
「一剣を持って、世に立つ」
ということであった。世に立つというよりも、
「一剣の絶技によって、おれの存在を天下に知らしめる」
ということである。気宇壮大な志だ。武蔵が考えたのは、
「宮本武蔵個人と天下との対決」
だ。途方もない志だ。

■体制の中で、自分の可能性はどうすれば示せるかを真剣に考えた

<本文から>
  宮本武蔵を見ていると、その行動はかなり独りよがりで、自信に満ちている。だから、人によっては、
「武蔵は反抗児だ」
とか、
「武蔵は反体制人だ」
とかいう。
が、繰り返すように、宮本武蔵は決して反体制者ではなかった。
 かれの生きた時代は、これも前に書いたように、人間社会の価値体系が崩れ、新しい価値体系が生まれ、そのために同時代人は大変な混乱に陥っていた。この先、一体どうなるのだろうという不安ももっていた。今の世の中に生きるわたしたちと同じである。
 武蔵は、しかし、そういう状況を見ても、
「時流に逆らってやろう」
とか、
「反体制的いい格好をして世の中に認められよう」
などとは考えていなかった。
ポーズとしての反抗児や、反体制人の姿勢はとらなかった。かれは、はるかに現実的であった。
 むしろ、
 「こういうような体制の中で、一体、おれの可能性はどうすれば示せるだろうか」
 ということを真面目に考え抜いた。考えたことを実行した。その積み重ねがかれの一生である。その意味では、かれは時流には必ずしも逆らってはいない。むしろ時流をよく見きわめ、その中に飛び込み、そして、時流を超えていった人間だ。
 しかし、時流を超えるにも、時流をよく分析し、時流を構成している要素を把握しなければならない。その点、武蔵はまめだった。かれは時流の把捉に決して労力を惜しまなかった。今でいえば、情報収集にカネと労力を惜しまなかった。
 武蔵の一生は、自分が生きているその時、その時の時流を分析し、凝視し、認識し、それへの対応策を自分から生んだということに終始している。
 かれの姿を見ていると、作家の井上光晴さんのいった、
「たった一人の反乱者」
を思い出すかもしれない。
 しかし、宮本武蔵は一度も反乱などしていない。六十数度の試合は、すべて、かれ自身の「止揚(アウフヘーベン)」であった。かれは、自己を向上させるために、六十余度の試合をした。一度も負けなかった。勝つたびに、かれは大きく育った。人間的深まりを強めた。かれは、絵もよく描いたし、書もよくしたし、彫刻もよくした。
 「兵法を得遺して忽ち巌のごとくに成て万事あたらざる所」(『五輪書』)
という。
 かれにとっては、
 「一芸は多芸に通ずる」
ということであった。今流の言菜でいえば、
 「すぐれたスペシャリストになることが、すばらしいゼネラリストになることだ」
ということである。
 剣法という一芸を極めることによって、かれは、その奥義を絵の世界や書の世界や彫刻の世界に応用していった。つまり、剣法を極めることが、かれの生き方そのものに拡がりをもたせ、深めた。
 その意味では、かれは決して新しい時代の流れに逆らったわけでもなく、反抗したわけでもない。時代の要請や、同時代人のニーズがなにかを知り、その流れに沿いながら、それを超えて、自分の流れを発見していったのである。

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