童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          水戸黄門異聞

■『大日本史』編修で幕府謀叛の疑いが

<本文から>
「水戸様の天下の副将軍としての名声がご」当代様(綱吉のこと)の勢威を越えている」
とか、
「水戸様はご当代さまがお出しになった″生類憐れみの令″に、ことごとく反するような行りをする」
 などといわれていた。が、そんな程度の噂は別に気にかけるほどのことはない。光圀がもっとも気にしているのは、
「水戸様がいまご編修中の『大日本史』という歴史の本では、徳川将軍家よりも京都の天皇を尊ぶべきだと書いているそうだ。水戸様には、幕府に対する謀反心がおありになるのではないか」
 という噂が立っていることだ。そしてこの『大日本史』編修のために、光圀が彰考館に勤める史臣たちを、しきりに日本全国に派遣しているのは、
「各地の尊皇家を煽動して、謀反の兵をあげさせるためではないのか?」
とまで勘繰る連中が増えはじめていた。
 将軍徳川綱吉は学問好きである。側用人の柳沢吉保も学問が深い。それだけに、光圀が大日本史を編修していることにはかなり前から注目していた。
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■北の国との交易

<本文から>
「凍らない港が欲しい」
といって、しきりに南下政策をとっているということをきいていた。この噂をきいた時光圀は、
「ほっておけば、日本の北方領土が侵略される」
という警戒心を抱いた。そのことを副将軍として将軍の綱吉に告げたが、綱吉は一笑した。
「そんな心配は必要ない。この国は安泰だ」
といって、脇にいた側用人の柳沢吉保に蔑みの笑いを投げた。柳沢吉保も綱吉の笑みを眼で受け止め、同調した。その二人の表情を光圀はいまでもありありと覚えている。そこで光圀は方針を変え、
「水戸藩の目下の財政が非常に苦しいので、船を仕立て北の国との交易をお許しください」
と願い出た。綱吉は心の中では、
(まだ自分のいっていることに拘っているのか)
 という不快感を持っただろうが、しかし北の国と交易をしたいという光圀の願いを退けるわけにはいかなかった。許可した。
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■愛人問題

<本文から>
「ぜひうちの若君に」
 ということで、泰姫を貰い受けたのである。
 ところが、泰姫を妻にする前の光圀には、何人かの愛人がいた。ひとりは、水戸徳川家の家臣玉井なにがしの娘で、失意中の光圀の侍女を務めていた弥智という娘だ。弥智は光圀の子を学んだ。このことを告げられた光圀は狼狽した。顔を真っ青に引きつらせ、
「……弱った」
と眼をうつろにして宙を睨みつけた。弥智は、
「若君様には決してご迷惑はおかけいたしません。どうか生ませてくださいませ」
と泣いて頼む。しかし光圀はすぐにはいい返事を与えなかった。
「考えさせてくれ」
といった。弥智はびっくりして恐怖の眼で光圀をみかえす。
「考えさせてくれとは、どういうことでございましょう?」
「そのように迫るな!」
 こういう時の若い男の心理で、光圀は苛立った。弥智が愛しくないわけではない。また、犯してしまった罪の意識もないわけではない。が、実際には弱り果てた。父頼房の怒りも怖かったし、また近く京都の近衛家から妻を貰う話が成立している。
 (よりによってこんな時に)
 自分が憎い。なんとかしなければという思いで頭が一杯になり、眼の前にいる弥智の身になってものを考えない。そういう身勝手さがこの時の光圀にもあった。
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■大日本史だけでなく水戸藩政に力を尽した

<本文から>
 徳川光圀は、『大日本史』の編修を行うために、彰考館という史館を設け、ここにやなりの人数の史官を置いた。介さんのモデルになった佐々介三郎や覚さんのモデルになった安積覚などは、その代表的な学者だ。佐々も安積もやがては、彰考館の総裁に就任している。また光圀は、この彰考館で働く史官たちの待遇を、水戸城で働く一般の武士たちよりも優遇した。そのため、それでなくても、
「大日本史は水戸藩の金食い虫だ」
 といわれている上に、この史官たちの優遇策で余計経費がかかるので、水戸藩内部では悪評であった。
 こう書いてくると、徳川光圀はなんだか一般の武士たちを冷遇して、彰考館の史官だけを優遇していたように思えるが決してそうではない。
 徳川光圀もまた、
「江戸時代の名君」
 といわれた。名君というのは、自分が預った領地の行政を滞りなく行い、民から慕われる殿様という意味だ。のちの世にいわゆる″黄門漫遊記″が出てきたゆえんは、徳川光圀が水戸領内の行政にかなりきめ細かな努力を続けていたためだ。かれは、漫遊記にいうような旅はしなかったが、少くとも領内は時間のある限り歩きまわった。つまり、水戸藩主として水戸藩政に力を尽していたのである。
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■父死後に開封された光圀への封書

<本文から>
「一体何の包みだろう?」 
 と思ったが、光圀は角右衛門のいいつけを守った。頼房が死んだ後、諸々の行事を済まして自室に落着いた時、光圀は改めて角右衛門から届けられた包みのことを思い出した。
「父上がお亡くなりになったのだから、もはや開いても差支えあるまい
 そう思って、包みを開いた。中から移しい封書が出てきた。
「なんだろう?」
 と思って試みに一通の封を切って開いてみた。読みすすむうちに、光圀の顔色が変った。書かれていたのは、光圀の若い頃の行状の告発である。
「一体、こんなものをいつ?」
 多少不快な気分になって、光圀は次々と封書を開いた。すべて
「いま、若君(光圀のこと)は、これこれの悪行を働いておられます」
 という密告である。経緯がよくわからなかった。すると包みの中に、もう一通小野角右衛門から、
「若君へ」
 と宛名の書かれた封書がみつかった。表書に、
「頼房様ご存命中は、ご披見無用」
と書かれてあった。
 (なんとも周到なことだ)
と思いながら、小野角右衛門の手紙を出して読んだ。それには、
 「ここに同封いたしましたものは、ご当代様からお預りしたものでございます。ご当代様は、『自分が生存中は絶対にみせてはならぬが、死後光圀にみせよ。そちに預ける』と申されて、これらの封書をわたくしにお与えになりました。封書はすべて、ご当代様が、水戸家の家臣に対し、光圀の行状についてよからぬことがある時は、直接密封をした封書で自分に報告せよ、と仰せ出されたものです。残念ながら、若君様のご行状がよろしからざる時に、多くの家臣たちがこのような封書をご当代様の許にお届けになりました。しかしご当代様は、これをお開きにならず、すべて自分の死後光圀に直接みせよ、と仰せられたのです。どうか、ご当代様のお気持をお汲み取りになり、今後二度と悪の道にはお入りなさいませぬように」
 忠臣らしく、角右衛門は切々と訴えていた。光圀は暗澹たる気持になった。ひとつは、父の頼房がそこまで自分のことを心配してくれていたのかという思いが急に突き上げてきたからだ。生まれてすぐ、
「この子を水にせよ」
と家臣に命じた父頼房の行動を、子として光圀はどこかずっと答めていた。
「父は許せない」
 という悪感情を、根雪のように抱いていたのである。それが解けた。
 それよりも感動したのは、小野角右衛門の慎重で、しかも身分を抑えた光圀への愛情であった。正直にいって、『諌草』を貰っても、すぐには光圀の行状は改まらなかった。むしろ、伯父の尾張藩主徳川義直の感化を受けて、光圀は立ち直った。
 しかしいまにして思えば、死んでしまった父頼房と、補導役の小野角右衛門こそが、本当に親身になって自分のことを心配してくれていたのである。
 「父上、申訳ございません。角右衛門、まことに悪悦に堪えない」
光圀は封書の山の前で、瞼を熱くして詫びた。
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