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<本文から> 秀吉は、この世は力がすべてものを言うと思っていた。自分の力を持つことだと思っていた。しかし、そのカをいきなり誇示するのは得策ではない。既成の閥の存在を否定しないことだ。すべて風見鶏で行こう、と心を決した。それも、開から身を遠ざけるのではなく、こつちから積極的に各閥に飛び込むことだ、と思った。
だから、相手が歓迎しようとしまいとボスを取り囲む連中が顔をしかめようと、しかめまいと、秀吉はおかまいなく突入した。盆暮れの挨拶もきちんとし、それも誰も来ないうちに行って、庭の草むしりまでやった。
秀吉のマメな点は、ふつうの人間だったら、一人のボスヘの忠誠心を示すためにエネルギーのほとんどを使い切ってしまうのに、彼は、すべてのボスにその連中と等量のエネルギーを投入したことである。
「いったい、あのサルは何派なんだ?」と皆、首をかしげるが、とにかく、それぞれのところで常人以上のサービスをするから、文句も言えない。
秀吉は″織田家最高の風見鶏″の地位を確保した。これが後の天下取りの基礎になった。柴田勝家だけは頑固だったが、後年、前田利家はじめ、彼の上役、先輩のほとんどが秀吉の天下取りに手を貸し、また臣従した。
秀吉がこういうことを臆面もなくできた理由は、彼の胸の中に、いつも部下の存在があったからだ。
秀吉は、「閥というのは守りの集団であって、攻めの集団ではない」と思っていた。守りだから、集団はボスヘの忠誠心を問題にする。放浪者出身の秀吉にはそんな発想はない。閥が切磋琢磨の埒を超えたら、それは閥自体が堕落し、崩壊の道を歩き出したと見ている。
「人事に介入した閥が長続きしたためしはない」、秀吉は経験でそういうことを知っていた。
「そんなものに、可愛い部下を犠牲にしてたまるか。それなら、俺がちょっと汚れればいい」、そういう考えであった。
一人のボスに殉じて親ガメがコケたら部下も皆コケる、などというのは、秀吉の絶対にとらない方法であった。それは部下に対する愛情である。 |
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