童門冬二著書
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          名将に学ぶ人間学

■秀吉は″織田家最高の風見鶏″だった

<本文から>
 秀吉は、この世は力がすべてものを言うと思っていた。自分の力を持つことだと思っていた。しかし、そのカをいきなり誇示するのは得策ではない。既成の閥の存在を否定しないことだ。すべて風見鶏で行こう、と心を決した。それも、開から身を遠ざけるのではなく、こつちから積極的に各閥に飛び込むことだ、と思った。
 だから、相手が歓迎しようとしまいとボスを取り囲む連中が顔をしかめようと、しかめまいと、秀吉はおかまいなく突入した。盆暮れの挨拶もきちんとし、それも誰も来ないうちに行って、庭の草むしりまでやった。
 秀吉のマメな点は、ふつうの人間だったら、一人のボスヘの忠誠心を示すためにエネルギーのほとんどを使い切ってしまうのに、彼は、すべてのボスにその連中と等量のエネルギーを投入したことである。
 「いったい、あのサルは何派なんだ?」と皆、首をかしげるが、とにかく、それぞれのところで常人以上のサービスをするから、文句も言えない。
 秀吉は″織田家最高の風見鶏″の地位を確保した。これが後の天下取りの基礎になった。柴田勝家だけは頑固だったが、後年、前田利家はじめ、彼の上役、先輩のほとんどが秀吉の天下取りに手を貸し、また臣従した。
 秀吉がこういうことを臆面もなくできた理由は、彼の胸の中に、いつも部下の存在があったからだ。
 秀吉は、「閥というのは守りの集団であって、攻めの集団ではない」と思っていた。守りだから、集団はボスヘの忠誠心を問題にする。放浪者出身の秀吉にはそんな発想はない。閥が切磋琢磨の埒を超えたら、それは閥自体が堕落し、崩壊の道を歩き出したと見ている。
 「人事に介入した閥が長続きしたためしはない」、秀吉は経験でそういうことを知っていた。
 「そんなものに、可愛い部下を犠牲にしてたまるか。それなら、俺がちょっと汚れればいい」、そういう考えであった。
 一人のボスに殉じて親ガメがコケたら部下も皆コケる、などというのは、秀吉の絶対にとらない方法であった。それは部下に対する愛情である。
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■大久保彦左衛門に欠けていたのは周囲の愛情

<本文から>
 そうなると、ますます嫌がらせをする。堂々巡りが続き、大久保はトランプの″ババ"になる。人事異動のたびに抱えている課長は出したがるし、押しっけられる課長は取りたがらない。結局、所属不明の、どこの課にも属さない部署か、資料課の隅に机が置かれるようになる。
 両方に問題がある。
 まず大久保も悪い。通用しなくなった夢を抱き続け、「昔はよかった…」と言ってばかりいても、いま(現実)のほうが情勢は厳しい。昔のよさで、いまの世は乗り切れない。大久保は自分を変える必要がある。
 が、大久保だけではない。トップにも中間管理職にも問題がある。
 家康自身が、ときには大久保に、「おい、今夜つき合えよ」と、焼酎のお湯割りでも飲みながら、「昔は世話になったな」と、なぜ慰めなかったのか。
 二代目、三代目も、たまには、「初代が世話になった。俺もよろしく頼むよ」とステーキくらい食わせなかったのか。
 そして、トップができないならば、なぜ中間管理層がその代行をしなかったのか。慰撫だけが目的ではない。そのとき、懇々と時代の様変わり、それに応える企業の変化、社員の自己変革の必要性を話すべきなのだ。
 得てして、こういう″牢名主″的落ちこぼれキャリアには、その意を迎えることに汲々として顔色ばかりうかがう人がいるが、間違いだ。
 やはり、与えられている給料の淵源、社会的責任の存在は厳しく伝えるべきである。
 「敬して遠ざける」
 という人事のタライ回しでは、大久保はいつまで経っても自分を変えない。対決が必要だ。しかし、その対決は憎しみではダメだ。虎穴に飛び込む勇気と愛情がいる。さんざん手こずらされても、「俺はまだ、大久保への愛情が足りないのだ」と思うべきだろう。なぜなら、ヒガミ老人大久保に欠けていたのは、なんと言っても周囲の愛情だったからである。
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■渋谷「生き字引」は現場に放り出せ

<本文から>
  渋谷は転出させられた。周りや家族は、「いったい、どんな失敗をしたのだ?」といぶかった。が、不思議なことに、渋谷は黙々と現場で仕事をした。かつてのトラの威を借りたキツネ的態度はなく、人が変わったように勤めた。
 渋谷の女房は悪妻で、異動直後、「なんの落ち度もないのに」と、義直に恨みがましい気持ちを抱いた。近づいていた連中の足も遠ざかった。盆暮れの届け物も減った。
 やがて、渋谷の存在を皆が忘れてしまった。結局、渋谷は、「義直様に厄介払いされたのだ」ということで片づけられた。
 が、二年ばかり経って義直は、「渋谷を文書課長にせよ」と命じた。人事部長は驚いた。
 「文書課長は、藩の最高機密を扱う職です。現場の係長から、そんな大抜擢はできません」と言った。
 「いいから、やれ」と義直も譲らない。
 渋谷は文書課長に栄転した。辞令を渡したあとで、義直は、「少し話していけ」と、渋谷をくつろがせた。そして、「現場へ出したとき、俺を恨まなかったか?」と聞いた。
 「恨みました」
 渋谷は正直に答えた。
「トップシークレットを洩らそうとは思わなかったか?」
 「一時は思いました」
 これも正直に渋谷は答えた。
 「なぜ、洩らさなかった?憎い俺に報復しなかった?」
 「現場に生き字引がたくさんいたからです」
 「うむ?」
「現場は技術屋優先です。その生き字引ぶりたるや、事務屋の比ではありません。理不尽なしきたりで、若い者が泣いています。あれを見て、私もそれまでの自分の姿にはじめて気がつきました。私も、ずっと周りを泣かせてきたのだ、と」
 そう言って渋谷は頗を上げて義直を見た。
 「ですから、本当を言えば、今度の異動は私にとってそれほど嬉しくはありません。私はいま、現場から生き字引を叩き出す闘争をしていましたから。もう少しで成功するところだったのです」
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■佐竹義宣「古い酒」を捨て切る勇気

<本文から>
  その証拠に、義宣はその後、移住してきた重臣たちに藩政を任せなかった。彼が重用したのは、すべて新人である。渋江政光、梅津意思・政景の三人である。梅津兄弟は宇都宮の出身で、前身は城の坊主であった。
 この三人に「おまえたちに、秋田藩草創の藩政を任す。思い切ってやれ」と命じた。
 移住期のドサクサ期に、三人は、新城の久保田城(秋田城)の建設、城下町の建設、検地、知行割りなどのハードなことから、藩士の勤務マニュアルなどのソフト面まで、どんどん決めていった。
 義宣が三人を登用した理由は、はっきりしている。
 「これからは武功者は役に立たない。算勘者(経営者)でなければダメだ」というのが、それだ。
 家康からは律義者として退けられたが、義宣は単なる律義者ではなかった。
 これからの社会がどう変わるのかをはっきり見通していた。先取りのできる経営者だった。
 彼は移封を左遷だなどとは思わなかった。逆に新天地として活用しょうとした。落ち着いてくると、渋江、梅津兄弟の三人に対する旧臣たちの不満が募った。
 三人の登用は、移封期の混乱対策、つまり臨時登用だ、と思っていたのだが、義宣はその後、三人を家老にしてしまったからである。
 三人の地位と権力が確定すると、旧臣たちは三人の生命を狙い始めた。三人は結束し、いつも寝食をともにして、互いに身を守り合った。
 それに三人とも、大坂の陣では将軍秀忠が感状を出したほどの武功者だった。そんじょそこらのヘナチョコ武士など寄せつけない。しかし、狙う側は執拗だった。
 義宣はこれを知った。しかし逆にこのことを利用した。三人を狙う重臣群のうち、五人をそれぞれ、「不届きなり」という名目で斬殺した。大変な粛清である。
 が、これは三人のため、という名目を立てながら、実は義宣自身のために下した断であった。
 義宣の新方針に従わない、つまり、「新しい皮袋の中で、依然として抵抗する古い酒」を思い切って切り捨てたのだ。
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