童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          名家老列伝

■恩田木工の改革、全藩士から誓書を取った

<本文から>
○つまり、藩の財政難は、すべての藩士に関わりがあるのであって、他人事だとか、対岸の火事だなどと考えることは許さない、ということを徹底したことだ。
○それを徹底していくために、かれは手続きの上でいろいろと工夫を凝らした。それは、トップの真田幸弘だけでなく、その一族からも誓書を取り、さらに藩の重役や、全藩士からも誓書を取ったことである。誓書には、前に書いたように、
「恩田木工のいうことには、どんなことでも従う」と書かれていた。
○同じことを、かれは、自分の家族や親戚に対しても行なった。
○それは、真田幸弘というトップが範を示した「まず隗より始めよ」ということを、自分の家でも実行したのである。
○全藩士を集めて、財政白書を発表し、藩財政が容易ならない状況にあることを赤裸々に告げた。そして、協力を求めた。前に書いたような、半知借りあげを廃止したり、遊芸を奨励したり、バクチをすすめるようなことをいった事実はまったくない。
○村役人に対していったことの一部は本当だろう。本当だろうということは、借金踏み倒しの部分と、先に納めた税は、損をしたと思って、今年の分をもう一度納めろというような言い方である。これは、明らかにべテンだといっていい。しかし、そうは思わせないような迫力が木工の演説にあったということだ。
 これらのことを考えると、かなり強引だったが、恩田木工の目的は、
「改革の前提になる、トップをはじめ仝藩士、ならびに全藩民の意識変革に力点をおいた」ということができるだろう。その意味では、恩田木工のやったことは成功しているのだ。トップの真田幸弘はじめ、全藩士、ならびに全仝藩民がその気になったからである。
 もうひとつ見落としてならないのは、こういう財政難の時期に、かれは、
「藩士と藩民の再教育」を徹底的に行なったことである。これは、すぐ役立つような改革の方法を教えたのではなく、むしろ人間としての向上策を教えたのだが、結果としては、木工が目的としている、
「真田藩の財政危機をよく認識して、生活態度を改める」という考えを生ませた。いわば、「藩士と藩民に対する研修を行なった」といえるのだ。
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■渡辺華山は武士道精神にのっとった家老の務めぶりを貫いた

<本文から>
○かれのやったことは、
●トップの後継者についてスジを通したこと
●そのスジを通すために、実際行動に出たこと
●しかし、一度その企てが挫折すると、一時はヤケを起こしたが、やがて、どうあるべきかを考え、もう一度勇気を奮い起こして、次第の策に努力したこと。
●新しいトップには、堂々と諫言したこと。
●諫言だけでなく、家老としての実務能力を発揮したこと。
●実務者能力の発揮には、はっきりした方針をたてたこと。それが教化と養才という二つの方法であったこと。
●教化と養才ということは、一方でゼネラリストを養成し、さらにそれに加えて、スペシャリストを養成したということ。
●スペシャリストの養成には、藩外から専門家を招いたこと。
●専門家の条件は、単に理論だけでなく、その理論を実践することによって、藩が利益を得られること。
●起用した大蔵永常が、その期待に見事応えたこと。
 などであろう。したがってかれのやったことを見ると、今まで書いたように、家老の条件がいくつかあったが、そのほとんどを具備していたといっていいだろう。そして、かれが、若い頃に生活を助けるために始めたアルバイトが、思わぬ波及効果をもたらして、その方面で知り合った人々とともに、藩務を越えた分野にその行動範囲が延びたため、ついに幕府によって処罰されてしまった。しかし、その身の処し方はいさぎよく、自ら責任をとって自刃した。
 こういう登の生き方を見ていると、かれがあくまでも武士道精神にのっとった家老の務めぶりを貫いたということがうかがえる。同時に、かれは、子供のときから苦労をしたり、いろいろな目に遭ったが、それを、
「社会に対する対抗要件」としなかったことである。かれは、芸術家だけに心がまっすぐであった。つまり、ひがまなかったということだ。当然屈折していいような状況におかれながらも、かれは決してそうならなかった。もちろん、人間だから、一時期は酒を浴びるように飲んだこともあったが、すぐ立ち直った。こういう、人間的な誠実さが、多くの人々の共感を得たのだろう。それは、かつて反村派であった藩の重役たちが、いつの間にか、登のまごころに打たれて、自分たちの方から積極的に協力をしはじめた態度によってもうかがえる。
 この人間的な奥ゆかしさもまた、現代の家老たちが、かれから学ぶべきことではなかろうか。
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■楢山佐渡の土壇場におけるギヤチェンジ

<本文から>
今、なぜ楢山佐渡なのか
○時代の流れをよく見ていたこと。
 東北は、情報が遅いし、また考え方も古い。感情的な面もたくさんある。
「あくまでも徳川家に忠節を尽くすべきだ」という意見は、それをよく物語っている。
○しかし、楢山佐渡はこれを抑え、新政府への協力を主張した。しかし、かれは京都に行って実際に新政府の実態を見ると、絶望した。絶望は怒りに変わった。怒りは「反新政府観」を生んだ。そして、今度は、「新政府を堕落させている薩長に対して、徹底的に反抗してやろう」という考え方をもった。
○これは、実をいえば楢山佐渡の限界である。ということは、歳のせいだろうか。ここで初めて佐渡の「わたくし」が出た。つまり、今までは「公」一辺倒で生きてきたのに、ついに、「私」の進出を食い止めることができなかったのである。いわば、自己管理に破綻をきたしたということだ。
○この佐渡の「私」が南部藩の「公」を破綻させていく。南部藩はかれの行動によって窮地に陥る。
○ぎりぎりのところまでいって、佐渡はこのことに気づく。そこで、後のことを盟友の東中務に任す。そして、自らは、一切の責任をかぶっていこうと覚悟するのだ。
○南部藩は楢山佐渡の土壇場におけるギヤチェンジと、東中務の努力により、かろうじて生き残る。そして、楢山佐渡は、それを見届けながら立派に自ら命を絶つ。つまり自分のポストに恋々としなかった。
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■栗山大膳は諌言力を駆使した名家老

<本文から>
 そこで、三人の幕府元老が、きびしい質問を浴びせたが、そのすべてに見事に答えた。
 このことを、あとできいて、栗山大膳はホソとした。
 (よく切り抜けて下さった)と思った。忠之を訴えておいて、ホッとするのはおかしなことだが、大膳はもともと本気で忠之を訴えたわけではない。かれの忠誠心を知る幕府元老たちと、事前に話をしておいて、
 「こういうことを致しますので、どうかよろしくお願いいたします。そして、その暁には、どうかわたくしを厳罰に処して下さい。ただ、黒田忠之さまと、黒田藩だけは安泰にお取り扱い願います」と頼んであったのである。藩を思い、主人を思う大勝の心根に、幕府元老たちは感動した。それは、かれらが、大勝よりも年上であり、にもかかわらず大膳の物の考え方が、かれらのような戦国武将も感動させるようなものをもっていたからだ。三人は、
「大膳のいうとおりにしてやろう」と申し合わせた。
 調査が終わって、栗山大膳には、
 「家臣のぶんざいで、主人を告発するとはもってのほかである。よって、奥州南部家へ預ける」という判決が下った。そして、黒田忠之に対しては、
 「家中取締り不行届きにつき、領土を全部没収する。しかし、先祖の功績が大なので、改めて、没収した領土をそのまま新しく与える」という判決が下された。つまり、形式上はいったん領土を没収するが、そっくりそのままもう一度与えるということであった。なんといっても、三人の元老は、戦国生き残りだけあって、経験豊富だった。そのために、判決もイキな計らいだった。花も実もある扱いだったのである。
 これをきいたとき、栗山大膳はハラハラと涙を流した。そして、三人の前に、
 「ありがとうございました」と鳴咽しながら平伏した。あくまでも、黒田家のことを思う大膳の姿に、三人の元老ももらい泣きしたという。
 大膳の内部告発を、黒田忠之がどう理解したかはわからない。というのは、栗山大膳に対する汚名は、いまだに残っているからである。つまり、
「主人を裏切り、訴えた」という汚名だ。それは、中国から入った朱子学によって、
「君、君たらざれども、臣、臣たれ」が、武士道の精神として行き渡りはじめたからである。しかし、大膳は後悔しなかった。
「おれは正しい」と信じていた。かれは、東北に流されたが、三里以内は自由に散歩してよいといわれていた。ここで、ゆうゆうと死んでいった。諌言力を駆使した、典型的な家老であった。
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■安藤直次による徳川頼宣へのアザ事件

<本文から>
 安藤直次が、徳川頼宣に諌言した事件というのはひとつではない。いくつもあった。というのは、その頃の頼宣は、やはりわがままトップで、好き勝手なことをしていたからである。
 あるとき、頼宣はあやまちを犯した部下の頭を刀のサヤで殴った。しかし、サヤが壊れて、刃の一部が出て部下の頭を傷つけた。血が流れた。部下は、真っ青になってこらえていたが、おじぎをして家に帰ると、事実を遺言して、腹を切ろうとした。驚いた家人が、すぐ家老の安藤直次のところへこのことを訴えた。これをきくと、直次は、
 「よし」とうなずいた。そのまますぐ和歌山城に行った。そして、頼宣のところに行くと、しつかり頼宣の両ヒザを押さえ込んだまま、コンコンと諌言を始めた。
 「いかに、部下があやまちを犯したとはいえ、武士の頭を傷つけるとは何事ですか。こんなことでは、紀州藩は潰れてしまいます。わたくしは、あなたにそういうことがないようにしろ、と恐れおおくも神君家康公から特別なおいいつけを得てこちらに伺っている者です。それが、こういうことをなされては、わたくしの立場もございません。この上は、あなたを刺し殺して、わたくしも切腹いたします。お覚悟下さい」
 頼宣は、はじめのうちは安藤のいうことをバカにしてきいていたが、安藤が本気だと知るとだんだん心配になってきた。それに、押さえつけられたヒザが非常に痛む。やがて、血が通わなくなり、しびれてきた。しかし、
「足がしびれたから、手を放してくれ」とはいえなかった。いえないだけの迫力が安藤にはあった。頼宣は、やがて、
「わかった。おれが悪かった。あの男のところに詫びに行く」
「あの男は、すでに切腹いたしました」
「本当か?」頼宣は顔色を変えた。そして、「しまった!おれにはそんなに深いつもりはなかったのに……」と、みるみる後悔の色を現した。頼宣も正直で純粋な人間なのだ。それを見ると、ようやく安藤はヒザから手を放した。
「ご安心下さい。かれは、私の帰りを待っております。私の返答如何によっては、本当に腹を切ります」
これをきくと、頼宣は一瞬ホッとしたような表情になり、
「頼む、お前からあの男にあやまってくれ。二度とあんなことはしない」
「わかりました。そう伝えましょう」
これが、いわゆるアザ事件≠ナある。
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■ムチ叩きの刑を体験したから導入する実験主義の堀平太左衛門

<本文から>
 そう考えると、ある日、堀は部下を自分の家に呼んだ。そして、さんざんごちそうした後、部下が酔っぱらっていいきもちになると、こういった。
 「だれか、おれをムチで叩け」
 そういうと、かれは上半身裸になって背中を出したむしかし、部下はひるんでだれも手を出さない。
 「やれ。コラ、何のために酒を飲ませたと思う? おれを叩かせるために飲ませたのだぞ。シラフではやりづらいだろうと思うから、酔っぱらわせたのだ。だれか、やれ。ひとりでいやだったら、交代でいい。叩け!」と命じた。
 いい出したらきかないので、部下のひとりがおそるおそる立ちあがって、ムチを手にした。そして、そっと叩いた。堀は怒鳴った。「バカヤろう。そんな叩き方で、刑になるか。もっと力を入れて叩け!」
「こうですか」もう少し力を入れて部下が叩くと、堀は、
「まだまだ!もっと強く叩け!」
 めんどうくさくなって、部下は本気になって叩いた。堀は、ウッと痛さに叩き声を出した。が、ニヤリと笑うとこういった。
「人間の体で、ムチの痛さを我慢できるのは、これが限界かな」
 つまり、人を叩くのなら、まず自分を叩かせて、その痛さの度合を知り、それをモノサシにして、ムチの刑を新しく加えようとしたのである。この、
「何でも実験してやろう主義」は、堀が、トップの重賢から学んだことであった。
 つまり、重賢は、理念や哲学を示す。一方、堀はそれを具体的な形で示す。理念と具体策とを統合させて、改革を進めていこうというのであった。そういう意味では重賢と堀は、まさに、
 「呼吸のピッタリ合ったトップと補佐役」 であった。高い所から森全体を見て、一 本一本の木の生き方を示す重賢と、木が植わっている現場にいて、何でも自分で経験しなければ、人にいいつけないという堀の態度が、次第に藩内の空気を変えていった。みんなそれぞれが、ボヤボヤしてはいられないというきもちをもちはじめたのである。
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