童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          明治天皇の生涯(下)

■天皇の日常生活も近代化

<本文から>
明治四年は、新政府としても日本の近代化にいろいろと画期的なことを行なった年だったが、明治天皇自身にとっても、いろいろと変化が起こった。
 西洋料理を食べたのもこの年の夏が最初だったといわれる。牛や羊の肉も食され始めた。また鶏も食された。さらにミルクも飲まれた。
 洋服を着るようになったのは、翌五年の初夏のことだといわれる。このときは、大阪や中国へ巡幸した。しかし、日本風の酒宴もけっこう好きだったといわれる。相手は、山岡鉄太郎や、祖父の中山忠能たちだった。もちろん、侍従たちもみんな同席したに違いない。
 元用永孚が行なった講義の中から、いろいろ話題を求めることもあったが、別なテーマも設けられた。たとえば、ワシントンやナポレオンの話である。その話題の立て方も、
 「では、ワシントンとナポレオンとどっちが偉いのだ?」
 というようなことを本気で議論するのである。こういうとき、天皇は積極的に発言したという。
 この会に集まる連中の中で、酒豪はやはり山岡鉄太郎や中山忠能だった。しかし、天皇もなかなか負けていなかったらしい。ふつうの食事で使う小さな盃をやめて、湯飲みのようなものを玉盃にしていたという。ということは、明治天皇もかなり酒が強かったということだ。
 ふつうは午後五時か六時になれば奥へお帰りになるのが日課だったが、明治天皇はなかなか帰らなかった。深更まで、この酒宴で侃々諤々の議論を楽しんでいたという。文句を言う女官たちは全部クビになっていたから、せいせいしていたに違いない。そして天皇もまた奥で過ごすよりも、表でこういう議論をして洒を飲んでいるほうが楽しかったに違いない。
 神がかりな次元から、どんどん人間の場に移ってきた。

■天皇とグランド将軍

<本文から>
 このときは、明治天皇も形式をかなぐり捨てて、本音を出していろいろ質問した。グラントもまた、本音で誠実に答えた。
 グラントが日本に来たのは明治十二年の六月である。長崎に上陸した。東京に入ったのは七月二日だ。七月四日に皇居に参内した。天皇は、
 「あなたの名を聞くことは久しい。お目にかかれたのは満足のいたりです。あなたが大統領の職にあるときは、特にわが日本のために親切と礼儀を尽くしてくださり、また岩倉視察団訪米の際は、あなたから非常なご好意に浴したと伺っています。あなたの数々の親切ご好意には、わが国の人間が深く感銘しております。
たまたま、世界漫遊の途次、わが国に立ち寄られたことに対し、国の上下をあげて満足し、かつ歓待いたします。この国に滞在中は、存分にお楽しみいただくことを望みます。
たまたまあなたをお迎えした時期が、アメリカ独立記念祭のときに当たっているのは、特別に朕の欣快とするところです」
 そう言われれば、確かに七月四日はアメリカの独立記念日だった。このへんの知識は、天皇あるいはその側近にもあったのだ。グラントはこう奉答した。
 「本日は拝謁をさせていただき恐催のいたりでございます。日本に到着して以来、貴国政府及び人民からいただいた熱誠な歓迎に深く感謝しております。
 この友好の感情は、わが祖国に向かって与えられたものと私は拝受いたしております。そしてわが米国民も同じ感情をもって、貴国に向かって返礼するであろうことは、私の固く信じているところでありきす。
 わが国民は党派のいかんにかかわらず、日本に関することはすべて深甚の興味をもち、日本の隆盛を願ってやみません。この気持ちを奏上する機会を得たことは、まことに幸福でございます。
 アメリカは日本の隣国でございます。発展を期する日本のあらゆる努力に、常に同情と協力を惜しまないでありましょう。
 陛下の優渥なるご歓待に対し、重ねてお礼を申し上げ、陛下ご統治の万々歳と、日本国の隆昌と独立を祈り奉ります」
 もちろんグラントは英語である。通訳が訳して天皇に仲介した。皇后陛下からは、グラント夫人に言葉が与えられた。
 謁見の後、宿舎に当てられた芝の浜離宮で宴会が催された。そのとき天皇は直接グラント将軍に、
 「私的に懇談の機会を得たい」
 と申し入れた。グラントは承知した。
 翌日から、グラントは陸軍の閲兵や、日光見物などに出かけた。日光では、案内者が例の朱で塗った神橋を指差し、
 「どうぞお渡りください」
 と勧めた。グラントは手を振って辞退した。
 「いや、この橋は天皇はじめ皇族だけがお渡りになるものだと伺っております。ご遠慮申し上げる。

■伊藤博文を愛した天皇

<本文から>
 伊藤がビスマルクや李鴻章に自分を比して大天狗になれば、憲法草案の起草でリーダー的役割を果たした井上毅が天狗になり、伊東や金子も小天狗になったという天狗の分け方は面白い。
 ところが、明治天皇は大天狗の伊藤が大好きだったという。人間的にもかなり愛し、また信頼していた。それは、伊藤が思うことをズバズバ言ったからだという。また、感情の豊かな男なので、ときおり気に入らないことがあると天皇にもすねて見せたという。天皇は、そのたびにかなりてこずったことがあるそうだ。
 しかし、そういう人間性丸出しの伊藤を、天皇はかなり愛された。西郷、元田、そして伊藤あるいは佐々木高行と、天皇が愛し信頼された人間の変遷を見ているとこれも興味深心。
 伊藤が天皇に愛されるキッカケになったのは、やはり何といっても憲法づくりにあったようだ。

■明治天皇、広島大本営に入る

<本文から>
 明治天皇が広島大本営に行幸したのは、側近たちの意思によって、「この戦争は天皇ご親征である」ということを強調するためであった。
 九月十三日、明治天皇は東京の新橋駅から汽車で西に向かった。午後二時二十分に名古屋に着き、東本願寺別院を仮の宿所とした。翌十四日、午前九時に名古屋を出て、午後四時二十分に神戸に着いた。翌十五日午前に神戸を発ち、午後五時頃広島に到着すると、直ちに大本営に入った。
 大本営は、第五師団司令部が当てられていた。翌十六日の夜十時頃、朝鮮から報告が入り、平壌を攻略し、わが軍大勝利という電報が来た。天皇のまわりにいた連中はみんな歓声をあげて喜んだ。米田侍従などは、「陛下を胴上げしたい」などという始末だった。
 そして、九月十七日には、有名な黄海の海戦が行なわれた。清団の北洋艦隊は、横一列になって日本の艦隊に立ち向かって来たが、日本の艦隊は縦一列の隊形で、敵の前面を横切りながら集中砲火を浴びせた。

■日露戦争のつらい決断

<本文から>
 さらに山県有朋が立って説明を補足し、松方が財政面について説明をした。天皇は、政府首脳部や元老たちの説明をじつと、またたきもせずに聞き続けた。そして、
 「首相代理に尋ねたいことがある」
と言った。山本海軍大臣は驚いて、玉座近くまで進み出たが、やはり一人では不安だったのだろう。伊藤博文と小村に、
 「お立ち会いください」
と小声で頼んだ。伊藤と小村は山本と並んで立った。天皇は、まず事前に届けられた議案の中で、納得のいかない点を、
 「ここはどういうことか?」
 「ここに書かれていることの本当の意味はどういうことか?」
 などと下問した。そのたびに、山本海軍大臣が的確に奉答した。最後に天皇はこう告げた。
 「ロシアともう一度交渉せよ」
 全員ビックリした。元老会議ですでに開戦を決定していたからである。いままでの御前会議では、詳しい説明と質疑応答はあっても、元老会議で決めたことはそのまま天皇が承認するのが例だった。
 みんな思わず顔を見合わせた。その不安と動揺を押さえるように、恭しく礼をした山本海軍大臣は、自分の席に戻ると、確認するように告げた。
 「本日、御前会議をお開きいただきましたロシアとの問題は、非常に重大事件であるため、もう一度相手方に対し交渉せよとの御諚でございます。これにて御前会議を閉会させていただきます」
 元老の井上馨が不満そうな表情をそのままむき出しにて、天皇の側に近寄った。そして小声で、
 「陛下・・・開戦・・・」
 と言った。山本海相が表情を変えて睨みつけた。そして、
 「御前会議はすでに閉会を宣言いたしました。お退りください」
 と叱るように言った。井上は思わず山本を見返し、(何をこの小僧が!)と憎しみの色を露骨にした。井上からすれば、山本権兵衛などはまだまだ経験の浅い若僧であって、いやしく元老たる自分にそんな口がきけるか、という顔つきであった。これはしこりになった。
 御前会議が終わったのは、午後四時半である。明治天皇はこの日ついに昼食を取りそこなった。
 しかし、それほど明治天皇はロシアとの開戦について深く憂慮していた。政府は明治天皇の指示に従って、一月十三日、もう一度ロシアに電報を打った。この頃の日本の方針は、
 ・朝鮮にはたとえどんなことがあっても、ロシアには一指も触れさせない
 ・しかし、満州についてはすでにロシアが地歩を固めてしまったのだから、譲歩するのもやむを得ない
 という腹を決めていた。

■明治天皇崩御

<本文から>
 「大正昭和を経て、舶来の民主主義もしだいに箔がつくようになったのだろうが、私などの青少年期には、官僚精神がビ浸していたのである。角帽金ボタンで青春を包んで、それから官僚に進むところに、私は明治精神を見ていたのであった」
 ヒューマンな作品を書き続けた正宗白鳥らしい明治精神のとらえ方だ。特に、
 「官僚の中に明治精神を見ていた」
 という言い方は、面白い。この本でもずっと書いて来たように、明治天皇の生涯をある程度左右したのは、幕末から明治にかけての、志士からそのまま高級官僚となった人々である。彼らの生き方に明治という時代の移り変わりを重ねてみるとよく理解できる。
 しかしそれがすべてではない。明治天皇もまた、すべてこういう官僚人に支配されたわけではなかった。自らの意思が多分にあった。それが折に触れて突出した。
 そして、この明治天皇と官僚群たちとの相剋の中に、明治という時代そのものの相剋があったのである。その相剋の底には、やはりものいわぬ日本国民全体の意思が気流となって月本の空に漂い、みなぎり、時代の流れをあるときは早め、あるときは止め、そしてあるときは逆流させるようなカをもっていた。これが、明治の実相であった。
 明治天皇が亡くなったのは明治四十五年七月三十日である。六十一歳であった。国民の中には、皇居の前に座り込んで、泣きながら天皇の死を悲しんだ人がたくさんいた。病気中は、その平癒を祈って多くの人々が祈願した。そして文字どおり明治天皇の死は全世界から惜しまれた。
 墓は京都の桃山御陵である。

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