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<本文から> 明治四年は、新政府としても日本の近代化にいろいろと画期的なことを行なった年だったが、明治天皇自身にとっても、いろいろと変化が起こった。
西洋料理を食べたのもこの年の夏が最初だったといわれる。牛や羊の肉も食され始めた。また鶏も食された。さらにミルクも飲まれた。
洋服を着るようになったのは、翌五年の初夏のことだといわれる。このときは、大阪や中国へ巡幸した。しかし、日本風の酒宴もけっこう好きだったといわれる。相手は、山岡鉄太郎や、祖父の中山忠能たちだった。もちろん、侍従たちもみんな同席したに違いない。
元用永孚が行なった講義の中から、いろいろ話題を求めることもあったが、別なテーマも設けられた。たとえば、ワシントンやナポレオンの話である。その話題の立て方も、
「では、ワシントンとナポレオンとどっちが偉いのだ?」
というようなことを本気で議論するのである。こういうとき、天皇は積極的に発言したという。
この会に集まる連中の中で、酒豪はやはり山岡鉄太郎や中山忠能だった。しかし、天皇もなかなか負けていなかったらしい。ふつうの食事で使う小さな盃をやめて、湯飲みのようなものを玉盃にしていたという。ということは、明治天皇もかなり酒が強かったということだ。
ふつうは午後五時か六時になれば奥へお帰りになるのが日課だったが、明治天皇はなかなか帰らなかった。深更まで、この酒宴で侃々諤々の議論を楽しんでいたという。文句を言う女官たちは全部クビになっていたから、せいせいしていたに違いない。そして天皇もまた奥で過ごすよりも、表でこういう議論をして洒を飲んでいるほうが楽しかったに違いない。
神がかりな次元から、どんどん人間の場に移ってきた。 |
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