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<本文から> 十一歳になった祐宮は、何が起こっているのか、間者の本質を見きわめることはまだできなかったが、しかし、次々と襲うテロに、御所内の廷臣たちが、ほとんど笑いを失い、いつも顔を青くし、恐怖に目を血走らせて毎日心をおののかせながら、自分たちに仕えるきまをまざまざと見た。
「いったい、何が起こったのか?」
少年らしい好奇心を発揮して、祐宮はまわりの者に訊く。しかし、まわりの者は事実を正確に把握してはいない。ただ、恐怖の念だけで頭の中をいっぱいにしてしまって舞い上がっていた。
的確な説明のできる者はいなかった。祖父の中山忠能も、
「先頭になって、和宮降嫁を推進した」
と睨まれていた。
この頃の明治天皇すなわち祐宮の性格について、ちょっと異説がある。全体に明治維新前の明治天皇については、あまりエピソードを中心にした資料がない。そして、少年皇太子の性格についても二通りの記述がある。
一つは、前に引用したように、相撲好きで非常に腕白で、活発な少年だったという説だ。
ところがもう一つの説は逆に、
「非常に病身で、性格も弱々しく、神経質だった」
という説である。
どっちが本当なのかよくわからない。ただ、明治になってから明治天皇に会った外国の大公使たちの中には、
「帝は痩身で、非常に敏感な神経をもっておられた」
と述べた人もいる。そうなると、
「御所の中では、少年皇太子の相撲のお相手をする者が一人もいなくなった」
ということもやや危ぶまれてくる。そして、後年の帝王教育で、特に明治天皇に対して武張ったことを教え込んだのは、明治維新を実現した功臣たちであり、同時に徳川幕府に身を置きながらも、尊王心の厚かった山岡鉄舟たちである。
これでもか、これでもかというように、強靭な身体に鍛え上げるような教育を施したのは、こういう連中だ。とすれば、天皇になった後も明治天皇は、まだまだ健康面において、多少まわりの者
を憂慮させるような面があったのだろうか。
後の説を裏づけるような話が残っている。それは、元治元年に例の"禁門の変"が起こったとき、京都御所の各門で激しい戦いが起こった。このとき、長州軍の撃ち込んだ大砲の群が、御所内で炸裂した。その音に驚いて、祐宮が気を失ったという話が残っている。
少年祐宮が非常に神経過敏で、傷つきやすい精神をもち、体もそれほど丈夫でないとすれば、そういうこともあり得る。
そして、たとえそういうことがあったとしても、明治天皇のイメージを損なうものではけっしてない。むしろ、そうであったほうが人間天皇らしい。親しみがもてるのだ。
この頃、過激派の公家や志士たちの間で、しきりに、
「四奸二賓」
といわれた。四奸というのは、四人の奸物公家のことである。久我建通、岩倉具視、千種有文、富小路敬直の四人だ。二賓というのは、二人の女官ということで、今城重子、堀河紀子の二人を指した。こういうように公然と指名されたのでは、やがてはこの六人にも、暗殺の手が及ぶだろうとみんな噂し合った。
そうなると、御所の人間たちは薄情だ。なるべく六人には近づかないようにする。姿を見るとパッと脇へ避けたり、目が合うと慌てて視線をそらしたりする。御所人の"いやらしさ"がこういうときになると前面に露骨に出る。そして、そういう空気は京都御所の中にみなぎっていた。
少年祐宮はしだいに憂鬱になった。彼も叔母の和宮が関東へ行くことを非常に嫌がっていたことは知っていた。少年らしく
(嫌なら、行かなければいいのに)
と思った。ところが、孝明天皇をはじめ、何人もの公家や親戚から寄ってたかって説得されて、和宮はついに関東へ下った。この事件には"政治"が大きくからんでいた。
しかし、まだ十一歳の祐宮には、"政治"の存在を実体として感ずることは無理だっだ。 |
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