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<本文から>
静山は肥前平戸(長崎県)藩主だった。安永四(一七七五年)に十五歳で家督を継ぎ、文化三(一八〇六)年に隠居した。三十一年の藩主生活を送った。現在の首長の任期になぞらえれば、実に八期その任にあったということになる。しかし隠居したときの静山はまだ四十六歳(この物語では年齢をすべて満年齢で通す)だった。日本の大名は三代将軍徳川家光の時代に、参勤交代と藩主の正室・世子(相続人)が人質として江戸に居住することを義務づけられた。参勤交代の拠点と正室・世子の居所として、大名はそれぞれ江戸屋敷(藩郎)を構えた。敷地は幕府が貸与してくれる。その江戸藩邸にも上屋敷と下屋敷があった。上屋敷はいわば公邸だ。そして下屋敷が私邸になる。平戸藩松浦家の上屋敷は浅草鳥越(南京都台東区)にあり、下屋敷は本所牛島(墨田区)にあった。隅田川を挟んで向い合った格好になる。しかし、そのころはまだ駒形橋もなく、また安永三(一七七四)年以前には吾妻橋もないので、橋を渡って往来することはできない。渡し舟を使った。鳥越の江戸蒲郎で生まれた静山は子供のころから隅田川に親しんだ。渡し舟が好きだった。とくに時期になると、漁師が白魚をとる。静山はこの白魚が好きだった。 |
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