童門冬二著書
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          松浦静山 夜話語り

■静山は肥前平戸藩主を31年続けた

<本文から>
 静山は肥前平戸(長崎県)藩主だった。安永四(一七七五年)に十五歳で家督を継ぎ、文化三(一八〇六)年に隠居した。三十一年の藩主生活を送った。現在の首長の任期になぞらえれば、実に八期その任にあったということになる。しかし隠居したときの静山はまだ四十六歳(この物語では年齢をすべて満年齢で通す)だった。日本の大名は三代将軍徳川家光の時代に、参勤交代と藩主の正室・世子(相続人)が人質として江戸に居住することを義務づけられた。参勤交代の拠点と正室・世子の居所として、大名はそれぞれ江戸屋敷(藩郎)を構えた。敷地は幕府が貸与してくれる。その江戸藩邸にも上屋敷と下屋敷があった。上屋敷はいわば公邸だ。そして下屋敷が私邸になる。平戸藩松浦家の上屋敷は浅草鳥越(南京都台東区)にあり、下屋敷は本所牛島(墨田区)にあった。隅田川を挟んで向い合った格好になる。しかし、そのころはまだ駒形橋もなく、また安永三(一七七四)年以前には吾妻橋もないので、橋を渡って往来することはできない。渡し舟を使った。鳥越の江戸蒲郎で生まれた静山は子供のころから隅田川に親しんだ。渡し舟が好きだった。とくに時期になると、漁師が白魚をとる。静山はこの白魚が好きだった。 
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■静山の財政再建策

<本文から>
 松浦静山は藩主になってから二年後、つまり安永六 (一七七七)年に、「平戸溝財政再建計画」を発表した。次のような内容である。
 ●まず藩内の武士ならびに民は節約を実行すること
 ●国の財源の根本は農業である。そこで、藩内各地に新田・新畑を開拓すること
 ●山林を興し治水に力を入れること
 ●新田・新畑の開発や殖産に必要な耕牛ならびに農機具は藩から貸与すること
 ●別に楢・櫨・桑などを植林し蚕を飼い、和紙・ローソク・生糸の生産に勤しむこと。また縄やムシロづくりもおこなうこと
 ●冠婚葬祭の儀式を簡素化すること
 ●衣食住全般にわたり節約すること
 ●備荒として地域に義倉を設けること。この義倉に最小限の食糧ならびに生活日用品を保管すること。災害のときには地域の判断によって扉を開け、窮民を救済すること
 ●港内に不幸な人びと・貧しい人びとに医療を提供するための施薬所を新しく設けること
 ●不幸な人びと・貧しい人びとの治療は医師に無料でおこなわせること
 ●年貢米は当面極力少なくする。また洪水や早魅など天災があったときは年貢を免除する。さらに藩所有の救仙米を与えること
 ●漁業を盛んにすること。とくに捕鯨に力を入れよ
 ●魚市場を新しく設けること
 ●市場では魚介類の流通と価格の安定を心がけること
 ●領内各地の漁港の護岸工事を急ぐこと
 こういう藩政改革は在任中つづく。寛政八(一七九六)年静山三十六歳のときに、平戸城外の河川の干潟を埋めた。築地をつくったのである。新しい築地には増えてきた商人たちを住まわせた。そして地子銭 (固定資産税)を二十年間免除した。
 財政改革を理論化し、それを後々まで守らせるためにかれはいわば財政改革のテキストをつくった。これを『財用法鑑』という。さらに藩の「会計法」を改革して『団用法典』を編纂し、
 「今後この法典を平戸藩の財政運営の根幹とせよ」
 と命じた。このようにいまでいう企業努力に力を入れながらも常に視線は幕府に向いていた。だから幕府が関東諸国の河川改修にいわゆる″お手伝い″命ずると、静山は率先してこれに参加し、数万両の資金を拠出している。同時に湯島聖堂(東京都文京区)の再建などにも二万両の巨額の献金をおこなっている。興味深いのはかれが毎月日を決めて、城下町の七十歳以上の老人を城の大広間に招いてごちそうしたことだ。これは単にごちそうしただけではあるまい。おそらく静山は人間に対する好奇心が強いから、
「きょうはひとつ、みなさんの宝物をわたしにくださらぬか」
 といったはずだ。老人たちはびっくりする。
「殿様、わたしたちは貧しくて宝物など持っておりませんよ」
 と困惑する。ところが静山はニコニコ笑って、
「いやいや、お持ちです。それはみなさんがシワとシワの間に挟んでいる経験という大切な宝だ。それをひとつずつ出してみせてください」
 と告げる。その表現にみんなクスクス笑う。顔をみあわせて、
 「うちの殿様はおもしろいお方だ」
 とうなずき合う。そうなると座がほぐれ、
 「お殿様、ではわたくしの宝をご披露いたしましょう」
 といって自分の経験談を話す。自慢話もあれば若者にいじめられる現状を訴える老人もいる。こういう語をつぶさにきいて静山は、
 「自分の改革の進み具合」
 を確かめるのだ。そして老人たちの意見の中で、
 「この意見は施策化すると多くの民がよろこぶにちがいない」
 と思うものはどんどんとり入れた。そういう形で老人たちは単にグチ話をこぼすだけではなくこの般様はどんどん自分たちの意見を実際の施策として実現してくれるので張り合いが出た。
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■平戸藩とオランダとの貿易のきっかけ

<本文から>
 「麟太郎くんは、豊後団に漂着したオランダ船リーフデ号のことを知っているかね?」
 「存じております。たしかあの船に乗ってきた航海長のウィリアム・アダムスと航海士のヤン・ヨーステンを、神君家康公は貿易問題の顧問になさったと伺いましたが」
 「そのとおりだ。船長はクワッケルナックといったが、このとき家康公は今後オランダ船は日本 のどこの港に入って貿易をおこなってもよい、またクワッケルナッタ船長は帰国してもよいと許可をお与えになった。その後の.ヤン・ヨーステンのことは?」
 静山はうながした。麟太郎は微笑んだ。こう答えた。
 「江戸城の前に土地と家屋をもらい、日本の女性と結婚いたしました。住んだ地域をヤン・ヨーステン河岸といい、これが靴って八重洲河岸というようになったそうですね」
 「よく知っているな。そのとおりだ。ヤン・ヨーステンはその後帰国を願ってオランデに戻ろうとしたが、途中で死んだ」
 「一方のウィリアム・アデムスは三浦半島に領地をいただいたので、三浦接針と名乗りました」
 「そのとおりだ。さすがだなあ」
静山は微笑んだ。そしてきいた。
 「接針の意味は?」
 「羅針盤のことです。目安とも申します」
 「ほう、きみは賢いなあ」
 静山は満足した。鱗太郎はいった。
 「わたくしは将来大きな船に乗って外国にいきたいのです。ですからいま航海術も学んでおります」
 「それは頼もしい。そういうきもちを持っているのなら、平戸にもぜひいったほうがいいな」
 「いずれお願いするつもりでおります。その節はご隠居様、どうぞよろしくお願いをいたします」
 「いいよ。ただし条件がある」
 「は?」
 麟太郎はまじめな表情に戻って緊張した。静山が条件があるといったのでピッとしたのだ。静山はその姿をみて微笑んだ。
 (まだ子供だ)
 と感じたからである。静山は告げた。
 「条件というのは、わたしが生きていたらということだ。が、心配しなくてもよい。わたしが死んでもいまの殿様にきちんと申し残していくから」
 「ありがとうございます。ぜひお願いをいたします。長崎にもいきたいのです」
 「わかった。その節は口をきこう。さて」
 居住いを直した静山は麟太郎にきいた。
麟太郎君、腹は空かないかね?」
「少々空いており書が、このお話は空き隠のままでうかがったほうがよろしいと思います。頭にきちんと刻みつきますので」
「ほう、空き警記憶とはそういう関係があるのかね。はじめてきいたよ。では話そう」
静山は話しはじめた。ほんとうは静山のほうが腹が空いていたのだが、若い麟太郎ががまんするというのでは自分が食うわけにはいかない。わしもがまんしようと思った。
「帰国するクワッケルナック船長をマライ半島のバタニまで送ったのが実をいえば松浦家の船だったのだよ」
「えっ」
 麟太郎は眼をみはった。
「それはまことでございますか?」
「わしに向ってまことでございますかとはなんだ?わしは仮にも松浦家当主だった身だぞ。先祖のやったことでウソをつくはずがない」
「申し訳ございません。はじめてうかがいましたのでびっくりいたしました」
「そうかもしれぬ。あまり知られたことではないからな。当時の当主は鎮信棟だ。鎮信様も不発に終った先代の隆信様の外国の貿易をなんとかして復活させたいと思っておいでだったので、クワッケルナック船長を送る仕事をみずからお引き受けになった。クワッケルナック船長はもちろんのこと、オランダの求インド会社の幹部たちもご先祖のこの厚意にはひどく感謝した」
 「それがきっかけとなって、オランダ船が平戸港に入港するようになったのでございますね」
 麟太郎は話の先取りをした。静山はうなずいた。多少燐太郎の鼻の先にぶら下っている利口ぶりが気になる。しかしそれも若者の街気(エラそうに自分の知識をひけらかすこと)なのだろうたと容認した。静山自身も若いときにはそういうきらいがあったからだ。数年経った慶長十四 (一六〇九)年五月三十日に、オランダ東インド会社からの二隻のオランダ船が平戸港に入ってきた。オランダ求インド会社では数年前にり−フデ号の船長クワッケルナックが松浦家の船によってバタニまで送られた恩を忘れなかった。入港早々、
 「松浦侯と貿易をおこないたい」
と告げた。
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■静山はすさまじい猟官運動ができず登用もされなかった

<本文から>
「そこでだ。本日の肝心な話に入ります」
 静山は大関と顔をみあわせて眉を寄せ、斉昭をみた。斉昭はいった。
「ご両所にお願いする。真田殿が老中に登用されるよう、そっと真田殿の背中を押していただきたい。さらに、ご両所は文筆をもって市中に名を高めておられる。その筆の力で真田殿の老中登用が可能になるような流れをつくっていただきたい」
(そういうことだったのか!)
 静山は思わず心の中でうめいた。斉昭の目的ははっきりしている。あくまでも、息のかかった真田幸貫を老中に押し上げ、しかも自分の理念とする海防対策を国策として実現させたいのだ。そのために、文筆で鳴る松浦静山と大開増業のふたりに、一種の宣伝マンの役割を頼んでいるのだ。斉昭は静山をみていった。
 「とくにご隠居は、林述斎先生や佐藤一斉先生とご昵懇だ。あの両先生も、江戸城にはかなり影響を持っておいでだ。ぜひ、ご隠居から両先生へのご吹聴もよろしくお願いしたい」
 「………」
 心の中で長年築いてきた″砂の城″が音を立ててくずれていた。砂だから大きな音はしない。ただサラサラと際限もなくくずれ落ちている。しかしその砂の一粒一粒は静山にとっては夢の一粒一粒だった。静山の心の中に築いた砂の城はそのまま夢の城だった。それがいま、みるも無残にくずれ落ちている。静山は悟った。
(これが徳川幕府の人事の実態だったのだ)
 改めて中野石翁の言葉が陶の中でよみがえった。
 「その職が欲しいと思ったら、欲しいということをまず表明しなければだめですよ。そして、それを得るためには他人の足を引っ張り、他人の群れを泳ぎ抜いて先頭に立たなければだめです。つより、なにがなんでもその職が欲しいという姿勢を示さなければ、幕府上層部にはわかりません。ただ漠然と願っていれば、いつかはその職が自分にまわってくるなどという甘い姿勢でいたのでは、はじめからその競争に敗れているということです。江戸城の人事というのはそれほどすさまじいものですぞ。その意味からいえば、ご隠居はたとえ通りすがりの立場であっても、幸福ですぞ。そんなものに巻きこまれて足掻き抜いて生きる人生こそ、いいようのない不幸ではありませんか。そうは思いませんか?」
 最後のほうは、どこかしんみりする口調で石翁はいった。そのときの石翁の表情を静山はいまありありと思い浮かべていた。目前にいる徳川斉昭の言行も、あるいは中野石翁のいう、
 「すさまじい江戸城内の人事葛藤」
のひとつだ。斉昭は豪気な性格だから、そんなものは当り前のこととして受けとめていく。静山は
 (なぜか、わしだけがちがう)
という気がした。改めて自分をみつめ直した。いま感じた他とのちがいは、おそらく『甲子夜詰』を書きつづけている基本的態度にもつながっていく。その根底にあるのはやはり、
 「風流心」
であり、稚の心だ。そしていままで書いてきたメモを振り返ってみれば、それは孔子のいう、
「恕の心」
につながっていく。恕というのは、
「常に相手の立場に立ってものを考えるこっち側のやさしさや思いやりのこと」
である。
 (わしはそれが強すぎたのだ)
 静山は改めて悟った。だから、中野石翁がいうような、
 「すさまじい猟官運動」
に対しては結局のところ身を逮ぎけてしまうのだ。つまり心の底にある″恕の精神"が、なり振りかまわず近づくことをゆるさないのである。まさに、
 「君子危うきに近寄らず」
なのだ。
 (となると?)
 静山はほのぼのとしたものが自分の胸から湧き立ってくるのを感じた。つまり、 「それはよいことなのだ」
  ということだ。徳川幕府のもとでは、青雲の志を実現するためにはすでに決められた手続を踏まなければらない。
 「おのれを屈して、権力におもねるかあるいは自分自身が権力そのものになるか」
 という手投をとらざるを得ない。が、その手投をとる過程において、いかに魂がポロポロに傷つけられ、同時に他人を傷つけることか。中野石翁が、
 「ご隠居(静山)は通りすがりのお人だ」
といったのは、そのへんを敏感にみぬいていたのだ。人間巧者である石翁にはそれがよくわかった。そして石翁は、
 「ご隠居は、そのほうが幸福なのだ」
 といっていたのだ。それは、
 「わしは求めてこんな汚れ方をしているわけではない。ほんとうなら、清く生きたかった」
 という悲鳴なのだ。
 (それがわからなかった)
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