童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          まちおこし人国記

■佐賀の乱を起こした島は札幌をつくった

<本文から>
 彼は、札幌を「本府」と称した。何よりも火災から守らなければならないと考えた彼は、まず、幅七十二メートルの防火道路を建設した。現在の大通り公園である。そして、市街地はこの大通りで南北に画然と仕切った。南側を一般商業住宅地にし、北側に札幌本府を置き、その周辺に官庁の建物を配置した。現在訪ねても、多くの人が感ずるのは、さながら京都の碁盤の日のような町筋のつくり方を、さらに規模を大きくしたような札幌の街路の見事さだ。これは、すべて島義勇の発案になるものであった。
 しかし、こういう都市計画の実施には、巨額の金を食う。島義勇は、金を使い果たすと次々と政府に予算を要求した。政府は眉をひそめた。それに、もう一つ島を苦しめる理由があった。それは、札幌周辺の都市の管理監督を兵部省(後の陸・海軍省)が行っていたということである。つまり、政府は、北海道全体を軍事基地と見なしていた。だから兵部省の管轄にゆだねたのである。そして、この兵部省を牛耳るのは、山県有朋ほか、長州系の人間が多かった。ところが、中央政府では、江藤新平をはじめ佐賀人たちが、山県有朋たちの汚職をしきりに摘発していた。そのため、長州人は木戸孝允をはじめとして佐賀人をひどく恨んでいた。そして、大久保利通たち薩摩系の首脳部も、どちらかといえば長州に味方した。
 「江藤たちは少しやり過ぎる」と感じていた。島は、その江藤たちが籍を置いた「義祭同盟」 の一員だ。特に、枝吉神陽の親戚筋でもある彼は、葉陰精神を持った潔癖な人物である。東京の話を聞くたびに、「もっと徹底的にやれ。税金の無駄遣いは許さぬ。汚職をする金があるのなら、もっと北海道開拓に回せ」と考えていた。
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■外交にも日当たり派と日陰派があった

<本文から>
  まだ生きておられたころの細郷横浜市長に話をうかがったことがある。
「横浜のまちづくりをどうお考えですか?」
 と聞いたら、市長は答えられた。
「出会いの場を目指しています。それも国際的な」
 横浜の目指す目標をはっきり示している。横浜はもともと出会いの場として始まった。それも、流行りのことばを使えば当初から″国際化″を目指していた。しかし、その国際化は、逆に日本人同士の″交流″を実現させた。タテ社会でがんじがらめに縛られてきた日本人が、ヨコ社会の存在を意識し、いってみれば国内における″異種交流″を始めたのも横浜においてである。外国との貿易を軸に、国内でできる名産品が次々と持ち込まれた。恐らく、横浜に来て、日本人同士「国内でこんな品物もできたのか」とお互いに目を見張るようなことがたくさんあったに違いない。これがひときわ勤勉で、また一面抜け目のない日本人の企業努力を増進させた。しかし、いずれにせよそのきっかけをつくったのは、阿部正弘のグラスノスチとベレストロイカであり、それを忠実に実行した岩瀬たちの努力だ。
 面白いのは、幕末の外交に日当たり派と日陰派があったことだ。岩瀬たち対アメリカ・グループは、日当たり派である。幕府上層部も非常に力を入れた。日陰派というのは対ロシア・グループだ。川路聖謹がトップとなって、ロシアのプチャーチン大使と交渉したグループである。本当をいえば、こっちの方が成果を上げているのだ。アメリカのペリーやハリスたちは、頭からどやしつけるという恫喝外交に出てきた。それに驚いて、日本側ではかなり周章狼狽し、岩瀬たちに全権を与えて結局は条約を結んだのだ。しかし、川路たちロシア・グループは、最初は条約を結ばなかった。アメリカとほとんど同じ時期に交渉を続けていたが、サハリンの共同居住地域の設定など、なかなか面白い案を出しながら、早くいえばノラリクラリと言質を与えないで済ましていた。プチャーチンには、のちに作家として有名になるゴンチャロフが秘書としてついてきていたが、
 「川路という日本人の知恵の深さには驚く。彼は巧妙にことばを左右して、絶対に言質を与えない」
 と舌を巻いている。しかし、川路の老骨さをゴンチャロフは非難しているわけではない。
 「武力なき日本を代表する立派な知恵者だ」
 と感心している。その意味では積極的に条約を結んでしまった岩瀬たちアメリカ・グループよりも、むしろかなりズルズルと引っ張って条約締結はアメリカのあとにしたロシア・グループの方が日本のためになったのだが、必ずしもそういう評価はされなかった。だから、この評価方法は現代にも続いており、対ロシア・グループのやったことについてはあまり語られない。外交にも日当たり派と日陰派があると書くゆえんだ。しかしこの外交グループはすべて井伊ににらまれて、終わりを全うしなかった。岩瀬は憤死したし、川路は江戸開城のちょっと前に、ピストル自殺を遂げた。日本人としてはピストル自殺の第一号である。刀で腹を切らなかったところが川路らしい。体を悪くしていて、腹を切るだけの力がなかったともいわれるが、それにしても、外国から導入した武器で自分の頭をぶち抜くなどということは、いままでの日本人には考えられなかったことである。
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■増田長盛の″生き下手″

<本文から>
  大坂の陣のとき、家康は長盛を呼び出して「おまえは説得上手だ。大坂城に行って豊臣方に降伏するようにいえ」と命じた。が、この役は本当は「大坂城の様子を見てこい」ということだった。長盛は「そんな諜者のまねはできません」といって、岩槻に帰ってしまった。彼の息子の盛次はこの戦いでは徳川方にいた。が、徳川方が負けるとこコニコ機嫌が良かった。周囲は「このヤロー、どういうつもりだ?」と疑いの目で見た。
 大坂冬の陣は一応和睦という形で停戦になったが、すぐ家康は夏の陣を起こした。盛次は岩槻の長盛のところに来ていった。
 「今回は自分の気持ちに正直に生きようと思いますが」
 「どうする気だ?」
 「大坂城に入って豊臣方のために戦いたいと思います」
 「ああ、思うようにしなさい」
 「では」
 息子は大坂城に入城した。長盛はその後の大坂城炎上と豊臣家滅亡と、そして息子盛次の戦死を、預けられ先の岩槻城内で聞いた。
 戦が終わると、家康のところから長盛に訊問使が来て聞いた。
 「せがれの盛次が大坂方に味方していたが父親として知っていたか?」
 目配せで(知らない、と答えろ)と助言した。長盛は答えた。
 「知っていた」
 訊問便は(人の好意を無にする気か? このバカ)と腹を立てた。しかし、何とかして長盛を助けたいので、
 「そのとき、おまえは息子に、家康様に味方しろといったのだな? そういったのだな?」
 と、また目で合図した。長盛は「あんた、目がわるいのか? よく効く目薬をやろうか?」といいながら、「そんなことはいわない。思う通り大坂城に入れといってやった」と答えた。訊問使はあきれた。
 元和元年(一六一五)五月二十七日、増田長盛は家康に切腹を命じられ、見事に死んだ。
 変な男である。積極的に反家康行動を取ったわけでもないのに、肝心な自己弁明の場になると、必ず「投げ出して」しまう。「どうヤもいいや」というニヒリズムがある。全体に斜に構えていたのかもしれない。⊥二条大橋は志士高山彦九郎で有名だが、架橋者の増田長盛の″生き下手″も、味わいの深いものがあるい
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■家康のこの″抜けぶり″は家臣の気分をかき立てる

<本文から>
  世の中には、その世の中をひっくり返すほどの原因になっていながら、なぜか、その後忘れ去られてしまう人やモノがある。騒ぎが大き過ぎて、騒ぎが収まったときに関係者が、気抜けしてしまうのだ。
 だから重大事件の原因でありながら、シャアシャアと生きている人間がいたり、モノが残されていたりする。京都方広寺の鋼鐘など、その典型的なものだ。この鐘はいうまでもなく、徳川家康が、豊臣秀吉の遺児秀頼に対して″大坂冬の陣″を起こす原因になったモノである。
 秀頼が寄進したこの鐘の銘の中に、「国家安康」という文字があった。これをとらえて、家康のブレーンがイチャモンをつけた。
 「豊臣方は、家康公の家と康をバラバラに切り離した。これは家康公に害意を持っている証拠だ」
 つけたのはいずれも当時の高僧、学者である。曲学阿世のおべんちゃらブレーンだ。よく、自己嫌悪で身もだえせずに、こんな難癖がつけられるものだ。これによって、大坂の陣が起こり、豊臣氏は滅ほされてしまう。
 ところが、面白いのはこの鐘が現存する。当時の人々は合戦に夢中で忘れてしまったのだ。誰ひとり「鐘をつぶせ」といわなかったらしい。そして肝心の徳川家康が忘れてしまった。
 「いや、家康は大坂の陣が起こった証拠を天下に長く示すために、鐘を展示していたのだ」という意見があるかもしれない。が、そうは思わない。家康は忘れてしまったのだ。″タヌキおやじ″といわれ、権謀術数と老檜さの鬼のようにいわれる家康だが、そういう彼にも案外″抜けてる″ところがあったのではなかろうか。
 彼は、日常生活の中で着替えが自分でできない。フリ(ル)チンのまま突っ立って、ふんどしを締めるのからすべて、そばに仕える女性の世話になったという。これを知った者が、あるとき豊臣秀吉にいった。
 「あんなだらしのない男は見たことがありません。攻め殺しましょう」
 秀吉は首を振って答えたという。
 「いや、あれはあいつの敵を油断させる手だ。こっちがやられる」
 これは秀吉の考え過ぎだ。また、家康は川を渡るときは馬から下りて、部下の背におんぶしてもらったという。このときも、皆笑ったが秀吉だけは笑わなかった。(油断できない)と思った。しかしこれも秀吉の考え過ぎだ。
 家康にはそういう″抜けてる″ところがあったのだ。それが慎重で考え深い彼の、″吹き抜け″であり、″ガス抜き″だったのだ。つまり、それによって彼は最後まで″プッツン″にならずに済んだのである。いわば、緊張の連続の精神状態での″緩衝装置″ であった。
 これは案外見落とされている徳川家康の一面かもしれない。彼の家臣団が、ほかの戦国大名の部下とは違った比類のない忠誠心を見せたのも、この辺に一つのカギがあるような気がする。
 普通だったら、十六年も他家の人質になっていて、部下を食わせることもできないようなトップはとっくに見限られている。皆、さっさと転職してしまうだろう。それがほとんどアルバイトをしながら家康の帰りを待っていたのは、やはり家康のどこかが抜けていたからだ。それが家臣たちにとってはたまらない魅力になり、男たちの心をとらえた。
 大体、徳川家臣団というのはM(マゾ)の集まりだから、逆境や虐待の中で快感を感ずる。家康にもそういう″気″がある。
 そういう集団の中では、家康のこの″抜けぶり″は気分をかき立てる。だから、あれだけの大騒ぎの原因にしておきながら、騒ぎの焦点が大坂に移ると、京都の鐘のことなんか皆忘れてしまったのである。
 だから現存する鐘を見て、
 「こんな銘であんな大戦争を起こしたのか。家康ってヤツは全くタヌキおやじだ」
という観光客がいまだに絶えないのである。
 そういう光景を家康は、あの世でフルチンのまま苦笑して眺めているに違いない。
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■南北朝合体を提唱した楠木正儀

<本文から>
  父の正成、叔父の正季、そして兄の正行と楠木一族は、南朝のために壮烈な戦死を遂げた。その中で楠木正儀の名は、前述のように、後世必ずしも良くは伝えられていない。というのは、正儀が北朝方についたことがあるからだ。さらに、正儀は、「南北朝合体」を真剣に考え、それを何度も南朝側に進言したからである。これが嫌われたようだ。そのため、楠木正儀の名は楠木一族の中から除かれてしまったりする。
 しかし、彼の流れは軍学として残り、後に由比正雪にまでつながったりする。由比正雪は慶安年間に徳川幕府に対する謀反を起こした人物として有名だが、全体にうさん臭い。その正雪が学んでいたのは、楠木流の軍学だという。そして、この楠木流軍学の始祖が楠木正儀だというのである。その意味で、正儀もうさん臭い存在として見られたのだろうか。
 正儀の父正成は、後醍醐天皇に見いだされる前は″悪党″と呼ばれていた。単純に犯罪者という意味ではない。多分に反権力という意味がある。正成たち楠木一族は、河内国の土豪だった。しかし単なる土豪ではなく、近くの山の水銀の採掘権や、あるいは水の配水権などを持っていた。また、下級運搬業者である″馬借″と呼ばれるグループとも接触があった。ある学者の説によれば、「楠木一族は、散所の支配者であったらしい」といわれる。散所というのは、当時の社会で最も下積みの人々の住んだ所だから、そういう複雑さが正成たちにあったということだろう。
 しかし、この悪党といわれていた楠木一族も、なかなか文化性に富んでいた。吉野山の如意輪堂に歌を書きつけた正行の行いも、その後の壮烈な戦死と絡んで、いまも人々の心にポタリと一滴の詩情をもたらす。正成がどれほど文化人だったかわからないが、ここに書いた正儀は相当なものである。
 つまり、正儀にすれば、公家連中から見ればいつまでたっても″悪党土豪″でしかなかった楠木一族の中にも、これほど高い文化精神を持った人間がいるのだということを示したのだ。これはいってみれば、彼らが拠点としていた河内国に、そういう文化性が潜んでいるという主張をしたことになる。単に、吉野や伊勢や熊野や紀伊に連なる交通要衝の地としてだけでなく、地域には地域の伝統文化が存在し、それを発展させれば、″ばさら大名″として名の高い佐々木道誉と、自分のように丁々発止と文化戦争ができるだけのカになるということを示したのだ。
 同時にまた楠木一族は、よく拠点である河内国の城にこもって戦った。ゲリラ戦術が功を奏し、攻撃する幕府軍を何度も悩ませた。これがいかに河内に住む人々のモラルを高め、やる気を起こさせたかわからない。いってみれば、拠点を戦場にすることによって、逆に住む人々の活性化意欲を高めたということができるのだ。その意味では、楠木正儀もいろいろと屈折したリーダーシップの取り方をした人物だが、さらに光を当て直していいように思える。
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