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<本文から>
彼は、札幌を「本府」と称した。何よりも火災から守らなければならないと考えた彼は、まず、幅七十二メートルの防火道路を建設した。現在の大通り公園である。そして、市街地はこの大通りで南北に画然と仕切った。南側を一般商業住宅地にし、北側に札幌本府を置き、その周辺に官庁の建物を配置した。現在訪ねても、多くの人が感ずるのは、さながら京都の碁盤の日のような町筋のつくり方を、さらに規模を大きくしたような札幌の街路の見事さだ。これは、すべて島義勇の発案になるものであった。
しかし、こういう都市計画の実施には、巨額の金を食う。島義勇は、金を使い果たすと次々と政府に予算を要求した。政府は眉をひそめた。それに、もう一つ島を苦しめる理由があった。それは、札幌周辺の都市の管理監督を兵部省(後の陸・海軍省)が行っていたということである。つまり、政府は、北海道全体を軍事基地と見なしていた。だから兵部省の管轄にゆだねたのである。そして、この兵部省を牛耳るのは、山県有朋ほか、長州系の人間が多かった。ところが、中央政府では、江藤新平をはじめ佐賀人たちが、山県有朋たちの汚職をしきりに摘発していた。そのため、長州人は木戸孝允をはじめとして佐賀人をひどく恨んでいた。そして、大久保利通たち薩摩系の首脳部も、どちらかといえば長州に味方した。
「江藤たちは少しやり過ぎる」と感じていた。島は、その江藤たちが籍を置いた「義祭同盟」 の一員だ。特に、枝吉神陽の親戚筋でもある彼は、葉陰精神を持った潔癖な人物である。東京の話を聞くたびに、「もっと徹底的にやれ。税金の無駄遣いは許さぬ。汚職をする金があるのなら、もっと北海道開拓に回せ」と考えていた。 |
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