童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          マイナス転じて福となす経営

■国際商人・大浦慶

<本文から>
 慶は考えた。頭を冷静にしてみるといろいろなことが思い浮かんだ。遠山の存在が次第に遠くなった。慶が考えたのはこんなことだ。
「あたしが生まれ育った長崎は、古くからの国際留易港だ。その港町で、あたしは国際貿易商人として生きてきた。これはあたしと肥後藩の遠山様の問題ではない。
 あたしと外国商人との問題なのだ。そうだとすれば、やはり日本の信用に関わりのあることだ。あたしがもしここでがんばって、タバコの代金を支払わなければ、日本商人はいい加減だということになる。日本商人の名が汚れてしまう。日本人相手ならまだしも、外国商人を相手にそんな汚名を立てられては、申し訳ない。ここは一番あたしの責任で解決しよう」
 そこで彼女は長崎県令に申し出た。
「損害のお金は、私が全額お支払い致します」
 県令はびっくりした。
「本当か?」
「本当です」
「よくそこまで思い切ったな」
 「私も日本の国際貿易商人です。日本の名を汚したくありません。仲介にたった私が悪かったのです。遠山様を信用しすぎました」
 「うん・・・」
 県令は黙った。県令も武士出身だから、同じ武士の遠山が嘘をついたということに腹を立てていたのだ。
 大浦慶は、このとき六〇〇〇両あまりの賠償金を払った。これが国僚商人の間に美談として
有名になった。
 「大浦慶という女性商人はすばらしい」
 と評判をたてられた。このことが、大浦慶の店をいよいよ繁盛させた。彼女の決断は、マイナスをプラスに変えて、店だけでなく日本商人の信用も大いにあげたのであった。
 大浦慶は、自分の店の経営だけでなく、例えば、坂本龍馬の海援隊を積極的に応援したことでも有名だ。彼女は、瀧馬の仕事を、政治的にとらえずに、むしろ、日本の国際貿易のために役立つ仕事だと受け止めていたのである。後の大隈重信や、松方正義もずいぶん世話になった。明治十七年の四月、慶は五十七歳で死んだ。生涯独身を通した。

■豊島十右衛門の経営戦略

<本文から>
  「空き樽は、一部は客が座る台にできるが、そんなに沢山空き樽ばかりはいらない。頼むから引き取ってくれないか」
 空き樽は、酒屋の方でも大歓迎だ。造り酒屋に戻せば、その分だけ、酒の値段から引いてもらえる。そこで酒屋の方も、応分の値をつけて、どんどん空き樽を引き取った。この空き樽を引き取る時に、十右衛門は、
 「私が買った酒代のうちから、空き樽の分を引いておくれ」。酒屋は、
 「承知しました」と簡単に引き受ける。これもまたもう一つのミソである。
 つまり、仕入れた酒の料金は、半年後に支払う。しかし、半年後に支払う料金の中から、空き樽分をどんどん引かせてしまうのだ。しかも、支払い金に当てる収入は、毎日入ってくるし、それは他人に貸して幾許かの利子を生ませる。これが、豊島屋十右衛門が、
 「たとえ、原価売り針しても、絶対に利益が得られる」
 ということだったのである。それだけではない。まだあった。
 それは、つまみに出すみそ田楽の大きさだ。十右衛門が売り出したみそ田楽は、他の店よりもバカでかいものだと前に書いた。ここに、十右衛門のもう一つの経営戦略があった。十右衛門は、
 「みそ田楽が大きければ大きいほど、客はよけい酒を飲む」と見ていた。というのは、実をいうとこのみそ田楽のみそを、相当辛い味にしてあった。そのために、バタバタ田楽を食べると、咽喉が渇く。咽喉が渇けば、客は、
 「おい、もっと酒をくれ!」「お銚子もう一本!」と追加を頼む。これが、十右衛門のもくろみである。十右衛門も商人だ。原価売りをして、バカでかいつまみを出して、みすみす損だとわかるような商売をするはずがない。キチンと計算していた。
 辛いみそ田楽を沢山食わされて、酒をガブガブ飲めば、酒の消費量がかさむ。そうなると、酒が飛ぶように売れ、大量に仕入れるようになる。大量に仕入れれば、酒屋の方も多少は値引きをする。値引きをした支払い金は、半年後に決済すればいい。さらに、酒がどんどん売れれば、空き樽の空き方もスピードを増す。これがまた、いい値で売れる。こういう知恵が、実をいえば、
 「酒は原価、つまみは特大」
 という評判をとった、豊島十右衛門の基本戦略であった。

■フイゴまつりのミカン・文左衛門の真心

<本文から>
 最大の付加価値は(底にあるのは)まごころ
 荒波を越えて、文左衛門の船は和歌山に到着した。江戸藩邸からの連絡で、準備されていた大量のミカンが船に積み込まれた。文左衛門は、再び荒波を越えて江戸に戻ってきた。
 この頃、江戸ではこんな唄が流行っていた。
 沖の暗いのに白帆が見える
 あれは紀の国 ミカン船
 いつ、どこから流れ出した唄なのかわからない。どうも吉原のようだ。吉原は、歓楽街というだけでなく、当時の一流の風流心が集結するから、いろいろなことが発生する。これもそのひとつなのだろう。しかし、実際には流行らせたのは、紀伊国屋文左衛門である。かれは、江戸から船に乗って紀州へ行く前に、吉原の人々に手を打っていた。
 「材木商の紀文が、紀州にミカンを買い付けに行く」
 という噂も、吉原の人々に金をばら撒いて流させた。この時、
 「俺が紀州の港を出たときいたら、こういう唄を流行らせてくれ」
 といって、
  沖の暗いのに白帆が見える
  あれは紀の国 ミカン船
 と書いた歌詞を渡したのだ。
 この唄には、元唄があった。あれは紀の国ミカン船の代りに、「丸屋」という商人の船の名が歌い込まれていた。それを知っていた文左衛門は、自分の名を想像させるように替え唄にしてしまったのである。しかし、替え唄では露骨に「紀伊国産文左衛門」などという名は入れていない。あくまでも「紀の国ミカン船」といっている。これは、文左衛門の航海の目的が、紀州ミカンの名を高めることにあるのであって、別に自分の名を高めるためではない。主役はあくまでもミカンなのである。豪商として成功した文左衛門には、そういう才覚と分別があった。普通の人間なら、こういう時にミカンの名よりむしろ自分の名を宣伝したがるだろう。まして、生命がけの航海だ。船が遭難したら元も子もない。が、豪商文左衛門はそんなせこいことは考えなかった。わざわざ自分を訪ねてきてくれた紀州藩重役の心に打たれたのである。
 「まごころには、まごころを持って応えなければならない」
 そういう信条を持っていた。
 かれが柳沢吉保や、荻原重秀などに愛されるのも、そういう誠実さがあったからである。単なる接待工作だけで、金品を届けたからといって、柳沢吉保も荻原重秀も馬鹿ではない、そういう底の浅い魂胆を見抜けば、仕事もくれないだろう。あくまでも、紀伊国産文左衛門という人間をよく知った上で、かれらは工事の仕事をくれるのだ。同時に、今度のミカン買い付けは、片手間な考えはまったくなかった。全身全霊を打ち込んだ。この企ては成功した。翌年のフイゴまつり直前に文左衛門の船は入港した。そして、江戸の鍛冶職人たちが争ってこのミカンを買った。
「フイゴまつりには紀州ミカンがもっともよく似合う」
 という評判が立った。文左衛門の企ては成功した。

■横浜で書店と薬屋を開業した丸善

<本文から>
  福沢諭吉の弟子になった時、かれは医院を閉じた。が、慶応四年八月に横浜の吉原町に性病の病院ができると、そこの医員を命ぜられた。そこで横浜真砂町に移って、そこから病院に通勤した。まもなく、新浜町に移り、ここから病院に通った。そして、このころからしきりに諭吉の説を実現するべく、何か新しい商売をはじめようと考えはじめていた。
 そのため、この新浜町の家が「丸善発祥の地」といわれる。
 明治元年十一月頃、有的は新浜町の借家で書店を開業した。しかし、対外的には開業の日を明治二年一月一日としている。この時政府の許可をとるために届け出た名義が「丸屋善八」であった(この時、前記の球屋と名乗ったのだろうか)。
 開業に当たって、三次半七、沢井歪、大塚警の三人の協力者を得た。資金は福沢諭吉他から借りた。有的が開いた書店は、諭吉が教えたウェーランドの経済学に基を置いている。ウェーランドは、ジョイント・ストック・コンパニーについて説いていた。会社組織だ。有的は、この理論を自分の店に適用した。そこで実際に営業に当たる人間たちを"働社中"と呼んだ。出資者を"元金社中"と呼んだ。事業内容としては、まず福沢諭吉の書いた本を全面的に委託販売の了解を得た。同時に、古い友人である柳川春三が経営する出版社の委託販売も引き受けた。店はすぐ相生町に越し、さらに堺町に移った。店を開いてすぐ、洋書の輸入もはじめた。
 ところが、若い店員たちは誰も外国語が読めない。これには弱った。が、店員たちは知恵をしぼった。彼らは表紙や背表紙をじっと睨むと、
 「こうしよう」
 と、ある考えを打ち出した。それは、たとえばウェーランドの経済書の題名は読めない字が四行になっている。それに対して、修身の本は三行だ。店員たちは、
 「経済書が必要な時は、題名が四行の本を探そう。修身の本が要る時は、三行の本を持って来ればいい」
 ということにした。この方法は効果的だった。店のトップ層が、「経済書を持って来い」とか「修身の本を持って来い」というと、店員たちはすぐ背表紙の行数を数えて、それに見合う本を届けた。届け違いはほとんどなかった。トップたちは、
 (この連中はろくに外国語が読めないくせに、よく本の種類を見分ける)
 と感心した。
 有的は、本屋だけを経営したわけではない。薬屋も経営した。同時に、店の二階に塾を開いて、医学生の教育をはじめた。有的は最後まで医学に対する情熱を失なわなかった。塾からは、有為な青年医学者たちがどんどん巣立っていった。

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