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<本文から> 戦国時代は、いわゆる「危機の連続」 の時代だ。信長、秀吉、二人の天下人に仕え、加賀百万石の礎を築いた前田利家と、その正室まつ(松とも書く)夫婦の場合は、時代としての危機に、「個人」としての危機の連続が加わった。したがって、かれら二人は、時代と個人の両面から危機のダブルパンチを受けていた。かれらの生涯は、「危機の克服」 の生涯といっていい。
女性が男性に意見をいったり、あるいはその補助をしたりするのを、「内助の功」という。山内一豊の妻・千代が、へそくりを出して織田信長が開催した馬揃え(閲兵式) のときに、貧しい夫に立派な馬を買ったエピソードが、その有名な例だ。ところが千代は、実はもっと積極的な貢献をしている。関ケ原の合戦がはじまる直前に、千代は自分の判断で上方の状況を詳しく調べ、それを夫と同時に徳川家康にも手紙で詳細に知らせているのだ。家康が会津の上杉征伐を突然断念し、Uターンして上方に戻ってきたのは、この山内一豊の妻の手紙が大きく働いたからだといわれる。これは千代が自分自身の判断で行なったことであって、別に夫の一豊からいわれてやったことではない。
千代には、女性としての自主性・独立性と自己判断というものがあったことになる。いまでいう、
・情報の収集
・情報の分析判断
・摘出した問題点についての考察
・どうすればよいかという選択肢の設定
などを、自力で行なつたといえる。これは男性をしのぐような行動であった。したがって家康が感動したのである。
前田利家の妻まつの場合も同じだ。
まつは単に夫の利家に対して、「内助の功」を打ち立てたわけではない。まつはまつとしての自主性・独立性に基づいて、自分の意志と行動力を持っていた。つまり、戦国時代には他にも例の多い、「自覚した一個の女性」としての立場を守っていた。
そうなると、夫と共に暮らしているからといっても、常に内助の功を行なうということにはならない。むしろ、現在でもしばしばいわれる、「男性との共生」といっていい。いってみれば、「二人三脚で、訪れる危機を一つひとつ克服していった」ということだ。 |
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