童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          前田利家

■織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の「部下管理法」

<本文から>
現在の愛知県から奇しくも出現した三人の天下人すなわち織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の、それぞれの、
「部下管理法」
は違う。リーダーシップというのは、
「トップあるいは組織目的が達成するような、工夫がいる」
ということである。三人の天下人の目標は、大体次のとうに整理されている。
一 織田信長の目的は、旧価値社会の破壊
二 豊臣秀吉の事業目的は、新価値社会の建設
三 徳川家康の事業目的は、二人の先輩によって行なわれた事業の整備と、長期維持
 いってみれは、
一 信長は破壊
二 秀まほ建設                                   .
三 家康は維持管理
 である。そうなると、それなりにリーダーシップのとり方が異なってくる。すなわち、
一 信長は″時間との戦い″を重んじ、勢いリーダーシップは部下に″恐怖感″を持たせることになる。
二 秀吉の場合は、建設が目的だから、多くの人びと、特に底辺にいる働き手のモラール・アップ (やる気起こし)が主体になる。これには、トップとしての秀吉の人気を高め、「秀吉様のためなら」という気分を起こさせることにカ点がおかれる。
三 家康の場合は、長期に亘る維持管理が目的だから、勢いリーダーシップのとり方も「分断支配」を重んじ、「部下相互間における疑心暗鬼の念を助長する」ということになる。つまり「疑いの気持ち」を組織運営のバネにする。
 というような分析・分類が可能だろう。
 だから前田利家が見るところ、信長は常に、
「然っておれについて来い」
 というタイブのトップリーダーだったし、秀吉は、
「みんなの気持ちを付度しながら、やる気を起こさせる」
 というトップリーダーだった。しかし利家の見るところ、秀吉の秀吉たるゆえんは、そういう、
「下部の気受けだけを気にしている」
というトップリーダーではなかった。信長はかつて利家たちを北陸に派遣したときに、
「おれのいる方向へ足を向けて寝るな」
と厳命した。このことは言葉を変えれば、
「それほどおれを崇めろ」
ということだ。この厳命に、信長の部下は全部恐怖心を感じ、
「守らなかったら厳罰に処される」
と思い込む。
 晩年に至った秀吉が五人の大老に対し、
「もし法に背くような老がいたら、気付いた者は武装せずに略装で出掛けて行き、相手が意見を聞かずに刀を抜いて来た時も手向かいするな。そのまま斬られてしまえ」
 と命じたのは、
「斬られた者は、相手に斬られたのではなく、この秀吉に斬られたのだと思え」
 と妙な手討論を展開している。あるいは、
「それをおれへの殉死だと思え」
 ともいっている。伝えによれは、
「臨終の際は、秀吉は失禁しながら、五大老たちに頼み申す、頼み申すと秀頼のことを哀願した」
 と伝えられているが、そういう惨めで情けない秀吉の有様から考えると、この、「法を破った者」に対する、追腹・御手討覚悟の意見・諌言の求め方は、死を前にしたトップリーダーの、
「ぎりぎり懸崖に立った者の遺訓」
 として、厳しい輝きを放っている。したがって、二月十二日の和談成立の後に、前田利家が徳川家康を訪ね、その後で徳川家康が前田利家を訪ねるということは、秀吉の遺訓による、
「迫腹・御手討覚悟の、異見申し立て」
 の実行であった。単に、
「これからは仲良くしましェう」
 という、親善訪問ではない。

童門冬二著書メニューへ


トップページへ