童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          北条時宗の生涯

■時宗は祖元から大善・小善を教わり、九州に行くべきでないことを決意する

<本文から>
とくに国政の最高斉任者として、事柄に対する曖昧性は許されない。すべて、「こうする」、あるいは「これで行く」と、はっきり意思決定が示されなければならない。
 時宗は今日の評定の内容を要領よく省略して告げた。そして最後に、
 「師僧にお伺いしたいのは、わたくしも九州へ赴くべきかどうか、ということでございます」
 といって祖元の顔を凝視した。
 祖元は澄んだ目で時宗を見返しながら、首をゆっくり左右に振った。そして呟いた。
 「小善は大悪に似て、大善は非情に似たり」
 「・・・」
 時宗は、祖元が口にしたことばを頭の中で受け止め、声に出さない繰り返しをした。
 (小善は大寒に似て、大善は非情に似たり)
 祖元のことばを反芻しながら、時宗は、
 (目先の対応で、小さないいことをしたと思っても、そのことが積み重なって結局は大きな悪に結びつくことがある。思い切って目前では非情と思われるような対応をしても、結果的にはそれが大善につながっていくのであれば、その道をとるべきだ。師はこういいたいのだろう)
 と理解した。
 であるなら、祖元がいうのは暗に、
 「九州には行くべきではない」
ということである。
 「それよりも、北条一族が結束して鎌倉幕府のカをもっと強化拡充することのほうが先決だ」
 ということだろう。
 祖元は建長寺の住持になってからそれほど年月を経ているわけではないが、さすがに本国が滅ぼされるというような危機を体験しているだけに、単なる宗教者としての僧ではなかった。国を襲う大敵の恐ろしさも知っていたし、そういうとき民の責任者はどう対応しなければいけないかも知っていた。
 祖元はおそらく南宋の政治指導者に絶望したにちがいない。だから、その二の舞を時宗に演じさせたくないのだ。それには、時宗が毅然とした態度を取りつづけることを求める。

■時宗は外患を利用して、内憂の解決を探る

<本文から>
 時宗は執権として、今後やらなければいけない事業を再考することにした。
 このとき時宗が考えた「自分がやらなければいけない事業」というのは、何といっても日蓮がいった「内憂外患」への対応である。すなわち、国内における謀反を未然に防止すること、そして、これが実際に起こった場合には間髪を入れず鎮圧することである。もうひとつは、蒙古の襲来にどう対応するかということだ。
 先の文永年間に蒙古が襲来したときは、九州方面の武士の対応によってこれを退けることができた。九州方面の武士の対応といっても、日本の武士の抗戦によって蒙古軍が退いたわけではない。大風が吹いた。海上が荒れた。そのために、押し寄せた蒙古・高麗の連合軍の軍船が夥しく破壊され、将兵が溺死した。
 これを日本側では、「神風が吹いた」と誇った。いきおい、「日本国は神国である」という自覚が生まれ、さらに、「日本の将兵は神兵である」という認識に発展したが、いままた来襲するであろう蒙古・高麗・南宋三国の連合軍に対して、再度、神風が吹く保証はどこにもないのだった。
 (どうするか。どうすべきなのか)
 時宗は、無学狙元の助言を受けて以来、「小善とは何か、大善とは何か」、また「大意とは何か、非情とは何か」ということをしきりに考えていた。
 馬上で凍られながら思いを巡らしているうちに、若い執権の頭のなかで、天啓のように閃いたものがあった。それは、
 (外患を利用して、内憂を一挙に解決できないか)
 という考えだった。
 日蓮は「南無妙法蓮華経と唱題・唱号を行なえば、たちどころに実現できる」といったが、時宗は「まさか、そうはなるまい」と思っていた。それより、現実的に、
 (間もなく来襲する蒙古を迎え撃つために、一刻も早く国内体制を統一し、同時に全武士の心を一致させるしかない)
 と考えていた。その手段と目的を逆転させ、日蓮のいう「残る二難」を一元化し、
 (蒙古の襲来という外患を、謀反つづきでまとまりのない国内の憂いを断ち、結束させる方向で活用できないか)
 と考えたのだ。
 ふだんはあまり冷静さを失わない時宗の心も、少し熱くなっていた。そして、その青年執権の類を、西に傾きかけた太陽が紅く染めていた。

■危機に対して時宗のとった策

<本文から>
残った人物で、際立っているのが家令の執事の平頼網と、引付衆の頭人である安達泰盛の二人だ。
 平頼網は「御身内」といわれるように、いってみれば「北条得宗家の家令」だ。したがって、平頼網は、「外様御家人を統制しながら、得宗家の勢力をさらに強化する」という考えを持っている。これに対し、安達秦盛は、外様の代表だから、「日本全国の御家人勢力を結集し、北条得宗家に対抗できるようなカを養う」という政治的野心に胸を燃やしている。
時宗の見るところ、
 「蒙古問題が片づいた後は、必ず頼綱と泰盛が激突する」
 と思えた。そのために時宗は、
 「そんな争いをこの際、消してしまうためにも、蒙古再来襲に備えて、日本の全武士の気持ちを『日本国のため』という一点に結集しなければならない」
 と考えた。
 無学祖元に対して「日本国という大義のためなら、鎌倉幕府も北条得宗家も滅びてもよい」
と悲壮な決意を披瀝した時宗だったが、だからといって、彼は現実無視の政治家ではなかった。
 彼は平頼綱と安達泰盛の存在を重く見ていた。したがって、
「自分の政策が、たとえ大義のためであっても、ことさらにこの二人の実力者を挑発するような真似は控えよう」
と思った。
 ということは、この二人が満足するような政策をも考えた。ということだ。
 時宗が、元の第二次来襲に備えて打った手は、次のようなものである。
・本来、幕府の支配に属しない武士、すなわち御家人以外の武士も招集して、国防の戦闘に参加させたこと。
・蒙古の侵入区域の拡大を考え、九州だけでなく、安芸(広島県)、石見(島根県)など、山陽から山陰方面へも国防地域を拡大したこと。
・前に設けた異国警固番役をいよいよ強化したこと。
・そのために、九州の御家人は「京番大番役」を免除し、割り当てられた警戒地域を一ケ月から三ケ月交替で「異国警固番役」を務めさせたこと。
・その警戒地域を、石墨の割り当てと一致するように仕組んだこと。すなわち、各国の武士がそれぞれ防塁の築造を命ぜられたが、築造した防塁に拠って、警固番役を務めるようにしたこと。
・しかもこの石の築地は、幕府の御家人だけではなく、私有地の荘官、名主、あるいは国の役人、神官、僧などにも割り当てたこと。割り当ては、それぞれ所領の持ち高に応じさせた。
・さらに、守護を大幅に交代させたこと。同時に、九州方面の守護の多くが、関東に居住しており、現地にはいなかったが、国防のために、九州に領地を持つ守護を全員現地に下らせたこと。
・九州地域だけでなく、山陽・山陰方面の守護も交代させたこと。そして、新任の守護のなかに、時宗の実弟である宗政・宗頼兄弟が含まれていたこと。これは時宗自身が、自分の足元を固めたといえる。
このとき画期的だったのは、高麓への反攻計画をも立てたことである。

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