童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          細川重賢 熊本藩財政改革の名君

■重賢の藩の武士たちに対する管理方法

<本文から>
 「あほうきゅう?」
平野はききかえした。松野はうなずいた。平野はさらにきく。
「あほうというのは、あのばかのことか?」
「そうです」
 松野の率直な答えに、一座はまたドッとわらった。平野は呆れた。
「そぎゃんことをいえば、主水さまもお怒りなのは当り前だ」
「そうでしょうか」
松野はしらばくれてそう応じた。しばらく一座はわらい合った。しかし松野の話で、座にいた者はみんな松野に好意を持った。
「この人は、立派な人だ」
「正義感が強くて、間違ったことには黙っていられないのだ」
「監察というお役は、こういう人でなければだめだ」
「そういう松野さまを嫌う熊本城内のご重役方は、間違っている」
 そんなささやきがあちこちで洩れた。重賢はそぅいう様を、満足げにみわたしていた。
重賢の意図は的を射た。
 松野七蔵が感じ取ったとおり、重賢は、
(厄介者が、厄介者として城から放逐されるのには、放逐する側の理屈だけではない。される側にも、かならず原因がある)
 と思っていた。それは、部屋住み生活を二十八歳の今日まで送ってきて、かれが目にしてきた武士たちの生きざまによるものである。大名家も、ひとつの組織だ。組織の秩序というものがある。そしてそれはつねに、
「守らせる側と守る側」
 に分かれる。厄介者や異風者とは、
「城の秩序の逸脱者、あるいは背いた者」
 をいう。重賢にすれば、
「そういう場合にも、守らせる側の理屈と、守る側の理屈が合わないのは、それぞれ相手の立場から自分を見直さないからだ。守らせる側は、秩序を守ることだけに頭が向いていて、相手がどういう立場に立って、どういう事情でそんな厄介なことを引き起こしたかをきちんと理解しようとしない。また、引き起こしたほうも、理はすべて自分のほうにあって、相手が間違っていると決めこむ。果たしてそうだろうか。能本城から追われた者には、追われた者のほうにも一端の理由があったのではないか」
 というのが重賢の考えである。まだ藩主の座についてもいないのに、重賢はすでにこういうように藩の武士たちの、現在でいえば管理方法についても深く思いを致していたのである。
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■最初から敵をつくる改革

<本文から>
「早速、敵をおつくりになりましたな」
 苦笑しながら平野新兵衛がいった。座にいた著すべてがうなずいた。
「やはりそうか」
 重賢はわらった。
「しかし、あのくらいの荒療治をしなければ、重役たちも今日の事態を認識いたしますまい」
 愛甲が、重賢を労るようにいった。愛甲十右衛門は、ほんとうのことをいえば、
(殿はすこし初っ端からやりすぎるのではないか)
 と疑問を持っていた。
(自分のほうから敵をつくらなくても、改革を進めるうえでかならず反対者が出てくる。初っ端から突き進むのは、いかがなものか)
 と憂慮していた。
 愛甲の気持ちは重賢にすぐ伝わった。なにしろ、愛甲は重賢が幼年時代からずっと付き添っていたのだから、いってみれば、
「実質的な父と息子」
のような関係にある。気心は互いに知れている。
 「じい」
 重賢はいった。
「おまえの心配はよくわかる。しかし、わたしは名君吉宗公とは違う」
 といった。突然、吉宗の名が出てきたので愛甲はじめ、座にいた者は思わず顔をみあわせた。
「吉宗公とおっしゃいますと?」
 愛甲がきいた。重賢は、
「吉宗公というのは、いうまでもなく八代将軍のことだ。吉宗公は、紀州和歌山藩主から将軍の座に就かれた。このとき、諸国では、吉宗公は名君か暗君かという論議がおこなわれた。ある人は、吉宗公が和歌山城からお連れになった武士を要職にお就けになるようなことがあれば、暗君であり、江戸城の組織や人事をいままでどおりお用いになるとすれば、名君だといった。吉宗公は、江戸城の組織や人事に手をつけなかった。そのままにしてお用いになった。そのために名君といわれた。わたしは違う。暗君だとは思わないが、わたしは吉宗公のような力はない。だから思い切って、熊本城内の組織も変えるし、人事異動もおこなう。その中心になるのはおまえたちだ。わたしを先頭に、おまえたちがつむじ風となって、能本城内を吹き荒れるのだ。きょうの家老や一門たちに対するきびしい叱責は、その第一陣の風である。わたしはあえて敵をつくる。敵が強ければ強いほど、こちらもやり返す。それがわたしの改革だ」
 一同は声を失った。江戸で冷や飯食いだった重賢の、おだやかな学究的な日常の中に、なぜこんな激しい気持ちが培われていたのか理解に苦しんだ。
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■情報の共有でかけ算

<本文から>
「情報は、決してひとり占めにはしない」
 という態度を貫く。重賢のやり方はいまでいえば、
「全体討議を大切にする」
 ということだ。重賢は、
「人間の能力は、ひとりで持っているだけではだめだ。他人の能力と、乗算(かけ算)にしなければならない。たし算だと、甲と乙の能力がそれぞれ百だとすれば、たしても二百にしかならぬ。しかし乗算をおこなえば、一万になる。これが世の中を変えていく」
 といっていた。そして、
「その乗算をおこなうのにも、同じことをみんなが知っていなければだめだ」
 と、ここでも情報の共有″を強調する。
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■ガネマサどんの意見を取り入れ緩やかな改革を実行

<本文から>
 重賢は、しかしそれ以上に日誌に認印が捺されていないことを追及しなかった。追及しなくても、老中や奉行は、重賢が参勤で江戸にいった留守中は、自宅で酒を飲みながら勤務した事実をすでに掴まれているということを悟ったはずだ。老中と奉行たちはうつむいたまま、なにもいわなかった。居心地悪そうに尻をモジモジさせるだけである。
 そこで重賢はこう告げ七。
「老中に、新しく三淵志津摩を加える。また奉行に井口庄左衛門と宮川庄兵衛を加える」
 ほんとうなら嘘をついた老中や奉行を総入れ替えしたかった。しかし堀平太左衛門の、
「いまそんなことをなされば、大きな摩擦が起こって政務が滞ってしまいます」
 という言葉が重賢の頭の中に残っていた。堀は、
「たとえ殿のご政道が正しくても、まだまだ殿のご意図を正確に理解しようとしない藩士が城にたくさんおります。これが徒党を組んで反抗すれば、やはり無視できない勢力になりましょう。しばらくは、ぜひ穏便にことをおすすめ願いとうございます」
 と熱弁をふるった。重賢は堀の誠実さに打たれた。
「わかった、おまえのいうとおりにしよう」
とゆるやかな改革路線の実行を約束した。
 そこで重賢は、
(いまの老中や奉行をクビにして総入れ替えをするよりも、こちら側の意を酌んだ老中と奉行を少しずつ送り込もう)
 と考えた。それは、汚れた川に清水を注ぎ込んで、川の浄化をはかろうということだ。本来、川は自浄作用能力を持っている。流れる川は、底の石によって汚水を濾過し、自分で自分を清める。ところがすべての水が流れるわけではなく、ときに溜まりをつくつて底に汚水がわだかまる。汚水は底で腐り、腐臭を放ち、やがては澱を生ずる。
(腐敗した老中や奉行は、その凝り固まった汚れの澱と同じだ)
 重賢はそう考えた。そのため、
(第二段階として、悪心を持つ老中や奉行を、少しずつ辞めさせていこう)
 と考えていた。人事というのはそれほど難しい。重賢自身は、
「自分が熊本城にきて改革をするのは大きなつむじ風を起こすことだ。摩擦や抵抗を恐れていたらなにもできない」
 と最初にいい切ったが、それは必ずしも得策ではないことを知った。というのは実際に
改革をおこなうのは城の武士たちだからである。堀のいうように、これが結束して真っ向から重賢に反対したら、大きな壁ができ障害となってことがすすまなくなる。重賢は、
(改革を妨げるのは、モノの壁であり、しくみの壁であり、人の心の壁だ。この三つの壁を壊すことが、改革にとってなによりも必要だ)
 と感じていたが、一番難しいのが人の心の壁を壊すことだということを重々わきまえていた。堀は、
「むしろ時間がかかっても、根気よく殿のご意図を城内に根づかせ、反対する連中の心を変えさせることのほうが得策かと存じます」
 といった。その話をきいたとき、重賢は思わず、
「ガネマサどんにしては、ずいぶん気の長いことをいうものだき
 とからかった。堀は、
「若いころ、気が短いためにいろいろとばかなことをし、そのたびに後悔をいたしましたので、そういう過ちをもう繰り返したくありません」
 と謙虚に告げた。
 重賢は、堀の話をきくたびにだんだん堀の人柄が好きになった。いまでは、
 (一番信頼できるのは、堀かもしれない)
 と思うようになっていた。まわりでは、
 「ガネマサどんには、いくつも悪いクセがある」
 といって、彼の直情径行ぶりや、誰に対してもズケズケ本心を告げる性癖を嫌う者もいる。しかし重賢は、
 (いまは非常時である。ふつうのときではない。そんなときは、やはり非常な人間でなければことはおこなえない)
 と思っていた。だから、
(やがて本格的な改革に乗り出すときは、その推進役の中心に堀を据えよう)
と思っている。
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■抜本的な改革案

<本文から>
 そういって、重賢は堀の意見書を膝の上に置き、すでに頭の中で構築した案を語った。
内容は次のようなものである。
 ●城の組織を改める。新しく「大奉行」をおき、改革のすべての権限を大奉行に与える。大奉行の下に数人の奉行をおき、大奉行の指揮監督を受けさせる。
 ●郡奉行は廃止する。新しく「郡代」をおく。郡代も大奉行の指揮監督下に入る。
 ●老中は当分の間、閑職とし、折りに触れて思うことを意見具申する。代わって「中老」をおく。中老は大奉行の兼務とする。
 ●城内の藩主の居間近くに「機密の間」を設ける。これは大奉行が策を練る場とし、策に必要な情報収集、あるいは討論、政策の決定などの下準備をおこなう場所とする。
 一般の者の入室はゆるされない。もちろん、老中も例外ではない。
 ここまできて、重賢派の面々ははじめて、お互いの顔をみた。堀もじつをいえば驚いていた。堀が書いた意見書は、ここまで踏み込んではいない。
 (やはり殿さまはすごい)
 堀は正直にそう感じた。堀が書いた意見書は、思ったことをずらずらと脈絡なく書き綴ったものだった。ムチ叩きの刑のことや、熊本藩の産物を改めて見直すことや、ハゼの専売を肥後屋徳兵衛という商人を登用しておこないたいなどということを、書き綴っただけである。それを重賢は、見事に系統化し、脈絡化して整備していた。堀の胸ははずみ、興奮で頭が熱くなってきた。
 それにしても、
 「現在の老中は閑職とし、たまに意見を述べることしかできない」
 と、現場の政務から退ける案には、じつに目を見張る。誰もが、
(そんなことをすれば、老中たちがまたひと悶着起こす)
 と感じた。そして現在、老中と密着し、思いのままに藩政を牛耳っている郡奉行たちがいっせいに「郡代」に格下げされ、新しく設けられる大奉行の指揮監督下に入るという案にも、おそらく憤激するに違いない。
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■堀平太左衛門は主君亡き後も改革に勤しんだ

<本文から>
 細川重賢は享保五年(一七二〇)の生まれだ。延享四年(一七四七)に藩主の座についてから、天明五年(一七八五)十月二十六日に死ぬまで、その座にあった。じつに足掛け三十九年の長きにわたる。現在の地方首長の任期を四年とすれば、十期務めたことになる。
 堀平太左衛門は、享保元年(一七一六)に生まれ、寛政五年(一七九三)四月二十三日に死んだ。主人の重賢よりも八年ばかり長生きしたことになる。いろいろと批判があるなかで大奉行の職を務めたのだから、重賢が死んだのちに風当たりが強かったことは当然だ。
 しかし平太左衛門はいつも、
「亡き主君のために」
と考えて、改革に勤しんだ。
 この改革に対する批判や非難は、すべて堀平太左衛門に向けられた。平太左衛門が五百石の身から、三千五百石の大身になったことに嫉妬したり憎んだりする武士がたくさんいた。町でも平太左衛門のことをからかうような歌が流行った。
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