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<本文から>
このころの幽斎はまだ義昭に対する忠誠心をもっていた。したがって、
「義昭様と信長殿の関係が、円滑であってほしい」
と願っていた。
しかしだからといって、細川幽斎は全面的に足利義昭に傾倒していたわけではない。義昭は、不遇な育ち方をしている。権力者の家に生まれた者が不遇を経験すると、
「もう一度権力者に戻りたい」
と考える。そして、その動機は、
「戻ったときには権力者の権限を最大限に利用してやろう」
ということだ。その権力行使の中には残念ながら、
「今まで自分に冷たくした者に報復してやる」
ということも含まれる。義昭はその典型的な人物だ。幽斎は、そういう義昭の一面をはっきり見届けていた。
その意味では義昭の人間性はいたって狭量で、猫疑心に富んでいたといっていい。つまり、
「将軍の座に就く」
ということは、
「まず自分を冷遇した者に徹底的に復讐してやる」
という考えを根強くもっているということである。だいたい義昭はあたたかい人間ではない。あれだけ放浪中に世話になりながらも、かならずしも幽斎に対し、
「すまぬな」
とわびや礼をいった例は少ない。近江国(滋賀県)を放浪中、北西の朽木谷で暮らしたことがある。このころ義昭は、夜になると、
「本が読みたい」
といい出した。本が読みたいということは、灯火の準備をしろということだ。しかし、貧しい二人の放浪者にそんな金はない。やむを得ず幽斎は近くの神社に行って神に捧げられた灯明の油を盗んだ。やがてこれが発覚し、神主に捕まった。恐縮した幽斎が、
「実はこういうしだいです」
と理由を話した。神主はおどろいた。同情した。 |
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