童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          細川幽斎の経営学

■幽斎は義昭に忠誠を尽くしたが礼を言われたことはない

<本文から>
  このころの幽斎はまだ義昭に対する忠誠心をもっていた。したがって、
 「義昭様と信長殿の関係が、円滑であってほしい」
 と願っていた。
 しかしだからといって、細川幽斎は全面的に足利義昭に傾倒していたわけではない。義昭は、不遇な育ち方をしている。権力者の家に生まれた者が不遇を経験すると、
 「もう一度権力者に戻りたい」
 と考える。そして、その動機は、
 「戻ったときには権力者の権限を最大限に利用してやろう」
 ということだ。その権力行使の中には残念ながら、
 「今まで自分に冷たくした者に報復してやる」
 ということも含まれる。義昭はその典型的な人物だ。幽斎は、そういう義昭の一面をはっきり見届けていた。
 その意味では義昭の人間性はいたって狭量で、猫疑心に富んでいたといっていい。つまり、
 「将軍の座に就く」
 ということは、
「まず自分を冷遇した者に徹底的に復讐してやる」
 という考えを根強くもっているということである。だいたい義昭はあたたかい人間ではない。あれだけ放浪中に世話になりながらも、かならずしも幽斎に対し、
 「すまぬな」
 とわびや礼をいった例は少ない。近江国(滋賀県)を放浪中、北西の朽木谷で暮らしたことがある。このころ義昭は、夜になると、
 「本が読みたい」
 といい出した。本が読みたいということは、灯火の準備をしろということだ。しかし、貧しい二人の放浪者にそんな金はない。やむを得ず幽斎は近くの神社に行って神に捧げられた灯明の油を盗んだ。やがてこれが発覚し、神主に捕まった。恐縮した幽斎が、
 「実はこういうしだいです」
 と理由を話した。神主はおどろいた。同情した。
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■幽斎の公家からのいじめにチエとユーモアで対応

<本文から>
 「なに」
 公家たちは思わず顔を見合わせた。しかしすぐ幽斎のいった句は、幽斎なりの、
 「何にでもつく下の句」
 だと気がついた。公家たちはこもごも、自分たちの頭の中で思い浮かぶ上の句に幽斎の下の句をつけてみた。
 「大江山 行くのの道の遠ければ それにつけても金のほしさよ」
 「箱根路を わが越えくれば伊豆の海や それにつけても金のほしさよ」
 「名にし負はばいざ言問はむ都鳥 それにつけても金のほしさよ」
 「都にて月をあはれと思ひtは それにつけても金のほしさよ」
 「年たけて また越ゆべしと思ひきや それにつけても金のほしさよ」
 試みているうちに公家たちは笑い出した。いちように、
 (このほうが現実味がある)−
 と思いはじめたからである。みんないっせいに笑った。そして、
 「という歌はむかしなりけり」
 という下の句をつくつた公家の顔をみた。その公家も頭の中でいくつか思い浮かべた歌に、幽斎の下の句をつけていた。そしてニヤリと笑った。こういった。
 「まいった。幽斎殿の下の句のほうが、確かに現実味がある。降参だ」
 素直に自分の負けを宣言した。幽斎は、
 「いやいや、そうおっしゃられると身の置き所がなくなります」
 と恐縮した。しかしこの事件が、細川幽斎に対する悪感情を消した。公家たちは、
 「やむを得ず細川幽斎は織田信長の手助けをしているが、本当は風流心をもった立派な武士だ」
 と認めてくれた。このことが発端となって、その後の幽斎の織田信長と京都朝廷との連携プレーはスムーズにゆくようになった。この話をきいた信長は笑った。
 「細川、芸は身を助けるというが、おぬしはまさにその通りだな」
 「おそれいります」
 「義昭殿に、おぬしの爪の垢でも飲ませてやりたいな」
 信長はそういった。足利義昭には細川幽斎のようなゆとりもなければ風流心もない。ただガツガツと、
 「自己権力の拡大化」
 をはかるばかりだったからである。信長はこのごろでは、
 「顔もみたくない」
 といっている。信長のそんなボヤキをきくたびに、細川幽斎は古くからのつきあいである明智光秀にこの話をする。明智光秀はクールだ。こう応じた。
 「オレは、いずれ義昭殿を見放すよ」
 「なに」
 おどろいて光秀の顔を見返すと光秀は‥ヤリと笑う。そして、奥深い目で幽斎をみながら、
「細川殿も、いずれはそうなる」
 と先を見通すようなことをいった。
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■信長が義昭と死闘を繰り返したのは日本の構造改革を目的としたから

<本文から>
 織田信長はなぜこれほど将軍足利義昭と陰湿な死闘を繰り返し、かれをこのポストから追おうとしたのだろうか。ひとことでいえば、信長の目的が、
 「日本の構造改革」
 にあったからだ。つまり、
 「社会体制の根本的な変革」
 を志していた。観念としては、日本人の財産観である「一所懸命の思想」すなわち「土地を至上の財産と考える価値観」の破壊だ。そして、「同時代人のニーズ(需要)を実現するような新しい日本社会の建設」である。いま、経営者層に、「グローカリゼーション」
 という考え方が導入されている。これは、
 ・グローバルにものをみて
 ・ローカルに生きる
 ということだ。どんな日本の国土の一隅で経営をしていても、
 ・国際情勢にも関心を持つ
 ・国政にも関心を持つ
・その経営体が立地している地域の行政にも関心を持つ
・そして、国・都道府県・市町村という、三重に重なりあった環境の中で、
 「自分はどういう経営をおこなうべきか」
 という段階的な考え方をすべきだという論である。T↑の行き渡りによって、
消費者(客)側の、情報処理能力は格段に高度化した。そうなると企業が必要と
する「客の需要の把握、すなわちマーケティング」も、
 「客がいま何を考えているか、何を求めているか」
ということをつねに頭に置かなければならない。それにはグローカリゼーションが必要だということである。というのは、客はある地域に住んでいてもかならず、
「日本国民である・いずれかの都道府県民である・そしていずれかの市長村民である」
 という三つの人格を持っている。したがって政治・行政をおこなう側も、
 「国政と地方行政」
 に役割分担をして行政サービスを考える。地方自治行政には、都道府県政と市町村政が含まれる。
 そして現在は「地方分権の推進」が加速しているから、いきおい国(政府)のほうは、
 「最小限(ミニマム)の仕事に絞っていく」
 という方向をたどり、逆に地方自治体は、
 「住民に身近な仕事を最大限(マキシマム)おこなう」
 という方向をたどる。国と地方の関係を、従来のように主従のようなタテの関係ではなく、パートナーシップを発揮するヨコの関係に変えようということだ。
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■田辺城を二万五千の大軍に五百の小勢で耐え抜いた

<本文から>
 細川玉が自決したのは慶長五(一六〇〇)年七月十七日のことである。田辺城攻略がおこなわれたのは、それから三日後の七月二十日だった。国境の山を越えて石田軍は田辺城の周囲の村落を焼き払い、怒涛のように迫ってきた。城中の櫓からみると、敵の戦意は高く、
 「是が非でも、この小城を踏み砕いてやる」
 という意思がありありとみえた。報告をきいた幽斎は、静かにいった。
 「二万五千の大軍に、五、六百の小勢ではかなわぬ。しかし、最後の一兵まで戦い抜こう。できるだけ時間かせぎをすることが、忠興のためになるからだ」
 そう告げた。家臣団は感動した。隠居した後も、最後の最後まで、
 「息子のために戦い抜こう」
 という親心を披渡するこの老将のこころに、みんな胸を打たれた。全員、
 「最後まで、戦い抜きます」
 と誓った。エイエイオーとかけ声をあげた。その大合唱が、城外にも響き渡った。攻撃軍は首をかしげた。大将たちは集まって、
 「細川勢は、なぜあんなに勢いがよいのだ?」
 と疑問に思った。しかし、幽斎がいったように、五、六百の小人数では、二万五千の大軍にはかなわない。田辺城の運命は、風前の灯となった。
 だれがみても、
 「田辺城の落城は必至だ」
 と思われた。しかし、老将細川幽斎は少しも揺るがなかった。かれは、五百人の部下やその家族たちを指揮し、精力的に城内を見回っては、それぞれの兵士の肩をたたいて励ました。兵士たちはいっせいにおう! と声をあげる。なにしろ老体の幽斎が先頭に立って凛々しく指揮をとっているのだから、戦意(モラール)はいやが上にも高まった。
 「がんばります!」
 と応ずる将兵たちの声は、決してカラ元気ではなかった。かれらはそろって、
 「幽斎さまのためなら、討ち死にしても悔いない」
 という気持ちを持っていた。
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■幽斎の文化魂が天皇を動かして助かる

<本文から>
 このときに幽斎が示した勇気は、戦国武将そのものだった。幽斎は歌人大名、文化大名と呼ばれたが、その副詞的な呼ばれ方にすがる気持ちはまったくなかった。よく、
 「芸は身を助ける」
という。歌の道も芸道の一部だ。しかし幽斎はそれにすがって、
 「命を助かり、安楽にくらしたい」
などとは思わなかった。
 「息子の忠興は、徳川殿の供をして会津に向かっている。場合によっては、会津の上杉景勝と一戦おこなったときに、討ち死にするかもしれない。そんな危急存亡の時期に、歌人大名の名に甘えて、自分だけ生命を助かろうなどとは絶対に思わない」
 と自分をきびしく扱っていた。この勇気が、智仁親王や、その兄の後陽成天皇の心を動かしたのである。
 「幽斎は、文化大名であると同時に、勇敢な武将でもある」
 と受け止められた。しかし結果としては、
 「幽斎の文化魂が、天皇を動かした」
 といっていい。文化魂とあえていうのは、幽斎の精神が、趣味一辺倒の軟弱なものではなく、
 「そこには、戦国武士としての意地むきちんと保っている」
 からだ。
▲UP

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