童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          名君肥後の銀台 細川重賢

■細川重賢が養子になり三つ層が混乱した

<本文から>
「仮ご養子になった」
という報が流れると、肥後熊本薄細川家の江戸藩邸では、さまざまな波が立った。大名には、それぞれ上・中・下の三通りの屋敷が幕府から与えられている。細川家の上屋敷は大名小路にある。しかし中屋敷や下屋敷は、区別をしないで、主として芝白金台を中心に、いくつかあった。
 細川重賢がのちに、
「銀台公」
と呼ばれるようになるのは、かれが住んだ屋敷が白金にあり、白金はすなわち銀だったので、白金台をそのまま銀台と洒落て、重賢にこういう名がつけられたのである。
 起こったさまざまな波というのは、
●「それみろ、おれのいったとおりになった」と、かねてから「次の藩公は、重賢さまだ」と主張し統けた者の得意なよろこび
●「重賢さまが、お世継ぎになるはずがない」と長年に亘って、重安の次期藩主就任を否定してきた者の当惑
●「次のお世継ぎがどなたになるかは、われわれのはかりしれないことだ」と、次期藩主問題から身を遠ざけて、中立牲を守っていた者の混乱
などだ。
 これらの三つの層に、それぞれ、
 「どう動くべきか」
 という動揺を与えた。

■秩序を守らせる側の理屈と守る側の理屈を知った上で管理した

<本文から>
 「松野七蔵が感じ取ったとおり、垂賢は、
(厄介者が、厄介者として城から放逐されるのには、放逐する席の理屈だけではない。される側にも、かならず何か原因がある)
と思っていた。それは、部屋住み生活を二十八歳の今日き送ってきて、かれ一が日にしてきた武士たちの生きざまによるものである。大名家も、ひとつの組織だ。組織の秩序というものがある。そしてそれはつねに、
「守らせる側と守る偶」
に分かれる。厄介者や異見者とは、
「城の秩序の逸脱者、あるいは背いた者」
をいう。重賢にすれば、
「そういう場合にも、守らせる側の理屈と、守る側の理屈が合わないのは、それぞれ相手の立場から自分を見直さないからだ。守らせる側は、秩序を守ることだけに頭が向いていて、相手がどういう立場に立って、どういう事情でそんな厄介なことを引き撃ししたかをきちんと理解しようとしない。また、引き起こしたほうも、理はすべて自分のほうにあって、相手が間違っていると決めこむ。果たしてそうだろうか。熊本城から追われた者には、追われた者のほうにも一端の理由があったのではないか」
というのが重賢の考えである。まだ藩主の座についてもいないのに、重賢はすでにこういうように藩の武士たちの、現在でいえば管理方法についても深く思いを致していたのである。

■敵に対して改革の旋風を起こす

<本文から>
 「吉宗公というのは、いうまでもなく八代将軍のことだ。吉宗公は、紀州和歌山藩主から将軍の座に就かれた。このとき、諸国では、吉宗公は名君か暗君かという論議がおこなわれた。ある人は、吉宗公が和歌山城からお連れになった武士を要職にお就けになるようなことがあれば、暗君であり、江戸城の組織や人事をいままでどおりお用いになるとすれば、名君だといった。吉宗公は、江戸城の組織や人事に手をつけなかった。そのままにしてお用いになつた。そのために名君といわれた。わたしは違う。暗君だとは思わないが、わたしは吉宗公のようなカはない。だから思い切って、熊本城内の組織も変えるし、人事異動もおこなう。その中心になるのはおまえたちだ。わたしを先頭に、おまえたちがつむじ見となって、熊本城内を吹き荒れるのだ。きょうの家老や一門たちに対するきぴしい叱責は、その第一陣の風である。わたしはあえて敵をつくる。敵が強ければ強いほど、こちらもやり返す。それがわたしの改革だ」
 一同は声を失った。江戸で冷や飯食いだった重賢の、おだやかな学究的な日常の中に−なぜこんな激しい気持ちが培われていたのか理解に苦しんだ。
 しかし、いま重賢がいったように一度つむじ息を巻き立てたからには、もう後には引けない。風を起こし続け、それを保って熊本城内を巻き立てる以外方法はない。細川重賢は、熊本城に入城した日から、
 「改革の大旋風」
を起こしたのだ。
 重賢はいった。
「というような訳で、今後おまえたちに対する風当たりは想像以上に強くなる。耐えられぬ者は、去れ。止めぬ。ついてこられる者だけついてきて欲しい」
 しかし、江戸からついてきた者の中に、
「では、おことばに甘えて去らせていただきます。とても殿にはついていけません」
などといい出す者はだれもいなかった。全員が、輝く日で重賢を凝視していた。すべての者の
 目の底に、
「最後まで、殿についていきます」
という激しい決意が燃えていた。

■下級武士から直接意見を申し述べさせる

<本文から>
 重賢が、
「八代将軍吉宗公の例にならう」
といったことは、吉宗が「目安箱」と「御庭番」によって、江戸城の役人たちを挟み撃ちにした方法を導き入れたのだ。重賢の場合は、
「下級武士から、直接意見を申し述べさせる」
ということと、
「監視役の目付や横目に、さらに監視役をつける」
ということによって締めつけをおこなおうということである。これも毒の挟み撃ちだ。したがって、明るい方法ではない。暗さが伴う。だが、重賢は、
「それを押し切って、藩の上位者と下位者が心をひとつにするには、大きな目標を掲げる必要がある」
と考え、五ケ条の告論をおこなったのである。

■ゆるやかな改革路線に変更

<本文から>
  重賢は、しかしそれ以上に日誌に認印が捺されていないことを追及しなかった。追及しなくても、老中や奉行は、重賢が参勤で江戸にいった留守中は、自宅で洒を飲みながら勤務した事実をすでに掴まれているということを悟ったはずだ。老中と奉行たちはうつむいたまま、なにもいわなかった。居心地悪そうに尻をモジモジさせるだけである。
  そこで重賢はこう告げた。
「老中に、新しく三淵志津摩を加える。また奉行に井口庄左衛門と宮川庄兵衝を加える」
 ほんとうなら嘘をついた老中や孝行を耗入れ替えしたかった。しかし堀平太左衛門の、
「いまそんなことをなされば、大きな摩擦が起こって政務が滞ってしまいます」
という言葉が重賢の頭の中に残っていた。堀は、
「たとえ殿のご政道が正しくても、まだまだ殿のご意図を正確に理解しようとしない藩士が城にたくさんおります。これが徒党を組んで反抗すれば、やはり無視できない勢力になりましょう。しばらくは、ぜひ穏便にことをおすすめ願いとうございます」
 と熱弁をふるった。重賢は堀の誠実さに打たれた。
「わかった、おまえのいうとおりにしよう」
とゆるやかな改革路線の実行を約束した。
 そこで垂賢は、
(いまの老中や奉行をクビにして総入れ替えをするよりも、こちら側の意を酌んだ老中と奉行を少しずつ送り込もう)
と考えた。それは、汚れた川に清水を注ぎ込んで、川の浄化をはかろうということだ。本来、川は自浄作用能力を持っている。流れる川は、底の石によって汚水を濾過し、自分で自分を清める。ところがすべての水が流れるわけではなく、ときに溜まりをつくって底に汚水がわだかまる。汚水は底で腐り、悪臭を放ち、やがては澱を生ずる。
(腐敗した家老や老中は、その凝り囲まった汚れの澱と同じだ)
重賢はそう考えた。そのため、
(第二段階として、悪心を持つ老中や孝行を、少しずつ辞めさせていこう)
と考えていた。人事というのはそれほど難しい。重賢自身は、
「言分が熊本城にきて改革をするのは大きなつむじ風を起こすことだ。摩擦や抵抗を恐れていたらなにもできない」
 と最初にいい切ったが、それは必ずしも得策ではないことを知った。というのは実際に改革をおこなうのは城の武士たちだからである。掘のいうように、これが結束して真っ向から重賢に反対したら、大きな壁ができ障害となってことがすすまなくなる。重賢は、
(改革を妨げるのは、モノの壁であり、しくみの壁であり、人の心の壁だ。この三つの壁を壊すことが、改革にとってなによりも必要だ)

■見事な改革

<本文から>
 ●城の組織を改める。新しく「大奉行」をおき、改革のすべての権限を大奉行に与える。大奉行の下に数人の奉行をおき、大奉行の指揮監督を受けさせる。
●郡奉行は廃止する。新しく「郡代」をおく。郡代も大奉行の指揮監督下に入る。
●老中は当分の間、閑職とし、折りに触れて思うことを意見具申する。代わって「中老」をおく。中老は大奉行の兼務とする。
●城内の藩主の居間近くに「機密の間」を設ける。これは大奉行が策を凍る場とし、策に必要な情報収集、あるいは討論、政策の決定などの下準備をおこなう場所とする。一般の者の入室はゆるされない。もちろん、老中も例外ではない。
 ここまできて、重賢派の面々ははじめて、お互いの顔をみた。堀もじつをいえば驚いていた。堀が書いた意見書は、ここまで踏み込んではいない。
 (やはり殿さまはすごい)
 堀は正直にそう感じた。堀が書いた意見書は、思ったことをずらずらと脈絡なく書き綴ったものだった。ムチ叩きの刑のことや、熊本藩の産物を改めて見直すことや、ハゼの専売を肥後度徳兵衛という商人を登用しておこないたいなどということを、書き綴っただけである。それを重賢は、見事に系統化し、脈絡化して整備していた。堀の胸ははずみ、興奮で頭が熟くなってきた。

■財政難の折だからこそ、人づくりのための学校をつくる”時習館”

<本文から>
 「改革というのは、毒性のものであうではならない。”民のため”という考えは、未来永劫のものでなければならない。われわれが死んだのちも、われわれの志が後代に引き継がれていくことが望ましい。そのためにはなんといっても、人材育成を欠くことができ凌い。人材育成には学校が必要だ。そこでこの際、思い切って学校をつくる」
 座はどよめいた。思わず顔をみあわせた。ふつうなら、
 「こんな財政難の折に、学校などという金食い虫をつくってどうするのだ?」
ということになるだろう。しかし重賢はあえて、
 「財政難の折だからこそ、人づくりのための学校をつくる」
と宣言したのである。重賢は微笑んだ。この議題に触れることがうれしかったらしい。まるで、おいしいお菓子を最後まで残しておいて、やっとそれが食べられるという子供のような表情だった。重賢はいった。
 「秋山先生と相談して、すでに学校の名もつけた。時習館という。時習館とはこういう字を書く」
そういって重賢は、用意してあった一枚の紙を広げて掲げた。「時習館」と書かれていた。
 「どういう意味かわかるか?」
重賢が全員をみまわしながらきいた。間髪を入れず隅から侍女のくすが、
 「時にまなんでこれを習う。また悦しからずや」
と『論語』の一節を澄んだ声で唱えた。みんな驚いてくすをみた。重賢は微笑んでうなずいた。
「くす、さすがだ。そのとおりだ。時習館の一句は、論語から取った。いい校名だろう?」
そういって、紙を脇に置いた。

■藩内では批判が厳しかったが、他国では高い評価を得た

<本文から>
  細川重賢は享保五年(一七二〇)の生まれだ。延享四年(一七四七)に藩主の座についてから、天明五年(一七八五)十月二十六日に死ぬまで、その座にあった。じつに足掛け三十九年の長きにわたる。現在の地方首長の任期を四年とすれば、十期務めたことになる。
 堀平太左衛門は、享保元年(一七一六)に生まれ、寛政五年(一七九三)四月二十三日に死んだ。主人の重賢よりも八年ばかり長生きしたことになる。いろいろと批判があるなかで大孝行の職を務めたのだから、重賢が死んだのちに風当たりが強かったことは当然だ。しかし平太左衛門はいつも、
 「亡き主君のために」
と考えて、改革に勤しんだ。
 この改革に対する批判や非難は、すべて堀平太左衛門に向けられた。平太左衛門が五百石の身から、三千五百石の大身になったことに嫉妬したり憎んだりする武士がたくさんいた。町でも平太左衛門のことをからかうような歌が流行った。
 「肥後の刀の 堤緒の長さ 長さばいそら キンキラキン まさかちがえば玉だすき それも
 そうかい キンキラキン
  これは、
「質素倹約」
を武士の暮らしの心構えとした堀平太左衛門が、刀の堤緒の長さやその原糸を、贅沢にならないように制限したので歌われたものだ。(中略)
 藩内ではこういうように批判がかまぴすしかったが、しかし他国ではこの改革がかなり高い評価を得た。とくに藩校の時習館や医師養成の再春館などには、
 「ぜひ見学させていただきたい」
という来訪者が絶えなかった。

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