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<本文から> 「仮ご養子になった」
という報が流れると、肥後熊本薄細川家の江戸藩邸では、さまざまな波が立った。大名には、それぞれ上・中・下の三通りの屋敷が幕府から与えられている。細川家の上屋敷は大名小路にある。しかし中屋敷や下屋敷は、区別をしないで、主として芝白金台を中心に、いくつかあった。
細川重賢がのちに、
「銀台公」
と呼ばれるようになるのは、かれが住んだ屋敷が白金にあり、白金はすなわち銀だったので、白金台をそのまま銀台と洒落て、重賢にこういう名がつけられたのである。
起こったさまざまな波というのは、
●「それみろ、おれのいったとおりになった」と、かねてから「次の藩公は、重賢さまだ」と主張し統けた者の得意なよろこび
●「重賢さまが、お世継ぎになるはずがない」と長年に亘って、重安の次期藩主就任を否定してきた者の当惑
●「次のお世継ぎがどなたになるかは、われわれのはかりしれないことだ」と、次期藩主問題から身を遠ざけて、中立牲を守っていた者の混乱
などだ。
これらの三つの層に、それぞれ、
「どう動くべきか」
という動揺を与えた。 |
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