童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          本多作左衛門 信念を貫く男の生き方

■天野康景のような忠臣を逐電

<本文から>
 いいから門を開けろ。おまえたちの気持ちはわかる。おれは本多作左衛門だ。開けろ」
 と根気強く告げた。なかで動揺が起こった。なんといっても本多作左衛門は、主人の天野康景がもっとも信頼していた同僚だ。
 「話というのはなんですか?」
丁寧な応答が返ってきた。
 「家康公のお考えを告げにきた」
 「家康さまはわれわれ主人の仇です。きく耳持ちません」
 「そんなことをいうな。家康さまも後悔しておられる。おまえたちすべての生命を助け、希望するものは城で召し抱えてもよいとおっしゃっている。おれが保証する。門を開けろ」
 「うまいことをいって、下手人を出させるつもりなのでしょう?」
 なかから疑い深い声が跳ね返ってくる。作左衛門は、
 「ちがう。家康さまはもうお諦めになった。下手人をさし出すことは必要ない。門を開けろ」
 かれにはめずらしく根気強くいった。やがて門が開けられた。武装して、目を吊り上げた康景の家来がいっせいに作左衛門をみた。全部が好意を示しているわけではない。露骨な敵意を示すものもいた。
 が、合戦場をいくつも渡り歩いてきた作左衛門には、そんなものはなんでもない。光る目でみんなを見渡しながらいった。
 「武器を捨てろ。家康さまは、冶まえたちを全部召し抱えるつもりだ」
 「ご主人はどうなるのですか?」
 なかから声がとんできた。作左衛門は、
 「天野殿は、ご自身のお考えによってこの岡崎を去った。ご本人の意志を重んずるべきだろう。だからといっておまえたちが天野殿に殉ずることはない。天野殿はもともとは、おまえたちの誰かが家康さまのご家来を斬り殺した罪を背負って、遠くへいかれたのだ。そっとしておくほうがいい」
 そう告げた。
 本多正信がきたら、こうはいかなかっただろう。みんなはしだいに頭を冷やし、鎮静した。
 作左衛門が帰るころには、
 「家康さまに、よろしくお執りなしをお願いいたします。正直にいえばわたしはまだ、お城に勤めたいと思います」
 と申し出る者が大部分だった。なかには、
「こんどのことで、もうつくづく勤めがいやになりました。生家へ戻って、農業の手伝いをします」
 という者もいた。作左衛門はうなずいた。
 「無理強いはしない。それぞれ好きにするがいい。ただし、何度も繰り返すがおまえたちの罪は問われない。全部忘れろ」
 そういった。
 城に戻った作左衛門は、このことを家康に報告した。家康は、
 「そうか」
 とうなずいた。そして、
 「康景のゆくえは知れないか?」
 ときいた。これをきくと作左衛門は突然キッとなって家康を呪みつけた。そしてこういった。
 「あなたは人を失い、わたしは友を失いました」
 「……」
 作左衛門の顔をみかえし、作左衛門のことばを頭のなかで反窮していた家康は、やがてうなだれた。そして、一
 「そのとおりだ」
 と重くつぶやいた。作左衛門がいったのは、
 「あれだけ人を用いるのにいろいろ心遣いをするあなたが、なぜ天野康景のような忠臣を逐電させたのですか? あなたにとってもっとも忠義な武士が去り、お陰でわたしは一番大事な友人を失ってしまいました」
 ということである。
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■母と妹の命と引き替えに秀吉とへ対抗

<本文から>
 本多作左衛門は、悔しそうな表情をして家康の顔をまじまじと凝視していた。しかし、作左衛門もばかではない。家康のいうことはよくわかった。そしてつねに、
 「民衆の気持ちを大事にしよう」
 という、政治家徳川家康の姿勢も理解していた。
 「やむを得ません」
 作左衛門はうなずいた。家康はニコリとわらった。
 「留守を頼む」
 「わかりました」
 徳川家康はわずかな供を連れて西へ向かった。本多作左衛門は、秀吉の妹旭姫と、母である大政所が住んでいる居館にいった。そして、大勢の部下に命じた。
 「この居館のまわりに、薪を積み上げろ」
 「は?」
 部下たちはびっくりした。作左衛門は恐ろしい表情をして、
 「いいからいわれたとおり薪を積め!」
 と怒鳴りつけた。部下たちは慌てて薪を取りに走った。
 居館の外が騒がしいので、障子を開けて旭姫と大政所が顔を出した。居館のまわりにどんどん薪が積み上げられている。大政所が指揮をとっている本多作左衛門にきいた。
 「本多殿、これは何のまねですか?」
 「ご覧のとおりです。薪を積んでおります」
 「なんのためですか?」
 「主人徳川家康は、あなたのご子息豊臣秀吉公のところにあいさつに参りました。しかし、いままでのいきさつからみて、油断はなりませんりもしも主人家康に何かあったときは、この薪に火をつけます」
 「えー」
 大政所と旭姫は思わず顔をみあわせ、ウソーというような顔をした。しかし本多作左衛門は真面目な顔でふたりを呪みつけている。目の底が欄々と燃えていて、
 (女ども、おまえの息子であり兄である秀吉のやつが、家康公にへタに手を出すようなことをしたら、必ず薪に火をつけ、おまえたちふたり焼き殺してやるぞ!)
 という意志がありありとみえた。大政所は、若いときから苦労してきているので胆力がある。度胸がいい。が、このときだけは思わずふるえあがり、顔を真っ青にした。そして、
「本多という武士は、まったくオニのような人間だ」
 とつぶやいた。
 岡崎の城下町では、本多作左衛門は、
「オニ作左」
 と呼ばれている。しかし岡崎の人びとの呼び方は、本多作左衛門に対する親愛の情をあらわしたものであって、心の底からふるえあがっているわけではない。
 だが、大政所と旭姫が感じた恐怖心はほんものだった。信頼の情などはかけらもない。居館の前に立ちはだかり、次々と部下に薪を積ませる作左衛門の姿は、まさしくオニだった。大政所はふるえあがった。そしてこの恐怖心はいつまでも残った。
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■家康は秀吉の母と妹を人質にとる作左の単細胞さを愛した処

<本文から>
 だから心配する部下に家康はこう告げた町だ。
 「いや、作左の思いのままにさせよう」
 「しかし、このことがもしも秀吉公の耳に入りますと、今回の会談が険悪なものになるのではありませんか」
 「そうなるだろう。そうなることを作左のやつは予想しているのだ」
 「と申しますと?」
 「あいつは、遠く岡崎の城から今回の会談に圧力をかけているのだ」
  家康はそういった。宿将たちは顔をみあわせ、
 「なるほど、そういうことでしたか」
  と納得した。そして思わず笑い出し、
 「そうだとすれば、作左のやつもなかなかやりますな」
  そういった。家康はうなずいた。
 「そうだ。作左はおれのこと以外考えていない。まったく忠義な武士だ」
 本多作左衛門にとって、預かった秀吉の妹旭姫とその母大政所は人質なのだ。作左衛門は頭のなかで、
 「この母娘は関白太政大臣がうちの殿さまにさし出した人質なのだから、その人質をどうしようとこっちの勝手だ」
 と思っていた。家康の考えたとおりだった。しかし、家康は政治家だ。作左衛門のように単細胞ではない。が、そうはいっても、家康は作左衛門のそういう単細胞さを愛していた。
 (これが三河武士のいいところなのだ)
 と感じる。そして家康はその三河武士の単純さを利用する。今回もそうだった。
 だから宿将たちに、
 「作左の好きなようにさせておこう」
 と告げた。
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■作左はガンコ者で全体展望図を見るのが得意でない

<本文から>
「もつと東へ移ったほうが無難だ」
 と考えた。かれが駿河国を領有するようになったのは、天正十年に織田信長が明智光秀に殺された直後からだ。いわばどさくさにまぎれて、信長とともに滅ぼした武田家の旧領を自分のものにしてしまったのである。このとき、本多作左衛門は駿河国内の江尻城・久能城の両城の城代を命ぜられた。そして、
「岡崎奉行の経験を生かして、駿河の民政をおこなえ」
と家康に命ぜられた。日本二気が短いといわれる本多作左衛門には、こういう特別な才能があった。つまりかれは民政が得意だった。岡崎奉行時代も、三人の奉行のなかでも本多作左衛門の評判がもつともよく、市民たちに慕われた。作左衛門はガンコ者で、ひたむきだったがそれだけに、
 「全体の展望図」
をみることがあまり得意ではない。よく、
 「合戟には、ウォー(戦争)とバトル(局地戟)のふたつがある。いくらバトルで勝っても、ウォーで勝たなければ意味がない」
 といわれる。本多作左衛門は、バトルでの戦いは得意で、いつも勝っていたかもしれないが、ウォー全体をみとおし、
 「自分の位置づけ」
 を考えることは苦手だった。したがって、
 「なぜ主人の家康が大坂にいって、豊臣秀吉に屈従したのか」
 ということを、政治的に考えるということはしない。ただ悔しさでいっぱいだ。
 「秀吉のようなサルに、なぜ主人は頭を下げたのだろうか」
 といつまでもわだかまいる。
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■頑固さがエスカレートし秀吉を相手取る

<本文から>
「この際、忍びがたきを忍んで秀吉に臣従する。だから、家臣のおまえたちもそのつもりで仕事をせよ」
 ということだ。いってみれば、
 「意識を変革せよ」
 ということである。ところが本多作左衛門は相変わらず、むかしどおりの忠誠心を露骨にしている。かれはもともと、
 「頑固者」
 といわれ、その頑固ぶりを一種のトレードマークにして生きてきた。だから作左衛門自身も、
 「おれは頑固者だ」
 と誇るし、まわりからそうみられることに対して悪い気持ちはしていない。いってみれば、本多作左衛門におけるCI(コーポレート・アイデンティティ)″は、″頑固さ″にあった。
 作左衛門にすれば、
 「そんなおれから、頑固ぶりを抜き去ったら何も残らない」
  ということだ。
 その頑固ぶりも、最近ではエスカレートして、ついに豊臣秀吉を相手取るような始末だ。
 家康にすればはなはだ迷惑な話である。はっきりいえば、
 「作左衛門のやつは、おれの気持ちがぜんぜんわかっていない」
 と思う。おれの気持ちがわかっていないのではなく、
 「おれの立場がどういうものかわかっていない」
ということだ。
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■作左は家康の立場でものが考えられない

<本文から>
つまり家康からみれば、
 「作左衛門はおれの立場に立ってものを考えていない」
 ということになる。もしも作左衛門に、
 「もし家康さまなら、どうなさっただろう」
 と考える柔軟性があれば、当然選択肢をいくつか考え出すはずだ。いきなり何の考えもせずに、イヌのように条件反射して、
 「いや、城は明け渡さない」
 などと拒否するようなことはなかっただろう。
 (そこがあいつの欠点なのだ)
 と家康は思う。そしてさらに、
 (作左衛門だけではない。あいつと同じ考え方をする古い三河武士がたくさんいる)
 と思う。そこで家康もやむを得ず、
 「そろそろトカゲのシツポ切りをせざるを得まい」
 と決断した。家康はすぐ使いに詫びを入れ、自分の部下を駿府城に急派した。そして作左衛門に、
 「城からただちに退去し、関白殿下に明け渡せ」
と命じた。作左衛門は舌打ちをしながら城から退去した。そして、
 (家康さまも、そこまで卑屈になられたか)
と家康にも怒りの炎を燃やした。
▲UP

■敬遠人事にあい上総古井戸で生涯を終える

<本文から>
「ここで耐えることが、殿に対するおれの忠誠心になる」
 そのためには、頑固に忍ぼう、と心を決めカ。
 本多作左衛門処分は、その後の徳川家康にとってはほんのハシリに過ぎない。
 ハシリというのは、
 「忠義を尽くす三河武士処分」
 のハシリという意味だ。徳川四天王といわれた大名クラスの武士をはじめ、徳川家康は江戸城に拠点を構えた後に、かなり、
 「敬遠人事」
 をおこなう。敬遠人事というのは、
 「敬して遠ざける」.
 ということだ。家格や収入を増やす代わりに、遠隔の地に飛ばしてしまう。管理中枢機能から遠ざける。いってみれば、
 「徳川家の中枢部から退ける」
 ということである。そのハシリが本多作左衛門処分だった。
 上総古井戸で三千石の土地をもらった作左衛門は、その後、表の場に出ることを一切遠慮した。
 「隠居する」
と宣言した。そして、この地で静かに老後の暮らしを送った。
 現在茨城県取手市の井野というところに、″お墓山″というのがある。JR常磐線取手駅から、歩いて十五分ぐらいのところだ。お墓山というのは、本多作左衛門の墓である。
 作左衛門は、慶長元(一五九六)年に死んだ。取手市の青柳にある本願寺が、作左衛門の菩提寺だ。
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