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<本文から> 北条氏の関東へ入ってきた徳川家康は、北条氏の四公六民の政策よりも勝れた民政をやるのにはどうすればよいか、苦しんだ。
「徳川家康の重税は堪えられない。北条の世がよかった」
こういう声があがるのを恐れて、家康は、財源を、新田の開発と産業の奨励に向けている。家康は、
早雲を心から尊敬していた。
「武田信玄は、抜群の良将である。しかし、父の信虎を追放した罪は大きい。勝頼は猛将であったが、織田・徳川に敗れると、譜代の家臣が離れていった。これは、父を追放した信玄の罪が、仇となって、子の勝頼にかぶさってきたからである。信玄に親を敬う心が欠けていたのを、天が、憎まれたからなのだ。
それにひきかえ、小田原城にいた北条氏直は、秀吉の大軍を前に、百日も籠城をしても、松田尾張守一人をのぞいて、一人の裏切り者も出ていない。氏直が、一命を助けられて、高野山へ入ることになったら、一緒についていきたいと願い出た者があとを断たなかった。これは、早雲以来、北条一門が、その教えを忠実に守り続けてきた証拠である。
わが徳川も、早雲を見習わなければならない」
徳川家康は、関八州が五代にわたる北条氏の善政の下にあったことを十分に意識して、経営に当たったのである。
鈴木重秀は、『小田原旧記』の中で、こう記している。
「早雲寺殿は、武・徳二つながら、ともに備わっており、後北条氏を興した功は大きい。
二代目氏綱は、後嗣として立派であり、父君の名を辱しめなかった。
三代目氏康は、文武を兼ね備えた大人物で、一代のうち何度も合戦したが負けたことがない。そのうえ、仁徳があって、関八州の兵乱を鎮め、大いに北条氏の名をあげた。古今の名将の名にふさわしい」
北条早雲の心は、こうして生き続ける。 |
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