童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          人を動かす人の極意 最強のリーダー学入門

■武と徳の二つを備えよ

<本文から>
北条氏の関東へ入ってきた徳川家康は、北条氏の四公六民の政策よりも勝れた民政をやるのにはどうすればよいか、苦しんだ。
「徳川家康の重税は堪えられない。北条の世がよかった」
こういう声があがるのを恐れて、家康は、財源を、新田の開発と産業の奨励に向けている。家康は、
早雲を心から尊敬していた。
「武田信玄は、抜群の良将である。しかし、父の信虎を追放した罪は大きい。勝頼は猛将であったが、織田・徳川に敗れると、譜代の家臣が離れていった。これは、父を追放した信玄の罪が、仇となって、子の勝頼にかぶさってきたからである。信玄に親を敬う心が欠けていたのを、天が、憎まれたからなのだ。
 それにひきかえ、小田原城にいた北条氏直は、秀吉の大軍を前に、百日も籠城をしても、松田尾張守一人をのぞいて、一人の裏切り者も出ていない。氏直が、一命を助けられて、高野山へ入ることになったら、一緒についていきたいと願い出た者があとを断たなかった。これは、早雲以来、北条一門が、その教えを忠実に守り続けてきた証拠である。
 わが徳川も、早雲を見習わなければならない」
 徳川家康は、関八州が五代にわたる北条氏の善政の下にあったことを十分に意識して、経営に当たったのである。
 鈴木重秀は、『小田原旧記』の中で、こう記している。
 「早雲寺殿は、武・徳二つながら、ともに備わっており、後北条氏を興した功は大きい。
 二代目氏綱は、後嗣として立派であり、父君の名を辱しめなかった。
 三代目氏康は、文武を兼ね備えた大人物で、一代のうち何度も合戦したが負けたことがない。そのうえ、仁徳があって、関八州の兵乱を鎮め、大いに北条氏の名をあげた。古今の名将の名にふさわしい」
北条早雲の心は、こうして生き続ける。

■身分の低い者から意見を聞く

<本文から>
  関ケ原の戦い、大阪冬・夏の陣で戦功をあげ、のちに一〇万石の大名になった堀直寄(一五七七−一六三九)に、いい話がある。直寄はきめの細かい人使いをしたので感心する人が多かったが、
「あなたに使われている人は普、嬉々として働いている。何か秘決があるのですか」
と問われたのに対し、次のように答えている。
「秘訣はありません。ただ私が気をつけているのは、自分の考えを押し付けるのをやめて、まず身分の低い者から意見を開くことにしています」
 根底に信頼する気持ちがなければ、なかなかできないことである。意見を開く。信頼する。そしで叱るよりも誉めてやる。そうすれば、こちらの気分も自然と安らかになる。ノノイローゼになど、なりようがない。

■率先垂範で改革の趣旨を惨透させる
 そんななかで、鷹山は若かったが、少しずつ自分の考えを藩士たちの間に渉透させていった。方法としては、
・自分が範を示す。すなわち率先垂範を行なう
・率先垂範の内容は自分の生き方を厳しく律し、生活を切り詰める
・全藩士に、改革の趣旨を理解するように仕向ける
・そのためには、改革の趣旨を印刷物にして全藩士に読ませる
・改革に熱心な者を、身分を問わず抜擢する
・場合によっては、士農工商の身分制を壊し、武士でも農業に得意な者を農村に、技術の得意なものは山に入ってダムをつくる、などというようにそれぞれ″潜んだ才能″をこの際発揮させる。その発掘した才能によって、本当の意味の適材適所の人事異動を行なう
・改革の目標は、米沢に住む人々の生活の向上に置く
 などであった。

■全体会議を開き、納得がいくまで議論

<本文から>
 しかし改革には痛みが伴う。つまり成員すべてが節約や費用切詰めの犠牲になるからだ。そうなると、ともすれば"モラール(やる気)"がダウンする。これをどう食い止めるか。それが改革を進めるときの、リーダーのいちばん大きな課題だ。
 鷹山は、まじめな人物だったから、いわゆる"ニコボン(上の者が部下の肩をボンと叩いて、ニッコリ笑って、がんばれよなどというやり方"や、褒美のばらまき、あるいは″飲ませる″などという方法はやらない。鷹山は、「いまの若い人間は、そんな底の浅い管理方法では仕事をしない」ということをよく知っていたからである。鷹山が行なったのは、「全成員の納得を得ることがいちばん大事だ」ということだった。働く人間が納得するには次の三条件が必要だ。
・何のためにこんなことをするのかという「目的」をはっきり示すこと
・「自分のやった仕事が、どれだけ目的に役に立ったのか」という貢献度・寄与度をはっきり示すこと
・それに対して「どんなご褒美」あるいは「どんな罰」を受けるかという、信賞必罰の「評価」のモノサシを明らかにすること
 鷹山はこういうことを明らかにするために、つねに全体会議を開いた。そしてとことん納得のいくまで議論した。改革の目的と理念は、次第に全藩士に渉透していった。
 鷹山はまた、「米沢藩上杉家の置かれた状況」を、「冷えきった灰」にたとえている。しかし彼はこう言った。
 「わたしは奇跡の起こせるリーダーではない。したがってフェニックスのようにこの灰から立ち上がることはできない。が、方法はある。わたしは自分の足元を掘ってみた。すると足元の冷たい灰の中から、まだ消えていない火種が見つかった。わたしがまずこの火種になる。そこで、中間管理職がこの火種をまず受けてくれ。そして自分の胸のなかに火を燃やせ。火が燃えたら、今度はその火種を部下に移せ。それによって、米沢藩全体で火種運動を起こそう。われわれながんばって火を燃やし続ければ、火種はかならず住民の胸にも飛び火をする。その時には、この国に住む人々のすべてが、われわれの改革を理解し、協力してくれるだろう」
 また彼は、
 「われわれ藩政に携わる者は、民の父母だと思う。親の気持ちになって、子供の苦労を自分のものにしようではないか」
 とも告げた。

■現実的に最善の策を見つけ出せ

<本文から>
  ここで簡単に整理しておけば、柔軟発想の必要条件として、第一に現実を曇りなく正しく認識することが挙げられる。柔軟発想のいわば出発点である現状認識において、もし誤りがあれば、その結果として生まれる発想もまた、誤ったものになることは避けられない。
 第二に、状況判断しながら、場合を分けて考えつく限りのシナリオを描き、アイデアを出すこと。
 第三に、その中から、予想される制約条件、障害、問題点を考慮に入れたうえで、現実的に最善と思われるものを選ぶこと。この場合、決して理想案や机上の空論ではなく、あくまでも現実的に最善の策を選ぶという点に、読者の注意を促しておく。
 福沢諭吉は、「文明論の概略」の中で、″両眼を開け″と、物事を一面的で頂く両面から見ることが大切だと述べている。視野を広げ、柔軟発想をするためには、たしかにこうした心構えと実践が欠かせないだろう。
 柔軟発想においては、ときと場合によっては、権謀術数や詭計もためらわず用いられることがある。なぜなら、それが″その場そのとき最善″であるからだ。
 たとえば、織田信長のような傲岸不遜な武将でさえ、ある時期までは、強敵武田信玄、上杉謙信に卑屈なほどおもねてみせた。信玄には一年に七度ずつ届け物をし、また信玄の子女と信長の子息、姪との婚姻を請うている。
 上杉謙信が将軍足利義昭の誘いに乗って、上洛の意向を示したときに信長は、狼狽を隠し、すぐ次のように返事している 。
 「委細うけたまわった。最近諸国を信長の働きによって手に入れたうえは、他に望みはもうない。安土にご出馬になるなら、信長は髪を剃って無刀でお迎えして、一礼を申し、そのうえ関東三十三カ国を進上いたす」(岡谷繁実原著『名将言行録」、北小路健、中沢恵子訳、教育社)。
 ぬけぬけとよくも言ったりである。むろん本心ではなく、懐柔策あるいは時間稼ぎにすぎなかっただろう。だが、こうしたしなやかさに信長の凄みを見るのである。一方、謙信は、
 「これを開いて「なんと信長は抜群の将であろう」と、ことのほか感歎した」(同書)
 というから、よほど単純である。結局彼は、上洛を果たさずに病没した。

■司馬遼太郎の贈りもの−谷沢永一の「人間通」

<本文から>
  しかし、司馬の小説は、ここに並べただけでも、膨大な量になる。それで、というわけではないが、最も手っ取り早く、司馬の歴史小説を知ろうと思う人に、薦めたい本がある。
 司馬自身が、自分の作品を打てば響くように読んでくれる人、と唯一例外的に名前を挙げた谷沢永一の『司馬遼太郎の贈りもの』(PHP研究所・全五巻)である。「兵の城』(新潮文庫)からはじまる司馬の代表作のことごとくを、司馬の作品の内容に沿って、司馬自身の言葉で要約し、作品の精髄を絞り出している。
 谷沢の見るところ、司馬小説のキイワードは「智」であり、「人間通」である。「智」とは理知である。司馬は、「情」を描かなかったわけではないが、智に働いて角を立てない人間通のありようを描いたのである。「智に働けば角が立つ、情に棹させば流される、意地を適せば窮屈だ」(『草枕』)、と漱石も匙を投げたこの住み難い世の中を、智・情・意それぞれに、時と所と人物を与えて、活写したのである。
 そして、また谷沢こそ『天間通』一冊で、に.・ん・げ・ん・とは・何か、の難問に棹さして、満天下の読者を獲得したのである。私の見るところ、この薄い地味な一冊は、谷沢六〇年の膨大な読書から得られたエキスであり、かつ、司馬の「智」の小説を読み解いて得られた箴言である。

■歴史小説は大人の教養講座である

<本文から>
  歴史小説の奥は深い。もちろん司馬だけではない。たちどころに二〇人の名前は、ずらずらと並ぶ。
 山本周五郎は、歴史小説とは、プロが書いた大人の小説であり、純文学とは素人が書いた大人にわれない人間のための小説である、と喝破した。加えて、歴史小説は、大衆(多数の人)に読まれる人説で、純文学は仲間内だけの小説である、と言った。
 太宰治に代表される純文学は、言ってみれば大人になれない、なりたくない、なりきれない、モラトリアムの文学だ。夏目漱石、志賀直哉、横光利一などがその端的な代表選手である。
 しかし、社会が、モラトリアム時代へと突入する過程の中で登場し、多くの読者を獲得した司馬の文学に代表される歴史・時代小説は、諷爽たる大人の文学だ。しかも、司馬の小説は、とびっきり幅も奥行きも広い、知と技術を開いてみせる高度教養文学である。
「人間」とは、正確には「大人」のことである。「君子」のことである。君子とは、読書人、聖人である。
 かつて、時代劇とは、わずかの例外を除いて、チャンバラ映画、子供だましの娯楽映画と見なされた。黒沢明の『七人の侍』をチャンバラ映画と言ったら、黒沢は直ちに否定しただろう。しかし、現在の歴史・時代小説の太い幹は、司馬、池波正太郎、藤沢周平、隆慶一郎を中核として、大人になるためにこそ読む一大教養小説になっているのである。
 現代に、なぜビジネスマンが、歴史小説を好んで読むのか。なぜ藤沢周平の小説を、溜息つきながらビジネスウーマンが密かに読むのか。大人の、しかも、教養の小説だからだ。
 歴史小説は、過去の歴史の顕彰物語ではない。現代人が、大人になるためにぜひにも手に取るべき本なのだ。

■人間と人間の掛け算をやりたまえ

<本文から>
  上級武士の息子で、松下村塾に通ってきたのは高杉晋作である。しかし鼻っ柱が強く、生意気だった。そのためにみんなに嫌われた。松陰は晋作を見ていて、
(この男の見識と情熱は大したものだ。何とかして、それを伸ばしたい)
と思った。ではどうするか。松陰は、
(異質な人間と組み合わせてやろう)
と考えた。そこで選んだのが久坂玄瑞である。久坂玄瑞は、当時、松陰門下では最も秀才だといわれていた。その才能と学問は他の門人を抜いていた。そこで松陰は、晋作と玄瑞を呼んでこう言った。
 「高杉くんには、たぐいまれな見識と情熱がある。久坂くんにはたぐいまれな才能と学問がある。この四つを掛け合わせれば、お互いに潜んでいる才能が発見できるに違いない。きみたちは、人間と人間の掛け算をやりたまえ」
「人間の掛け算?」
晋作は聞き返した。松陰はうなずく。玄瑞には松陰の言うことがよくわかった。松陰の言うのは、
「能力のある人間が、足し算をしても始まらない。掛け算をすれば、相乗効果を起こしてお互いに潜めている能力を発見することができる。その自己発掘によって、それを伸ばしていくことが社会のためになる」
社会のためになるだけでなく、松陰は「その相乗効果が、世の中を変えていく」という、変革の思想をもっていた。高杉晋作も久坂玄瑞も、松陰にそう言われて正確に師の言葉を理解した。

■「異能」の発掘に、得意とする技術の奨励

<本文から>
  松陰は、弟子門人だけを信じていたわけではない。あらゆる人間を信じた。その意味では、松陰はたぐいまれな、「人間好き」であった。そして、「人間を愛し続ける」という気持ちは死ぬまで続いた。
 松陰が弟子たち門人たちから、「異能」を発掘するのに、それぞれが得意とする技術を奨励した。だから松下村塾の門人の中からは、多彩な職業に就く者が多かった。
 「きみは医術に向いていると思う、医者になりたまえ」
とか、
 「きみは絵の才能がある。画家になりたまえ」
 と言って、それぞれの進む道を示した。これは当たった。若かったが、人間の能力を見抜き、「この人間はどういう育て方をすればいいか」という見抜き方においては、松陰は卓抜したカンをもっていた。
 しかしそれらの多彩な職業に就いても、松陰は、
 「忠を心掛けたまえ。功を目指してはいけない」
 と言っていた。忠というのは、単に殿様や上役に対して誠実であるということではない。松陰の言う忠は、「民衆に対して誠意を尽くしたまえ」ということである。
 「功を目指すな」というのは、「自分で自分のやったことをすぐ評価してもらおうと思うな。ましてや、今日やったことを今日誉めてもらおうとするな」ということである。つまり、「目前の問題に精一杯力を注ぎたまえ。そして評価は他人に任せたまえ」ということである。しかもその評価を任せる他人とは、松陰にとって、「民衆」であった。
 松陰は安政の大獄によって殺された。しかし門人たちは松陰の志を自分の志とした。久坂玄瑞が、松陰が殺されたあと、こう語っている。
 「松陰先生は亡くなってはいない。われわれ門人の一人ひとりの中に生きている。われわれは先生の志を志として、討幕のために努力しょう」
 しかし、松陰門下の中でも、高杉晋作、久坂玄瑞など若い純粋な魂は、次々と倒れていった。そして、木戸孝允たちがそれらをまとめて引き継ぎ、遂に明治維新の大業を為し遂げるのである。

■心のゆとりと教養がなくてはならない

<本文から>
  その吉田首相を尊敬し、互いに心を許していた財界総理・石坂泰三さんも、陽気なユーモリストだったという。石坂さんは、吉田茂から大蔵大臣就任要請を受けたが、堅く辞退した。
 「吉田さんに頼まれるなんて光栄だが、とてもおれには国会答弁などできない。本当のことを言うから三日ともつまい」
 と、当時、側近の者に語っている。ユーモアを言うには、心のゆとりと教義がなくてはならない。
 そして何より実力の裏付けがなくてはならない。
 ユーモアの心得について少し触れておこう。
@ユーモアを言おう、という気持ちが第一
 生まれつきの素質もさることながら、いつもユーモアを言おうと意識し、実践して身につけていくことが肝要である。「一日に最低一回はユーモアを口にしよう」という目標を立てて実践してみるのはいかがであろう。日頃から意識していないと、咄嗟にはなかなか出ないものだ。
A相手の意表を突くこと
 誰もが予想していないこと、常識的な受け答えからはずれたことの中にユーモアがある。しかも、そこになにがしかの真理が含まれていなければならない。
 たとえば、「赤信号、皆で渡れば怖くない」などがその例である。本来、渡ってはいけない赤信号を渡るという意外性のほかに、数を頼む集団心理をうまく言い当てているところにおかしさがある。
B心を広く、機転を利かして
 辛辣な批判や質問をされたときに、心を広くし、機転を利かしてユーモアで切り要領も身につけたい。この点、欧米人はわれわれ日本人に比べて古の長がある。
 そうした実例の宝庫は、雑誌『NEWSWEEK』の「PERSPECTTVES」欄である。いくつか紹介しておこう。
 「おっしゃるとおりです」
 〜イギリスのチャールズ皇太子が訪問先のダプリンでダイアナびいきの市民から「いい女を手放したな」と言われて〜
 「どんぴしゃり」
 〜三回目の離婚を経験したばかりのリー・アイァコツカ元クライスラー会長が「今後は独身を通す決心を固めたのでは」と問われて〜
 「夜のニュースを見ていると、私でさえ自分を支持できないことが多いからネ」
 〜クリントン米大統領が「国民に自分がどう見られていると思うか」と聞かれて〜
C自分自身を笑う心
 ユーモアの心には、自分自身を笑う自信と余裕がある。ムキになってはいけない。
 たとえば、一回目は成功し二回目は見事に失敗した経験を話すとき、「成功は失敗の母とよくいいますが…」とやってみる。
Dずっと引っ張っていって、ストンと落とす
 落語がいい例である。こう言えばこんな返事が返ってくるだろう、と相手が予期しているとおりのことを言ってもユーモアにはならない。予期に反した応答の中にユーモアがある。
 「少なくとも一つ変わったことがある。一つ年を取ったことだ」
 これは、九一回日の誕生日を迎えた中国の長老・ケ小平の健康状態について開かれて、中国外務省の陳報道局長が発した答えである。これをもし、「とくに変わったことはない」と言ったら、おもしろくも何ともなかろう。
 元・米駐日大使のモンデールさんも、ユーモアに秀でた人だった。あるとき、駐日大使としての特権は何かと開かれて、こう答えている。
 「ワシントンが働いているとき、私はベッドの中。もっといいのは、私が働いているとき、ワシントンはベッドの中」

■おだやかな言い方を身につけるには

<本文から>
  人の上に立って、人々に影響力を行使し、より大きな成果をあげるためには、できるだけおだやかな言い方を身につける必要がある。そのためのいくつかのポイントについて考えてみよう。
@口調をおだやかなものにする
 語の内容もさることながら、まず言葉の調子をおだやかなものにする。相手を攻めるような、詰問するような口調は避けたい。
A相手の人権を非難するような言葉を慎む
 「お前はバカだ」「クズだ」「もう頼りにしない」などといった言葉で相手を傷つけない。しかし、現実には、自分の地位と力を頼んで、部下に対してこうした言葉を平気で吐いている人が案外多い。部下はそうした屈辱に必死に堪えているが、それは生活がかかっているからだ。
B論理的に話す
 おだやかに話すとは、言うべきことを言わないということではない。言うべきことはあくまで言うが、感情的にならずに、事実に即して論理的に話すということである。
Cおだやかな表情で話す
 言葉はおだやかであっても、睨みつけるような目付きで話したのでは、全体としての印象は験しいものになる。相手の立場を尊重する気持ちや相手のいうことを容認する心の広さは、目の表情にも自然に現われる。
D忍耐する
 リーダーたるもの、怒るときには怒り、叱るときには叱らなくてはならない。しかし、それはよほどのときであって、つまらないことにいちいち腹を立てて怒っていたら、器量を疑われる。そのことを誰も口に出しては言わないが、心の中で軽蔑する。辛抱強く堪えることを心がけるべきである。
 『聖書』と『論語』から"話し方"に関する言葉を引いておこう。
 「温和な言葉は激しい怒りを静め、激しい言葉は怒りを引き起こす」(聖書)
 「激怒する人は口論をあおり立て、怒ることに遅い者は言い争いを静める」(聖書)
 「先生が言われた。われとわが身に深く責めて、人を責めるのをゆるくしていけば、怨みごと(怨んだり怨まれたり)から離れるものだ」(論語)
E黙っているのに時があり、話すのに時がある
 聖書は、「黙っているのに時があり、話すのに時がある」と述べている(「伝道の書」3章7節)。
 まだ話す時でないのに話して失敗したり、言うべき時に言わないで後から後悔するということは、よくあることだ。
 『論語』にも、「まだ言うべきでないのに言うのはがさつといい、言うべきなのに言わないのは隠すという」とある。言わんとすることは聖書と同じである。
 面談時に、あるいは接待の場で、のべつ幕なしにしゃべりまくれば、粗野で教養のない人と見なされる。かといって、ほとんどこちらからはしゃべらないで、終始ムッツリ黙り込んでいたのでは、リーダーとしての人望は得られない。仕事のやり手かもしれないが人物にあらず、というわけである。戦国時代では、武田信玄がこのタイプであった。

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