童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          戦国武将 引き際の継承力

■領地替えで改革の推進力になった父・佐竹義重

<本文から>
●その基本には、天下人の傘下に入り従属する。このことを別に不名誉とは思わない。徳川日本株式会社の地方支社の意識を持つ。
●新会社の組織と人事を毒する。特に、今後も起こるであろう不測の事能に備え不動性を捨て、流動性を持たせる。
●そのために、経営上層部に新しい血を導入する。人事も流動性を重んじ、従来の家格や石高重視を捨てて、流動者(浪人)を積極的に登用する。
●常陸国にいる家臣団は石高縮小にともない、秋田へ同行する者は大幅に減ずる。
●常陸に残す者には帰農をすすめる。
●新拠点としての城を久保田に築き、城郭そのものは平和志向とし天守閣はつくらない。
●富国をめざし、産業振興に力を入れる。したがって城↑町の都市計画については商工業者を優遇する。
 などであった。この案を秋田に着くと同時に、義重は積極的に実行した。従ってきた家老たちが眉をひそめ、
「ご隠居、あまりにも極端すぎませんか」
 と文句をいった。しかし義重は首を横に振った。
「おれの過ちは、この程度ではすまない。義宣が苦労しないような土台づくりをしたいのだ。協力しろ」
 と頼んだ。老臣たちも渋々従った。やがてある程度の準備ができると、義重は伏見城にいた義宣を呼び寄せた。義宣は秋田へ直行してきた。そして義重の指示によって、道すがら宇都宮に寄って、浪人渋江政光を登用した。新任地での家老に抜擢するつもりだ。同時に、水戸に使者を派遣して、梅津意思・政景兄弟を呼び寄せた。ふたりは義重の茶坊主だったが、義重は、
 「これからの世の中は、経営感覚にすぐれ、書をよくし、ソロバン勘定も達者な者でなければ国は治められない」
 と新しい武士に必要な要件を経営能力として考えていたから、これらの人物を推薦したのである。
 常陸国では大きな動揺が起こった。それは、一家の中でも父と子、あるいは兄と弟というように真っ二つに分断され、秋田へ呼び寄せられる者と、二常陸国にそのまま残される者とに分かれたからだ。当然、
 「こんな非情なことをなさる殿(義宣)が恨めしい」
  と恨む者もいた。そのとき義重はそういう連中に対し、
 「この措置を行ったのはおれだ。義宣を恨まずにおれを恨め」
 とみずから憎まれ役を買って出た。
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■京都所司代・板倉重宗のエピソード「本当の母親はどっちか

<本文から>
 いつも菅笠をかぶった気持ちで下を凝視し、絶対に上を見ない。そして、流れる水の態度を取り続ける」
 という基本姿勢が、多くの人々から支持を得たのである。重宗の裁判で、よく知られている話に、
 「本当の母親はどっちか」
 というのがある。これはあるとき、一人の子供の親権を二人の女性が争った事件だ。
 甲と乙の女性はともに、連れて来た子供を示して、
 「私の生んだ子でございます」
 と主張した。こういう問題はただ話を聞いていても埒があかない。重宗はこう言った。
 「わかった。こうしよう。おまえたち二人が、両側から子供の手を一本ずつ握って引け。自分のもとに引き寄せたほうを母と認めよう」
 子供の綱引きをしろというのだ。しかし親権を得たい二人の女性は、ともに子供の腕を引き合った。やがて子供は痛さに泣き出した。すると乙がバッと手を離した。子供はそのまま甲の胸に引き寄せられた。甲は勝ち誇って、
 「これで、私の子でございますね」
と重宗を見上げた。ところが重宗は首を横に振った。こう言った。
 「違う。その子は乙の子だ」
 「なぜでございますか?」
噛みつくような口調になる甲に、重宗はこう告げた。
 「本当の生みの母なら、子供が痛いと悲鳴をあげているのを、さらに手を引くようなことはせぬ。おまえはニセの母親だ」
 この話を聞いた京都の町衆は、
 「重宗様は本当に名判官だ」
 と話し合った。
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■徳川家光の報復を享受した老職・青山忠俊

<本文から>
 家光がここまで育ったのは、もちろん青山忠俊の功績が大きい。しかし忠俊はそうは思わない。というのは、家光自身が最近忠俊に対し、非常に悪感情をつのらせていることを知っていたからだ。忠俊にすれば、あいかわらず死んだ家康から命ぜられた、
 「竹千代に勇武の道を叩きこめ」
 ということを至上命令として励んでいる。家光が将軍になったからといって手加減はしない。あいかわらず厳しい諌言を行う。そのたびに家光は嫌な顔をする。まわりの者がハラハラして、
 「青山殿、もはや家光公は天下人だ。少しひかえられてはいかが」
 と言うが聞かない。
 「これが俺の役割なのだ」
 と言って、自己の信条を絶対に曲げなかった。本当なら家光も、自分の私感情を抑えて長年世話になった息俊を、例えば正式に幕府の老中に任命するとかの通があったはずだ。しかし家光はそうはしなかった。逆に、私感情による報復行為に出た。家光は将軍になってから二か月後、突然、青山忠俊に次のような命令を下した。
 「本丸老職を解任する。領地のうち二万五〇〇〇石を没収する」
 江戸城内は大騒ぎになった。中には良識派もいる。その連中は、
 「家光公は恩を知らない。あのいくじなしの竹千代様が、今日のような立派な天下人になれたのは、青山息俊殿のお蔭ではないのか」
 そうささやき合った。しかし忠俊は二言も弁明はしなかった。固く口を結んだまま、黙って家光の命令に従った。
 家光の報復はそれだけではすまなかった。二年後の寛永二年(一六二五) には、
 「領地はすべて没収する。遠江(静岡県)小林の地において、蟄居を命ずる」
 と言われた。連座制がとられて、長男の宗俊も同じように蟄居を命ぜられた。
 一説によれば、この処分は、家光の父秀忠の指示によるものだといわれる。秀忠は、家光が将軍になった後もあいかわらず厳しい諌言をやめない忠俊に腹を立てていた。秀忠の考えは、
 「昔ならいざ知らず、天下人に対して大勢の人間の前で性懲りもなく諌言を行うなどというのは、不忠の臣である」
 と断定した。もっと勘繰れば、
「青山忠俊は、あたかも自分が家光を将軍にしたという意識があるのだろう。依然として諌言をやめないのは、それを天下にひけらかしているのだ」
 と感じた。青山息俊にそんな気は全くない。しかし彼は、
「俺が進んでこういう目にあうことが家光様の天下人としての地位を安定させる」
 と思っていた。だから、いってみれば、
「自分からク″見せしめ″の役を買って出る」
 という心持ちだったのである。
 蟄居の地にあって、二言も弁明もせず沈黙を守り続ける忠俊の姿に、多くの武士が感動した。家光もさすがに考えた。そこでまず手はじめに、同じ蟄居を命じた忠俊の息子宗俊を呼び出し、旗本に登用した。そして、それを一種の謝罪の意味として息俊に使いを出した。
「一時の怒りに任せて蟄居を命じすまないと思っている。蟄居を解くので、もう一度、私の側にきて仕えてはくれぬか」
 と申し出た。しかし、忠俊は使者にこう答えた。
 「ありがたいお言葉ではございますが、お受けするわけには参りません。なぜなら、蟄居を許されて私が江戸城にもう一度まかり出れば、世間では上様(家光)が、過ちを犯されたと噂をいたします。絶対にそんなことはあってはなりません。上様は、私が死ぬまで蟄居の刑を解いてはなりませぬ。さようお伝えください」
 使者からこのことを聞いた家光は初めて、
 「浅はかであった」
 と深く反省した。忠俊はそのまま蟄居を続け、寛永二十年(一六四三)に相模国(神奈川県)今泉村で死んだという。彼の信念は、
 「沈黙こそ、武士道の真髄だ」
 というものであった。
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■細川幽斎による関ケ原・東軍勝利のための命懸けの作戦

<本文から>
 大勝した徳川家康は、味方をした大名を次々と呼びこんで札を言った。まっ先に呼ばれたのが細川幽斎だった。
 家康は、
「細川殿、誠にかたじけない。この度の戦勝は、貴殿のおかげで得られたようなものだ」
 と告げた。
 幽斎は眉を寄せ、
「それはどういうことでございましょうか」
 と聞き返した。
 家康は、幽斎の手を取り、こう言った。
「貴殿が二日前まで西軍の一万五〇〇〇もの大軍を引きつけ、時間稼ぎをしてくださったおかげで、その兵力が関ケ原にこずにすんだ。そのおかげで、わしは勝利を得ることができたのだ。この度の合戦の最高の殊勲者は、幽斎殿だ」
 幽斎は心の中で満足した。それは自分の作戦がピタリと当たったからだ。
 幽斎も、田辺城でわずかな兵をひきい最後まで抵抗したのは、家康が言ったように、
 「時間稼ぎをして、徳川軍を有利な立場に立たせたい」
 と考えたからである。その作我が当たり、同時にゲリラ活動によって包囲軍を散々に悩ました。家康はそのことをちゃんと知っていた。家康は、
 「お礼として、豊前(福岡県と大分県にまたがる一部)で三十九万石の領地をさしあげたいのだが、お受けくださるか」
 と聞いた。
 幽斎は静かに首を横に振った。微笑んでこう応じた。
 「いえ、私は頂戴できません」
 「なぜだ」
 「疲れました。年でございます。徳川殿の勝利を機会に引退し、それこそ静かに歌の暮らしを続けとうございます」
 そう言った。
 家康はじっと幽斎の顔をみつめた。眼の底に、
 (それは本心か?)
と問いただす色があった。家康も幽斎を、
 「世渡りの名人」
と思っていた。
 しかし、今回の世渡りは小手先のものではない。幽斎にすれば、五〇〇人の兵で一万五〇〇〇人の攻撃に耐えたということは、文字通り命懸けの行動だった。幽斎はそれをなしとげた。したがって、家康に対し恩を売り、たくさんの褒賞を望んでも当然だ。
 ところが、幽斎は辞退した。家康に幽斎の気持ちがわかった。
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■敗軍・直江兼続の家康への智謀

<本文から>
 したがって、いま関ケ原の合戦で敗れた敗軍の将である直江兼続が、徳川家康に向かって、
 「米沢三〇万石を別な扱いにしていただきたい」
と申し出たことは、家康をはじめ、脇にいる徳川系の大名たちの眉をひそめさせた。
  さっと険しい空気が大広間にみなぎつた。
  が、兼続はこうつづけた。
 「そうは申しましても、このたび主人を誤らせた責任のすべてはこの直江兼続にございます。よって太閤殿下から頂戴した米沢三〇万石につきましては、そっくり返上させていただきます」
 「………」
  家康はなにも言わない。黙って兼続を見据えていた。
  腹の中では、
 (この男は、いったいなにを言い出す気なのだ?)
  と警戒心を怠らない。知謀の人と言われる兼続が、黙って三〇万石を返上するはずがない。必ずなにか魂胆があると、家康は警戒した。案の定だった。
  兼続はこう言った。
 「しかし、私がいったん返上いたした米沢三〇万石は、改めて主人上杉景勝におあたえいただきとうございます」
  これを聞いて、大名たちはどよめいた。
  思わず顔を見合わせ眼と眼で、
 (直江のやつは、とんでもないことを言い出したものだ)
 と呆れた。家康は何も言わない。黙って兼続の顔を凝視しつづけていた。家康の脇には、謀臣の本多正信がいる。
  このごろの正信に対しては、大名たちは、
 「徳川殿にものを頼むときは、本多正信の顔色をうかがうほうが判断しやすい」
  と語り合っていた。
  それほど正信は家康の信頼を得ている。
 家康は無言のまま兼続を凝視し、一役下にいる本多正信がどういう反応をするか間合いをおいた。
  しかし、このときの本多正信も、また家康と同じように直江兼続の顔をただ凝視するだけで、容易に返事を出さなかった。すると、直江兼続は、その本多正信を見てこんなことを言い出した。
 「本多様、この際、ワルノリをするようでございますが、ご子息の政重殿をこの直江兼続の養子にさせていただきたく、あわせてお願いつかまつる」
 大名たちはまたどよめいた。
(直江のやつは、どこまで図に乗る横着者なのだ)
 と感じたからである。本多正信の眉がピクリと動いた。普段どんなことにも動揺しない彼が、思わず心にさざ波を立てたのだ。それが周囲に伝わった。
 訝った家康が正信に聞いた。
「本多、今の直江の申し状はなんのことだ?」
 本多正信は悪びれずに答えた。
 眼はじっと兼続に据えられたままだ。
「いま直江殿が口にされた政重は、この正信の不肖の息子でございます。このたびの関ケ原の合戦におきましても、大谷吉継の手に属し、殿に楯突いた不届き看でございます。その不届き者を、直江殿はすすんで養子にしてくださるという申し出でございます」
「なるほど……」
 家康は理解した。そして、思わずニヤリと笑った。
「直江」
「はい」
「さすが、故太閤殿下が目をかけられただけの器量を持っておるな。いや、器量というよりも知謀というべきか」
 家康は兼続の魂胆をすべて見抜いた。
 (なるほど、そういうことであったのか)
 と感じた。
 しかし、本多正信にすれば、家康に対し引け目があった。それは、無二の忠臣である自分の息子が、父の主人である家康に楯突いたからだ。このときまで正信も政重の扱いにはホトホト弱り果てていた。それを知って兼続は、
 「徳川殿に背いた政重殿を、自分の養子にしたい」
 と申し出たのである。あきらかにその真には、
 「自分が返上する米沢三〇万石を、主人の上杉景勝に改めてあたえていただきたい」
 ということの呼び水になっている。撒き餌だ。
 駆け引きなのだが、兼続にすれば捨て身である。家康をはじめ誰にとっても、
 (直江兼続のやつは、この駆け引きに生命を賭けている)
 ということはありありとわかった。
 「正信、どうすべきか」
 家康は直江兼続から視線をそらすことなく脇の本多正倍に聞いた。正信は答えた。
 「直江殿の申し状、すべてことわり(道理)かと存じます」
 「わかった」
 家康は大きくうなずいた。直江のほうに向き直るとこう言った。
「直江、よくわかった。おまえの申し出を承知してやろう」
▲UP

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