童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          変革期のリーダーシップ

■松平定信は飢饉で手のつかられない状況での改革

<本文から>
 久松系松平家が白河藩主になる前の藩主は、結城秀康系の松平家だった。結城秀康は家康の次男で優秀な人物だったが、豊臣秀吉の養子になっていたので将軍になれなかった。この系列が松平として白河藩主になったが、年貢の取り方が非常に厳しかった。というのは、結城系松平家は、それまでの支配地でも放漫経営を続け莫大な借金を抱えていた。この松平家はずいぶんあちこちと移動したが、そのたびに借金が雪だるまのようにふくれていった。前任地から、
「早く借金と返してほしい」
と債権者が押しかけてくるので、結局は新しい任地での年貢を重くする以外方法がない。
 これに対して農民は一揆を起こして抵抗した。だから定信が白河藩主になったときは、年の悪政の積み重ねによって、農民の気持ちは藩主を恨み、また、
 「仕事をしてもどうせ年貢でむしり取られてしまう。それなら遊んでいたほうがいい」
 ということで気持ちが荒れ、遊興に身をやつしていた。一言でいえば、
 「手のつけられない状況」
 が展開していたのである。そこへ天明の大飢饉という災害が襲ってきたから、これはもう完全に絶望的な状況であった。浅間山が噴火した。その灰は空を伝わって関東中心に山灰し、田畑の作物を全滅させた。利根川が洪水になった。付近の田畑は水没し、これまた農作物が全滅した。
 加えて、白河藩内の状況はさらにひどかった。去年は豊作だった。ところが今年凶作なったので、農民たちはため込んでいた米などを商人のいうがままに売り払ってしまった。そこへ飢饉が襲ってきた。ためていた米を目先の利益にかられて売り払ってしまったから、手持ちがない。米を売り払ったことは自分で自分の首を絞めたようなものでる。

■松平定信の改革、優先順位を示し目標が明確にする

<本文から>
 かれが示した方法というのは、次のようなものであった。
 ●白河藩の飛び地が超後にある。越後は幸いに凶作を免れている。そこで越後で急きょ一万俵の米を調達させ、これを白河に送らせる。
 ●白河でいま不足しているのは米だけではない。副食物、あるいは生活日用品もかなり欠乏している。これを至急江戸で調達させる。
 ●必要な資金は、定信が責任をもって借金する。
 ●そのため、越後からの米の搬入路、ならびに江戸からの諸物資の搬入路を確保すること。この際は、幕府に頼んで特別な便宜をはかってもらうように努めること。
 重役たちはまた顔を見合わせた。正直いってびっくりしたのだ。
(新しく藩主になったばかりの若造が、こんな方法を思いついたのか)
 という驚きであった。
<事業のプライオリティー(優先順位)を示す>
「異論がなければすぐ実行しょう」
 定信は学問が深いと聞いていたので、重役たちにすれば、
「口先人間で、実行力がともなわないのではないか」
 という先入観があった。ところが定信は行動者である。かれは、
「言行一致」
 をモットーとしていた。定信は自分の考えを告げたあと、さらに、
「この際、わたしをはじめ全藩士が思い切った節約を実行してもらいたい」
 そう告げた。定信自身は、
 ●絹の着物を木綿に替える。
 ●食事は粗末なものとする。
 ●当分、生活費は凍結する。
 ●城内の破損箇所の修理なども当分見合わせる。
 ●急がない行事はすべて停止する。
 ●物資輸送に必要な道路の補修を急ぐ。
  いまでいえば、
 「事業のプライオリティー(優先順位)」
 を決めたということである。しかし道路を補修するにしても、その費用が捻出できない。
 「その費用を捻出するためには、節約以外ない」
 という考えである。現在日本国内を這いまわっている"リストラ"という四文字は、いたずらに減量経営や締めつけ作戦がその目的だと思っている。しかしこれはまちがいだ。リストラというのは手段であって目的ではない。リストラは、
 「何かをおこなうために倹約をする」
 ということであって、倹約という方法をいう。倹約の前提には、
 「こういうことをしなければならない」
 という目的があるはずだ。定信はその目的を、
 「この飢饉状況の中にあっても、白河藩ではたった一人の餓死者も出さない」
 とした。そしてそのためには、守り一方、受け一方ではなく、攻めの積極行動も起こさなければだめだと告げたのである。
<目標が明確になると全体がやる気に>
 藩主就任早々に遭遇した大飢饉に対して、松平定信は、
 「この飢饉状況の中にあっても、白河藩ではたった一人の餓死者も出さない」
 と宣言した。
 重役たちは感動した。
 「新しい殿様のお考えを実現するのが、われわれの役目だ。身を粉にして努力しよう」
 と誓い合った。上層部がこういう姿勢を示せば、その熱気とやる気はどんどん下にも伝わっていく。下の役人たちも奮い立った。
 「今度の新しい殿様はやる気満々だぞ」
 「そういう人々をわれわれは待望していたのだ」
 どこの大名家も同じだったが、節約の一番手っ取り早い方法は、藩の武士たちの給与を二分の一の支給にしたり、昇給を止めてしまうことだ。白河藩もその例にもれなかった。
しかし、
 「白河藩では一人の餓死者も出すな」
 という目的が合言葉となった。これが白河城に勤める役人たちのやる気を高めた。いってみれば、
 「藩政の目標」
 が、しっかりと確立されたのである。
 飛び地のある越後にも、江戸にも使いが飛んだ。越後側でも感動した。
 「飢えている白河にすぐ一万俵の米を送ろう」
 という、"米送ろう運動"が開始された。次々と白河に米が運び込まれた。
 江戸の役人たちも四方八方駆けずりまわった。資金を調達し、必要な副食物や生活日用品を買い入れた。松平定信は老中に願い出、
 「白河への物資搬入に、特段のご配慮を願いたい」
 と申し入れた。白河藩内の窮状は幕府首脳部もよく知っていた。とくに定信が藩主になってからの定信をはじめ家臣団の一体となった努力ぶりは、近頃めずらしい美談として、江戸城にも伝わっていた。そこで老中たちは、
 「松平家が白河へ運ぶ物資の輸送については、各宿場とも便宜をはかれ」
 という指示を出した。これに感動した関東代官の伊奈半左衛門は、自分の管轄下の役人に対し、
 「白河への救援物資の輸送を最優先にせよ」
 という指令を発した。
 松平定信の民思いの気持ち、すなわち仁心はたちまち諸地域に流れた。比較的災害に見舞われなかった地域では、このことをきいた住民たちが、
 「白河への救援物資を、われわれが奉仕して運ぼう」
 といい出した。このボランティア精神があちこちに伝わり、
 「おれたちも手伝おう」
 という奇特な者が次々と飛び出てきた。
 こういうボランティア連中によって、白河への救援物資は次から次へと街道を運ばれた。定信はこのことをきいてまぶたを熱くした。重役に、
 「奉仕者たちの無料奉仕は忍びない。物資を運んでくれた人々には、必ず礼の賃金を支払うように」
 と命じ広これがまた噂になった。

■文書改革で"事大主義"を改める

<本文から>
 定信のおこなった、
 「江戸城内における形式主義の廃止」
 には、次のようなものがあった。
 ●書類を簡素化したこと。
 ●登城時間を一定したこと。
 ●服装を一定したこと。
 ●学問吟味をおこなったこと。
 などであった。
 現在と違って、コピーの機械などない。ゼロックスもファックスもないから、結局は全部手書きになる。教育がそれほど行き届いていない時代だから、庶民の中には字の書けない者もいる。そこで、いわゆる、
 「代書屋」
 が、代わって字を書くことになる。これは、現在でもその名残りが存在している。行政書士といわれる職業の人たちがそれだ。法律知識を駆使しながら、
 「こういう申請書は、こういう書式によらなければならない」
 ということと、
 「内容は、こういうものを盛りこまなければならない」
 という基礎知識がぁるから、スラスラと書く。一般人にはそんな知識もないし、また形式も知らないから自分勝手な文書を役所に出すと、
 「これはだめです」
 と突き返される。江戸時代も同じだった。いや、もっとひどかった。機械が発達していないから、全部手でおこなわなければならない。
 これは、市民から役所に出される書顆だけではない。役所内部でも同じことだった。定信は、
 「書類は、極力一通で間に合うようにせよ」
 と命じた。同時に、
 「案件別に、それぞれのマニュアルをつくり、パターンを決めろ」
 と命じた。これによって、いわゆる文書改革がおこなわれた。喜ぶ者が多かった。しかし中には、
 「文書を簡略化するのは、幕府の権威を失墜させるようなものだ」
 と、相変わらずの形式主義にこだわる者もいた。このへんはつまり改革に伴う、
 「役人の意識の変革」
 につながってゆく。古い考え方をする人は、文書ひとつ変えられるにしても、
 「それはおれの生き方を変えろということにつながる」
 という受け止め方をする。"事大主義"だ。改革というのは、つねに人間が温存しているこの「事大主義」との闘いだ。

■日本最初の地図作製

<本文から>
 祖父のこういう活発な科学導入に思いをいたした孫の定信は、
 「おじいさまのやり方をまねしよう」
 と思い立った。これは定信に勇気を与えた。ということは、国防問題に関心をもち、エゾに屯田兵を派遣することなどは、たしかに田酒意次の政策の継承だが、
 「あらためて外国の科学知識を導入して、日本の国力を増進しょう」
 ということは、身近な祖父吉宗のまねをすることになるからだ。そうすれば、
 「松平定信は、あれほど憎んだ田沼意次の政策を継承している」
 といわれなくてすむ。
 「名君吉宗公のお孫さんであるだけに、さすがにおじいさんのやったことをそのまま引き継いでいが」
 といわれるようになるだろう。これは定信にとって救いだった。田沼政治の継承には、どこか汚臭がつきまとって、何か自分自身が汚れた気がする。それをふりはらってくれるのは、やはり祖父吉宗の明快な政策だ。
「よし、これでいこう」
 と考えた。定信がまずやろうとしたことは、
 ●暦の改善
 ●日本の地図をつくること
 である。ともに、
「新しい天文学をはじめとする科学知識や技術」
 が必要になる。

■松平信綱の江戸防災計画

<本文から>
 ●今後江戸城が二度と焼けないように、城内にあった御三家をはじめ全大名の屋敷を域外に移す。そして江戸城内に空地をたくさんつくる。
 ●次は、火災防止上、火の移りやすい神社や寺を江戸の郊外に移す。移す先は浅草、駒込、三田、芝などとし、それぞれの神社仏閣に土地を割り当てる。
 ●市中に火よけ地をつくる。これに"広小路"という名を与える。
 ●市中の適当なところに、堤を築く。堤には松の木を植える。これを火よけ用とする。
 ●大川(隅田川)に橋のかかっている地帯は、住み家を立ちのかせて空地とする。
 ●市民が希望すれば、武蔵野方面に移住させる。そして新田を開発させる。
 ●赤坂の溜池は埋め立てる。また京橋の地先の海面を埋め立てる。新しい埋立地に市民の住宅街をつくる。
 ●市民の住宅街を隅田川の東の本所や深川方面にも広げる。市民だけでなく、希望する者は武士や、神社、寺なども移築させる。
 ●新しい市街地との連絡を密にするために、隅田川に橋をかける。
 ●旗本たちに、幕府直属の消火隊を組織させる。
  などであった。
 この時の松平信綱の計画は、現在の東京都にも多分にその面影を残しているところがある。たとえば、三田、芝方面に非常に寺が多いのは、この時の計画によったものだ。また、上野広小路などのように、"広小路"という名が残っているのは、この時につくられた火よけ地の名を残したものである。
 また、武蔵野方面には移築した寺の名がそのまま残って吉祥寺などという地名になっている。さらに、京橋地先の海面を埋め立てた土地が現在の築地だ。
 隅田川にかけられた橋は、はじめは単に「大橋」と呼んでいたが、やがては、
「武蔵野国と下総国のふたつの国を結ぶので、両国橋と呼ぼう」
 ということになった。
 この時設けられた直参旗本の武士消防隊は、その後、八代将軍徳川吉宗の時に、
「火災予防は何も武士だけの責任ではない。市民にもその責任を果たすようにさせよ」
 という考えによって、これを町奉行の大岡越前守忠相に命じ、市民消防隊を組織させた。これが現在も残っている"いろは四十八組"と呼ばれる江戸消防である。江戸消防は、今も大岡忠相の命日には、茅ヶ崎市にある菩提寺にお参りをし、墓の前で木遣を歌う。

■松平信綱の江戸防災計画2、天守閣を復興しない決断

<本文から>
 「焼け落ちた江戸城本丸の天守閣は復興しない。もはや平和な世の中なのだから、戦争を前提にした天守閣など必要ない。財政的にも負担になる」
 といったことである。これは保科正之の大きな見識であった。信綱もうなずいた。
 「同感です。何よりもご当代様(家光のこと)は、日本をあくまで平和に保とうとお考えですから、さぞお喜びになるでしょう」
 といった。こうして江戸城の天守閣は二度と再建されなかった。保科正之の意見により、信綱が共鳴して実行しなかったためである。そしてこのことにも家光の政治理念が示されていた。というのは、
 「日本国内では二度と内戦を起こさない。そのためには戦争を象徴するような建物は廃止する」
 ということである。しかしそのことは同時に、
 「日本を高密度管理社会化していく」
 ということであった。つまり家光は、
 「戦争なんて知らないよ」
 という世代である。信綱も正之も戦争なんて知らない。しかしまだ徳川幕府の中には、
 「あの戦争では自分はこういう手柄を立てた」
 などということを自慢げに話して、若い者からヒンシユクを買っている武士がたくさんいる。戦争経験派と、未経験派とが入り混じっている。経験派はいまだに何か事があると酒を飲んで、"きさまとおれとは同期の桜"などと、軍歌を歌っている。徳川家光はそういう次元をとうに超越していた。松平信綱も保科正之も、そういう家光の心を知っていた。
 そこで、
 「そういう過去の遺物を一挿するためにも、江戸の町を新しい都市につくり上げよう」
 と考えたのである。そして松平信綱はまた独自に、
 「江戸の機能を純化しょう。純化するということは、江戸を政治都市にすることだ」
 と考えていた。この家光の理念と、正之の助言と、信綱の徳川至上主義の考え方が三位一体となって、復興計画が立てられた。
 松平信綱が中心になって立てた計画は次のようなものだった。
 一何よりも将軍家の権威を確立する。そのためには今後江戸城で火災が起こらないように江戸城を守ることを第一とする。
 ●その一環として、江戸城内にあった大名の屋敷を全部域外に出す。これは尾張徳川家紀伊徳川冬水戸徳川家などのいわゆる"御三家"も例外ではない。
 ●これによって江戸城内に生じた空地には、木を植えたり花を植えたりする。建物は建てない。つまり火よけ地を多く設ける。
 ●江戸市中の引火しやすい神社や寺は江戸の周辺地区に移す。三宅坂にある山王神社を赤坂に移すとともに、神田や日本橋方面の市街地にある寺社は、浅草、駒込、三田、芝などの周辺地に移築させる。
 現在でも、
 「いったいどこまでを江戸というのだろうか?」
 という論議が起こることがある。わたしは単純に、
 「山手線の環の中だ」
 と答える。というのは、江戸時代に"朱引き"という方法があって、赤い墨でよく江戸の地図に円が描かれた。そしてその円の中を、
 「朱引き内」
 といって、それが江戸だといわれた。だいたい常識化した朱引き内は、いまの山手線の枠の中に当たる。たしかに戦後新しく東京の行政区画が定められ、二十三の特別区ができたが、戦前は三十五あった。しかしはじめから三十五あったわけではなく、昭和七年までは十五だった。十五の区の外はすべて「郡部」と呼ばれていた。荏原郡とか豊島郡とかいうのがあって、昭和七年以後ふえた二十の区はすべてナニナニ郡、ナニナニ町とかナニナニ村と呼ばれていた。これらの町村が合併して、新しく二十の区をつくったのである。
 だから、いまの山手線の環の中がほんとうの江戸なのである。他の地域は"江戸の田舎"だといっていい。

■徳川光園は江戸でも水戸でもインフラ"を積極的に実行

<本文から>
工事請負人に「技術者」芭蕉が・・・・・・
 徳川光園は江戸でも水戸でも、"インフラ"を、他の大名よりも積極的に実行した。
 「江戸の名物は火事と喧嘩だ」。
 といわれる。木と紙でできた町だから、火が出るとすぐ火災が広まる。水戸の藩邸も何度か焼けた。この頃の消防組織としては、武士による消火隊しかなかった。幕府は大名家に、
 「大名火消」
 設置を命じた。そして自らは、江戸城に勤める旗本によって、
 「定火消」
 を設けた。一言でいえば、江戸時代の初期にはまだ市民の消防組織はない。町家が焼けてもすべて武士の大名火消か定火消が出動して、火を消した。消すといってもこの頃は、水をかけて火を消すというよりも、燃えている家を叩き壊して全部破壊してしまう消火方法だった。
 「市民の家が燃えた時も武士の消火隊が常に動員されるのは不公平だ。市民にも消火の義務を負わせろ」
 ということをいい出したのは第八代将軍徳川吉宗だ。吉宗は展開した享保の改革の中に、この、
 「市民消防組織の設置」
 を、一本の柱として組み込んだ。実行したのは、江戸町奉行大岡越前守忠相である。
 「火災を予測することはできない。不可能だ。しかし万一火災が起こった時に、自ら防火能力をもつことは必要だ」
 そこで光園は豊富に水が流れている御茶の水(神田用水)に目をつけた。
 「あの水を藩邸に引き込もう」
 と考えた。そこで幕府に願い出て、
 「いざという時の防火用水として、神田用水の分流をお許し願いたい」
 と申し出た。幕府は、協議の結果、
 「工事費を水戸家で負担するのならば、許可する」
 といった。
 徳川光園は、神田上水から自分の上屋敷に引き込む分流の工事を、専門家に頼んだ。工事に携わった技術者の中に、
 「松尾芭蕉」
 という人物がいる。もちろん有名な俳聖のことだ。
 現在も江戸川公園の所にそういう標識が建てられている。それによると、松尾芭蕉はある時期この辺りに住んでいた。そしてなぜか水道工事の技術をもち、徳川光園が企てた御茶の水の分流工事に参加している」
 という意味のことが書かれている。

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