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<本文から> 久松系松平家が白河藩主になる前の藩主は、結城秀康系の松平家だった。結城秀康は家康の次男で優秀な人物だったが、豊臣秀吉の養子になっていたので将軍になれなかった。この系列が松平として白河藩主になったが、年貢の取り方が非常に厳しかった。というのは、結城系松平家は、それまでの支配地でも放漫経営を続け莫大な借金を抱えていた。この松平家はずいぶんあちこちと移動したが、そのたびに借金が雪だるまのようにふくれていった。前任地から、
「早く借金と返してほしい」
と債権者が押しかけてくるので、結局は新しい任地での年貢を重くする以外方法がない。
これに対して農民は一揆を起こして抵抗した。だから定信が白河藩主になったときは、年の悪政の積み重ねによって、農民の気持ちは藩主を恨み、また、
「仕事をしてもどうせ年貢でむしり取られてしまう。それなら遊んでいたほうがいい」
ということで気持ちが荒れ、遊興に身をやつしていた。一言でいえば、
「手のつけられない状況」
が展開していたのである。そこへ天明の大飢饉という災害が襲ってきたから、これはもう完全に絶望的な状況であった。浅間山が噴火した。その灰は空を伝わって関東中心に山灰し、田畑の作物を全滅させた。利根川が洪水になった。付近の田畑は水没し、これまた農作物が全滅した。
加えて、白河藩内の状況はさらにひどかった。去年は豊作だった。ところが今年凶作なったので、農民たちはため込んでいた米などを商人のいうがままに売り払ってしまった。そこへ飢饉が襲ってきた。ためていた米を目先の利益にかられて売り払ってしまったから、手持ちがない。米を売り払ったことは自分で自分の首を絞めたようなものでる。 |
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