童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          へいしゅうせんせい

■わかりやすく感動させる話、松伯は養子殿の教育係にする

<本文から>
「ひとつ、おれもあの先生の講釈をきいてみるか」
 などと物好き半分に平洲先生の講義台の前に立つ著さえ出てきた。聴衆の中に熱心なきき手がいた。
 藁科松伯という医者だ。
 勤め先は桜田にある米沢藩上杉家だ。医者だったが松伯は学問も深い。米沢に「菁莪館」という私塾を持っている。米沢城の武士がかなり門人になっていた。
 その松伯が平洲先生に関心を持ったのは、なんといっても大道芸人に混じって、自分の学説をやさしく説くその学者としての態度に対してだ。
 (まったく珍しい学者があらわれたものだ)
と松伯は感じた。はじめは好奇心で二、三回講義をきいた。が、きくうちに感動しはじめた。そしていまは、
 (これそれ、ほんとうの学者だ)
と思うようになっていた。それは何よりも平洲先生が、
「学問というのは、いま生きている自分たちにすぐ役立たなければならない」
 といういわば″実学″を説いたからだ。しかも表現がやさしい。ききようによっては、脇で合戦話を語る講釈師の表現よりもやさしいかもしれない。ムダな言葉がない。それはひとつひとつの言葉を、相当練って吟味してロに出すからだ。
 大げさなことはひとつもいわない。はじめ石をぶつけられていた平洲先生が、それをピタリと止めさせたのは、もちろん平洲先生の講釈の内容にもよるが、むしろそれをきいていた一般民衆のほうだといっていいだろう。平洲先生の講義に感動した民衆は、石を投げようとする芸能人に食ってかかった。
「なぜ石を投げる?」
「へいしゅうせんせえが傷を負ったらおれたちが承知しねえぞ」
「口惜しかったらおめえたちも、へいしゅうせんせえに負けないように芸を磨け」
 ときびしい声がとんだ。いってみれば民衆の世論に敗退して、ほかの芸能人たちは石を投げるのを止めてしまったのだ。それほど平洲先生の講義内容はわかりやすく、またためになった。いまは、平洲先生の前に立って話をきく聴衆は数百人に達している。そして平洲先生が、
 「きょうは、これでおしまいにしよう」
というと、いっせいに挙を眼に当てて涙をぬぐう始末だった。こういう真似はほかの芸能人にはできない。面白がらせることはできても、感動させることはできない。
 (そこがほかの芸能人と平洲先生との違いだ)
と松伯は思っている。松伯は、ようやく心を決した。それは、
「日向(宮崎県)高鍋の秋月家から迎えた養子殿の、教育係にはぜひこの先生をお迎えしよう」
と。
▲UP

■学問と実践の一致を目指す。側近にも勉強を願う

<本文から>
 平洲はもうひとつ、
 「町で見開したできごとを極力直丸様にお伝えしよう」
と考えている。だから整理すれば平洲の少年直丸に対する指導方針は次のようになる。
・両国橋の街頭講義はやめない。これによって得たきき手の反応をそのまま直丸様に伝える。
・同時に、藩邸の外で起こっているできごとをも極力直丸に伝える。日々変化する現実との隔たりを感じさせないためだ。
・それを前提としたうえで、主として朱子学による講義をおこなう。つまり「民を治める立場に立つ者はどうあらねばならぬか」という精神鍛錬をおこなう。
・したがって、藩邸内でおこなう学術指導は、藩邸外のできごとや世の中の変化との交流をおこなうということになる。現在の言葉を使えば電子工学における出力と入力の″フィードバック″だ。
・そうしなければ、藩邸内でおこなう学術の勉学も役に立たない。
・平洲が直丸様に望むのは、あくまでも「学問と実践の一致」である。
 直丸に対する今後の指導方針が合意されると、竹俣当綱が苦笑しながらこういった。
 「細井先生、これは直丸君だけではなく、われわれ自身も勉学しなければなりませんな」
 「そのとおりです」
 平洲も微笑を返しながらうなずいた。竹俣を見つめ、
 「そこにお気づきいただいたというのは、さすがにご家老です」
 「いや、お褒めにあずかって恐縮です。しかし、それはもしかすると先生の皮肉ですな」
 人間通な竹俣はそう笑った。平洲も笑い返した。しかし竹俣のいったことは事実だ。平洲は、
 (自分の講義は、できるならば直丸棟の側近たちもきいて欲しい。一緒に勉学して欲しい)
と思っていた。
▲UP

■鷹山の改革は人びとの疑問の解明にエネルギーの大半を費やした

<本文から>
・このたびの改革は、おそらく他の大名家にも例のないきびしいものであること。
・そうであれば、改革をおこなうのは藩主だけではなく、藩士・藩民の協力が必要になる。
・痛みを感ずる改革に協力させるのには、なんといっても自分のこととしてその改革を理解しなければならない。
・それには、藩士・藩民に対し「なぜこの改革をおこなうのか。改革をおこなった結果、それが自分にどう響くのか」ということを相手が納得するまで説明しなければならない。
・それには多少の時間が必要だ。そこで、改革の趣旨を懇切丁寧に説明した文書を国元に届け、これを全藩士が読み、いろいろと討議する余裕を与えるべきだ。
・江戸の藩邸に勤める武士に対しては、藩主(治憲)みずからが口頭説明すべきである。
 と助言したからである。
 この考えは現代にもそのまま当てはまる。現代も改革の連続する時代だ。とくにITが普及した現在、
 「改革は絶え間なくつづく」
といっていいだろう。しかしトップはともかく、ミドル(中間管理職)やロウ(従業員)層は、次から次へと改革の指示命令が出てくれば当然疑問を持つ。
 「なぜ、こんなことをやらなければいけないのか」
ということである。米沢本国に下って以来の上杉鷹山の改革は、まずこの、
 「なぜ、改革をおこなうのか」
 という疑問に対する説明責任を果たしつづけたといっていい。鷹山の改革は、かかわりを持つ人びとの疑問の解明にエネルギーの大半を費やした。これは細井平洲の助言によるのだ。
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■輿譲館と名づける

<本文から>
 細井平洲は佐藤文四郎が、
「細井先生、再興する学校の校名をなんとなさいますか」
ときいたのに対し、
「輿譲館と名づけましょう」
 と答えた。それは『大学』で主張する「譲」の心を興すということだ。あえて興すという字を使ったのは、佐藤文四郎が藩主上杉治憲の伝言として、
「新しく建てる学校は新設でありません。前にあった藩の学校を再興するのです」
といわれたから、平洲もその趣旨をよく汲み取って、
「譲という道徳を再興する学校」
という意味合いを持たせたのである。平洲は佐藤文四郎にいった。
「治憲公がいま再興なさろうとする学校は、いわば″心の学校″なのですよ」
「心の学校?」
 佐藤文四郎は反射的にその言葉を口にした。平洲はうなずいた。
「そうです。それも日本人の美しい心の学校です」
「日本人の美しい心の学校」
 繰り返す文四郎に平洲はうなずいて、こういった。
「その日本人の美しい心を、まず米沢の輿譲館から興しましょう。興したその美しい心が、日本中に拡がることを期待しましょう」
 佐藤文四郎は呆気にとられたように平洲の顔をまじまじと見つめた。やがて座をとび下がって床に手をついた。平伏した。
 「入国早々、細井先生のありがたいお教えをたまわって、佐藤文四郎、心から感動いたしました。また先生がご入国と同時に、最初のお教えをいただいた栄誉に浴し、この文四郎はなはだ感激いたしました。このとおりでございます。いまのお言葉をおききになれば、お館様もさぞかしご満足でございょしょう」
 そういった。平洲は宙で手を振った。
 「佐藤さん、そんなことをしないでください。テレますよ」
 「いえ、これはわたくしの本心です」
 顔を上げた文四郎はまぶたを熱くしていた。改めてつぶやいた。
 「再興する学校の名は輿譲館、そして興譲館は日本の美しい心の学校ですね」
 「そうですよ」
 平洲も大きくうなずいた。
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■内容が豊かなだけでなく、伝える話法も達者

<本文から>
 物や動物などを人間にたとえることを″擬人法″という。平洲は人間を物や動物にたとえる。いまは米沢落という組織や、そこで仕事をしている役人たちを木にたとえていた。″擬物法″とでもいうのだろうか。しかしこういうたとえ方はきいているほうにとっては非常に親しみやすい。また理解できる。十八人の門人たちは、細井平洲の講義をきいていて、
(この先生は、内容が豊かなだけではない。伝える話法もかなり達者だ)
と受けとめた。つまり平洲の話し方にはムダがない。一語一語すべて吟味し抜いているので、全部意味を持って伝わってくる。門人たちは、
(こんなに興味深い講義ははじめてだ)
とこもごも感じた。平洲がいう、
「組織も木と同じで、幹もあれば枝葉もある。しかし枝葉の中にはムダなものがあるので、これは取り除かないとほかの枝葉や幹の迷惑になる」
というたとえ話はよくわかった。かれらにとっては、
「米沢城内にもかなりムダな枝葉がある。あるいは幹もある」
と思っていたからだ。そういう雰囲気は講義をしている平洲先生にもビンビン伝わってきた。反応をみて平洲は、
(これはイケるぞ)
と感じた。はじめての講義でこんなに手応えを感じたのはあまり例がない。平洲はうれしくなった。同時に、
(ここに集まった連中は、米沢城内でも改革推進派なのだ。しかし上の壁が厚くてなかなか思うようにいかない。それを知った治憲公とその腹心が、この十八人を選んだのにちがいない)
と思い立った。
▲UP

■結論より過程に重きをおく。反復と連続によって呑みこませる

<本文から>
 いま平洲が話しているのは藩主である上杉治憲に対する教訓であって、藩士たちに告げることではない。
(細井先生は、いったい何がおっしゃりたいのだろうか)
 と門人たちは疑問を持ちはじめた。しかしこれは平洲独特の話法であって、かれはきちんと頭の中では論理構成をすましていた。きき方によってはたしかにいま話していることは、
「藩士よりも、まず藩主が徳を養うことが必要で、それには率先して生活を切り詰めることが大切だ」
とはいっても、米沢城で改めて上杉治憲にそういうことを求めているわけではない。治憲はすでに江戸の藩邸で徹底的な倹約生活を送ってきた。実験ずみだ。平洲がいま話の論理構成として組み立てているのは、そのこと告げたいからである。つまり、
・藩士に倹約を求める以上、トップである藩主がまずその模範を示さなければならない。
・しかし、治憲公はすでに江戸の藩邸で十二分に実験ずみだ。
・したがって、そのことを話すので、きいた藩士たちは治憲公に範を求めることなく、すぐ自分たちの節倹に努力しなければならない。
 という骨組なのである。
 しかし世慣れた平洲は一挙に結論にはいかない。過程に重きをおく。平洲は、
「学問を教えるということは、そのすべてを相手のきき手が消化し、自分のものとしなければならない。そうしなければ、講義が相手の滋養分にはならない」
と思っている。したがって、相当時間をかけ、しつこいほどこれでもかこれでもかと同じ話を繰り返す。反復と連続によって、相手もついにこちら側の言葉の端まで呑みこむようになる。呑みこんだだけでなく、噛み砕いて滋養分に変える。平洲がいまいいたいことは、
・藩の財用不足を解決するためには、なんといってもトップである藩主自身の倹約努力からはじめる必要があること。
・藩主自身の倹約は、あくまでも愛民の考えに基づいて、民を愛するがゆえに自分が範を示すという姿勢が必要なこと。それは、ただ米沢城の帳簿に生じている赤字をゼロにすればいいということではない。民の心に生じている精神的な赤字を解消する必要があるのだ。
・トップがそうであれば、そのトップに仕える家臣たちはトップの心を自分の心として、これまた倹約に努力しなければならない。同時にその倹約はあくまでもトップと同じように″民のために″という視点を失ってはならないこと。
・そのためにいまわたしから講義をきく諸君(十八人の門人)は、今後の改革の先駆けとなる必要があること。
・そのために、米沢に入国した治憲公が、江戸藩邸においてすでに実行した倹約努力を、これから述べること。
という話し方をした。十八人の門人たちはみんな頭がいい。
 (なるほど、そういうことだったのか)
とこもごもうなずいた。かれらも新藩主治憲が江戸で、
 「改革計画書」
をつくり、それを家老に渡して治憲が入国する前に、みんな読んでおいて欲しいと希望した事実は知っていた。しかしその改革計画書は重役陣によってにぎりつぶされ、お蔵にされた。が、こんなことは改革に熱意を燃やす武士たちによってすぐ知られた。
「ご家老たちが、新しいお館様の改革計画書をにぎりつぶしお蔵にした」
 という事実はたちまち城内に漏れた。が、それに対して先立って抗議を申し入れるような勇気のある武士はまだいなかった。いずれもが、
 「休まず・遅れず・働かず」
という悪い風潮に染まっていたからである。選ばれた十八人は、切歯振脱したが、これもごまめの歯ぎしりでどうにもならない。十八人は、
 「やはり、もっと多くの人間がわれわれに同調しなければダメだ」
 といい合った。重役たちが隠した事実は知ったが、しかし治憲の改革計画書にどんなことが書かれているのかは絶対にわからない。重役たちが必死に隠しとおしたからである。だから、いま平洲が、
「江戸藩邸でお館腰がすでに実行なさった倹約の例を述べる」
と口火を切ったので、みんな眼を輝かせた。
▲UP

■藩政改革の理念を自分ではなく藩主の身になって考え実行することを教える

<本文から>
「先ほどお話しした江戸藩邸におけるお館棟のご努力の中で、幸姫様に対するおいたわりのことをお話ししました。あのとき幸姫様がお館様からいただいたのっぺらぼうな布人形に、ご自身がお使いになる化粧道具を使って顔をお描きになったのは、まさしくこの異能発揮の好例といえましょう。なぜなら、幸姫様はみなさんもうご存知のようにご不自由なお身体です。にもかかわらず、あのとき幸姫様は絵を措こうというご意志をお持ちになりました。そしてそのご意志を実際に人形の顔を措くことによって実現なさったのです。普段は考えられなかった異なる能力をみずから掘り起こし、それをお使いになったといっていいでしょう」
 十八人の門人たちの顔にある種の感動の色が浮いた。
(なるほど、幸姫様のお話にはそういう意味があったのか)
と改めて気がついたからである。そうなると、十八人は、いよいよ細井平洲先生の話は迂閥にはきけないと気がついた。どんなやさしい言葉を使っても、その言葉の裏には深い意味がある。しかも、豊かな人生経験からくる知恵があった。十八人はこの異能発揮のことについてもっと深く知りたいと思った。ひとりが手をあげた。
「先生、いまお話の異能をわれわれが発揮するためには何をすればよいか、を具体的
にお教えください」
「そうですね、それは大切なことです」
 平洲はうなずいた。顔を上げると平洲は十八人を均等に見渡しながらこう聞いた。
「みなさんの中で、平常お城でなさる仕事のほかに、特別な知識や技能をお持ちの方がおられますか?」
 門人たちは顔をみあわせた。その中でひとりが手をあげた。
「先生、わたしにはございます」
「おい、黒井」
 脇にいた者が手をあげた武士に怪訝な表情を向けた。しかしその武士はそんな視線には頓着せずにこういった。
「わたくしはかねがねこの米沢の城下町には、良い水がないと思っておりました。そこで、住む人びとにおいしい水を提供できるような水道を敷設できないか、といつも考えております。その方面の勉強もいたしました。わたくしの考えでは、米沢の城下町においしい水を引くためには、やはり城下町を囲む山々から湧き水を引くことがいちばん良いのではないかと思います。しかしそれには、山に穴を掘り、水を引く道をつくることが大切です。
 わたくしはその方面の勉強もいたしました。いまお城では、書記の役割をしておりますが、いつかこの米沢の城下町に、おいしい水を引くような仕事をしたいと念願しております。これは、わたくしの異能といってもよろしいでしょうか」
 これを開いた細井平洲はニッコリ笑った。そして大きくうなずいた。
「黒井さんとおっしゃいましたか、あなたのいわれたことはまさにわたくしが念願する異能です。そして、あなたは米沢に住む人びとにおいしい水を飲ませたい、という温かい気持ちをお持ちです。それは志といってよいでしょう。わたくしには、あなたのような知識や技術がありませんので、黒井さんを深く尊敬いたします」
 みんなびっくりした。学者の細井平洲が黒井という武士を尊敬するといったからだ。しかし平洲にすれば、かれが藩政の根本は常に、
「民を子と思う親の立場でおこなわなければならない」
と告げている。これは直接藩主の上杉治憲に話したことだが、平洲の希望はなにも藩主だけではない。藩主の下で仕事をする藩士全員がそういう気持ちを持たなければならないのだ。なぜなら、藩士は藩主の分身だからである。上杉治憲が掲げる藩政改革の理念と方法をひとつの器だとすれば、上杉治憲ひとりでそういう仕事はできないので、治憲はその器を細かく割ってカケラをつくり、ひとりひとりに渡す。つまり、
 「藩士のおこなうべき仕事」
として指示命令するのだ。そうであれば、そのカケラを受け取った藩士は、
「このカケラは、お館様のご意志とご計画の一部であって、それを頂戴した。したがってこの仕事に関しては、お館様と同じ責任がある」
と思うことが必要なのだ。細井平洲の藩における役割は、まさしくこの、
「藩政改革の理念のひとカケラを自分の事としてではなく、藩主の身になって考え、実行することが大切なのだ」
ということを教えこむことにある。
▲UP

■個人が自分を変えていく(自己改革の)動機は愛

<本文から>
 なぜなら、わたしはこの上杉家にきて以来、たしかに藩の財政事情の悪化を示す書類には目を通した。しかしそれだけだ。書類に出ている赤字額の巨額さに打ちひしがれ、正直にいえば心が萎えていたのである。が、きのう幸がこの人形の顔を措いたことによって、わたしの考えはガラリと変わった。改革は実行しなければ意味がない。実行あるのみだ。それには勇気がいる。
 あらゆる壁をぶち破って、わたしはこの改革をすすめたい。幸とのやり取りでわかったことがある。それは、人間の気持ちを高め、そして誰かのためになにかをしようという気にさせるのは、″愛″だ。このことをわたしはつくづくと悟った。わたしはまず幸のために改革をおこなう。そしてお亭冬たちのために改革をおこなう。さらに、米沢藩民のために改革をおこなう。頼む、どうか協力して欲しい」
 広間にいた連中の中には、思わずウッとうめき声を漏らす者がいた。治憲の純粋なものの受けとめ方と、その改革への動機に感動したのである。
 治憲の脇にいた平洲も感動していた。平洲は驚いた。
(小さな人形ひとつで、ここまで考えを煮詰め、それをひとつの信条として家臣に語るような大名が、ほかにいるだろうか)
 と思ったからである。平洲は、
(治憲公の気持ちは、まさに仏か神のそれだ)
 と思った。とくに治憲がいった、
 「改革の動機は愛である」
という宣言は、学者である平洲でさえ考えつかないことだったのでことさらに胸に響いた。平洲は微笑んだ。それは、
「改革の動機は愛だ」
という宣言は、なにもー米沢藩だけの問題ではない。日本中の大名家にも通ずるし、あるいは個人の生き方にも通ずる。
「個人が自分を変えていく(自己改革の)動機は愛だ」
ということになれば、その個人はまず家族のために、隣人のために、地域のために、そしてもっと発展させれば藩(国)のために、自分を変えていくことになる。これがまさしく、
「修身・斉家・治国・平天下」
 の道をたどることなのである。
▲UP

■藩主・上杉治憲が慕われる姿に自戒

<本文から>
 こういう光景をみていて、細井平洲はフッと一抹の孤独感を感じた。淋しかった。しかしその淋しさは快い。平洲は治憲をうらやましいと思った。別に治憲が藩主であることに対してではない。そういう隔てのない心ですぐ村人たちの心に同化し、かれらの喜びと悲しみを、すぐ自分のものにできる能力に対してである。しかしそれは平洲が教えたことだ。
「治者は常に民の父母でなければならない」
というのが平洲の政治信条だ。治憲はそれを守っている。そしてその効果がいまはっきりとあらわれている。平洲は上杉治憲のそういう素直さに胸を打たれたのである。
(自分には、果たしてお館様のような素直な心があるだろうか?)
 そんな反省心も湧く。同時にまた、
(これはお館様独特のよろこびだ。わたしには絶対にお館様の立場には立てない。つまり、お館様のすぐ間近にいながらも、やはりお館棟と自分の間にはかなりの隔たりがあるのだ)
と感じた。その隔たりに対し、村人たちは正直な反応を示した。きょうの旅では、あきらかに治憲に対する村人の感情と扱いは、平洲に対するそれとは違う。平洲はそのことをしっかりと噛みしめた。そして、
(この経験が、きょうの旅の貴重な土産なのだ)
と思った。しかし学者であるかれは、
(これが人間の宿命であり分なのだろう)
と感じた。
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■高位者・中位者・下位者の三段階に分けた教育

<本文から>
 再興(実際には新設)した藩校興譲館の運営方針について、細井平洲の話はさらにつづいた。
・なぜかといえば、一般庶民は親の直接の愛情すなわち「実」による、しつけを受けるからである。
・これに引き替え、貴人や高位高官の者は子どものときから、親ではなく家臣の補導役や使用人に囲まれて育つ。しかもわがままになるようにチヤホヤされて甘やかされる。したがって親の″実の心″によるしつけをまったく受けない。
・これは虚偽軽薄″の育て方だといっていい。
・こういう子どもは成人しても、決して他人を思いやる″恕の心″や″忍びざるの心″を持たない。他人をみくだす倣慢な心を育ててしまう。
・そこで、治政の責任を持ち、民の上に立つ者は、まずこの倣慢な心をみずから除き去らなければならない。しかしこのことは口でいうに易く、おこなうのはなかなか難しい。この倣慢な心を除いて、民の心を自分の心とするような人間に育てるのが、すなわち教育である。
・したがって、輿譲館と名づけた藩校における教育は、このようにまず高位者の倣慢な心を除くこと、そして藩主を補佐する者は、単に上からの命令をきくだけではなく、その命令を下に伝える役割も負うので、中間に立つ者としての心得を学ばなければならない。
・下位者は、さらにそのことを民に伝える責任を持つ。
・したがって学校では、高位者・中位者・下位者の三段階に分けた教育をおこなうべきだ。
 こう告げた。この限りにおいて、平洲は時代における身分制を否定してはいない。
 むしろ身分制を、
 「天がその人間に与えた職責」
 ととらえている。つまりそれぞれの人間は、″天職″によって生きる存在なのだ。
▲UP

■三度目の米沢へ

<本文から>
 寛政八(一七九六)年八月二十五日に、細井平洲は江戸を出発した。九月六日に米沢へ到着した。が、直接米沢城に入ったのではなく、鷹山自身が近郊まで出迎えに出ていた。普門院という寺の門前で鷹山は、いまかいまかと平洲の到着を待ちかねていた。米沢城から一里あまり(四キロ以上)ある関根というところだ。
 平和でのどかな里である。米沢に向かって左方に一本道が延びている。その突き当たり的な位置に普門院があった。
「ご隠居様が、お出迎えになっておられます」
と案内役の武士から話をきいた平洲は、思わず、
「えっ」
と驚き、すぐ、
「ここで降ろしてください」
と、それまで乗っていた駕寵から外に出た。武士が驚いて、
「いえ、先生どうかそのままで」
といったが、平洲は首を横に振った。歩いて一本道をたどった。武士のいうとおり、普門院の門前に鷹山らしい姿が見えた。手をかざして、こちらを見ている。
(お館様だ)
 と、平洲は思わずその姿に胸を躍らせた。近づくにつれて、鷹山の姿があきらかになった。鷹山は柔らかい笑みを浮かべてじっとこちらをみていた。その姿をみた途端、平洲の胸にはいいようもなく熱いものがこみ上げ、その熟さは眼にまでおよんだ。平洲は思わず、そこに座りこんで、
 「お館様」
と、昔日の呼び声を上げようとした。
▲UP

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