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<本文から> 「ひとつ、おれもあの先生の講釈をきいてみるか」
などと物好き半分に平洲先生の講義台の前に立つ著さえ出てきた。聴衆の中に熱心なきき手がいた。
藁科松伯という医者だ。
勤め先は桜田にある米沢藩上杉家だ。医者だったが松伯は学問も深い。米沢に「菁莪館」という私塾を持っている。米沢城の武士がかなり門人になっていた。
その松伯が平洲先生に関心を持ったのは、なんといっても大道芸人に混じって、自分の学説をやさしく説くその学者としての態度に対してだ。
(まったく珍しい学者があらわれたものだ)
と松伯は感じた。はじめは好奇心で二、三回講義をきいた。が、きくうちに感動しはじめた。そしていまは、
(これそれ、ほんとうの学者だ)
と思うようになっていた。それは何よりも平洲先生が、
「学問というのは、いま生きている自分たちにすぐ役立たなければならない」
といういわば″実学″を説いたからだ。しかも表現がやさしい。ききようによっては、脇で合戦話を語る講釈師の表現よりもやさしいかもしれない。ムダな言葉がない。それはひとつひとつの言葉を、相当練って吟味してロに出すからだ。
大げさなことはひとつもいわない。はじめ石をぶつけられていた平洲先生が、それをピタリと止めさせたのは、もちろん平洲先生の講釈の内容にもよるが、むしろそれをきいていた一般民衆のほうだといっていいだろう。平洲先生の講義に感動した民衆は、石を投げようとする芸能人に食ってかかった。
「なぜ石を投げる?」
「へいしゅうせんせえが傷を負ったらおれたちが承知しねえぞ」
「口惜しかったらおめえたちも、へいしゅうせんせえに負けないように芸を磨け」
ときびしい声がとんだ。いってみれば民衆の世論に敗退して、ほかの芸能人たちは石を投げるのを止めてしまったのだ。それほど平洲先生の講義内容はわかりやすく、またためになった。いまは、平洲先生の前に立って話をきく聴衆は数百人に達している。そして平洲先生が、
「きょうは、これでおしまいにしよう」
というと、いっせいに挙を眼に当てて涙をぬぐう始末だった。こういう真似はほかの芸能人にはできない。面白がらせることはできても、感動させることはできない。
(そこがほかの芸能人と平洲先生との違いだ)
と松伯は思っている。松伯は、ようやく心を決した。それは、
「日向(宮崎県)高鍋の秋月家から迎えた養子殿の、教育係にはぜひこの先生をお迎えしよう」
と。 |
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