童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          廃県置藩

■八王子千人隊(家康が先鞭をつけた地方自治)

<本文から>
八王子千人隊に課せられた責務の中に「いざ」という場合の戦闘行為がある。これは、江戸城が海側から攻め立てられて落城の憂き目にあったとき、将軍は半蔵門から脱走させる。そして甲州街道を一散に走り抜いて、甲府城に向かわせる。敵が追ってきたときは、これを八王子で食い止める。その核になるのが八王子千人隊だ。
また逆に、中山道から甲府城が攻略され、さらに江戸へ敵がむかったときに、第二次防衛陣として食い止めるのが八王子だ。このときも活躍するのが八王子千人隊である。
しかし、八王子千人隊が実際に戦争をしたのは、幕末維新のときだけだ。それまでは、完全に半士半農の生活を続けた。が、黙々と土を耕す千人隊一人ひとりの胸の底には、徳川直参武士たちがいつの間にか失ってしまった「忠誠心」が脈々と続いていた。それは多摩の地下水脈であった。そして、この地下水脈が新撰組に引き継がれる。やがては、自由民権運動にも発展していく。それは、「土を愛する精神」と「江戸を愛する精神」が、もっとも純粋に保持されたことにもルーツがある。

■家康は古くからの名族を抱き込む(地域特性と旧住民を保護)

<本文から>
 家康は関東地方に古くから力を奪っていた地方名族の子孫を抱き込むことにも努力した。特に武田氏や北条氏の旧臣たちを次々と召し抱えた。それだけでなく、滅びかかっている名族の子孫も抱えた。太田道灌の子孫、足利将軍家の子孫、源氏の名門である新田氏の子孫、豪族であった江戸氏の子孫、あるいは足利家の分家である一色家、吉良家などの子孫も全部懐柔した。
上層階級だけではない。多摩地域の上成木村(青梅)の川口氏や木崎氏、あるいは北小木曽村の佐藤氏なども登用した。彼らはすべて北条氏に関わりを持っていたが、家康のこういう方針にあえて逆らわなかった。

■家康の分散政策(官僚主義の発生)

<本文から>
 徳川家康と徳川幕府とはまったく別なものだ、と考えることが江戸一極集中をさまたげた理由を訪ねることにつながる。
すなわち徳川家康は
●日本国内を、ハード・ソフト両面にわたって分断政策・分散政策により治めようとした。
●彼らの時代には、まだ整然とした「官僚主義」や「官僚制」は生まれていない。
●家康自身もまた、そんな制度や主義を生もうとしていたかどうか疑問だ。
●徳川官僚制と官僚主義が死んだのちに発生し整備される。
●したがって、徳川家康が長く生き続けていたら、幕府そのものがどうなっていたかは予断を許さない。
●家康自身のやり方を見ていると、
○あくまでも平和志向者であった。
○各地域で起こった事実の発生と歴史、そしてそれに関わった人々の努力を極力尊重している。
地域の特性を認めるということは、地域の自治を認めるということだ。だから、彼のブレーン群を見ても、武士階級におけるエリート層ではない。商人や外国人に至るまで実に多彩な人物を活用している。こういう態度はのちの徳川幕府には見られない。そうなると余計、「徳川家康と徳川幕府とはまったく別なものだ」ということになる。

■財政難(参勤交代制が地方自治にもたらしたもの)

<本文から>
 江戸詰の武士は、やがて江戸で採用された者が多くなった。つまり都市感覚を身につけ、口が達者で渉外事務が堪能だという能力を買われて採用された者である。こうなると、本国に勤める武士と、江戸に勤める武士との間の異動が少なくなる。両者ともそれぞれ「勤めの論理」を持つようになる。
●江戸詰は、主人ならびに藩そのものを存続発展されるために、諸々の渉外事務を行う。江戸城の高級職はもとより、関わりのある下級役員やさらに金策のために必要な商人との付きあい、あるいは江戸藩邸で必要な物資の購入の仕事。
●本国では、基本的には領国内の住民に対する行政費用、自分たちの給与、さらに江戸藩邸で使う諸費用の調達。
などとなった。
どこの藩も一様に財政難で苦しんだ。それは、あまりにも参勤交代の旅の費用と、江戸藩邸で使う費用が莫大だったからである。その上に、さらに幕府は時折、「お手伝い」と称して、徳川家と幕府が直接管理する建物や道路、河川、山林などの修復改善に無償で工事させる。費用は全部大名家に持たせる。
この基本政策によって、大名家は絶対に豊になることはなかった。

■名産品(参勤交代制が地方自治にもたらしたもの)

<本文から>
 武士の変質は本国でも変わった。本国の方も、ザブザブ交際費を使う江戸詰の連中たちの資金を調達するには、本国で作り出す製品に次々に付加価値を加えなければならない。高価に売れる、つまり商品になるような製品を作り出さねばならない。このためには、藩の地域が持っている富を掘り起こす必要があった。それは主として、加工品によって実現された。これがいわゆる各地域の「名産品」というものになる。
だから江戸時代の各大名家は、「いかにして名産品を作り出すか」にいうことに狂奔した。その代表的なものが、集約されて武鑑に書き表された、「毎年毎年の、各大名家の将軍に対する献上物」だ。ただ米や農作物をつくっていればいいということではなくなる。人々が購買意欲をかき立てられるような、加工品が必要になる。
そしてそれも。「よその藩にない品物」を作り出す必要になる。これがいわゆる、「その国の名産品」と呼ばれるこのだ。

■人づくり(参勤交代制が地方自治にもたらしたもの)

<本文から>
 もともと加工しようにも、原材料が得られない地域もある。原材料があっても、そういう知恵や才覚がないとこもある。そうなると、次に目標とされたのが、「人づくり・人材育て」だ。
いきおい各藩においては、付加価値のある名産品を作り出すために、人育てをもう一本の柱として設定するようになる。藩政改革というには、縮めていえば、
●付加価値のある製品をどうすれば作り出せるか
●そのための人材を、どうすれば育てられるか
という見方ができないわけではない。

■女性の進出(参勤交代制が地方自治にもたらしたもの)

<本文から>
 女性の進出が際立っていたことである。確かに、江戸時代の女性は位置は低い。古い寺に残された過去帳を見ても系図の中では、女性はただ「女」とだけ書かれていて、名前のない人が多い。しかし、これは名前がなかったわけではない。名前があっても、その名を書かなかっただけだ。
そして、女性の立場は、一部には確かに過酷な男尊女卑ということが、具体的行為として表れたことも多々あっただろうが、全部が全部そうではなかった。かなり尊重されていた例もある。たとえば、近江商人の場合だ。近江商人は、ほとんどが出稼ぎによって商いを行っていた。そして、この出稼ぎを行うには亭主だ。
近江に置いた本店の切り盛りをするのは全部妻である。したがって、この妻の教育は厳しい。少女のときから大きな商家に行って見習いをする。それはなにも行儀作法だけではない。経営方法の秘術まで学ぶ。
だから近江商人の本店に残った妻のやることは、在庫品の管理や店員の採用をはじめとし、各出店の人事にまでかなり発言した。
いわば、近江商人における夫と妻の立場は、共同経営者であって、単なる男と女の関係ではなかった。しかし、それを表だって「ウチは男女平等だ」などといばれる世の中ではなかったことは確かだ。それだけ、女性の苦労が多かったということである。

■幕末の江戸がさびれた理由(参勤交代制が地方自治にもたらしたもの)

<本文から>
 (参勤交代を廃止し)江戸がたちまちさびれてしまったのはどういうことだろうか。
ここに大都市大江戸の性格がハッキリ表れている。つまり、政治機能は京都に移って、幕府首脳部も京都へ行った。江戸に残ったのは、いってみればボンクラ重役ばかりだ。気の利いた者はみんな京都に行ってしまう。

淀屋の成功(機能の分権と確立)
淀屋は、徳川家康の公認によって大阪の陣で戦死した武士たちの遺体を処理した。遺体が身に着けていた武具を剥いだ。これを売った。莫大な利益が転がり込んだ。
莫大な資金をつかんだ淀屋は、堂島近辺に拠点を構えて商売を始めた。米、魚、野菜などを商った。
(大阪の管理を任されていた松平忠明に米相場を立てる許可を得た)
こうして彼は「米相場」を立て始めた。パテントだ。他の者には認めない。そのため、「米相場は、淀屋が立てる」という評判がドンドン伝わった。米を扱う商人がドっと押し寄せてきた。
やがて日本中の米がいったん大阪に集められ、淀屋の立てた相場によって売りさばかれるようになる。淀屋の拠点が童島にあったから童島相場とも呼ばれた。
米に次いで、魚と野菜の相場を立てる権限を一手に掌握した淀屋の家業は、ドンドン膨張した。

■伊達(地域活性化に尽力した江戸ベンチャー)

<本文から>
 秀吉は政宗を許し「東北を治めるように」といった。宿舎に戻ると、政宗は家臣たちにいった。
「東北に戻る。秀吉公はオレのことを”陸奥のサルだ”と人に告げた。が、オレはサルではない。東北に戻ってその証しを見せる。その意味でも、明日の行進は全員きらびやかなに飾り立てろ。伊達者の心意気を見せるのだ」
翌日、東北に戻って行く伊達政宗の行列を見て、今日の人は驚いた。今まで、どの大名にも見たことのない、  たる服装をした将兵が整然と行進して行くからだ。特に大将の政宗は、まるで絵から抜け出たような美しさだった。
”伊達衆”あるいは”伊達者”という言葉がダンディズムに通じ、”ナウイ””洒落者”の意味を持つようになったのは、この日からである。

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