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<本文から> 「ええ。ほんとうは、あなたが大坂でいったように、わたしの書を買う物好きなどひとりもいません。売れっこないんです。あのときは、前の年にわたしのお母さんが亡くなり、続いてあなたのお母さんが亡くなりました。わたしの母親の骨を埋めに、あなたと京都にいったときのことをよく覚えています。楽しい旅でした。でも胸の底には、なにか冷たいしずくがポタボタと落ち続けて、むなしさでいっぱいでした。そこでわたしは尼さんになろうと思ったのです。、だから、あなたにお願いした号というのは、わたしにとっては法号でした。湖lという妙な名をつけてくださいましたね。でもうれしかった。いつも遠くにいるあなたが、すこしはわたしのことにも心を割いてくれると思えたからです。だからといって、わたしは長年の苦労を忘れたわけではありません」
そこでことばを切って、たまはじっと秋成をみかえした。秋成はたまの視線の鋭さにたじろいた。秋成はたまがなにをいっているのかまったく見当がつかない。かれの頭の中は、いまみた川の美しさに魅せられていたから、他のことが入りこむ余地はない。こういうときの秋成は、まったく雲の上を歩いているような気分になる。
目の前で、たまが険しい表情をし、しきりに口からつぶてのようなことばをとぼしているのはわかるが、その意味は掴みきれない。
しかんたまが最初にいったことばによれば、いままでの秋成は、
「ずっとそうだった」
ということらしい。ずっとそうだったから、たまの存在が秋成の頭の中で稀薄になり、いるのかいないのか、わからない状況になっている。たまはそれを恨んでいるのだ。
秋成にはすこしずつ事情が摘めた。たまがこの南禅寺山内の、営林魔の裏手にある小さな庵を借りて、たった一間しかない八畳間をふたつに仕切ったのは、積年のそういう思いをここで一挙に解決したかったのだろう。具体的に秋成に何をしろというわけではない。 |
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