童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          冬の火花 上田秋成とその妻

■妻・たまの積年の苦労を掴めない秋成

<本文から>
 「ええ。ほんとうは、あなたが大坂でいったように、わたしの書を買う物好きなどひとりもいません。売れっこないんです。あのときは、前の年にわたしのお母さんが亡くなり、続いてあなたのお母さんが亡くなりました。わたしの母親の骨を埋めに、あなたと京都にいったときのことをよく覚えています。楽しい旅でした。でも胸の底には、なにか冷たいしずくがポタボタと落ち続けて、むなしさでいっぱいでした。そこでわたしは尼さんになろうと思ったのです。、だから、あなたにお願いした号というのは、わたしにとっては法号でした。湖lという妙な名をつけてくださいましたね。でもうれしかった。いつも遠くにいるあなたが、すこしはわたしのことにも心を割いてくれると思えたからです。だからといって、わたしは長年の苦労を忘れたわけではありません」
 そこでことばを切って、たまはじっと秋成をみかえした。秋成はたまの視線の鋭さにたじろいた。秋成はたまがなにをいっているのかまったく見当がつかない。かれの頭の中は、いまみた川の美しさに魅せられていたから、他のことが入りこむ余地はない。こういうときの秋成は、まったく雲の上を歩いているような気分になる。
 目の前で、たまが険しい表情をし、しきりに口からつぶてのようなことばをとぼしているのはわかるが、その意味は掴みきれない。
 しかんたまが最初にいったことばによれば、いままでの秋成は、
「ずっとそうだった」
 ということらしい。ずっとそうだったから、たまの存在が秋成の頭の中で稀薄になり、いるのかいないのか、わからない状況になっている。たまはそれを恨んでいるのだ。
 秋成にはすこしずつ事情が摘めた。たまがこの南禅寺山内の、営林魔の裏手にある小さな庵を借りて、たった一間しかない八畳間をふたつに仕切ったのは、積年のそういう思いをここで一挙に解決したかったのだろう。具体的に秋成に何をしろというわけではない。

■秋成は自ら罪人と思いこんでいた

<本文から>
 これら一連の秋成の苦悩ぶりは、一言でいえば、
「贅沢な苦しみ」
だ。むかし秋成からきいたが、中世の文人で、
「罪なくて配所の月を見ばやとあけくれ涙を流したもう」
といった人がいたそうだが、それとまったく同じだ。たまからみて、
「夫には、子供のときからなんの罪もない」
 と思える。それを秋成のほうは、
「いや、おれは罪だらけの人間だ。生まれたときから罪を背負ってこの世に出てきた」
といい張る。どうしても自分が罪人になりたいのだ。たまにはそういう秋成の心がわからない。
(なぜ、そこまで自分を苦しめなければいけないのだろう?)
 とずっと疑問に思っている。
 しかし、そうはいっても、よく、
 「夫婦は一心同体だ」
 といわれる。そのことばをモノサシにして自分に当てはめてみると、たまは、
 (わたしは果たして、夫とて一心同体だったろうか)
 という疑いが湧く。とくに、たま自身も、
 「男と女の愛は、ほんとうにそこにいて欲しいときに、いるかいないかによって決まる」
 と思っているから、
 「夫が幼いときから味わってきた苦悩の場に、自分はその慰め手、あるいは支え手とて必ずいたのだろうか?」
 と悩んできた。そして結論は、
 「いつもいなかった」
 ということだ。それも自分がいなかったのではなく、秋成のほうが、
 「いさせてくれなかった」
 のである。
 同じ家に、自分の養母や夫の養母がいたころは、まだそういう悩みも分散できた。ふたりの養母に孝養を尽すことで、気もまぎれた。
 また、淡路庄村にいたときに、隣家の子供を可愛がったことで、夫と共通の目的が発見でき、たまは専念できた。すくなくとも、
「毎日の、生きる目安と満足感」
 の一部は得られたのである。それが全部なくなってしまった。たまと秋成は、完全に"な
にもよろうことのない存在"として、この世に投げ出された。
 たまはいたたまれなくなった。秋成とふたりだけで、同じ屋根の下で暮らすことがどうにも苦痛だった。そこで彼女は、
「京へいきましょう。京はわたしの生まれ故郷だから、わたしの気持ちも安らぎます」
と告げた秋成はすぐこの話に乗った。

■幅広い交流関係を結んでいくことが不純に写る

<本文から>
(このふたりは、わたしのところにもなんだかんだといってすり寄ってくるが、伴萬膜のほうにもすり寄っている)
 と、一種の不純さを感じていた。しかし、文人の付き合いというのはそんな潔藤なもので
はない。秋成にすれば、
 「信じ合う者同士は、完全にお互いが重なり合っていなければいけない」
 と考える。しかし栲亭や月渓にすれば、
 「文人にも人間的自由がある。人間性の一部が重なり合って、そこで交流が成立すればそれでいい」
 と思っている。だからふたりにすれば、
 「可能な限り、幅広い交流関係を結んでいく」
 というのが心情だった。それは京都に住む文人たちの共通する意識だ。ふたりの考える、
 「一部で重なり合うような付き合いを広い範囲でおこなう」
 ということは、いくつかの壇をつくっていた。宮や公家を中心にした壇、俳譜を中心にした壇、あるいは国学を中心にした壇、小説を中心にする壇などである。このころの文人は、
 「自分はこれが専門だ」
 などという割り切り方はしていない。そういう窮屈な規制を全部取り払って、なんでもやるというのが文人気質だった。したがってその交流範囲も、多面的なものになっていく。
 秋成も、それらの壇につかず離れずの態度をとっていたが、やがてはどこからも嫌われてしまった。
 目下のかれは、わずかな人と個人的に付き合うだけで、いわゆる壇というところには出入りしない。しかし松村月渓や村瀬栲亭は、まめに壇の集まりがあれば出掛けていく。そのへんもまた秋成には気に食わない。
 (おれのところへきながら、他にもちょこちょこ顔を出している)
 そういう世渡り上手が、気色が悪いだ。

■上田秋成の秘密

<本文から>
 たまもいま安全に酔いをさましていた。膳を台所へ片づけると、本と本の間にできたスキ間を抜けて、秋成の方へやってきた。夫からすこし離れた場所にきちんと座って、身を正した。
 「さあ、話してください」
 「わかった。話す」
 いまは完全に心を決めた秋成は、静かに話しはじめた。
 「『岩橋の記』にも書いたことだが、もう一度あのあたりのことを繰り返せば、わたしと西河先生は、三月十三日に河内の柏原の里をすぎて、国分の里に西尾さんという方をお訪ねした。十四日は、藤原京や飛鳥京のあとを訪ね、このときに上田某という人に会った」
 「先生が、わがはらからめきし人と書いた方ですね?」
 「そうだ。十五日は竜門の平尾村で池田さんというゆかりの人をたずねた」
 「西尾さまも池田さまもゆかりの人というのは、先生の血縁の人ということですか?」
 「そうだ。十六日には吉野の山に登って桜を見、上市に泊った。そして十七日は朝町や今木の里から、高間山の麓の長柄の里にいった。長柄の里には、わたしの実母の甥の末吉庄蔵さんがおられた。末吉さんは村の庄屋をなさっていた」
 「お母さまは、その庄屋さまの出だったのですね?」
 「そうきいた。実母の父は末吉次郎左衛門といって、地域ではなかなかの名家だったという。ここで、わたしは自分の実父がだれであるかというような噂話をきいた」
 「どなたでしたか?」
 「なんでも、幕府の直参で、小堀政報という人だったときいた」
 「先生のご実父は、お武家さまだったのですか?」
 「村ではそういっていた。しかしわたしにはどうでもいいことだ」
 「なぜ、幕府のご直参が大和国に関わりをお持ちになったのですか?」
 「小掘政報という人は、あの庭づくりや茶の道で有名な風流大名小堀遠州さまの子孫にあたるという。が、天性道楽者で、このままでは到底家を継ぐわけにはいかないということで、知行所があった大和国南葛城郡真志村の代官だった中村忠助という人にあずけられたのだそうだ。そして、この中村さんの妻が、わたしの実母と姉妹だったのだ。その緑で、わたしの実母も中村家に出入りしているうちに、この小堀政報という人と通じたのだという」
 「そして生まれたのが、先生だということですか?」
 「そうだ。しかし、わたしにはそんなことはどうでもいい。問題は、おまえさんがしつこくききたがっている上田という人のことだ」
 「わたしがおききしたいのもその上田さんのことです」
 秋成はここで一旦ことばを切った。たまがきいた。
 「わたしにどんなうそをつこうかと、ことばを探しているのでしょう?」
 掛成は、なにという表情でたまをみかえしたが、ニっと微笑んだ。首を横に振った。
 「ここまで追いつめられたら、もうそんなことはしないよ。あのときのことを、正確に頭の中で思い出しているのだよ。ちょっと待っておくれ」
 そういった。
 あの日、
 「わたしは、上田さんの代理で源蔵と申します」
 と名乗る人物から、深刻な話をきかされた。秋成は、この源蔵を知っていた。というのは、源蔵はむかし秋成の養父である上田茂助の店で働いていたことがあるからだ。しかし、金銭面で不都合なことがあって、茂助は源蔵を解雇した。源蔵のゆくえはその後知れなかったが、突然この大和の里にあらわれた。そして、
 「上田の代理だ」
 と名乗った。
 用件は、
 「わたしが代理を務める上田さんは、ここにはみえませんがじつをいえば、あなたのご養父の実子です」
 そう告げた。秋成はびっくりした。思わず脇にいた西河忠直と顔をみあわせた。西河は上田秋成の出生についてはおぼろげながらの知識はあったが、いきなりこんな深刻な場面に出会ったので、目を丸くした。目の底で、
 (ほんとうですか?)
 という色をみせた。秋成は源蔵に答えた。
 「源蔵さん、ちょっと話がとびすぎませんか」
 そういった。顔に引きつったわらいが浮いた。しかし、残念ながら胸の鼓動が速まり、気持ちが落ち着かなくなった。
 「いえ、べつに話はとんじゃいませんよ。わたしは先生が、まだ嶋屋さんの若旦那でいらっしゃったときに、何度かお目にかかっています。先生もご存じですよね?」
 「ええ、あなたのことは知っています」
 秋成は言外に、源蔵の不始末のことを臭わせてうなずいた。源蔵は目を光らせた。ゆがんだわらいを浮かべた。
 「あなたのご養父にちょっとした誤解がありましてね、店をクビになってしまいました。仲間にやっかみがあって、さされたんですよ。いってみれば無実の罪ですね。まあ、そんなこということである。
 動転した秋成は、そのとき源蔵に対して適切な対応ができなかった。
「そんな話はきいておりません」
 と撥ねつけもしなかったし、
 「いいがかりではないのですか?」
 と強気に出ることもしなかった。話の意外さに、秋成はただオロオロしただけだった。
「なんとかして、この場を逃れたい」
 という気持ちが先に立って、
「帰ってからよく考えます」
 という時間延ばしの返事をしてしまった。だから、末吉庄蔵の家にいったときも、この話はしなかった。秋成にすれば、この大和国の人びとがしきりに、
「一度、遊びにきてください」
 とせき立てるように声をかけてきたのは、じつはこの間題があったからではないのか、という疑いが湧いた。そうなると、末吉家でも、落ち着いて世話になっていられない。
 (この人たちも、源蔵たちとグルではないのか?)
 と疑ってしまうからである。もちろん末吉庄蔵にはそんなことはない。あるいは、このとき秋成が正直に源蔵の話をすれば、末吉庄蔵はそれなりの対応をしてくれたかもしれない。秋成からみた末吉庄蔵は、立派な人物であった。
 証拠のない話だ。しかし、
「根も葉もない話だ」
 と否定するだけの根拠は秋成は持っていない。秋成が衝撃を受けたのは、あの尊敬する養父にそういう事実があったのか、という疑いだ。あり得ないことではない。養母は、秋成が四歳のときに死んでいる。その後再婚するまで、養父はひとり暮らしを続けた。空白期間がある。そのころ、源蔵のいうように、
「あなたの生みの親を訪ねて、しばしぼこの大和の里にもおみえになった」
 ということは確かだ。そうなってくると、秋成が養父母からきかされたり、あるいは自分なりに組み立ててきた、
「自分自身の出生と幼少年時代」
 の道筋がガタガタに狂ってしまう。
 つまり、秋成は、
「嘘ばかりおしえられてきた」
 ということになる。養父は、死ぬまぎわまで、
「じつはおまえの他にこういう子がいるから、何かの節には財産を分けてやっておくれ」
 といい残しはしなかった。にもかかわらず、源蔵は、
 「これが嶋屋のご主人がお書きになった実子への遺言です」
 と、形見分けの書類をみせた。その書類も、ほんものかどうかはわからない。が、いずれにしてもあり得る話を、古都であり、水と緑の美しい大和の里できかされたことに、秋成は大きな衝撃を受けた。その一部始終を、同行した西河忠直はきき続けていた。帰途、
 「上田先生、たいへんなことが起こりましたね?」
 と同情した。秋成は、
 「根も葉もないことですよ」
 と不機嫌にいった。西河も、
 「そうでしょうとも。わたしもそう思います」
 そういったがどこか人ごとだった。秋成はそのときの西河の態度を、
 (この漢学者は、ほんとうだと思っている)
 と感じた。
 したがって、たまが西河忠直を訪ねていけば、西河は自分が感じたとおりを話すだろう。
そうなると、この話は事実になってしまう。

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