童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          風来坊列伝

■憂国の旅行者・吉田松陰

<本文から>
 吉田松陰は、幕末最大の旅行者だった。松陰といえば、長州(山口県)萩で、松下村塾を開き、多くの人材を育てた。この塾から出た人材は、幕府を倒し明治維新政府の要人として活躍した。日本近代化の中核となり、薩摩藩の人材たちと並べられて、"長州閥"と呼ばれるようになった。
 しかし、吉田松陰が松下村塾を経営していたのはほんの一、二年にすぎない。安政四年(一八五七)十一月に塾を開き、翌五年十二月には松陰は牢屋にぶち込まれてしまう。井伊直弼のいわゆる安政の大款に引っ掛かったのだ。そして、安政六年(一八五九)五月には、江戸に召還され、その年十月二十七日には処刑されてしまった。だから、たとえ牢獄の中から弟子たちを指導していたとしても、せいぜい満二年間にすぎない。にもかかわらず、あれだけの偉材が輩出したのは、なんといっても松陰の教育者としての素晴らしさによった。
 しかし、松陰の教育はあまり書物には頼らなかった。松陰はいつも弟子たちに、
 「日々起こっている時事問題をテキストにしろ。なぜこんなことが起こるのか、そしてどうすれば解決できるかを一緒に考えよう」
 といっていた。だから授業も畑を耕しながら行ったり、一緒に酒を飲みながら語りあった。かれの教育は討論が主軸になっていた.
 情報に対しても敏感だった。かれは、「飛耳長目」という言葉を好んで使った。耳を立て、目を 開けということだ。世間の出来事につねに敏感であれ、ということである。そして、
 「世間の出来事を知るのには、旅がもっとも効果がある」
 といっていた。だからかれ自身も、積極的に族をした。
 吉田松陰が、旅をしたのは嘉永年問がもっとも多い。嘉永三年から嘉永七年にかけて、実に八回
 も大きな族をしている。中でも、嘉永三年八月二十五日から十二月二十九日にかけての約四カ月は、萩を出て、長崎、平戸、熊本を回って萩に戻ってきた。
 翌嘉永四年の三月五日から四月九日の約一カ月にかけては、萩から兵庫(神戸)、京都の伏見、そして江戸に向かっている。
 嘉永四年十二月十四日から、翌五年四月五日にかけての四カ月は、関東地方から東北にかけて歩き回っている。江戸を出て、水戸、白河、会津若松、新潟、佐渡、弘前、今別、青森、小湊、盛岡、仙台、米沢、会津若松を抜けで日光、足利、そして江戸に戻ってきている。
 嘉永四年六月十三日から二十二日の十日間にかけては、江戸にいたかれは鎌倉に出、金沢、三崎、浦賀、竹岡、保田、館山、浦賀、鎌倉を経て江戸に戻っている。
 嘉永六年二月二十六日から五月二十四日の四カ月にかけては、萩から四国の讃岐に渡り、摂津、河内など大坂地方を歩き、大和へゆき、中山道を通って江戸に戻っている。
 嘉永六年九月十八日から十一月十三日の二カ月間、江戸を出たかれは、また大阪にゆき、室津、鶴崎、熊本、長崎、植木、松崎、下関を経て萩に戻った。
 嘉永六年十一月二十六日から十二月二十七日の一カ月にかけて、萩を出たかれは、名古屋から中山道を抜けて江戸に向かった。
 嘉永七年三月五日(嘉永七年は、十二月二十七日に安政と改元する)には、江戸を出て滞賀に向かった。そして、アメリカの特使ペリーの軍艦でアメリカに密航しようとしたが、ペリーに断られて失敗した。これが原因で、かれは萩に戻され牢屋にぶち込まれる。
 こういうように、松陰はよく歩き回ったがかれの族には特徴がある。海の沿岸が多いということだった。かれの旅の範囲は、遠く九州から青森にまで及んでいる。幕末の日本人で、こんな大掛かりな旅をした人間は他に誰もいない。松陰だけだ。それほどかれは族に熱心だった。しかしその旅にはいつも目的があった。
 「日本は、今外国から狙われている。国を守らなければならない。しかし、国防策を立てるのにも、自分が実際に現地の地理を知らなければ何もできない。そんなものは机上の空論だ。自分は、自分の目で日本各地の実態を見極めたうえ、考えをまとめよう」
 つまり弟子たちに、
 「つねに飛耳長日たれ」
 と命ずるかれは、師として自分自身も実際に飛耳長目を実践しなければ、とうてい人など教えられないと考えた。同時にまた、日本人としての責任も果たせないと考えた。
 それにしても、当時日本人の旅はまだ自由ではない。理由がなければ国内を歩き回ることは許されなかった。許されたのは、武士の場合は武術や学問の修行、庶民は伊勢神宮へのお参りや、富士登山などである。手続きが必要だった。本人には族の許可書、そして歩き回る地域で役所を構える幕府や、大名の代わりをする地方役人への証明書が要った。この証明書を過書(所)といった。
 松陰の旅をみてみると、江戸から出発し、江戸に戻ってきていることが多い。これはかれが長州藩主に愛されて、
 「お前は将来有望だから、江戸を中心に各地を歩き回って、優れた学者と交流するがよい」
 という励ましをうけていたからだ。藩主は、松陰に、
 「その遊学の期間も、半年や一年ではダメだ。十カ年の遊学許可を与えよう」
 といった。その点、松陰は非常に恵まれていた。というのは、かれの学問が優れていたばかりでなく、魂が非常に純粋で、人懐っこく、たちまち初対面の人をも魅了したからである。

■平和大好き・永田徳本

<本文から>
  戦国時代から江戸初期まで生き抜いた放浪者がいる。永田徳本(長田徳本)だ。徳本は、三河国(愛知県)大浜村の出身だという。いや、美濃(岐阜県)の生まれだともいう。結局、出身地はわからない。生まれたのは永正十年(一五一三)で、死んだのが寛永七年(一六三〇)だったという。本当だとすれば、死んだ時の年齢は百十八歳だ。元号にすれば、永正、大永、享禄、天文、弘治、永禄、元亀、天正、文禄、慶長、元和、寛永の各時代を生きぬいたということになる。
 まだ室町幕府が健在で、将軍は、十代足利義植、十一代義澄、十二代義晴、十三代義輝、十四代義栄、十五代義昭の六代の世を経験したということになる。それからしばらくの間、戦国時代になって将軍は存在しない。徳川家康が征夷大将軍になるまでの空白がある.この間、戦国の英傑として、織田信長をはじめ豊臣秀吉、武田信玄、上杉謙信、毛利元就、大友宗麟などの武将たちが活躍した時代を共有したことになる。が、この永田徳本にはユニークな性格があった。かれは、常に平和を求めた。自分のいる場所で戦争が起こると、すぐ逃げ出した。永田徳本は、信州(長野県)諏訪で死んだが、それまでがはとんど放浪生活を送っている。しかしその放浪も、動物的な本能を持っていて、
 「この地域では戦争が起こるな」
 と感ずると、すぐ逃げてしまう。
 だからといって、徳本は決して自分の暮らしを守るためだけに、放浪生活を送ったわけではない。行った先、行った先で地域の人々のためになることを沢山している。平和が大好きなかれは、それだけに平和な暮らしを送る山村の人々に、いいようのない愛情を持っていたのだろう。かれは医術にもすぐれていて、一貫して薬を売って歩いた。「一服十六文(あるいは十八文)」といって、それ以上の代金は決して取らなかったという。
 長野県岡谷市長池東掘の共同墓地に、永田徳本の墓がある。が、墓の屋根に著しく傷がついている。これは、病人がこの墓の星根を、小石でコツコツと削って、その粉を煎じて飲むと、どんな病気でも治るという言い伝えがあるからだ。また、真の前には小石がうず高く積まれている。これは、手や足にイボができた時、墓の前の小石を借りてそのイポをなでると、治るといわれてきた。治った患者は喜んで、借りた小石にもう一つお礼の小石を添えて、墓の前に供える慣わしがあるのだという。永田徳本は、民衆からそういう愛され方をされていた。
 徳本が放浪したのは、生まれ故郷を出てからは、駿河、相模、武蔵、甲斐、下野、出羽などだった。関東甲信越から東北にかけての地域だ。上方には行かなかった。戦乱の世が長く続いていたためだろう。大体、かれが生まれたといわれる三河国大浜村は、戦国武将今川方の領地だったが、織田信長が十六歳の時に、初陣をした地域として有名だ。この時、信長は、大浜村を焼き討ちにした。永田徳本がこの時大浜村に居たかどうかはわからないが、いずれにしても徳本は、戦争がもたらすむごたらしさを切実に感じたに違いない。かれは、百十八年にわたる放浪生活で、決して西の方には行かなかった。東から北を目指した。
 かれが医術を習ったのは、出羽国(山形県)だったという。ここで、漢方も学んだ。特に、かれはハンセン氏病を風土病としてとらえた。かれは、
 「ハンセン氏病は、虫の菌から伝染する」
 と言い切った。そこで、
 「ハンセン氏病を治すのには、菌を持った虫を殺さなくてはならない」といって、その殺虫法を説いている。ハンセン氏病そのものの治療には、砒素を使うことも主張していた。かなり、達識の医者だった。患者が治るかどうかを見越す限も鋭かった。
 乞われて、″一服十六文″の薬を与えても、一目患者を見ただけで、いきなり徳本が泣き出したことがあった。
 「なぜ、お泣きになるのですか?」
 病人の家族がきくと、徳本は、
 「いまは言えない」
 といって、逃げるように去った。しばらく経って、病人が死んだ。家族たちは思わず顔を見合わせて話し合った。
 「徳本先生は、この病人が助からないことを知っていらっしゃったのだ。でも、自分の口からはそれが言えないので、ああしてお去りになったのだ」
 この話が伝わると、
 「徳本先生は、単なる売薬業者ではなく、人間の生死についても深い洞察力を持っている」
 とその名が高まった。

■病気の部下を温泉の調査に行かせた水戸黄門

<本文から>
 こんな話がある。それは『大日本史』の編纂員の中に丸山活堂という学者がいた。三十歳を越えて耳の病気にかかった。光圀はいろいろなことを知っていたから、
 「耳の病気には、青森の岩木山麓にある百沢温泉の湯がよく効く」
 ということを伝え聞いていた。そこである日丸山活堂を呼んでいった。
 「おまえに、東北地方の調査を命ずる。仙台、秋田、青森などを訪ね歩いて、『大日本史』に役立つような資料を捜して来てもらいたい。ついでに、岩木山麓に吉沢温泉という湯がある。ここの湯は耳の病気によく効くそうだ。もし時間がとれたら、立ち寄って湯治をして来るといい」
 丸山活堂は感激して平伏した。
 (光圀公は、そこまで私のことを考えていてくださったのか)
 と思った。
 丸山活堂は喜んで東北への族に出発した。そして岩木山麓の古沢温泉に浸って湯治した。が、その後耳の病気が治ったのか、また東北の調査族行で、どれほど『大日本史』に役立つ資料を捜し出したのか、その辺の記録はないそうだ。が、徳川光圀の心の像しさを物語るエピソードである。
 かれは『大日本史』を編纂する学者たちに、すでに週休二日制を導入している。
 「五日働いたら二日休むように」
 と命じた。また、
 「資料調べ等自宅でする仕事もあるだろうから、編纂局への出勤は自由にしていい」
 というフレックスタイムも導入している。
 また、城下町を繁栄させるためにやむを得ない装置として遊郭を許可した。ところが洒落っ気のある光圀は、この遊郭に、
 「命の洗濯場」
 と名付けた。洗濯場という言い方がおかしい。ソープランドに通ずる。洗濯には石鹸がいるからだ。
 こういうように水戸黄門漫遊記の実態は、ごく限られた地域だった。しかし、かれの温かい善政が日本中に知られて、後に黄門漫遊記の伝説を生んだのである。

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