童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          福沢諭吉

■身分差別へのいかり

<本文から>
中津に帰った諭吉たちが最初筐んだ家は、福沢家が大坂にいる間に、三回も洪水にあっていた。その家に帰ったのだが、水に浸っていたので、ほとんど使えなくなっていた。そこで母の順は、借金をして、この家を修理した。家は、その時、かろうじて立っていたという。早く言えは、たいへんなあばら屋だった。
 部屋数も、入畳一間に、三畳間が三間の、計四間。この家に、諭吉は十八歳ごろまで住んだ。そのうちに、母の実家の家を買って、そっちに移った。中津に、今も、この諭吉たちが住んだ家が残っていて、中津市が保存している。
 諭吉が見た中津の人々の生き方は、やはり、奥平という藩の気風に従っていて、かなり封建的だった。特に、身分制度がやかましかった。
 諭吉は、そういう身分制度を、何とかしてこわすことはできないだろうかと思った。よく考えてみれば、父は生涯不平不満の人物であり、いつも学問をしたいと思っていたが、ついにできなかった、と母が嘆いていたのも、すべてが身分制度に原因があった。そしてそのことは、諭吉自身が今、中津にもどってきて、毎日経験していた。特に、身分の高い士たちが、諭吉たちのような身分の低い人間を、まるで虫けらや犬でも扱うように見下すのが、論青にはどうしてもがまんできなかった。
 (いったい、人間をつくったのはだれなのだ?その人間をつくったものは、天ではないのか。天は、ほんとうに、人の上に人をつくったり、人の下に人をつくったりしたのだろうか?こんな身分差別は、人間がかってにつくりだした制度ではないのか?)
 という思いが、つき上げた。そして、もし天がつくったものでなく、人間がかってにつくったものであるならば、それはいつかこわせる、必ずこわしてやると、諭吉は強く思うのだった。
 諭吉は、人間社会に深くくい込んでいる身分差別にいかりを覚えると同時に、もう一つ、疑問に思うことがあった。それは、迷信である。科学的な根拠がなく、誰れかが言い出したことにまどわされて、それを信じこんでいるということである。
 合理性のある父や兄の三之助の影響を受けた浄書は、科学的根拠がなくて伝えられている迷信に、疑問をもちはじめた。
 諭吉は、その疑問をはらすために、自分でいろいろなことをしてみたかそのきっかけになったのは、殿様の名前を書いた紙を踏みつけた時に、兄にひどくしかられたことである。しかられたことよりも、諭吉が思ったのは、その後、自分の身に何も起こらないではないか、ということであった。兄は、
 「おそれ多くも、殿様のお名前を踏みつけるとは何ごとだ! 罰があたるぞ」
 と言ったが、その後、諭吉は、ぴんぴんしていた。つまり、殿様の罰はあたらなかったのである。そのことは、諭吉に自信をもたせた。
 (殿様の字を踏みつけたって、おれは、何の罰もあたらないじゃないか。それなら、世の中に広まっている迷信だって同じことだ)
 諭吉はそう思った。だから、自分の身近なところでいろいろな実験をしてみることにした。
 諭吉は、家の中にある神様の名前が書いてあるお札を踏んだら罰があたるだろうか、と考えた。踏んでみた。しかし別に罰はあたらなかった。念のために、神様のお札を便所にもって行って踏んでみた。何でもなかった。そこで、
 (神様の罰があたるなんていうことはうそだ)
と思った。

■適塾での橋本左内の献身的な行動に感動

<本文から>
 このころの適塾の生活ぶりを、諭吉がその自伝に書いている。学生たちは、自分たちでルールを作り、上級生、下級生の別を設けていた。下級生は、徹底的に勉強に勤しむ。そしてある程度学問をマスターすると、討論会を開く。討論会の座長には、上級生があたる。そして、意見を交わし合って、星取り表を作り、討論に勝った者が白丸、負けた老が黒丸をつけられた。そして、この討論に勝ち続けることによって、どんどん進級するのである。
 さすがに、ここにいる青年たちは、だれもが頭が良くて、甲乙をつけがたかった。しかし、中でも越前(福井県)福井藩からきている医者の橋本左内が群をぬいていた。まだ年が若いのに、いちばん学問が進み、また、人間的にも老成していた.左内は、どんな時にも感情を面に表さず、いつもにこにこしていた。頭が良かったが、その頭の良さを決してはなにかけなかった。ただ、夜になると、左内はよくどこかへ出かけていった。諭吉は、
 (どこへ行くのだろう?)
と、不思議に思った。そして、まさか他の学生のように、酒を飲みに行ったり、女の所に行くのではないだろう、と思った。思ったが、半分は、疑っていた。
 ある夜、諭吉は、こっそり左内の後をつけた。左内は、夜の道をどんどん歩いていった。やがて、川に出た。川には橋がかかっていた。左内は、橋のたもとから川原へ降りていった。橋の下に、数人のこじきが寝ていた。左内は、おそれずに、その中に入っていった。こじきの中に、病人が一人いた。左内は、その病人を診察し、親切な手当をした。
 やみの中から、そういう左内の姿を見て、論青は感動した。そして、
 (少しでも疑ったおれは、何という下劣な人間だろう)
と、反省した。

■ワシントンの子孫についての疑問

<本文から>
ただ、そういう断片的なことはわかっても、アメリカの社会や、政治経済の仕組み全体のことは少しもわからなかった.そのへんのことを知るきっかけに、諭吉は、ある日、ふっと思ったことがあって、アメリカの人に開いた。
 「ワシソトン大統領の子孫は、今どうしていますか?」
 ところが、聞かれたアメリカ人は、
 「さあ」
  と、しばらく考えて、
 「ワシソトンには、たしか女の子がいたはずだが、その女の人がどうしているか、まったくわかりません」
 と、答えた。いかにも冷淡な答えで、答えた人自身は、ワシントンのことなど全然関心がない。これには諭吉もびっくりした。もちろんアメリカは、共和国で、大統領は四年交代だということは諭吉も知っていた。しかし、大統領の子孫なのだから、日本で言えば、源頼朝か、徳川家康の子孫というようなものだ。それを頭に置いて聞いたところが、こんな答えである。これは、たいへんに不思議なことで、諭吉は、いつまでもこのことを覚えていた。だから、科学上のことでは、すでに予備知識があって、それほどびっくりすることはなかったが、一般の社会のことについては、驚くことばかりだった。
 諭吉たちの乗って行った成臨丸が入港したのは、メールアイラソドという軍港だった。
 そこにいた海軍軍人の一人が、
 「日本の貨幣を知りたい」
 と言うので、艦長が、日本の古い小判や銀貨をそろえて、贈った。ところが、その軍人は、めずらしいものをもらったという表情をしただけで、宝をもらったという顔はしなかった。そして、よく日、その人のおかみさんが、
 「昨日は、どうもありがとうございました」
 と言って、花たばを持ってきた。諭書は、その取りつぎをしたが、ひそかに感服した。
 (人間というのは、こうありたいものだな。この人たちは、いかにも心の置き所が高い。金や銀をもらったからといって、喜ぶのは、卑劣な話だ。そこへいくと日本人は、何でも金をありがたがり、いやなものだ)

■上野戦争中でも授業を続ける

<本文から>
 うわさが流れていた。それは、
 「福沢をきらいな大村は、上野の山を攻め落としたあと、慶応義塾をつぶしにやってくる」というものだった。学生たちは動揺した。また、上野の戦争に参加したい、と言う者もいた。諭吉は止めた。そして、


「時間割りどおり、授業を行う」
と宣言し、みずから、
「今日は、私がウェーランドの講義を行う」
と言って、講義した。
 大砲の音は続く。学生たちは気が気ではない、が、諭吉は平然と授業を続けた。そしてこう言った。
「諸君、私もうわさはきいている。が、いいではないか。もし、政府軍にこの塾がつぶされても、われわれは日本の文明人として行動しているのだ。
 いいか?諸君、この慶応義塾があるかぎり、日本は文明国なのだ。そういう誇りを持って、勉強を続けよう」
 この言葉は、学生たちを勇気づけた。勇気づけただけでなく、感動させた。学生たちは、(ほんとうの勇気ある人とは、こういう人のことを言うのだ)
と、思った。そして、それ以上に、
(福沢先生は、ほんとうの教育者なのだ)

■学問すすめ

<本文から>
 なんと言っても、『学問のすすめ』の書き出しの一文が、このころの日本人の胸をうったのだ。すなわち、
 「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらずと言えり」
 という一文は、当時の日本人にとって、大きなかなづちで頭をたたかれたようなもわであった。それだけでなく、その次に続く、
 「されば、天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賎上下の差別なく万物の霊たる身と心とのはたらきをもって、天地の問にあるよろずのものをとり、もって衣食住の用を達し自由自在たがいに人のさまたげをなさずして、各々安楽にこの世をわたらしめ給うの趣意なり」
 という文章が、目をみはらせたのである。こんな考え方は、今までの日本人にはなかった。
 人間がすべて平等であり、人の上にも下にも人がいないという考えは、およそ日本人であるかぎり信じられなかった。人々は、驚くと同時に感動した。そして、もう二度自分という人間をふり返ってみた.そして、
 (そうなのだ。この本の言うとおりなのだ。我々は、一人の人間であって、我々の上に人間がいるわけでもなく、我々の下に人間がいるわけでもない。みな、人間は平等だ)
 と思った。そう思うことは、社会の底辺にいる人たちほど感動した。それは、福沢諭吉の言葉が、一挙に、自分を解放してくれたと思えたからである。

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