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<本文から> 中津に帰った諭吉たちが最初筐んだ家は、福沢家が大坂にいる間に、三回も洪水にあっていた。その家に帰ったのだが、水に浸っていたので、ほとんど使えなくなっていた。そこで母の順は、借金をして、この家を修理した。家は、その時、かろうじて立っていたという。早く言えは、たいへんなあばら屋だった。
部屋数も、入畳一間に、三畳間が三間の、計四間。この家に、諭吉は十八歳ごろまで住んだ。そのうちに、母の実家の家を買って、そっちに移った。中津に、今も、この諭吉たちが住んだ家が残っていて、中津市が保存している。
諭吉が見た中津の人々の生き方は、やはり、奥平という藩の気風に従っていて、かなり封建的だった。特に、身分制度がやかましかった。
諭吉は、そういう身分制度を、何とかしてこわすことはできないだろうかと思った。よく考えてみれば、父は生涯不平不満の人物であり、いつも学問をしたいと思っていたが、ついにできなかった、と母が嘆いていたのも、すべてが身分制度に原因があった。そしてそのことは、諭吉自身が今、中津にもどってきて、毎日経験していた。特に、身分の高い士たちが、諭吉たちのような身分の低い人間を、まるで虫けらや犬でも扱うように見下すのが、論青にはどうしてもがまんできなかった。
(いったい、人間をつくったのはだれなのだ?その人間をつくったものは、天ではないのか。天は、ほんとうに、人の上に人をつくったり、人の下に人をつくったりしたのだろうか?こんな身分差別は、人間がかってにつくりだした制度ではないのか?)
という思いが、つき上げた。そして、もし天がつくったものでなく、人間がかってにつくったものであるならば、それはいつかこわせる、必ずこわしてやると、諭吉は強く思うのだった。
諭吉は、人間社会に深くくい込んでいる身分差別にいかりを覚えると同時に、もう一つ、疑問に思うことがあった。それは、迷信である。科学的な根拠がなく、誰れかが言い出したことにまどわされて、それを信じこんでいるということである。
合理性のある父や兄の三之助の影響を受けた浄書は、科学的根拠がなくて伝えられている迷信に、疑問をもちはじめた。
諭吉は、その疑問をはらすために、自分でいろいろなことをしてみたかそのきっかけになったのは、殿様の名前を書いた紙を踏みつけた時に、兄にひどくしかられたことである。しかられたことよりも、諭吉が思ったのは、その後、自分の身に何も起こらないではないか、ということであった。兄は、
「おそれ多くも、殿様のお名前を踏みつけるとは何ごとだ! 罰があたるぞ」
と言ったが、その後、諭吉は、ぴんぴんしていた。つまり、殿様の罰はあたらなかったのである。そのことは、諭吉に自信をもたせた。
(殿様の字を踏みつけたって、おれは、何の罰もあたらないじゃないか。それなら、世の中に広まっている迷信だって同じことだ)
諭吉はそう思った。だから、自分の身近なところでいろいろな実験をしてみることにした。
諭吉は、家の中にある神様の名前が書いてあるお札を踏んだら罰があたるだろうか、と考えた。踏んでみた。しかし別に罰はあたらなかった。念のために、神様のお札を便所にもって行って踏んでみた。何でもなかった。そこで、
(神様の罰があたるなんていうことはうそだ)
と思った。 |
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